男ノ娘
真っ直ぐに伸びるすらりと長い腕。
ほんの数分前までは、透き通るように白かった。
細腕が、無数の引っ掻き傷でミミズ腫れを起こしている。
酷いところは皮膚がめくれ上がって赤く血が滲んでいた。
極限まで昂ぶり、集中から逃れた意識に、落ち着きが腕の傷の痛みを呼び戻した。
「とりあえず、シャワーを浴びて汗を流して傷も洗おう」
小さくベッドを軋ませて立ち上がり、浴室へ向かった。
広々とした脱衣所のドアを開けると、正面には洗濯機が置かれている。
右側には壁半分が鏡面になった大きな洗面台。
化粧用品が綺麗に整頓されて几帳面さが覗える。
それらを横目に服を脱ぎ、脱衣籠に服を投げ入れる。
洗面台の大きな鏡にありのままの姿が映る。
両腕とそのほかの部位を見比べると、傷の醜さが際立っていた。
中性的で女性にたびたび見紛われる美しい顔が、その傷を許せずに引きつった。
さっき飲んだ酒のせいで苛立ちもすぐ頂点に達してしまうのだろう。
頭からシャワーを浴びて、血が上った火照りを冷ますように全身を隈無く洗う。
「汚い。あんまりだ。こんなこと許せない」
多少体の自由を縛っていたアルコールも、熱い湯とともに流れ落ちていくようだった。 湯を浴びてすっきりした体を、洗い立てのバスローブで包むと寝室へ戻った。
ベッドの上には、先ほどまで精をぶつけたものが、両目を見開いたまま天上をみつめ横たわっていた。
「ねえ」
呼びかけても反応はない。
すでに彼の獣性は解き放たれたあとだ。今はただ、睡魔が彼を支配していた。
体が硬くなりだした、詩織と呼ばれていたもの。
ベッドの端に寄せて居場所を確保すると、微睡みの沼に沈み込んだ。
毎朝セットしている携帯のアラーム音に彼は身を竦ませて飛び起きた。
寝返りを打つと、隣に目は開いているが目覚めることの無い詩織がいた。
その横顔を眺めながら、昨日のことを思いだそうとしたが、酒が過ぎたせいもあって断片的にしか思い出せず、形の良い眉を顰めて投げ出そうとした。
「悠とはつきあえない」
そういえば、他愛も無い喧嘩をしてしまったことが発端だったとようやく思い出すことができた。
まず、何をすべきかを考えた。
携帯電話を取り出し、ボタンを押す。
最後に『〇』を押すか悩んだが、結局『七』を押した。
警察官の誰何では無く、現在の時刻がひたすら悠の耳朶を打つ。
時報を数分間聞き続けた後、通話を切った。
このとき、悠の脳裏から『自首』の二文字は消えた。
いかにして詩織を処分するかを考える事にした。
海に沈める、山に埋める……。
もちろんどれも却下だ。
マンションの入り口には監視カメラが設置されている為、遺体を持ち出すのはあまりにハイリスクだ。
仮にマンションから上手く持ち出せたとしても、遺棄した遺体が見つかれば悠が真っ先に疑われるのは目に見えていた。
『遺体が存在しなければ、事件にはならない』
ふいにテレビで聞いた台詞を思い出した。
「あ……」
悠はお腹をさすりながら薄ら笑いを浮かべた。
悠はまずキッチンに向かった。
一人暮らしの割に大きな冷蔵庫。
詩織は料理も上手かったことを思い出す。
大学でも友人らに手作りの弁当をよく振る舞っていた。
詩織の作る手料理を毎朝毎晩食べられたらどんなに幸せだろうと、いつも心に溜めていた想いを、悠は頭から追い出すようにかぶりを振った。
冷蔵庫の中身を片っ端からゴミ袋に詰め込み、タッパー類に入った食べ物は中身だけ捨てた。
積み重なったタッパーを、一つ一つ丁寧に洗って台所用消毒剤を吹き付ける。
タッパーを洗い終えると、台所にあった大小様々な保存容器をまとめ、浴室に向かった。
硬くなった関節を躊躇いもなく折り、浴槽に詩織を座らせると、床に家中からかき集めた様々な道具を一通り並べた。
そしてもう一度詩織の顔を見ると、悠は小さく「さよなら」と唇を動かした。
それからの手の運びは、おっとりとした見た目に反して早かった。
髪の毛をつかむと、手にしたハサミで根元から散髪し、剃刀で頭部に残った髪の毛を全て剃り落とした。
スキンヘッドになった詩織はデパートの売り場に置かれたマネキンのようだった。
床に散らばった髪の毛をビニール袋にまとめると、包丁を手に取った。
詩織の手をつかむと、指の関節に刃を当てた。
表面の肉は簡単に切れたが、骨が引っかかりなかなか切断出来ない。
悠は一旦包丁を床に置き、金属製のヤスリに持ち替えた。
爪の手入れを欠かさなかった詩織が、愛用していたネイルグッズ。
思わぬ方法に使われるとは皮肉なものだ。
試行錯誤しながらも、中華包丁とヤスリを駆使しつつ、作業を進めた。
浴槽の角に置かれたタッパーには、間接毎に切り離された一口サイズの骨付き指がびっしりと敷き詰められた。
悠はタッパーを見つめながら、恍惚とした表情で再びお腹をさすった。
解体中、腹を割いたときに嗅いだことの無い生臭さが浴室内に蔓延した。
あまりの臭気に何度嘔吐したことかわからない。
幾ら見た目が美しくても中身はやはり汚かったのだなと悠は唾を吐き付けた。
浴室内に散らばる肉片を血抜きし、シャワーで一つ一つ丁寧に洗い、洗い終わった肉片は浴槽内に投げ込んでいった。
得体の知れない細々とした臓物と、腸内に詰まっていた汚物は裁ちバサミで細切れにしてバケツにまとめ、数回に分けてトイレに流した。
鼻が慣れてきただけかも知れないが、この時点で先程よりは随分臭いが和らいできたように思えた。
片付けている内に、気が付けば外が暗くなりだしていた。
浴室内には見事に分別された詩織だったものが置かれていた。
「僕を他の奴らと分けるからこうなるんだ」
右側には肉片と臓物。
左側には骨をまとめた。
台所から持ってきたタッパーなどの保存容器に肉片と臓物を詰め込んだ。
さすがに保存容器だけでは全ての肉片は収めきれなかった為、鍋や菓子の詰め合わせの缶など、使えそうな金物容器をフル活用し、ようやく全ての肉片を片付けた。
それらの肉片が入った容器を、先程空っぽにした冷蔵庫の中に詰め込んでいく。
残った骨はどう処理すべきか考えたが、骨にこびり付いた肉片が腐って臭気の原因になるのはまずい。
骨を浴槽に移し、水を張って塩を丸々一袋入れて、臭気を防ぐことにした。
残った肉片が塩水でふやけて綺麗に落ちたら、また骨を洗ってベランダで干して乾かそうと思った。
梅雨が明けて日差しが強くなっているからすぐ乾くだろう。
骨の処理を頭に巡らせつつ、血溜まりになった浴室内に漂白剤をぶちまけてから血を流した。
更に漂白剤と浴室洗剤で大掃除を終えると、妙な達成感を感じてはお腹をさすった。
次に悠はどうやってアリバイ作りをするか考えた。
もう詩織が見つかる心配は無いが、このままでは矛盾が発生する。
マンションに設置された監視カメラには、おそらく二人が出入りする姿が録画されているはずだ。
詩織がマンションから出る映像を何とかして残さなければ、部屋から出ていない事に気づかれるだろう。
悠は洗面台に置かれた化粧道具と、鏡を交互に見つめながら考えた。
「もうこれしかないか……」
返り血で汚れた顔を綺麗に洗い流す。
そして、化粧品を物色し始めた。
手にした化粧下地を自身の肌に馴染ませる。
次にファンデーションを重ね、頬にはオレンジ色のチークを乗せる。
最後に口紅を塗り、数十分でメイクは終わった。
元々悠には美容師の姉がおり、練習台と称して姉からメイクを施された事もあった。
中性的な容姿の上にとても化粧栄えする顔で、姉と比較しても遜色無かった。
目元はサングラスをかければ誤魔化せたが、一つ問題が残った。
髪型だ。
悠は茶髪ショート、詩織は黒髪で胸までのロングヘアーだ。
この髪型ではどんなに顔はメイクで誤魔化せても、とても詩織には見えない。
散髪した髪の毛を使おうかとも一瞬考えたが、すぐに問題は解決した。
洗面台の引き出しの中、黒髪ロングのウィッグが入っていたからだった。
半年程前、詩織は気分転換にと、行きつけの美容室でカットモデルになり肩口までのセミロングにした。
しかしみんなから似合ってないと言われ、ひどく落ち込んだ際に「また元の長さに伸びるまで」と通販で購入したウィッグだった。
所詮カツラと思っていたが、思いのほか自然な見た目に驚かされた。
早速、ウィッグを箱の説明書通りに装着してみた。
「日が落ちてから出歩けば問題無いか」
満更でもないできばえに悦にいって笑みを浮かべていると、急にお腹が騒ぎ出した。
そういえば起きてから何も食べていない。
キッチンに戻り冷蔵庫を開けると、お腹をさすって満面の笑みを浮かべた。
よだれが期待するかの如くわき上がり、そっと口元を手の甲で拭った。
数十分後。
肉料理を作り終え、リビングに置かれた白木のテーブルにお皿を並べた。
白米、爪を剥がした骨付き指のサイコロステーキ、頬肉のソテーを目の前に、悠は両手を合わせた。
「いただきます」
最初に一口、白米を口に運び、次にサイコロステーキを口に入れた。
予想はしていたが、殆どが骨と皮で食べ応えが無かった。
鳥の軟骨のように感じられた。
晩御飯ではなく、酒のつまみに合いそうな味と食感だった。
「頬肉はどうかな」
小さく箸で切り、口にした瞬間、絶頂に達したあとの、究極の弛緩を思わせる表情になっていた。
あまりの柔らかさと美味しさに、舌が喜んでいるようだった。
労働のあとというのも手伝って、夢中ですべてをたいらげた。
食事を終え、ソファに寝転がりテレビを付けた。
バラエティ番組の笑い声が絶え間なく繰り返される中、いつしか眠りに落ちていた。
至福の微睡みをチャイムの音が嘲笑う。
一体どれくらい眠っていたのか。油断した自分を苛んだ。
音を立てないよう、ゆっくりと忍び足で玄関ドアまで向かう。
玄関ドアのスコープから誰が来たのか確認すると、見知らぬ男が立っていた。
白髪混じりの七三分けで、年季の入ったスーツを着ており、サラリーマンのように見受けられた。
黒いサングラスのような眼鏡をかけている。
何かの勧誘だろうか……?
男は無表情のまま、チャイムを鳴らし、規則正しくドアをノックする。
居留守で乗り切るつもりだったが、数分経っても男はなかなか帰ろうとしない。
それでも放っておけばそのうち帰るだろうと思い、再び忍び足で玄関ドアから離れた。
電気を消し、ソファに腰掛ける。
男はまだ玄関チャイムを鳴らし続けている。
ひょっとしたら部屋の照明がついていることが判ったのか?
カーテンは閉めていたが、多少の明かりは漏れていてもおかしくない。
肩をすぼめて両手で身を包むようにして、男が帰るのを静かに待ち続けた。
「……え?」
悠は耳を疑った。
玄関ドアが開く音がし、玄関の明かりが点いたのだ。
「詩織。いるなら早く開けてくれよ。出かけてるのかと思ったよ」
男の口から彼女の名前が出た事に驚いたが、何よりも悠を驚かせたのは玄関ドアが何故開いたのかだ。
確かに鍵はかかっていたはずだ。
合鍵を持っていたのだろうか。
男は徐々に近づいてくる。
足音と共に、コツコツと杖をつくような音がする。
悠は咄嗟に昨夜脱がせた詩織のブラウスを着込んで女装を完成させた。
「詩織。どうかしたのかい?」
背後から男が声をかけてきた。
ゼンマイの切れかかった人形のようにゆっくりと振り向くと、ドアスコープから見えたあの男が立っていた。
「詩織。これ食べよう。駅前で詩織の好きなプリン買ってきたよ」
男はテーブルの上で取っ手の付いた真っ白な小箱を開け始めた。
箱の中にはフルーツが乗った美味しそうなプリンが二つ入っていた。
スプーンとプリンをテーブルの上に置くと、片方を食べ始めた。
「どうした? 食べないのかい」
どうやら、男には女装がばれていないようだった。
詩織と思い込んでいるらしく、疑っている気配は全く感じられない。
それからも男は、一人で色々と話し始めた。
さすがに話せば詩織でないと気付かれてしまうと思い、ひたすら裏声で小さく相槌を打ち続けた。
それでも男は嬉しそうな顔で話し続ける。
すると突然、コマーシャルで聞き覚えのある音楽が流れた。
どうやら男の携帯電話が鳴ったようで、男は電話に出た。
「もしもし。いま詩織の家に寄ってプリン食べてた。もうそろそろ帰るよ」
電話を切ると、男は残念そうな顔をしながら振り向く。
「ご飯冷めるから早く帰って来いだってさ。そろそろ父さん帰るよ」
父さん? 詩織の父親! 悠は背中に氷柱を差し込まれたように跳ねて立ち上がった。
「玄関まで送ってくれるのかい。ありがとう」
ふいに立ち上がった悠を、見送ると勘違いした父は、足元に置かれた杖を手にし、玄関へと向かった。
どうやら足が悪いようで、左足を引きずりながら歩いている。
「それじゃ帰るね。たまには母さんに顔出せよ」
父は靴を履いて玄関ドアに手をかけたが、すぐにドアノブから手を離し、再び悠の方に振り返った。
「ところで、詩織。……その女装してる男は誰だ?」
父は悠を通り越して後方を見つめながら言った。
早く行ってくれと祈るように見つめていた背中が、更に予想の先の言葉を紡ぐ。
視線の先が気になり半ば反射的に悠は振り返った。
――詩織がいた。
解体してタッパーに詰め込んでおいたはずの詩織のバラバラになった肉片が、真っ黒な糸で一つ一つ繋ぎ合わされ、人の形を形成し、直立不動で立ち尽くしている。
サイコロステーキにして食べてしまった両手の指があるべきところには、指では無く、細長い臓物が数本縫い付けられていた。
両頬が削ぎ落とされている為、口を閉じているにも関わらず、白く綺麗な歯並びが見える。
「悠。おいしかった?」
*************************
悠はその後、あっけなく逮捕された。
詩織の服を身に纏い、女装して商店街をふらふらと彷徨っているところを警官に職務質問されそのまま連行された。
かねてから、詩織は悠にストーカー行為を繰り返されていると通報していた事実もあり、屍姦を続けていたことや、食人した残忍性から判決が降りるのに時間はかからなかった。
今現在は刑務所で服役中である。
彼を待っているのは十三階段のみだ。
二人が通っていた大学では、この陰惨な事件がそこかしこで語られていた。
裁判中に悠が語った供述もみなの興味を引いたからだった。
詩織と同じサークルであった一人が傍聴してきた内容を淡々と語って聞かせた。
「何で詩織さんのお父さんには死んだ詩織さんが見えてたんだろうね?」
「あぁ、それなんだけどね、実は……」
「実は?」
「お父さん、詩織さんが殺される半年前に事故で他界しているんだよ」
「ああ、足が切断されてしまって出血性ショックで亡くなってたっけ……」
「目も悪かったし、不運としか言いようがないね」
それを聞いた面々は、そのころに沈んだ気持ちを整理したいと、突然バッサリと髪を切って来たことを思い出した。
「ということは、幽霊が見えてたのは詩織さんのお父さんじゃなくて……」
「……そう。悠くんに見えてたってことになるね」
しかしまたここで、一人が違和感を覚える。
悠は、お父さんとプリンを食べたと供述していたではないか。
「プリンも部屋のテーブルの上に置かれてたよ」
「ほら、死んでるはずなのにおかしいじゃん」
「それが、おかしくないんだよね」
「なんで?」
「テーブルの上のプリン、賞味期限が半年前のもので、中身は黴びて腐ってたんだって。お父さんが事故に遭った日、詩織さんのために買って帰ったものらしいんだよね」
「へぇ、詩織さんも亡くなったから、やっとプリン渡せたということか」
「そういうこと」
「詩織さん、あの世でお父さんと仲良くしてるかな」
「してないんじゃないかなあ……」
「なんで?」
「これ見てみろよ」
一人が携帯を取り出し、動画を再生し始めた。
「何これ?」
「まあ見てなよ」
何の変哲も無い、マンションのエントランスの監視カメラの映像だろうか。
エレベーターが開くと、髪の長いサングラスをかけた女がふらふらと出てきた。
女装した悠が、詩織のマンションから出るところとしてテレビでも放映されたが、ある理由で放映局に電話が殺到し、すぐに放映中止になったものだった。
「これって、ひょっとして悠くん?」
「そう。悠くんの女装した姿。ほら、うしろ見てみなよ」
悠の背後には、両目がくり抜かれた女、詩織と思しき女が抱きついていた。
「詩織さん、悠くんと一緒に刑務所に憑いていってるな」
「――お幸せに」