凶星
「お母さん、お母さん!」
管に繋がれ、頭を包帯で撒かれてベッドに横たわった母に貴子が泣き縋っている。
それを、現実味のないもののように貴一は眺めていた。
未成年の無免許運転。その被害者が母だったという。
母は息子を心配して家族会議に向けて仕事を早く切り上げた。
それが裏目に出た。
貴一の心が沈むのはやむないことだ。
貴一は、貴子の隣に並んだ。
「お母さんは大丈夫だ。今日は、帰ろう。貴子」
「嫌だ、嫌だ。お父さんみたいにお母さんもお兄ちゃんもいなくなっちゃうんだ」
そう言って、貴子は頭を振る。
「馬鹿言え」
そう言って、貴一は貴子の肩を抱いた。
「母さんがこの程度で死ぬタマかよ。馬鹿にすんなって怒られるぜ。帰って、寝よう」
貴子はしばらく、母の顔を真剣に眺めていたが、そのうち涙を拭って部屋を出ていった。
医師の言葉を思い出す。
「状態はあまり良いとは言えません。我々も最善を尽くしましたが……」
貴一は、立ち止まり、壁を殴る。
自分の無力さが身に沁みた。
だから、せめて痛みを感じていたかった。
病院の夜間入り口の待合席で叔父が待っていてくれていた。貴子はその傍で鼻をすすりながら席に座っている。
貴一はその傍に行こうとして、入ってきた女性に目を丸くした。
クリスだ。
相変わらずの制服姿だ。
「貴一!」
「クリス。どうしたんだ」
対応する貴一に、貴子が目を丸くする。長い耳に青い髪。クリスの外見は人目を引くには十分なものだ。
「小母さんが大変だって聞いて」
「わざわざ来てくれたのか……」
「私の土の魔術ならある程度回復できる」
クリスが耳打ちした言葉で、貴一は目を丸くした。
そういえば、彼女は以前失神していた男性を治療していた。
「完全治癒までしちゃったら奇跡だなんだと騒がれるだろうから、命に別状がないレベルまで持ってくのがベターだろうけれど」
「頼む」
クリスの両腕を掴んで、貴一は頭を下げた。
そして、その手を掴んだまま母の病室へと急いだ。
「お兄ちゃん、どうしたの? その人、誰?」
貴子が背後からついてくる。
「お前は叔父さんといろ。この人は母さんの知り合いだ」
「目立つ外見の人だけど、見たことないよ」
貴一は立ち止まり、貴子の肩に手を置く。
「いいから、戻るんだ。兄ちゃんを信用しろ」
真っ直ぐに目を見られて訴えかけられると、弱かったようで、貴子はしばし思案していたが戻って行った。
「行くぞ、クリス」
「あいよ、貴一」
二人は再び歩き始めた。
母の病室に入る。
心電図の音が一定の音を刻んでいた。
クリスが母に近寄って、その頭に手を置く。
「酷い怪我。今、治療してあげますからね」
そう呟くと、その手から淡い光が放たれ始めた。
母の顔に、みるみるうちに生気が戻ってくる。
貴一はそれを見て、涙をこぼした。
その時のことだった。
母に、別の誰かの姿が被さって見える。
その別の誰かは、そのうち母と完全に同化した。
クリスも、目を丸くしている。
さっきまで母がいた場所に、妙齢の長い黒髪をした女性が臥せっていた。
「師匠……貴一君の母に憑依していたのですか」
クリスが、戸惑いながらも言葉を紡ぐ。
「師匠?」
「私やピピンの魔術の師だよ。ヴィニーにとっても恩のある人だ」
女性は、恐る恐る腕を上げた。痛みを堪えるように、その表情が何度も歪む。
その指先から、光がほとばしった。
光は文字となり、空中に浮かび上がった。
貴一の世界の文字ではない。
「この本体の意志が強くて中々表に出れなかった……と書いてある」
クリスが解説してくれる。
光が消え、新たな文字として再び浮かび上がる。
「五聖の中に、凶星がいる……本当ですか? 師匠」
新たな文字が浮かび上がる。
クリスは熱心に頷く。
そのうち、外で足音がして、師匠と呼ばれていた女性は逃げるように母の姿に戻った。
母は、穏やかな寝息を立てていた。それが、貴一を安堵させる。
クリスは思案するように、顎に手を当てる。
「ふむ……」
呟いて、黙り込む。
「どうしたんだ、クリス?」
「五聖。つまり五人の選ばれた戦士だ。私達のことだね。その中に、悪に染まりやすい宿星を持った人間がいるらしい」
「悪に……」
「裏切り者が出るかもしれないって話さ」
そう言って、クリスは肩を竦めると、部屋を出ていった。
貴一も、その後に続く。
「今日のところは帰るよ。本体の親御さんも心配してるだろうし」
「ああ、もうこんな時間か……」
時計を見ると、十二時に時計の短針と長針が重なっていた。
「今日は一日を長く感じたなあ……」
「これから何度もそんな経験をすることになる」
クリスは、呟くように言う。
「特に激戦を経験するとそうなる」
「そうありたくないものだな」
「まったくだ。けど、そう平坦にはいかないらしい」
クリスは苦笑する。
待合席では、叔父と貴子が待っていた。
「ありがとう、クリス」
「いいのさ。私にできることをしただけ」
そう言うと、クリスは去っていった。
貴一は叔父に送られて、家へと戻った。
+++
「双破斬!」
ヴィーニアスがそう唱えて剣を振るうと、双剣の先から光刃が発生して木々を打ち倒した。
「天牙斬!」
続いてヴィーニアスは双剣を重ねて地面に振り下ろす。
巨大な刃が天から振ってきて地面を蹂躙した。
「仕上がりは上々ってとこかな」
見物していたクリスが感心したように言う。
「いや……まだヴァイスさんの域には程遠いよ」
そう言って、ヴィーニアスは双剣を腰の鞘に納めた。
「あれは流派の確立者だからねえ。ヴィニーは弟子だ」
「そうなんだけどな」
「ヴァイスは国に何百人もの弟子がいた。けど、そのうち一人もヴァイスの域に達した者はいない」
「……俺がそうあれたらと思っている」
ヴィーニアスは呟くように言う。
「期待してるよ、ヴィニー」
クリスは微笑むと、ヴィーニアスの傍に立ち、その頬にキスをした。柔らかい感触が頬をくすぐる。
そして、二人の視線が重なり、その唇と唇が近づいていった。
けたたましい鉄のぶつかりあう音で、その夢は終わった。
「お兄ちゃん、朝食! お兄ちゃん、朝食! お兄ちゃん、朝食!」
貴子がフライパンとお玉を楽器のように操っている。その騒音で部屋は包まれていた。
「わかった。わかったからその五月蝿いのやめてくれ」
騒音が止まる。
「じゃ、下、降りてきてね」
「うい……お前、朝食作ったのか?」
「うん、そうだけど?」
「なんか怖いな……」
貴子の目が不服げに細められる。
「それはどっちの意味で?」
「なんでもない」
貴子はしばらく不平の視線を向けていたが、そのうち飽きたように去っていってしまった。
(なんだ、今の夢……)
貴一は、自分の唇に触れる。
まだキスすらしたことがない貴一。
しかし、今のは確かな、キスの記憶。
(なんだよ、お前らそういう関係だったのかよ?)
ヴィーニアスに戸惑いながら心の中で問いかける。
なにも、返事はなかった。
貴子の作った朝食は、可もなく不可もなしといった感じで、そう悪くはなかった。
家を出る。
いつもより早く出たせいだろう。前を歩いている静に気がついた。
手を上げて声をかけようとする。
しかし、今の自分達は気まずい間柄なのだと思い返して、手を下ろした。
自身の唇に触れる。
(ヴィーニアスが妬ましいな……)
思わず、そんなことを思った。
+++
放課後、やってみたいことがあった。
自分の今の実力。それを知りたかった。
剣道部には全国大会ベストエイトのエースがいる。
彼を相手にどこまでやれるか。それを知りたかった。
剣道部を訊ねたが、ランニングをしているらしく誰もいなかった。
授業で使っている竹刀を肩にかけ、しばし待つ。
呼吸も乱さずに、剣道部員達が戻ってきた。
「おう、どうした、貴一。野球部辞めて剣道部に入るのか?」
そう言って声をかけてきたのは、剣道部のエースであり、貴一の同級生、中川秀太だ。
「いや。なんつーかな。有り体に言えば、道場破りだ」
周囲がざわついた。
「ほう……」
秀太が興味深そうに顎を擦る。
「それは全国大会ベストエイトの俺に勝とうってことか? 授業で少し剣道を齧っただけの素人が?」
「そうなる」
「野球部辞めたあたりからおかしくなったと思っていたが、マジで?」
「たまにはやんちゃもしたくなるお年頃なんだ」
「ほー」
秀太が背後を振り向いた。
「余興にどうですかね、先輩」
「いいぞ。メタメタに叩きのめしてやれ。野球部より剣道部がぬるいと思われたら困る」
「だそうだ。処刑許可は出た。悪いけど一本も取れないぜ、貴一。何試合やればお前は諦めるだろうな?」
「一試合で十分だ。あんまり邪魔をする気もない」
秀太は、笑った。滑稽そうに、笑った。
「潔いな。おい、一年。誰か防具を貸してやれ」
一年生が顔を見合わせて相談していたが、そのうち一人が更衣室に移動して防具を取ってきた。
それを、貴一は固辞した。
「いや、防具はいい。竹刀だけで十分だ」
「痛い目見るぜ、貴一」
秀太が眉をひそめる。
「大丈夫だ。俺は、自分の実力が知りたいんだ」
「……」
秀太は不可解そうに貴一を眺める。
「なら、俺も防具無しでいいや。一本勝負だ。悪く思うなよ、貴一」
「わかった」
「何秒もつかな」
秀太の先輩が、意地悪い笑みを浮かべて言う。
「すいません」
貴一は、呟くように言う。
「今日の練習時間全部もらってしまうかもしれません」
周囲が呆気にとられたような表情になる。
その後にやってきたのは、怒りのようだった。
「全力で潰せ、秀太!」
「はい!」
貴一は無言で袋から竹刀を取り出す。
二人は竹刀を構え、向かい合った。
「ダウンロード」
貴一は呟く。
流れ込んでくる。
ヴィーニアスの身体能力、戦闘経験、感覚が。
慣れない感触と間合いの武器。
しかし、それに対応できないヴィーニアスではない。
決戦が始まった。
それから二時間近くが経ち、貴一は夕暮れ空の下を歩いて校舎を出た。
「遅いよー、なにやってんのー」
クリスが片手を上げて近づいてくる。
「ああ、悪い。少し試してたんだ。自分の実力を」
「ふーん? 結果は、どう?」
「そう、悪くはなさそうだ。どうやら俺は強いらしい」
「ふむ?」
クリスは不思議そうな表情になる。
その背後から、沙帆里が近づいてきているのが見えた。
貴一は、思わず逃げそうになる。野球部を辞めたことで五月蝿く言われるのは目に見えている。
その時のことだった。
背後に、哲也がやって来ていた。どういうわけか、鞄を担いでいない。
「よう、貴一」
母の身に起こった不幸を知っているのだろうか。哲也は今日、部活のことについても聞いてこなければ、嫌な顔もしていなかった。
その時、クリスが、貴一を抱きすくめて押し倒した。
「ちょ、なにを……」
貴一は叫びかけて、黙り込んだ。
クリスの肩には、短剣が深々と突き刺さっていた。
短剣。ピピンの武器だ。
「さて、舞台はこの校舎だ。お前は俺を見つけられるかな? 時間制限はありだ。勝負だぜ、ヴィーニアス!」
そう嘲笑うように言って、哲也は去って行った。
「凶星……」
クリスが、呟くように言う。
貴一は、息を呑んだ。
沙帆里が、肩に短剣を受けて倒れていた。
+++
秀太は茫然としていた。
周囲の人々も、唖然としている。
貴一は、二時間を凌ぎきった。全国大会ベストエイトの猛攻を凌ぎきったのだ。
秀太は、一本も取れなかった。
それどころか、相手に反撃の隙を幾度となく見せてしまった。
秀太は、竹刀を地面に叩きつける。
「何者だ、あいつ……」
「素人じゃないぞ……」
ざわめきが、秀太の心をなお惨めにさせる。
「どうにかあいつを剣道部に入れれんものかな」
先輩の一人が、呟くように言う。
「馬鹿言わないでください、先輩。あいつは足さばきもおぼつかないような素人だ!」
「しかし、お前の猛攻を尽く退けてみせた。それは事実だ」
秀太は目尻に涙を浮かべる。惨めで泣きそうだ。
その時、秀太は眠気を覚えて、しゃがみこんだ。
尋常な眠気ではない。このまま、床に倒れてしまいそうな。
見ると、周囲の面々も地面に倒れ伏している。
(異変……? こんな平凡な学校で、なにか起きるっていうのか……?)
戸惑いながらも、秀太の意識は闇の中へと落ちていった。
次回『ピピンの弓』