中編
山を一つ越えた、となり村に著名な医者がいると、竹之助は聞いたことがあった。となり村まで、どれだけの距離があるのか、竹之助でも知っていた。
十の自分にどれだけ、過酷な山越えになるかも、分かっていた。
しかし、こんな吹雪の中、母を医者に見せずにほって置いたら、確実に死んでしまう。と、いうことも十の竹之助は薄々気が付いている。
足が冷たかった。草履の鼻緒のすき間から、ギシギシ音を立てる、雪が竹之助の足を襲う。
蓑に雪が積もり、重い。薪の束をしょっているようなものだ。こんな状態で、雪が降りしきる、山を越えられるとは、到底思えなかった。
目で見るだけなら、小さな丘のような、山でも。
目と鼻の先でも、こんな状況で超えられる気がしなかった。
(諦めちゃなんねー! おっかあ、が待ってるんだ!)
諦めそうになるたびに、竹之助は自分に言い聞かせた。
しかし、大人の足でも山を登るには、一刻(二時間)はかかった。くだりを含めれば、二刻(四時間)はかかるかもしれない。
それをまだ十ほどの子供が登るのだから、倍、いや、足場の悪い雪道では、時間がかかるというよりも、登ることは不可能に近かった。
けれど、竹之助は諦めなかった。ここで、竹之助が諦めれば、母は死んでしまう。凍える寒さの中、竹之助はただ前だけを見つめ歩き続けた。
竹之助を動かす原動力は、母を助けたいという想いだけだった。すでに家を出て半刻(一時間)はたっている。半刻でやっと山のふもとにたどり着いた。
この調子だと、村に着くのは丑の刻(午前1~3時)、下手をすれば、寅の刻(午前3~5時)になるかもしれない。
そうなれば、母は助からないかもしれないのだ。
そう思い、竹之助は速足で坂道を登り始めた。
雪にできた轍に、空から新たに降る新雪が即座に埋める。一直線の轍を作りながら、竹之助はすでに半刻(一時間)半を歩いていた。
竹之助が生まれたのはちょうど、天保の大飢饉が起きた、天保四年(1833年)であった。母は十六歳(1832年)で父と結ばれ、翌年天保四年(1833年)に竹之助を生んだ。
当時はまだ、大規模な飢饉が到来するとは、夢のまた夢であった。竹之助が生まれた年から、大雨が降り続き、冷害が襲い、作物が育たなくなったのだ。
さまに天変地異である。
それは、大地の神が自堕落な人間たちを粛清するために、起こしになった飢饉だったのかもしれない。
今でいう栄養失調のため、母は竹之助にお乳をあげることもままならないほどだった。けれど、立派にこの年まで、竹之助を育ててくれた母。
闇市まで出向き、質の悪い米をわずかに稼いだお金で買ってきてくれた。
無論、病弱な母は夜なべで草履を編み、それでも足りないときは体まで売った。もう、そのころには父は他界したあとだった。
父と結ばれたのは十六の時。まだ若い母の体は十分売り物になった。
体を売り稼いだお金で食べるものを買い、竹之助を十まで育て上げたのだ。
(おっかあ……死なねぇーでくんろぉー……おら、なんも恩返しできてねぇーんだから)
蓑が吹雪で飛ばされないように、竹之助は両手で握りしめ、先を急いだ。
この一本続く峠を超えれば、村が見える、というのに果てしなく続く、この道に終わりは伺えなかった。
時刻はすでに丑の刻(午前1~3時)。
歩き始めて一刻(二時間)半は過ぎた。
足はもはや感覚はなく、凍傷にかかっていた。竹之助はいま、布団で眠っているであろう、母の顔をぼんやりする頭で思い出し、気力を振り絞っていた。
(今もおっかあは、苦しんでいる。辛い咳を続けている。おらが早く医者を連れていかなければ、おっかあは、明け方にでも死んじまう。おらより、おっかあの方が苦しんでいる。おらが負けちゃなんねぇ!)
そう自分を奮い立たせた。しかし、足は頭で思うほどついて来てくれなかった。
仕舞に足が空回りし、竹之助はこけた。冷やっとした感覚のあと温かい感覚に変わった。
(あったけー……おっかあに抱かれているみてーだ……)
蓑の上には新雪があっという間に積もってゆく。まるで釜倉の中にいるかのように、温かかった。竹之助は冬になると毎年釜倉を作った。
鎌倉作りで、竹之助にかなう者などいないほど、綺麗な釜倉を作るのだ。
(おっかあが元気になったら、釜倉作りてーな……)
竹之助は雪に埋もれた。かすれ逝く意識の中で、竹之助は聞いた。
(竹之助、竹之助や――眠っちゃいけねー。お前にゃやるべきことがあるだろ?)
あの、声だ。あのとき、聞こえたあの声が竹之助に語りかけた。どこかで、聞いたことがある、懐かしい声。
どこで聞いたんだろう、竹之助は朦朧とする意識で考える。ずっと昔、どこかで聞いた懐かしい声。
(竹之助。起きろ! お前が眠っちまったら、おっかあは死んじまうぞ!)
しかし竹之助はもう考えるのも馬鹿らしく思え、考えるのを辞めていた。
(静かにしてくんろ……おら眠いんだ……少し眠ったら……すぐに呼びに行くから……)
かすれる視界の先に、誰かが立っていた。かすれて、誰なのか識別できない。
(竹之助。なんでお前が竹之助って名か知ってか?)
この人は何を言っているのだろうか。
(知んねぇー……)
すると、その人物はゆっくりと竹之助に近寄りながら、いう。
(竹のように大きく育って欲しい。竹ってえぇーのは、折れることがねーんだ。どれだけ、ひん曲げても、折れることはねぇ。おっかあとおっとおは、お前が天寿を全うできますように、ってお前にその名前を付けたんだ。お前が生まれた、年は食べるもんもなんぞ、まったくなかった。けっど、おっかあはお前をここまで育て上げた、ここで折れたらおっかあの苦労は何だったんだ? ここで折れちゃいけねー。竹は折れちゃいけねーんだ。竹が折れないように、竹之助は折れちゃいけねぇーんだよ)
かすみ切った竹之助の目に、再び光が灯った。生命の光が灯った。
(お前は死んじゃなんねぇー! おっかあと生きろ! 生きろ竹之助!)
(おっとおけ? あんたはおっとおなんけ?)
竹之助の意識は覚醒した。バっと起き上がり、蓑に積もっていた雪が雪崩のように流れ落ちた。しかし、目の前には誰もいない。
ただ、吹雪が吹き荒れる、白い闇があるだけだった。月の光が白い雪を照らし、白い雪が星々に、雄大に広がる闇が夜空に見えた。
竹之助の父親は、竹之助が四つのときに亡くなった。
だから、竹之助は父の顔を憶えていない。しかし、竹之助には、いま語りかけてきた声が父のものだと、分かった。
(そうだ! 今のはおっとおの声だ! おっとおが応援してくれている。生きろと言っている。おっかあと生きろと言っている!)
竹之助は立ち上がった。そして再び、まっさらな穢れなき雪畳に轍を刻みだした。時刻は丑刻(午前二時)になっていた。
そして、峠を登り切った。後は下るだけ。
竹之助は、まだ誰にも踏まれていない、新雪に轍を刻んでゆく。
(おっとおとおっかあが、おらに竹之助という名前を付けてくれた。竹は折れねぇ。だから、おらも折れちゃいけぇね。竹のように大きくなるんだ。おっかあとおっとおが、名前に籠めた願いを踏みにじっちゃいけねぇ!)
竹之助は歩き続けた。
それはまるで竹のように、折れることなく、歩き続けた。大人でも、吹雪の山道を登るのは自殺行為だった。大人でもこんな絶望的な状況に遭遇すれば、心が折れていた。
しかし、竹之助は折れなかった。
(おらには、おっとおとおっかあが付いてくれている。おらは、竹之助だ!)
竹之助は自分の名前に自信が持てた。竹之助は、自分の名前が嫌いだった。野暮ったい、と思っていた。どうせ付けるなら、戦国武将のような名前を付けて欲しかった。
しかし、いまは違う、竹之助。竹のように折れない、真っすぐに成長するという意味が込められた、名前。
(なんて良い名前だろう)
竹之助は自分の名前に誇りを持った。それから、四半刻竹之助は峠を下った。そのとき、
(村だ! 村が見えた!)
竹之助の体に力がみなぎった。
もう、前進させることしかできなかった足を、竹之助は最後の力を振り絞り、走る。
どの家でもいい、とにかく目についた、引き戸を叩いた。吹雪と、竹之助の呼吸。引き戸を壊さんばかりに、叩く音が竹之助の空虚な心を搔き乱す。
(早く! 早く出てくんろ!)
そう、思いながら、竹之助は引き戸を叩いた。引き戸を貫通させんばかりに、叩いた。
しばらくすると、家屋の中から、足音が聞こえて来た。突っ張り棒を外す、ガタガタ、とした音が聞こえる。
「何だい! 何だい! こんな時刻に、非常識にもほどがあるんじゃないかい!」
目頭を擦りながら、中から白い寝間着に身を包んだ、三十ぐらいの女が現れた。心なしかいら立っているように、見える。
こんな、丑刻半刻に起こされれば、誰でもこの顔をするに決まっている。この女は竹之助の事情をしらないのだから。
「すまねぇえだ! ほんまにすまねぇえだ! お医者の、お医者の家を教えてくんろ。おねげぇーだ! お医者の家をおしえてくんろ!」
女は竹之助のあまりの、必死さに慄いた。一歩後下がりし、足から順に竹之助を眺めた。竹之助が、まだ年端も行かない童だと、分かると、
「どうしたんだい……? そんな血相変えて……?」
声音を落として、優しく聞いた。
「お、おっかあが! おっかあが! 死にそうなんだ! お医者の家を教えてくんろ!」
女の顔色が変わった。
「あんたのおっかあが大変なんけ……?」
「うんだ! だから、お医者の家を教えてくんろぉ!」
女は思案顔を作り、
「分かった、あたいが道案内してやんよ。ちょっと待ってえな」
と、いい、女は一度家の中に引っ込んで行った。
再び現れた女は、紅色の上衣を着ていた。白い寝間着と紅い上衣で、紅白模様を形作った。
「付いてきな」
竹之助は女の後に続いた。
女が作った轍の上を竹之助の足が踏む。女の轍とはいえ、竹之助の足よりも大きく、一回り小さい、竹之助の足が小さく母に付き添う子熊のように、刻んだ。
月明りで、照らされた女の後ろ姿は、母の背中に見えた。気を抜けば、竹之助は女の背中に、おっかあ!」と、叫び、抱きついていたかもしれない。
そのとき、女は一軒の民家の家の前にとまった。
医者の家とは思えない、粗末な家屋だった。所々、木の板が壁に打たれており、それはまるで、竹之助が着ている着物のようにぼろかった。
けれど、この医者は大名貴族を診て、高額な治療費をせしめとっている、という話なのに、どうしてこんなボロ家に住んでいるのか、竹之助は不思議に思った。
「ほんまに、ここなんけ……?」
竹之助は不安そうな顔で、女に問いかけた。
女は竹之助を見下ろし、首を引いて見せた。竹之助は固唾を飲み、心を固めた。引き戸に歩みより、叩く。
「お医者様! お医者様! 開けてくんろ! おっかあを! おっかあを! 診てくんろぉ!」
竹之助は、何度も何度も、引き戸を叩き続けた。冷えで、氷のように凍てついた、竹之助の手は真っ赤に染まり、仕舞に皮がめくれ血が飛び散る。
けれど、竹之助は引き戸を叩くのを辞めない。
医者が顔を出すまで、辞める気はなかった。仕舞に、女は顔を背ける。引き戸には竹之助の血がべったりと付いた。
そして、竹之助の思いが通じたように、家屋の中から声が聞こえた。
「なんじゃい! なんじゃい! こんな夜更けに!」
そう言って、引き戸から顔を出したのは、老人だった。髪は白髪になり、顔は干し柿のように皺くちゃになっていた。
しかし、その眼光だけは、老人のそれではないことが、竹之助でも分かった。
「こんな夜更けに何の用じゃ!」
老人は鋭い目つきで、竹之助を見据えた。竹之助は蛇に睨まれた蛙のように、一瞬固まる。しかし、母の顔を思い出し、すぐさま前のめった。
「あんたお医者様だろ! おっかあが! おっかあが! 今にも死にそうなんだ! だから、一緒に来てくんろ!」
竹之助は、老人の顔を真正面から睨むように、見つめた。
しかし、老人は微動だにせず、竹之助を俯瞰した。竹之助は、手のひらを冷たい雪に付けた。もう竹之助は雪の冷たさも感じないほど、感覚が麻痺していた。
そして、こんどは頭を雪の中に埋めた。
土下座の恰好で、竹之助は老人に全身全霊で訴えた。
「おねげぇーだ! おっかあを助けてやってくんろ! 金なら、金なら、おらが必ず返すから! おらが働いて返すから! おっかあを助けてやってくんろ!」
竹之助は顔を老人のように歪め、涙を流した。流れ落ちた涙は、雪に落ち、雪の結晶のように輝いた。温かい涙は、雪をみるみるうちに溶かす。
「坊主、顔をあげな」
老人はそういったが、竹之助は頑として顔を上げない。まるで、顔から根が生え地面に根を張ったかのようだった。
「わしは助けないと、言ってねーだろ」
その言葉を聞き、竹之助は顔をあげた。涙と冷えで真っ赤になった顔は猿のようだった。
「ほんまけ……? ほんまに、おっかあを助けてくれるんけ……?」
老人は大きくうなずいた。
「ありがとうだ! ほんまに、ありがとうだ!」
竹之助は、今まで以上に泣いた。泣いてばかりでまったく動かない竹之助にしびれを切らし、老人はいった。
「なに、グズグズしてるんだ。おっかあの元まで案内してもらわな、分からんだろが」
そこで、竹之助は言い渋った。そのことを、言ってしまえばせっかくその気になっている、医者の気を削ぐことになってしまうかもしれない。
そう思うと、竹之助は言えなかった。
一向に道を教えない竹之助を不審に思い、老人は聞いた。
「どうしたんだ? はよいかな手遅れるなっど」
しかし、竹之助は一向に言わない。早くいかなければ、手遅れになることは竹之助も分かっている。しかし、言ってしまったら、医者の気が変わるかもしれない。
いつまで経っても、もじもじしている竹之助を老人は一喝した。
「なんや! 男ならはっきり言わんかい!」
竹之助は、驚いた猫のように肩を弾ませた。小さな声で、竹之助は何かをつぶやいている。それに、また老人は怒る。
「男なら、もっと腹から声出さんかい!」
竹之助は心を決める。老人の顔を真正面から見据え、竹之助はいった。




