後編
「あの山を越えなあかんのや!」
竹之助は一寸先は闇の、山を指さしていった。すると、老人は竹之助が予想していなかった、態度で笑った。豪快な笑い方だ。
「なんや坊主、そんなこと、気にしとったんか! 安心せい、どれだけ離れておっても患者がいる限り、どこまででも行くのが医者じゃわい。それにわしには馬がおる。少し離れたところでも駆け付けられる」
そういって、老人は厩舎を親指で指示した。
竹之助は、老人の背中につかまり、峠をひた走る。来るときは、地獄の八丁目のように大変だった、峠は極楽への道、極楽浄土を進んでいるかのように、感じられた。
馬蹄は、轍を作り、前進する。
「坊主!」
老人は空を切る、音に負けないくらいの大きな声で竹之助を呼んだ。
「なんだ!」
竹之助も、老人に負けないほど、大きな声で返す。
「おっかあは、好きか!」
そんなの、
「好きに決まってるだろ!」
老人はそれ以上何も言わず、手綱をふるい、馬を速めた。
馬は化け物のように速かった。来るときは二刻(四時間)はかかったのに、馬の足なら、半刻(一時間)で帰れる。
(おっかあ! 待ってろよ、もうすぐ、お医者を連れて行くから)
それから、四半刻(三十分)揺られながら、走り続けた。聞こえてくるのは馬の呼吸、嘶き、空を切り裂く空気の音。老人の背中らか、伝わる鼓動。
竹之助は、いつの間にか眠っていた。
疲れがたたったのだ。ろくな睡眠もとらずに、峠を越えたのだ。となり村まで歩けたのが不思議なぐらいだった。
「おい! 坊主、村に着いたぞ。お前の家はどこだ」
老人の声で竹之助は目覚めた。
竹之助は飛び起きた。その反動で、馬から落ちる。雪が積みあがった、中に竹之助ははまった。速やかに起き上がり、竹之助は、
「こっちだ! 早く、早く来てくんろ」
と、自分が眠っていたことを棚に上げていった。竹之助は老人の手をつかんで駆けだした。
老人はなんとか、着いてゆく。バン、と乱暴に、竹之助は家の引き戸を開けた。
ボロい引き戸はそれだけで、壊れそうながたつきをみせる。老人は布団に横になっている、母を見つけると竹之助を押しのけて、家に上がった。
「どうだ、お医者様……おっかあは大丈夫だろか……?」
老人は母の脈をとり、額に手を当てた。しばらくすると、持ってきていた風呂敷から草らしきものを取り出し、すり鉢で擦り始めた。
竹之助はその光景を、そわそわしながら見つめる。
腹を蛇に締め付けられているかのような、感覚が常に消えなかった。
囲炉裏の炎が消えないように、思い出したときに薪をくべる。炎の光に照らされて、老人の火影が躍った。幻想的な色彩を見ながら、竹之助は眠気と戦っていた。
すり鉢ですった、草を紙を丸めて母の口に入れる。竹がはぜる音と、母の荒い息づかいが聞こえる以外は、衣擦れの音しか聞こえない。
竹之助は黙って老人の処置を見守った。医学のことなど何も、分からない竹之助が見ても、老人の手際が良いことは察しが付く。
朝日が節穴や、すき間から差し込みだしてきたとき、母の呼吸が苦し気なものから、穏やかなものに変わり始めた。
それを、見届けると、老人は一息ついた。
「お医者様……おっかあはどうだか……?」
老人は広げた風呂敷をたたみ始めた。緊張の面持ちで、竹之助は老人の言葉を待つ。
「肺炎だ。坊主が呼びに来ていなかったら、危ないところだった」
老人は、低い声でいった。老人の声にも疲れが読み取れる。
「ほんで……おっかあは……? おっかあは、大丈夫なんだろか……?」
腹を締め付ける蛇の力が増した。
「栄養のあるもん食って、温かさして、安静にしていれば、死にゃあせん」
そんなこと竹之助でも分かっている。栄養あるもんを食べられないから困っているのだ。
「栄養のあるもんがなか……」
と、自分の不甲斐なさを詰るように、涙を噛みしめ竹之助はいった。竹之助を横目に見て、老人はいった。
「安心せい、わしが一旦村まで戻って、栄養のあるもんを持ってきたる。それまで、部屋を温かくして待っとれ」
それだけ、言い残し、老人は馬の嘶きを上げ、かけていった。それから、一刻ほど経った後、老人は沢山の食べ物を風呂敷に詰めて、帰ってきた。
米、白菜、菜の花、肉、味噌を風呂敷いっぱい、持ってきた。
食べ物だけではない、綺麗な布団も馬の後ろに積んでいた。
母は目覚めると、魑魅魍魎でも見たかのように、驚いていた。
味噌汁、白米、肉、白菜と菜の花を肉で炊いたのから、今まで食べたこともないような料理が目覚めたばかりの、母の目に飛び込んだのだ。
化かされている、と感じて然るべき、だ。
「どうしたの……この料理……?」
膳から顔をあげて竹之助の顔をうかがった、母はまた驚いた。さっきまでの、驚きと違い、今度はのけぞらんばかりだった。
「あ、貴方は誰ですか!」
老人は、不敵な笑みを浮かべ、
「わしか? わしは医者よ! 天下にその名を轟かす、岩倉郷蔵よ!」
と、歌舞伎役者のように名乗った。
すると、母はみるみる白い肌が青ざめ、血の気が引いたよに見えた。
「この坊主が、吹雪の中、わしを呼びに来たんだ。坊主に感謝せなあかんで」
郷蔵は竹之助の、頭を木魚のようにたたいた。
母は竹之助の顔と郷蔵の顔を見比べた。
「竹助! あんた、吹雪の中あの峠を越えたってのかい!」
竹之助はうなずいた。母は眉根に皺を寄せて、叫んだ。
「なに、馬鹿なことしてんだい! 吹雪の山なんかに入ったら、どうなるか、あんたも知っているだろ!」
竹之助は、うつむいて、頷いた。竹之助にだって、雪山がいかに危険なのか分かっていた。しかし母を助けるために仕方のないことだった。
どれだけ怒られようと、竹之助に後悔はない。
そこに、郷蔵が割って入った。
「おっかあよ、坊主はあんたを心配して、吹雪の山を越えて、わしを呼びに来たんだぜ。怒ってやるこったぁねーだろ」
すると母は郷蔵を睨んだ。その目にいかな郷蔵でも怯んでいた。
「いえ、この子は、馬鹿なことをしたんです」と、郷蔵に言い、「竹助! 死んだらどうする、つもりだったの」と、最後の言葉は竹之助に向けていった。
竹之助はうつむいて、沈黙を貫いた。
「あなたが、死んじゃったら、おっかあは一人になんだよ……あんたを立派に育てるって、おっかあはおっとおと約束したんだ……。だから、あんたには生きてもらわないと、おっかあが困るんだよ……」
竹之助が、顔をあげると、母は泣いていた。大粒の涙を流し、顔を猿のようにくちゃくちゃにして、母は泣いていた。
こんな、悲しむ母の顔を竹之助は産まれて初めてみた。
「おっかあ……泣かねーでくれ……」
しかし、母は泣き止まなかった。母の悲しそうな顔を見ている内に、竹之助まで、涙を流していた。母は、竹之助のもとにまで、膝立ちで歩み寄り、抱きしめた。
「竹助、おっかあの気持ちは分かるだろ……。おっかあがどれだけ心配してるか、分かるだろ……。だけど、ありがとう……ほんまありがとうな!」
竹之助は大きく首を振った。
「うんだ……うんだ……」
竹之助も、母の背中に腕を回し、抱きしめた。竹之助は母の胸に顔をうずめ、泣いた。男児は、『泣いちゃいかん』と、母によく言われているが、今回ばかりは、
(泣かせてけろ……)
竹之助は、生まれたての赤ん坊のように、泣いたのだった。
「盛り上がってるところ悪いが、わしは一旦、帰らしてもらうぞ。これから毎日、おっかあの元気が戻るまで来てやっから」
竹之助は母との、抱擁を解き郷蔵に向き直った。
「お医者様! ありがとだ! ほんまにありがとだ! 金はおらが働いて、ちゃんと、返すから。もうしばらく、待ってけろ」
すると、郷蔵は振り返り、竹之助と向き合った。
「金? 何のことだ?」
郷蔵は狐に化かされたような顔をした。
「おっかあの治療費のことだ」
郷蔵は、何言ってんだ、というような顔をして、
「治療費なんざぁいらねぇよ」
と、いった。竹之助は驚いた、なぜなら、郷蔵は貴族大名から莫大な治療費をとっている、という噂だからだ。
その噂はでたらめではない。本当のことだ。
竹之助もそのことを、分かったうえで、自分が働いて母の治療費を返す気で、郷蔵を呼びに行ったのだ。
それなのに、郷蔵は、竹之助のまったく予期していなかった、ことを郷蔵はいった。
「だ、だけど、あんたは腕は良いけど、貴族大名から、高額な治療費をふんどるって、噂だぞ……」
母は何も言わず、ただ黙って二人のやり取りを、見守っていた。引き戸の向こう側は、夜を追いやり朝日が差し込んでいた。
明暗の明かりが、竹之助の姿を照らす。
「わしはな、貴族大名からは高額な、金をとるが。ねーもんからは取らね。貴族大名から金をふんだくるのは、おめーら見てーなもんを助けるためだ。わしも若けー頃に、親を流行り病で亡くしたんだ。だから、わしは医者になった。もう、二度とわし見てーな子供は出しちゃなんね、と思ってな。医者になったんだ!」
郷蔵は竹之助のもとに歩みより、大きな手で頭を撫でた。
撫でるというよりも、揺さぶりに近かった。
「ほんまに金はいらんのけ……?」
「ああ、気にせんでええ。坊主は金のことじゃなくて、おっかあのことを心配してやれ」
そう言い残し、郷蔵は一本道を、馬に乗って帰っていった。山から顔を出した、朝日が郷蔵の姿を照らし、お釈迦様のように後光が差しているように見えた。
「おっかあ……」
竹之助は、子供らしくない低い声を出した。
「なんだい?」
竹之助は、しばらく喋らない、しかし母は竹之助が話始めるまで、何刻でも待つ、つもりだった。朝日の光に温められた、氷柱が落ち、砕けるペキ、という音が鳴った。
「おっかあ……」
「なんだい」
母は竹之助の背中を見つめた。自分が寝込んでいたあいだに、竹之助は一回り多くくなったように感じた。母はその背中をおっとおの背中と重ね合わせた。
「おら……」
竹之助は言い悩んでいた。竹之助には夢ができた。できた夢が叶わないかもしれない、ことを竹之助でも分かっていた。
しかし、自分がいままで持ったことのない、この気持ちを母に伝えたかった。
「おら……おら……」
もう迷わない。
「おら! 医者になるよ! おら達みたいな、医者に掛かりたくても、掛かれない、貧しい人たちを診る、医者になるよ! あのお医者様みたいな! 医者になるよ!」
竹之助は振り返った。その涙の痕が伝い汚れ切った顔一面を、満面の笑顔が彩った。朝日が竹之助の背中を照らし、後光が差した。
「ああ、あんたは偉いお医者様になれるよ。だって、おっとおと、おっかあの唯一の、息子だもの」
竹之助は照れ臭そうに、笑った。そしていった。
「ああ、おらは竹之助だもんな!」
*
母は郷蔵の治療のもと、みるみる元気になっていった。
後日譚になるが、竹之助は病気一つすることなく、立派に成人し、郷蔵に弟子入りしたと聞く。郷蔵は弟子を取ることを、拒んでいたが、なんせ竹之助は折れない。
そのしつこさに負け、郷蔵は竹之助を弟子に迎えいれた。竹之助は郷蔵が亡くなるまで技術を余すことなく、吸収し立派な医者になった。
天保四年(1833年)に産まれ、明治21年(1888年)に亡くなるまで、竹之助は数えられない人間を救った。貧しい者からは金を取らず、富める者からふんだくる。
正にそれは、竹之助が理想とした郷蔵の生き方そのものだった。
しかし、竹之助のその信念は、富める者からは好かれなかった。貧しき人々を救った、竹之助の名は歴史の表舞台には、残っていない。
竹之助は晩年愛する家族に看取られながら言ったとされる、最期の言葉は、
「おらは折れなかったよ」
だったそうだ。変わりゆく、激動の時代を生きた、竹之助という一人の男は五十五歳でこの世を去るまで、沢山の人々の命を救った。
今も民衆のあいだで、竹之助という名が語り継がれていると聞く。