前編
囲炉裏の中で炎が踊り狂っていた。心を浄化する、すべてを無にきす真っ赤な炎が薪をパチパチと弾き、障子の裂け目から、すき間風が吹き込んだ。
囲炉裏の灯、以外に頼る明かりはなかった。おんぼろの家屋の中で、一人の男児が布団に覆いかぶさり泣き崩れていた。
「おっかあ! おっかあ! 死なねーでくんろぉ!」
男児は布団に横たわる、母親に必死に語りかけていた。男児の母は、家屋と同じほど粗末な、つぎはぎだらけの布団を首もとまで被さり、眠っている。
母の顔は熱で真っ赤に染まり、額に脂汗を浮かべ荒い呼吸は、規則性なく苦し気で、痛々しい。時々、思い出したかのように、咳をした。
まるで、血を吐くような苦し気な咳だ。
母の顔はやつれ、生気がなく、死人の相。屍よに動かない。
「おっかあ……!」
男児は布団に涙で汚れた顔を押し当て、母にすがりつき叫んだ。もともと真っ白な母の顔は熱で高揚し、牡丹の花のように、色づいていた。
にも、かかわらず、母の体に体温が宿っておらず、冷たい。
「竹助や、心配しなくても、おっかあは、大丈夫だよ。泣き止んでおくれえな……」
男児は竹之助、という。歳は十になる。母は竹之助を短縮して、竹助や竹坊とよく呼んだ。
その声には母の愛情が溢れていた。
「ほんまけ? ほんまなんけ……?」
竹之助は布団にこすりつけていた顔をあげ、鼻水と涙で汚れた顔を母に向けた。
母は風邪をひいたのだ。体力があり、旨い栄養のある飯を食べられていれば、ここまで風邪が悪化することはなかった。
しかし、竹之助の家は貧乏だった。
明日食う物にも困り果てていた。父は病弱で、竹之助が幼いときに死んだ。この父も食う物と温かい住家さえ、ちゃんとしていれば死ぬことはなかった。
この時代は竹之助たち家族だけではなく、どこの家も同じようなものだった。天保の大飢饉の影響で、誰もかれも飢えていた。
それはまるで、人道に現れた、餓鬼道のようであった。
飢饉は天保四年(1833年)に始まり、天保十年(1839年)まで続いた。後の世に江戸三大飢饉に数えられる、大規模な飢饉だ。
どこの家庭も飢えに苦しみ、我が子まで食べた、という話が伝わる。天保の大飢饉は終わったものの、庶民たちは飢饉と変わらない生活を余儀なくされている。
飢饉が終わったのは大名貴族だけであった。そして、今も雪で閉ざされた、家屋の中で一つの命が消えようとしていたのだ。
「ほんまけ? おっかあ……」
竹之助は何度も、布団をゆすり、問いかけた。虚ろな目で、竹之助を見つめ母はいう。
「ああ、ほんまよ……」
しかし、母の言葉には覇気がなかった。竹之助が心配すると、決まって母は大丈夫、というのである。そんな、大丈夫、大丈夫という日が、もう数日も続いていた。
「おっかあ、すまね。ほんまに、すまね……」
そういい、とめどない涙が竹之助の目から溢れでる。
「おらがもっと、しっかりしていれば、こんなことにはならなかったろーに……。おら馬鹿だから、いっつも、おっかあを心配させて……ほんまにすまねぇ……」
竹之助はつぎはぎだらけの、前身頃を握りしめた。すると、母は布団から、白い。雪のように白い細腕をスーッと、出して竹之助の頬に触れた。
雪や氷が頬をなでたような、感覚のあとに冷たいが母の手の温かさを感じた。竹之助はそんな母の華奢な手の上から自分の手を重ねる。
母の手を竹之助の涙が伝い、その涙が竹之助の手を伝う。
「何言ってんだい……? 竹助は立派に働いてくれているじゃないか。食べ物をとって来てくれているじゃないか……。竹助が馬鹿なら、あたしなんてもっと馬鹿だよ……。それとも、竹助はあたしのことを馬鹿だというのかい……?」
竹之助は母の手に手をそえたまま、首を大きく振った。
「おっかあは馬鹿じゃねぇ、おっかあは馬鹿じゃねえよ……」
それを聞いて、母は微笑んだ。
「ああ、そうさ、馬鹿は風邪ひかねって、いうだろ。だからあたしは馬鹿じゃねぇんだよ。心配しなくても、もう数日横になっていれば、治るから。心配するこたぁーないんだよ」
竹之助は心配せずにはいられなかった。
(おっかあがいなくなれば、おら一人になっちまうよ)
数日横になっていれば、治るといって、すでに三日三晩寝たきりだった。しかし、一向に治る気配を見せない。それどころか、日にひに悪くなっていた。
頬がこけ、眼は落ちくぼみ、それでいて顔は赤かった。
「心配に決まってるじゃねぇーか……もし、おっかあが死んじまったら、おら一人になるんだぞ……」
「あたしがお前を置いて、死んだりする訳ないじゃないか。縁起でもないこと言わないでおくれ」
雪が吹き乱れ、粗末な引き戸をたたいた。吹き飛ばされそうなぐらい、吹雪く。寒い、頼れる暖は囲炉裏の炎だけだ。竹之助は悟った。
(このまま、何もしなかったら、おっかあは死んじまう)
しかし、不甲斐ないかな、竹之助にできることは、ぬるくなった布を冷たい布に取り換えることと、母が寒くならないように、囲炉裏に薪をくべることくらいだった。
何もしてやれない、自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
もし、自分が医者だったら、母の病気を治してやれるのに、そう思えば思うほど、竹之助の心を締め付けた。
(おらが医者だったら、おっとうも死ななくて済んだのに……)
竹之助は母の冷え切った手を、布団の中に入れてやる。
(おらが医者だったら、おっかあのように苦しむ人を救えるのに……)
薪のはぜる音を聞きながら、竹之助は思った。しばらくすると、苦し気な母の息は規則正しいものに変わった。
眠りに入っているときは、苦しまなくて済む。
竹之助は母の顔を観察した。長いまつ毛に雫を浮かべ、熱のせいで頬は化粧をほどこしたように、桜色に色づいた。
長い髪は汗で額に貼り付き、唇の横まで流れている。
紅を差したように、唇は赤かった。母は村でも評判の美人だった。
母親の看病に疲れ、いつの間にか母のとなりで、竹之助は眠りに落ちていた。しばらく、うつらうつらしていると、音が聞こえだした。
次第に、その音は意味を成してゆく。
(竹之助)
声が聞こえた。自分を呼ぶ声だ。懐かしいような気持になった。
(竹之助や――起きねーか)
首をぽくり、ぽくり、落としながら、それでも竹之助は眠った。
仕方のないことだった。母の看病で竹之助はろくな睡眠を取っていないのだから。もう、かれこれ三日三晩ろくに眠っていない。
(おら、眠いんだ眠らせてくれろ)
竹之助は、その声に反論する。
(眠っちゃいけね。おっかあを助けられるのは、お前だけだぞ)
薪がはぜる音と共に、その声は語り続ける。
(お前がお医者を連れてくんだ。となりの村に腕の利く、お医者がいっだろ?)
(お医者が来てくれるんだったら、おらとっくに呼びに行ってる。だけど、駄目なんだ。となりの村にいるお医者は、高額な金を請求するってー噂だ。そんな金、払えね)
母の咳が聞こえた。苦しそうだ。だんだん、苦しそうになってゆく。
(このままじゃおっかあは、明日まで持たね。死んじまうぞ)
(分かってらぁ、だけど、どうすればいいってんだ)
(だから、行くんだ。お医者を呼びに。お前が行くんだ。おっかあを救えんのはお前だけだ)
こく、っと竹之助の首が落ちた。そして目覚めた。聞こえるのは、吹雪が引き戸を叩く音と、薪のはぜる音。そして、母の苦し気な寝息だけだった。
いままで聞こえていた、声は聞こえなくなっていた。今の声はいったい何だったのか。夢か幻か、魑魅魍魎の囁きか。
なんど首を振ろうと、あの声が何度も脳内を反芻した。
(おっかあが明日まで持たね……)
竹之助は母の苦しそうな寝顔を見た。
(呼びに行ったって、来てくれっこねぇー……)
そう思うたびに、あの声が耳の奥から聞こえてくるようだった。
(おっかあを救えるのはお前だけだ)
(おっかあを救えるのは、おらだけ……)
そのとき、また声が聞こえた気がした。
(そうだ! おっかあを救えるのは竹之助。お前だけだ!)
その声を聞いて、竹之助はハッとした。
(どっておらは……どって、迷っていたんだ――)
竹之助は母の寝息を聞きながら、決意した。
(おっかあ、待ってろよ。おらが何があろうと、お医者を連れてくっから)
呼びに行く前から、駄目だと決めつけるのは間違っていた。お医者に聞いてみるまで、分からないではないか。竹之助は、そう思った。
もし、このまま、何もせず母が死んだら、竹之助は一生後悔する。
もし母が死んだら、行動しなかった自分を絶対に許せないだろう。そうなったら、竹之助も後を追うかもしれない。
(金なら、おらが働いて返せばええ)
竹之助は母が寝ている間も寒くならないように、薪をくべ、静かに蓑を着た。立ち去り際、竹之助は振り返り、母に心で誓った。
(おっかあ、待ってろよ。おらが医者を連れてくるから。それまで、待ってろよ。必ずお医者を連れてくっから)
竹之助は、吹雪き吹き荒れる、夜の道を歩みだす。
空は竹之助に試練を与えるように、荒れ狂っていた。