1話
竜背ヶ峰と呼ばれる険しい山脈に沿うように広がる樹海。複雑な地形から様々な環境が混在し広大すぎて地図さえないこの場所を人は魔物の住む樹海、魔海と呼び忌み嫌った。そんな恐怖の森を俺はライフルを肩に背負ってよいしょよいしょと苔むした道なき道を歩いていた。
辛い。汽車で二日、馬車で半日、徒歩で半日、三日がかりでようやく現場にたどりつき一晩休んで仕事である。道中で既に気力は尽きていた。
魔海周辺にある辺鄙な村からの依頼で、牛を襲うクマを狩ってほしいとのことだった。それを受けたギルドは俺に仕事を回してきた。依頼は依頼で仕事は仕事。文句は言いたくないが、こんな広い森で一匹のクマを見つけるのも難しいし一匹減らしたところでまた新しいクマが森の奥からやってくるだけである。案の定朝から探し歩いているがクマどころかウサギも見つからない。
しばらくすると、川に出たので木陰に腰を下ろし空を見上げる。休憩だ。というより帰って村でクマを待とう、早く帰りたいからって無茶をするもんじゃない。木の葉の隙間から見える雲を見上げてそう思った。
♢
うっかりうたた寝をしていたらしい。日も傾き徐々に朱く染まっていく森に。「畜生」と吐き捨てた。
慌てていると碌なことがおきない。道を間違ったのだ。辺りは暗闇に包まれ月の明かりだけがぼんやりと周囲を照らしている。手探りで道を探していると足を踏み外し、崖をゴロゴロと転がり落ちた。2、3メートルほど転がって気が付いた時には空をまた見上げていた。
全身が痛み、うめき声が漏れる。立ち上がろうとしても足に力が入らない。自分の足を見ると右足のふくらはぎ辺りから何かが突き出していた。見ない方がよかったと思った。見間違いであることを祈りながらもう一度確認するとザクロのように割れた傷口から白い骨が飛び出していた。深くため息をついた。このままでは死ぬ。
やはり元の世界でも駄目だった人間はどこへ行っても駄目。結局二度目のチャンスをも無駄にしようとしている。悔しくて涙が零れてきたがぐっとこらえた。まずい走馬灯を見かけている。
立ち上がろうと地面の上をみっともなくもがいていると、木の陰に何か動くものを見た。クマか野犬どっちかかもしれない。気が付けば全身血まみれ、体の下には泥と血の混ざりあった黒い血だまりができている。匂いに釣られて、腹を空かせた獣が寄って来てもおかしくはない。ライフルを探すが見当たらない。どこかに落としたらしい。
クマに生きたまま腸を食われた男の話を思い出して血の気が引いた。いや、ただ貧血なだけかもしれない。固唾を呑んで見守っていると……そこから現れたのは少女だった。こんな森の中に人?しかし僥倖。こんな幸運はまたとない。
「たすけて……」
絞り出した声は友人に聞かれたくないほど情けない。しかし少女は微動だにしない。ピクリとも動かずこちらを伺っている。もしかしたら彼女は俺の見ている幻影なのではと不安になった。五分だろうかいやもっと短いかもしれない。しばらくすると少女はゆっくりとこちらに恐る恐る歩み寄って来た。
少女の頭からは二本の触覚のようなものが生えていた。やはりこれは死に際に見た幻覚かもしれない。
彼女は傍でしゃがみ込み、俺の顔を覗き込んだ。視界いっぱいに少女の顔が映る。瞳が暗闇の中で薄ぼんやり輝いているように見えた。頭から生えた二本の触覚はゆらゆらと独立して動き何かを探っているようだった。
よかった幻覚ではないようだ。おそらく辺境の村で流行ってるファッションなのだろう。否定はしない。人の格好に文句を付けるほど俺は無粋な人間ではない。むしろ今助けてくれるのであればどんな格好でも構わない。
おもむろに触覚を俺の血まみれの顔面に押し付けた。硬いし痛いし非常に鬱陶しい。払いのける気力もなく、しばらくされるがままになっていると満足したのか、私の腕を掴んで引っ張り出した。
どうやらありがたいことに助けてくれるつもりらしい。しかし痛い。彼女が腕を引っ張る度全身に痛みが走る。森の地面にある木の根や石の上を引きずられて背中が削れる。特に折れた右脚にも激痛が走り。意識を奪っていく。私の目の前は真っ暗になった。
願わくば三度目が無いように……。