1、カイナートの熊鈴屋
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「あんた目障りなのよ!!!」
背後からの怒鳴り声に、(またか……)と内心ため息をつく。
振り返ると、予想通り視界が真っ白に染まり、咄嗟に息を止める。小麦粉が鼻に入ると、痛いのだ。
相手にする時間が勿体無い。さっさとお風呂に入ろう。無言で歩き出した私に向かって、リリアは何やらギャーギャーと喚いている。あぁ、勿体無い……この粉だって、美味しいパンにしてあげたかったのに。
ここ、カイナートはダンジョンで栄える都市である。東の山の麓に開いた洞窟から、地下深くまで続く迷宮から湧き出る魔物は尽きることがない。
現在は75層まで攻略されているが、その底がどこまで続いているのかは未だ不明。
魔物を倒すと得られる魔核は様々な魔法のエネルギー源として使用されるため、非常に高価だ。その利を得るため、いつしか腕に自信のある者たちはこの都市を訪れ、日々魔物を倒しながら地下深くに潜る冒険者としての仕事をするようになっていた。
集めた魔核を換金する交換所、飯処、武器や防具を手入れする鍛冶屋、身体を休める宿屋。
こうしてカイナートは冒険者たちと共に、大きく発展してきた。今や国にとってもなくてはならない巨大都市だ。
アンナが務めるパン屋『熊鈴屋』は、熊のように大きな身体で厳しい顔付きのサイラスさんと、鈴のように可愛らしい声でコロコロと笑うジュディさん夫婦の店。
2人は元冒険者で、サイラスさんの怪我をきっかけに引退し、30年前にこの店を始めたそう。実はこの小柄で優しそうなジュディさんの方が冒険者ランクが高かったなんて……初めて聞いた時は全く信じられなかったけれど、今ではしっかりと肌で実感している。
なんというか、わかるのだ。ジュディさんが怒ると、空気がビリビリと揺れるのが。
そんな2人も歳を取り、夫婦だけで店を続けるのが大変になってきた。冒険者たちがダンジョンに持ち込む食事となる為、朝は早い。大量の生地を捏ねるのは重労働だ。夏は灼熱の窯でパンを焼き、行列を捌いて全てを売り切った後は翌日の仕込み。ダンジョンに休みがない以上、この店にも休みはない。
本当は孫娘のリリアに手伝って欲しかったようだが、リリアはそれを嫌がった。
「パン屋なんて嫌よ! 爪が汚れるし……暑くて化粧が剥がれるし……この白い腕に火傷痕なんてついたらどうしてくれるの?!」
その言葉を聞いて、サイラスさんとジュディさんは少し寂しい顔をして笑い、「わかったよ」と一言だけ、言った。
当時暮らしていた孤児院のおつかいに出ていて、私はたまたまその場面を目にした。
「では私を雇ってもらえませんか?」
突然現れた私に目を丸くする3人に、畳み掛けるようにアピールする。
「私は孤児院で料理当番をしていますので、パンを焼くのは得意です! 院長先生のお手伝いをしていますので、文字も読めるし、計算も出来ます。早起きも得意ですし、小さな子供たちの世話をしていますから、体力にも自信がありますっ!」
サイラスさんとリリアは未だにぽかんとしていたが、いち早く立ち直ったジュディさんがふわりと笑い、
「よろしくね。私はジュディ。あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」
「ヤダ、私ったら名乗りもせずに、ごめんなさい! アンナと申します!」
「アンナ、これからよろしくね」
「君が望むなら、俺たちの技術を教えよう。この仕事は楽じゃないぞ、覚悟は出来ているか?」
「はいっ!! よろしくお願いします!!」
こうして私は無事、勤め先を見つけることができたのだ。孤児院では、15歳の成人までしか暮らせない。冒険者の親を魔物に殺されて、路頭に迷う子供は多い。屋根があり、質素ながらも食事にありつけ、教育を受けられる孤児院に入りたい子供はいつだって溢れているのだ。
「院長先生、10年間本当にお世話になりました」
「アンナ、ここはあなたの家よ。いつでも遊びに来てちょうだい」
「アンナ姉ちゃん! 絶対すぐ来てよ!! すぐだよ!!」
「アンナ姉ちゃんのパンが食べられないの寂しいよ……」
「みんなありがとう。お休みをいただけたら、必ず顔を出しに来るわ!」
母が死に、5歳の頃から暮らした場所を出るのは寂しかった。それと同時に、新しい世界に出るのは楽しみだ。私に何ができるだろう。どんな人と出会うんだろう。孤児院でも辛いことはたくさんあった。でも、楽しいこともたくさんあった。生きていれば何だってできる。
新たな門出の日は、雲ひとつない快晴だ。