愛したいほど殺したい
田島直也は仕事終わりにはいつも、歌舞伎町を彷徨っていた。今日も終電の時間が近づいていたが、彼は帰る気になれなかった。家に戻ったところで、狭いワンルームの部屋には冷蔵庫のブザー音と自分の息遣いしかない。誰かと話したいわけではないが、誰かと同じ空間にいることで自分がまだ生きていることを確認したかったのだ。
歌舞伎町のネオンは、不眠症の獣のように光っている。通りを歩けばスカウトや客引きの男たちが目を光らせ、酔い潰れたサラリーマンが道端でうずくまっていた。ホストクラブから出てきた若い女たちは楽しげに笑い、タクシーのドアが開閉する音が響く。その雑踏の中に身を置くと、自分がこの都市の一部になったような錯覚を覚える。
酒が欲しかった。すでに何軒かはしごしていたが、まだ足りなかった。彼は適当なクラブのドアを開けカウンターに腰を下ろす。ウイスキーを注文し、無意味にグラスを揺らしながら、ぼんやりと鏡に映る自分を眺めた。
「おじさん、遊ばない?」
低く、乾いた声が耳に入った。振り返ると、黒のパーカーを羽織った少女が立っていた。十代だろうか。長い黒髪を無造作に束ね、ノーメイクの顔にはどこか幼さが残っている。しかし、その瞳は冷めきっていた。田島の目をまっすぐに見据えながら、彼女はポケットに突っ込んだ手を動かすでもなく、ただ立っている。
「いくら?」
田島は訊いた。彼女は小さく笑みを見せた。
「ホテル代込みで四万」
まるでスーパーで惣菜を買うような値段交渉。田島は、ため息をつきながら財布を取り出した。
「……いいよ」
彼女の名前は水沢凛だと名乗った。偽名かもしれない。いや、きっと偽名だろう。彼女はホテルへと続く路地を無言で歩きながら、時折スマートフォンを覗いていた。田島はその横顔を盗み見ながら、自分がなぜ彼女を買おうとしているのかを考えていた。
セックスがしたいわけではない。だが、無性に誰かといたかった。金を払えば、それが手に入るということに、安堵すら覚えた。
ホテルの一室に入ると、凛はベッドの端に座り、携帯を操作し続けた。田島はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくる。
「シャワー、浴びる?」
「別にどっちでもいい」
田島は微かに笑い、ベッドの反対側に腰を下ろした。そして、彼女の顔をじっと見つめた。
「……どうしたの?」
凛が首をかしげる。田島は答えなかった。代わりに、ポケットから煙草を取り出し、一本咥えた。
「吸っていい?」
「うん」
ライターの火が灯る。煙を吸い込むと、肺の奥にじんわりと熱が広がった。しばらくの沈黙の後、凛がぽつりと言った。
「おじさん、なんで私を買ったの?」
「……わからない」
「普通、こういうのって、男はしたいから金を払うんじゃないの?」
「そうかもな」
「じゃあ、するの?」
田島は黙って煙を吐き出した。凛は少しだけ笑った。
「変わってるね、おじさん」
田島はただ、天井を見つめながら答えた。
「……そうかもしれない」
結局その夜、二人はセックスをしなかった。
****
田島は、その日も会社を早めに切り上げ、歌舞伎町へと向かっていた。仕事は相変わらず退屈で、同僚との会話に生気もなく。数字を追いかけ、上司に媚びへつらい、無意味な会議に時間を費やす日々。
それらすべてが、薄っぺらく感じられる。
しかし今では週に一度ほどの、彼女水沢凛との時間だけは何かが違った。
セックスはしない。いや、彼女とはしたくない。ただ、同じ時を過ごすだけ。それがひどく心地いい。
凛は、他の誰とも違っていた。彼女の冷めた瞳、その無関心な態度、他者と自分に向ける態度は大して違わないはずなのに、そのすべてが田島を惹きつけた。
金さえ払えば彼女は隣にいてくれる。それは、田島にとって唯一心休まるひと時だったのだ。
この関係は何なのだろう。ただの売春行為ではない。恋愛でもない。疑似家族でもない。
田島自身、その答えを求めていた。
ホテルの一室。ベッドの端に腰掛け、スマートフォンをいじる凛。田島はソファに座り、煙草を吹かす。
「ねえ、おじさんってさ、結婚してないの?」
「してないよ」
「彼女とかは?」
「いない」
「ふーん」
凛は興味がなさそうに画面をスクロールし続けた。田島は、彼女の指先が軽やかに動くのを眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出す。
「君は、なんでこんなことしてるんだ?」
「なんでって……お金のためでしょ」
「それだけか?」
「それだけだよ」
「事情とか、ないのか」
「ふっ、ないない」
凛は少し笑って田島を見た。その目には、わずかな哀れみのようなものが宿っていた。
「おじさん、何か勘違いしてない?」
「……勘違い?」
「おじさんは私を買ってるだけでしょ。私はただ、それに応じてるだけ」
田島は、彼女の言葉をじっと噛みしめた。そうだ。これはただの取引だ。彼女は田島のために存在しているわけではない。
それなのに、なぜか胸の奥に痛みを覚える。
彼女の台詞が酷く堪えた。
その夜、田島はいつものように凛に金を払い。凛は淡々とそれを受け取り。何の感慨も浮かべず彼女は歌舞伎町の街の人混みに消えて行った。
田島はその後姿を、どこまでも見送っていた。
その数日後、田島は彼女を見た。
歌舞伎町の裏通り、ネオンの下で凛は別の男と肩を並べて歩いていた。スーツを着た、どこにでもいるような中年男。ありふれた、当たり前の光景。そう、それは彼女にとって、それは日常なのだ。
そう、日常。彼女は自分の知らない所で、他の男とーー。
分かってる。
分かってた。
だが辛い。
ふと、田島は思い出してしまった。凛が何の感慨も抱かず街に消えていったあの様を。
もしあれが、永遠の物となれば?
「許せない」
田島の中で何かが砕けて崩れ落ちる音がした。
自分には彼女を独占する権利などないことは、もちろん理解している。それなのに、胸の奥から湧き上がってくる激しい衝動を抑えきれない。
――俺だけを見てほしい。
――俺だけのものであってほしい。
自分がなぜこんな感情を抱くのか分からない。だが、その時彼が強烈に感じたのは、憎悪ではない。むしろ純粋な、自分でも理解できないほどの「何か」だった。
だが、この感情を放置すれば自分自身が壊れてしまう、そんな焦燥感だけは確かだった。
それを「殺意」と呼ぶことが正しいのかは分からない。
だが、凛に対する強烈な欲求。
そう、いうなれば。
憎悪ではなく、純粋な殺意。
凛を、自分だけのものにするために。
彼女に自身を刻み込むために。
田島は自分は何をするべきか。
彼はその答えを探すのだった。
****
雨が降っている。
ビルのネオンが濡れたアスファルトに反射し、歌舞伎町の街並みを歪ませている。冷たい雨粒が田島の頬を打つが、彼は気にしない。
「ねえ、どうしたの? 今日様子変だよ、おじさん」
凛は、いつものように田島の前に立っていた。フードをかぶり、雨に濡れた髪をかき上げる、彼女はまだ何も知らない。ただいつものように、金を受け取り、時間を共有するつもりなのだ。
田島は口を開こうとしたが、声が出ない。
彼女が別の男と歩いていた光景が、何度も脳裏に浮かんでいた。自分がいない時間、彼女は誰かとホテルへ行き、笑い、身体を許していた。その事実に、田島は耐えられなかった。
――俺だけを見ろ
その想いが、彼の中で徐々に膨らんでいく。
「……ホテル、行くか」
田島は低く呟いた。
「珍しいね。おじさんから言うなんて」
凛は薄く笑いながら、田島の隣を歩き出す。
心臓が異常なほど早く鼓動し、全身の血流が熱を持つのを感じる。
ホテルの部屋に入ると、凛は濡れたフードを外し、ため息をついた。
「雨、ひどいね」
田島は無言のまま、背広を脱ぐ。
「おじさん?」
凛が怪訝そうに彼を見つめる。
田島は、ゆっくりとソレを取り出し、彼女の前に突きつけた。
「……君を、俺だけのものにしたい」
その言葉は、自分でも驚くほど冷静な響きを持っていた。
凛は、一瞬だけ目を見開いた。しかし、すぐに何かを理解したように小さく笑う。
「ふーん」
彼女は田島をじっと見つめ、そして静かに呟いた。
「ねえ、おじさん、本当に殺せるの?」
田島は凛の目を見た。
そこには、恐怖も驚きもなかった。ただ、深い虚無だけがあった。
「……俺は……」
ソレを持つ手が震える。
なぜだ、自分はあれだけの覚悟を持って、この場に望んでいるはずだ。今更、怖気づくわけがない。
だが、彼の手は震え、それは一向に収まる様子を見せない。
凛は少し笑って、彼の手にそっと触れる。
「ねえ、おじさんさ、本当は私のことなんか殺せないんでしょ?」
田島は、息を呑んだ。
「……何?」
「おじさんが欲しいのは、私じゃなくて、おじさんの寂しさを埋めてくれる何かでしょ?」
凛の声は、穏やかだった。まるで、すべてを見透かしているような、そんな声。
「そんなことはない、現に俺は、いま君をどうしょうもなく殺したくて仕方がない」
田島の言葉に、凛の瞳が、歪に歪む。
「殺してみなよ、おじさんにはムリだから」
「……なに?」
「だから、やってみろって言ってるの」
凛の声が、部屋の狭間に冷たく響く。
「…………」
彼は言葉を詰まらせ、凛の瞳に映る自分自身の歪んだ影を見た。
凛は今度はまるで全てを包み込むかのように、柔らかく微笑んだ。
「じゃあさ、そんなに殺したいなら、一緒に死んでみる?」
凛の言葉は、静かでありながらも、どこか力強い決意を帯びて。室内は、薄暗い照明の下で二人の影を不自然に引き延ばし、まるでこの瞬間だけが永遠に凍りついているかのようだ。
「……なに言ってんだ!! お前を殺すって言ってるだろ! お前は、これから死ぬんだ!!」
田島は、今まで溜め込んできたものが一気に爆発するような感情に襲われた。何をやっても上手くいかない自分。そんな自分を見下す周囲。思い通りにならない凛。全てに押し潰されそうだった。
そんな田島に怯える事もなくなく、凛は言った。
「もし、一緒に死んでくれるなら、おじさんのこと、好きになってあげても、良いよ?」
「……は?」
「だから、おじさんのこと好きになってあげる」
とても、激昂した男に刃物を突きつけられているとは思えぬほど、不自然で穏やかな凛の瞳を見つめながら、田島の胸の奥に潜む孤独と絶望が、そして希望が、かすかに疼く。
「なら、一緒に……死のう、か?」
田島は震える声で問い返す。室内の薄明かりが、二人の顔を不規則に照らし出し、その表情に揺れる決意と苦悶を際立たせる。
「ふふっ」
突然、凛が笑い出す。その笑みは田島が今まで見てきた中で、一番無邪気で純粋な、まるで幼い子供のようなもので。
凛はゆっくりと頷き、まるですべての痛みを包み込むかのような柔らかな眼差しで彼を見つめた。
「おじさんは、誰も救えないんだよ。おじさんも、私も、ただ生きてるだけ。だから、二人でこの無意味な世界を終わらせるんだよ?」
その言葉が、田島の内側で蠢く欲望と憎悪、そして愛情の狭間で燻っていた何かを呼び覚ます。それは今まさに一つの決断を迫っていた。
だがーー
カランカラーン、カラカラ、カタッ
静寂の中で、ナイフが床に転がる音が響く。
田島の手から滑り落ちたそれは、鈍い光を反射しながら床を転がり、やがて動きを止めた。
田島はその場に崩れ落ちるように膝をつく。
「……俺、は」
かすれた声が喉から漏れたが、最後まで言葉にはならない。
対峙していた凛は、そんな田島をじっと見下ろしている。表情に特別な感情は浮かべず、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。
彼女は足を組み、少し乱れた前髪を整えながら、淡々とした声で言う。
「ねえ、おじさん。お金はちゃんと払ってよ?」
その言葉が、田島の心をさらに抉る。
田島は唇を噛みしめ、震える手で顔を覆う。こみ上げるものを抑えられず、静かに涙が零れ落ちる。
どうしてこうなったのか。
何がいけなかったのか。
最初からすべてが間違いだったのか。
いや、違う。
これは、いつか迎えるはずだった結末なのだ。
何をしても、どこを通っても、人が人である以上は。
愛していた。いや、そう思い込んでいただけなのかもしれない。彼女を支配したかったのか、救いたかったのか、それすらも今は分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
今にして思えば、水沢凛という少女は俺自身にとっての信仰だったのだ。
神に救われたくて、神に焦がれ、神を手に入れたいと苦悩し、そして神に見捨てられた。
あぁ、まさに道化じゃないか。
田島は、涙を拭うこともせず、ナイフを再び手に取る。
彼女は何もしなかった。
ただ、静かに、冷たい眼差しを田島に向けていた。
「……もっとはっきり言えば良いのに。寂しいって、一緒に居てって」
――だがすべては、もう終わったのだ。
****
とある街のとある中華屋。店内には店主と馴染みの客しかいない。
店の角に置かれたテレビでは丁度、昼時のニュースが流れていた。
「ーー昨夜遅く、東京都新宿区歌舞伎町◯丁目のホテルの部屋で人が血を流して倒れているとの通報を受け警察が駆けつけたところ、男性が腹から血を流して倒れているのが発見されました。男性は都内在住の田島直也さん34歳。田島さんには自ら腹部を刺した跡があり、その後、救急搬送されたものの、命に別状はないとの事です。
また、警察はその場にいた未成年の女性と田島さんの間に何かしらのトラブルがあっとみて……」
店主がテレビから目を逸らし、やれやれと言ったように溜息を吐く。
「アホな男もいたもんだねぇ。しかし、未成年とホテルで刃傷沙汰か、世も末だ」
常連客もまたテレビから目を逸らし、手元の湯呑みを傾ける。
「カブキチョーつったらあれじゃねーの? エンコーだとかパパカツだとか……」
「かーっ。つまりその男はガキ相手にそういうことしてたってか、なら自業自得だな」
「まったくだ。……そんな事より、明日の東京11レース何買うか決めたか? 俺はな……」
客と店主はそんな他愛もない会話で時間を潰す。
愚かで哀れな男の行為の理由など、限りなく無垢で優しく冷酷な少女が、それに何を感じたかなど、彼らにとってはどうでもいい事なのだ。
世はすべてこともなし。
人と人とが交差する、東京新宿歌舞伎町。
あの街は明日も変わらず、ネオンを輝かせるのだろう。
あの街に終わりなどない。すべてはただ、続いていく。
かざぐるまは、ただクルクルと回り。
時たま絡み合っては、唐突にはぐれて行くだけだ。
だが……そう。人は皆、田島と凛を心の内に秘めているのだ。