第二話 「石の上にも怨念」起
歩きスマホというものは一秒たりともしてはならない。今なら啓発活動中の警察の言にこれ以上ないほどに深い相槌を打てる。俺は普段歩きスマホなんかしない質なのだが、今日学校の最寄り駅から学校へ歩く途中でポケットのスマホが鳴った。誰からの電話だろうと思って、そこで一瞬立ち止まれば良かったものを、チラッと見るだけだから大丈夫、というあまい考えのもと、ほんの一瞬だけ歩きスマホをしてしまった。歩きスマホの何が良くないってスマホに気を取られていて、緊急事態が起きた時に咄嗟の判断が遅れることだ。俺は着信が上の姉からのものだと確認した瞬間くらいに、左足が下にあるはずのアスファルトを踏めなかったのを感じた。にも関わらず、右足を踏み出してしまい、左足がズボッと下がり、急に左足首を何かに掴まれた感触がしたので、そこで初めて自分の左足に何が起きたのかを見ようと顔を下に向けた。そしてそのまま、顔面からアスファルトの地面に倒れ込み、スマホを握ったままだった右手を地面につこうとして、上手くつけずにスマホの画面にも右手にも傷を負った。絶対に左手をつくべきだったのに、その判断が咄嗟に出来なかったんだ。周りの親切な方々5、6人が、一斉に駆け寄ってきて下さり、俺が起き上がるのを手伝ってくれた。この時点ではまだ自分の左足に何が起きたのか分かっていなかったのだが、起き上がろうとして何かに引っかかった左足を見て、アスファルトに開いた穴に俺の左足がハマったんだと理解した。
「あ〜災難だったねぇ。アスファルトの穴なんて滅多に開くもんじゃないのにねぇ。」
そう言いながら、サラリーマン風の中年男性が、しゃがんで、俺の左足をアスファルトから抜こうと持ち上げて下さった。こんなに周りの方々に親切に助けて頂いている中で俺は、右手にスマホを持っていることが恥ずかしくてたまらなくなり、液晶にヒビが入ったスマホをポケットに急いで仕舞った。
「ありがとうございます、ありがとうございます。」
俺はサラリーマン風の男性含め助けてくれた方々に頭を下げてお礼を言って回った。
「この穴、区役所に電話して埋めてもらわないとだね。」
「大丈夫?歩ける?」
世の中ってなんて良い人だらけなんだ。泣きそう。顔も足も手も、もはや全身痛い。
「大丈夫です、ありがとうございます……!」
「学校まで行けそうか?保健室で診てもらうんだぞ?足痛むだろうから、ゆっくり行きな。区役所には俺が連絡しとくからな。」
灰色のつなぎ服の男性が、自分のスマホを取り出しながら、そう言って下さった。
「ありがとうございます!」
男性はスマホを見ながら、「ん!」という返事をして、早く行けとばかりに手でシッシッという仕草をした。
俺は一度頭を下げ、痛む足を引きずりつつ、学校に向かって歩き出した。もう二度と歩きスマホはするまい。
学校に着いて、保健室で傷の手当てを受けた。保健医さんは、いつもの雑なおばちゃんではなく、新しく来たらしい若い女性で、安心した。幸い制服の長ズボンに擦り傷は付かなかったものの、なぜか、中の脚の方には擦り傷が出来ていて、軽く血が出ていた。顔や足、全身に絆創膏を貼ってもらって、数分後、異常が起きた。絆創膏を貼ってもらったところが無性に痒い!保健医さんにそのことを申し出ると、全部の絆創膏を一度剥がしてくれた。
「絆創膏の糊が合わないのかも。どうしようか。ここにあるの全部同じメーカーさんのだから、たぶん全部合わないのよね。あ、ガーゼ当てて、包帯巻いて固定しようか、ね。ちょっと時間かかっちゃうけど大丈夫?」
「遅刻になっちゃいますかね?」
「担任の先生には私から話して、遅刻にしないようにしてもらおうか?」
「ありがとうございます!」
なんて良い人なんだ!いつもの雑なおばちゃんの方なら、痒いと言っても絶対に絆創膏を剥がしてさえくれない。我慢しろ、それが無理ならどこかで絆創膏を買って貼り替えろとでも言うに決まっている。前に突き指したときなんて、保冷剤もくれずに、流水で冷やして来いと追い返された。
そんなこんなで、顔含め全身、包帯まみれになった俺は、ホームルームの終わった直後の教室に向かった。その途中、廊下で佐野詩織に会った。
「……ミイラ男の仮装ですか?」
否定し難い見た目である自覚はあるので、何も言い返すことはせず、ただ、お前覚えとけよ、と思った。
放課後。俺は保育園に陸、海、空を迎えに行った。今朝の長姉からの電話は、そのお迎えを頼む電話だった。そういえば、朝のアスファルトの穴は帰りにはもう直っていた。行政、仕事早い。保育園には何回かお迎えに行ったことがあるので、先生方とは顔見知りである。普通の状態の顔、なら。
「え?どなた……?」
ミイラ男モドキが保育園にやって来たんだ。園長先生のその反応は正しい。
「あの、陸、海、空の叔父の湊です。」
「あぁ!どうしちゃったのその顔!」
「転んじゃって。」
「え〜!あんなイケメンが!跡にならないと良いわね!」
そうこうするうち、陸が「大人になったら結婚する」と宣言しているさくら先生が、陸海空を連れて玄関に出て来た。俺を見るなり、四人とも驚いて言葉を失っていた。最初に口を開いたのは、海だった。
「ふしんしゃ……!」
どこでそんな言葉覚えたんだよ。
「ふしんしゃ……!」
空も復唱せんで良い。
「みなとおにいちゃん、さくらせんせぇとおそろい!ずるい!」
俺だと瞬時に理解したその人物識別能力の高さに感嘆すると同時に、「お揃い」の意味が分からず、さくら先生の方を見ると、さくら先生も両手が包帯で巻かれていた。
「え、どうされたんですか?」
お互いに聞いてしまった。
「あ、俺は単に転んだだけです。」
「転んだだけで、そんな犬神家の一族みたいになるものなんですか……?」
「いや、絆創膏が痒くて貼れなくて。それより、さくら先生こそどうされたんですか?」
「あ、私は、火傷、です。」
俺はその言葉に妙な含みというか違和感を覚えた。
「両手とも?」
「あ、はい。両手で熱いものを持ってしまって。」
さくら先生は包帯でぐるぐる巻きの手で髪を触り、恥ずかしがる仕草をした後、それ以上深入りされたくないからなのか、いつものように陸海空の今日の園での様子を語り始めた。
帰り道、陸がしょげているので、どうしたのかと尋ねると、今日のさくら先生について語り出した。
「きょうね、おさんぽのとき、きれいないしひろったからね、さくらせんせぇにあげたの!そしたらね、さくらせんせぇ、そのいし、こわかったみたいでね、ぶるぶるしながら『すぐすてなさい!』って、おこられちゃった。うけとってもくれなかった。」
石……?石でそんなに怒るものか?
「どんな石だったの?虫とかついてたんじゃないの?」
俺はできる限り優しい口調で聞いた。
「……これ。むしなんかついてないよ。まっしろくてきれいなやつだもん!」
捨てろって言われたのになんで持ってるんだ、ということは若干気になったが、幼児なんて大概そんなもんなので、そこには目をつぶった。陸から受け取った石を見ると、確かに真っ白く、何の変哲もない、光にかざすとうっすら透き通る、綺麗な石だった。これを見て怒るって、なんでだ?
気になったので、帰ってから、佐野詩織に石の写真を撮って送った。
「白翡翠の原石っぽいけど、東京で見つかる訳がないから違うかも。怒った理由は、なんかわからないけど、白い石に恨みでもあるんじゃない?」
というメッセージが返ってきた。
出たよ、「なんかわからないけど」。ただ、白翡翠を調べたらめちゃめちゃ高そうだったので、俺は、ハンカチにくるんで、大事に自分の机に仕舞った。これがもし本物なら、売って、ちゃんと陸にも半分の取り分を渡すので今は俺が保管します。さて、それはそうと、俺は流石にそろそろミイラ男を引退しなければならないので、自分の部屋から父と陸海空がキャッキャと遊ぶリビングの方に戻り、テレビ横の救急箱を引っ張り出した。
「え、絆創膏あと2枚しかないじゃん!」
海を高い高〜いしている父が、こっちも見ずに返答してくる。
「え〜?無かったら買ってくるしかないでしゅね〜?」
と海に頬をスリスリし、海に真顔で、「ひげいたい。やめて。」と言われていた。
ミイラ男状態の息子に代わり、自分が買いに行ってくるよ、なんていう申し出をこの親父がしてくれる訳がないので、俺は「まじか〜」と暫し天を仰いだあと、近所の薬局に出かけた。
薬局に着くと、さくら先生と遭った。
「あ、どうも。今日はよく会いますね。」
と俺が挨拶すると、
「絆創膏とか買いに来たんですか?」
と聞かれたので、
「はい。」
と答えた。そのあと、数秒間、気まずい間があったので、何かしら話題を、と思い、陸の話を持ち出してみた。
「今日なんか、陸が変な石拾ってご迷惑をお掛けしたみたいで。すみません。」
「あ……。」
さくら先生は、包帯だらけの右手で口を覆い、周囲に目を泳がせたあと、しばらくして、申し訳なさそうにしながら、俺の方に一歩近づいてきた。
「陸くんは、悪くないんです。今、ちょっと、石が怖くて。」
「石が怖い……?」
「……石を、石の力を自由自在に操れる人がいる、って言ったら、信じてくれますか?」




