2、名前を知らない人
「ごめんねー! 今日はこれで終わりなの!」
「そんな!! 昨日も買えなかったんだぜ!?」
「そうだよ!! アンナちゃんのパンがないと、俺はもうダンジョンに潜れない身体になっちまったんだよぉ……」
「300ウォル! いやーー500ウォル払ってもいい!!」
「あはは! 100ウォルでいいから、明日は売り切れる前に買いに来てね!」
熊鈴屋に勤めて2年が経った。店の近くに部屋を借り、毎朝日が昇る頃から仕事を始める。早起きは孤児院の時からの習慣だし、毎日粉を捏ねているからか少し腕には筋肉がついた気がする。最初の頃は部屋に帰ると同時に倒れ込むように眠っていたが、最近は新メニューを考案する余裕もできてきた。
アンナは美人だ。プラチナブロンドの髪は艶々と輝いていて、緩くウェーブしている。瞳は夜の海のような深い青。背は残念なことにあまり伸びなかったが、くるくるとよく働くためか身体は引き締まり腰は細い。
母も同じ色の髪だった。瞳は、3歳の時に亡くなった父から受け継いだーーらしい。冒険者としてダンジョンに潜っていた父の記憶はほとんどない。が、その父のことを愛おしそうに話す母の姿はよく覚えている。
私にもいつかそんな人が……なんて、考えないこともない。現に、アンナに会うために熊鈴屋に通う男たちは多いのだ。
はじめは、見習いで入ったアンナの美しさに魅入られて、男性客が増えた。それから仕事を覚え、アンナもパンを捏ねるようになると、その美味しさに気付いた女性客も増えた。
仕事は忙しい。けれど、美味しかったよ! また来るね! と声をかけられるたびに、嬉しさで心が満たされる。今はもっと仕事を頑張りたい。そんな毎日はとても充実している。
の、だが。
ーードサッ
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
店の裏までゴミを捨てに来たところで、リリアは今日も私に小麦粉をぶちまける。美しいアンナと、それに熱を上げる男たちが気に入らないのだ。
粉まみれになったアンナを見て少しは溜飲が下がったのか、フンッと鼻を鳴らして去っていく。
言い返すだけ無駄だ。私は私の仕事をするだけ。さっさとお風呂に入って、続きの仕事をしよう。木の実を練り込んだらどうだろう……疲れた時は甘い方が美味しいだろうか……考えながら踵を返すと、ドン! と何かにぶつかった。
「痛っ!」
「……ッぶは!!」
上の方から、吹き出したように笑う声が聞こえる。鼻が痛い。ずいぶん固かったから壁かと思ったら、これは人だったようだ。
「これは酷くやられたな。真っ白だ。ーー大丈夫か?」
「あぁ、いつものことなので! それよりあなたの服まで汚してしまったわ。ごめんなさい」
「そんな風にされてまで、他人の心配か。君は優しいんだな」
クスクスと笑いながら、一歩後ろへ離れる。見上げると、私より30cmほど背の高い男性だ。
格好からして冒険者だろう。胸は厚く、腕もがっしりとしていて逞しい。黒い髪は短く刈りそろえられていて、キリッとした眉は意志が強そう。瞳は金色に輝いていて、月が溶けたみたいなーー魅入られるようにポカンと見つめていると、彼が指をひとつ振る。
「よし、これで綺麗に……っ」
風と水の複合魔法だろうか。魔物を斬滅するために、強力な魔法を放つ冒険者は多い。しかし、汚れた髪を綺麗にし、乾かすような繊細な操作はとても難しいはずだ。
「ありがとうございます! 魔法がとても上手なのですね!!」
お風呂に入る手間が省けた。にこりと笑って見上げると、なぜか彼は口元を押さえ、目を背けーーうっ、とか、いやっ、とか呻いている。
「……こんなに輝く髪は……女神……? それにこのキラキラと揺れる瞳は……まるでサファイアのようじゃないか……」
ボソボソと呟く声はよく聞きとれないが、なんだか耳が赤いようだ。その様子を見ていると、私もなんだか照れてしまう。
なんだろう、こんな気持ちは初めてだ。もっと知りたい。もっとーー
『アンナー! 次のパンが焼けるぞー!』
「あ、大変! わたし行かなくちゃ! 綺麗にしてくれたお礼に、私のパンを差し上げるわね」
はっと視線が絡み合い、彼の目尻が下がる。優しく微笑んだその金色の輝きに目が奪われる。
「うん、ありがとう。また来てもいいかな?」
「もちろんよ! 美味しかったら、次はたっくさん買ってちょうだいね」
はははと笑い、手を振って別れる。なんだかいつもより心臓の鼓動が早い。あの微笑みが頭から離れない。
きっと彼とはまた会える。何の根拠もないのに、私の心は確信している。彼とはどこかで繋がっている気がするーー
(なんてね。初めて会ったはずなのに、懐かしい感じがしたからかしら。私ったら変ね)
次に会えたらまず、名前を聞かなくちゃ。