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Boy runs for the doll.

 この話に登場する怪人:泉喪(いずも)

 悪の組織、『村』の怪人。浄連の滝の女郎蜘蛛の子孫。

 ナノワイヤーを操る青年。肉弾戦が得意。

 温厚な性格。テンションは常に低い。万年花粉症。



※※※※※※


 泉喪(いずも)は春が嫌いだ。理由はただ1つ。

 どうしても、弱気になってしまうのだ。


 彼が生まれ育った村はひなびているし、怪人養成所である保育所以外は、何もない。

 もちろん床屋すらなく、髪を切ってくれるのは育ての親である『先生』か、一緒に育った子供たちだけだった。


 休暇のために東京に出てきた彼の最大の感動は、男でも美容室に入れるという事実。

 感動ついでに勇気を出して足を踏み入れてみた。


 整髪料や香料はきついが我慢できた。

 女の汗よりもましだ。

 何より、ほっとくと湿気にくねる黒髪が、さっぱりふわふわになるのは奇跡を感じたし、美容師のシャンプーとブローには慈愛すら感じた。


 ……東京に来て感じた愛情はそれくらいである。

 そして、それくらいである事を、春にはなぜか痛感してしまうのだ。

 それから自然と、


 ― 先生のまずい飯が食いたい。 ―


 と思う自分自身に、泉喪は酷い幼さを感じるのである。

 幼さを言い換えると、さみしがりとなる。


 人間関係が億劫なくせに、泉喪がその巨体をのそのそと動かして、一篠の誘いほいほいと応じるのは、結局のところ、彼が極端な寂しがりやだからだろう。

 

 ヤクザの親分である一篠は優しい。媚びないし、泰然としている。

 が、とにかく泉喪に良くしてくれる。


 例えば(めし)

 一條は、よく、青年が聴いたこともないような外国の飯をおごってくれる。

 のるうえーだったり、すかんじなびあだったり、物凄い遠い国のよくわからない料理が、常に満漢全席。


「若いんだから食えるだろう」


 と年齢のいった老人みたいに言う一條だが、彼の年齢は30の半ばくらいであるはずだ。

 だが一篠はあまり食べない。しかしそこの飯がまずいわけではない。


 なんせ、例えばフランス料理なら、メーテルだかメートルだかいう皿だか食器だかを出したり引っ込めたりするただそれだけのための係がいたりする店に連れていってくれる。

 もちろん料理の盛り付けも美しく、舌も驚くし後味がとにかく素晴らしい。


 口にする泉喪の切れ長の二重の瞳は、自然ととても大きくなる。

 いわゆる目を見張るという感じだ。


 戦闘(やりあい)でもこんなにビックリした顔を、この青年はしたことがない。


 そんな泉喪に、一條は得意げに笑う。


「分かるか? 俺は偉いし優しいんだぜ」


 ……一條と初めて顔を合わせた晩の彼は、偉そうだが優しくはなかった。

 そもそも泉喪など、彼の眼中にはなかった。


 事務所の奥の豪華な社長椅子にふんぞり返る一篠。

 広大かつ重厚かつ高級感がばっちりの社長机に、その二の足を投げだしている。

 虚ろな瞳は視点が定まらない。その口にくわえるのは細長い葉巻だった。


 距離が空いているにも拘わらず、一篠が吐き出す紫煙に、泉喪はかすかな酩酊を覚える。


 ― 危ない葉っぱかあ。さすがは東京のヤクザさんだなあ。 ―


 泉喪は正座を続けつつ、納得する。


 その時の彼は正座、もとい、ピザの宅配のアルバイトをしていた。

 そもそも何故彼は休暇中なのにアルバイトなんぞをしていたのか。

 理由は単純である。


 きっかけは彼の所属する悪の組織『村』の組織長である境間(さかいま)に勧められたからだ。


 当時、青年は非常にへこんでいた。

 任務の遂行に伴い、非常に悲惨なものを見てしまったからだ。


 そんな泉喪に境間は


「しばらく、村の案件もひと段落ですし。どうですか、東京とかで羽根でも伸ばしてみたら」


 と声をかけてくれたのだ。


「アルバイトでもしながら、普通の人の生活(いとなみ)でも眺めてみると良いでしょう」


 こういう経緯を経て、要は休暇の暇つぶしとして始めたこのアルバイトだが、青年は彼なりに真面目に業務に勤しんでいた。

 これは真面目というより、どこか不真面目になりきれない泉喪の性格が原因である。

 その性格を反映して、その日もグレーとピンクの制服はきちんとボタンを襟元まではめていたし、くせっけがちな長めの髪は、しっかりなでつけてキャップの中に納めていた。


 宅配したピザだってきっちり10分で届けたし、10分というのがお電話でお伝えした15分よりも5分間分だけ早いということでお得感満載だし、お褒めの言葉をいただいても不思議ではなかったのに、その晩の彼は何故か事務所に入って5mの床に、正座を()いられていた。


 ごつごつした体格で、彼を囲む組員。

 彼らは分厚い拳の先で、泉喪の頭やら肩やらを容赦なく小突(こづ)いてくる。

 怒鳴り方は変幻自在、たまになだめたりすかしたりするけれど、一貫している主張は……。


 「ポルチーニ茸が薄い。写真(ちらし)と違う。」


 ということだった。これは泉喪にはどうしようもなかった。

 彼は工場で正確にスライスされた茸をマニュアル通りの分量で散らしているだけなのである。

 せめて電話の注文時に、要望を伝えてくれれば、ちょっとくらいのサービスはしたのに。


 まあ、サービスはしても分厚いポルチーニ茸にはならない。

 チラシを見て期待をしたら、絶対に裏切られる。


 ― 気持ちは分からなくもないけど、チラシってのはイメージだからなあ。―


 泉喪はどうすれば分からない。

 そもそもヤクザと話したことがないのだ。


 それ以前に仕事でかかわったのは米軍で、派手な仕事をしてしまった。


 とりあえず視線すらどこに向ければよいのか分からずに、彼は膝の前に置かれたピッツァのホワイトソースの熱量の消失を、ひたすら見守る。


 ポルチーニはやっぱり薄い。というより貧相だ。

 

 組員たちは怒鳴り続ける。

 しまいには肩やら脇やらを革靴の先で蹴ってきた。

 そして眉を寄せて(にら)む。


 「兄ちゃんじゃ話にならん。兄ちゃんも迷惑だろう? 店長さん呼べよ」


 「はあ」

 泉喪の返事は気が抜けている。

 組員たちは鼻白んだ。

 「はあ、じゃねえだろお!! さっさと呼べよおら!!」

 本気の蹴りが青年の脇に刺さる。が、それよりも鼓膜が痛い。


 「はあ」


 ……


 『クレームを頂いたら真摯(しんし)に対応すること。誠意をもって対応すれば、どんなお客様も納得されるよ!!』


 店長の素敵な笑顔を、泉喪はうつむきながら思い出す。

 彼女の歯からはリステリンの香りがしてとても白い。ざ・清潔感という印象。


 ― そりゃ、店長なら大丈夫だろうけど、けどさあ。―


 「一篠いちじょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!」


 後ろで音がした。

 何かが勢いよく倒れる音。怒号。


 泉喪を囲む組員達は、はっ、と固くなった。


 一瞬の静寂に、泉喪はポルチーニ茸から視線を上げる。

 それから斜め向かいの組員のサングラスの照り映りから、後方を確認。

 

 男。40代。銃身の長い散弾銃。

 口元は笑いをこらえるように引きつっている。

 何かを服薬しているのだろう。

 瞳孔が開いている。

 引き金にかけた指は震え、そもそも構えに練りが感じられない。


 ― 面倒な時に面倒な ―


 泉喪は疲労を感じた。

 それでも、正座の姿勢から後方にでんぐりと返る。

 組員たちの体、脚の隙間を転がりつつ、視界が逆回転。


 鼓膜の内側から広がる浮遊感が心地よいままに一回転を終えたところで、そのまま後方に海老のように飛ぶ。

 暴漢の右わきに並んだ。

 左腕を彼の肩に回す。

 目標は銃にかけた人差し指の付け根。

 滑らかに到達。

 右手は男が構える右手を下から支えるように添える。

 一連の動作を流れるように行った結果、泉喪はちょうど、怒鳴りこんできた男に手取り足取り散弾銃の構え方を教えているような形になった。

 でんぐり返しから男と目が合うまでの時間は、3秒に満たない。



「ごめんよ」


 

 と苦笑してから、人差し指の付け根を押して砕く。目的は腱の切断。

 (とどこおり)りなく行う。

 刹那一つの間の後に、声にならない悲鳴が響き、男の右手が銃身から離れた。


 これを泉喪は見逃さない。

 間を置かず、銃身ごと絶叫の主の右腕を逆手にひねりあげ、足を前に払う。

 事務所の硬い床に前のめりに倒れる彼の肩を、肩甲骨を支点に極めながら、銃身をてこにして、身長180㎝越えの体重を全てかける。


 ごき。


 という太い感触の後で、複数の何かが折れる音がした。


 床に這う男の雄たけび。苦渋を越えた苦悶。

 激痛にくねる男の姿は、新宿駅の朝方に自販機のたもとでもぞもぞと動く蛾の幼虫を彷彿とさせた。

 

 そんな彼をしり目に、泉喪は淡々とライフル銃を男の背からほどいて、リボルバーを撫でる。

 薬きょうがばらばらと落ちるのを手のひらで受け止めて、銃身と共に、悶えくねりもんどりを打つ男のそばに、そっと置く。


 それから、呆然と口を半開きにする組員達の間をぬって、元の位置、つまりピッツァの前に戻って、制帽をかぶり直し、再び正座をした。


「何、やってんだ」

 太い声が奥からかかった。

 

 初めて聴く声だったので、泉喪は顔をあげた。

 社長机の組長が、青年の顔をまじまじと見ている。


「あ、はい。皆様のお言葉の続きを拝聴しようとですね」 

「いや、いい」

「はい?」

「今日は、いい」


 首をかしげる泉喪に、組長はすごみを利かせるように歩いてきた。

 そのままピッツアの前、正面にしゃがむ。見事なヤンキー座り。


「兄ちゃん、名前は?」 

「あ、はい。泉谷重治(いずみやしげはる)と言います」


 組長は、にっと笑う。 

 歯が黄ばんでいると青年が思ったら金歯だった。


「気に入った。これからもちょいちょい頼む。出前は兄ちゃんが届けてくれ。……俺の名前は一條だ」


 といって、組長はその懐から札で分厚く膨らんだワニ革財布を取り出し、諭吉さんを10枚つまみあげて、芝居の脚本を握るようにたてに丸めた。そのまま泉喪の手に握らせる。


「あ、お釣りを」

「チップだよ。鉄砲玉を壊してくれた、礼だ」

「はあ」 

「取っといてくれ」

「頂けません。禁止されています」


 泉喪の言葉に、一條はわずかに片眉を上げた。


「ふん。じゃあ、今度俺と飯を食おう。付き合うのはいいだろう?」

「あ、はい。」

 

 ……こうして、村人である泉喪と一條の付き合いは始まった。


 まあ、この飯が、いわゆる餌付けであることは、泉喪自身も薄々感じていた。

 が、飯の内容よりも、優しい一篠との自然な時間、何より多忙を極める彼が自身との時間を積極的に取ってくれること、これが青年には嬉しいのである。


 そういう訳で、泉喪は一篠との時間を楽しみにしている。

 一篠はこの東京で唯一、青年が心を許せる人間だからだ。


 実は、泉喪が心を許せる存在は他にもいる。

 その名前はサプリちゃん。一篠の所有する肉人形だ。


 泉喪がサプリちゃんを初めてみたのは、ちょうど彼がはじめて一條の乱痴気騒ぎの招聘に応じた日でもあった。

 

 この以前にも複数回、一篠は青年を乱痴気パーティに誘っていたのだが、泉喪は固辞を続けていた。

 理由は単純に、一篠の声色にアンダーグラウンドな物を感じたからである。

 別の言い方をすれば、闇社会の芳香。


 おそらく上質な時間が用意されている。一般人が体験しえない背徳と甘美。

 

 が、泉喪にとっては、そういう快楽に興味は無かった。 

 一篠が一緒に飯を食ってくれる。

 屈託なく笑ってくれる。それだけで、青年は満たされていたのだ。


 が、断ること3回目にして、一篠の目に寂しげな光が宿ったのを認めた時、青年は頭を掻きながら、

「じゃあ、次は行かせていただきます」

 と言った。

 そんな彼をまじまじと見て、ヤクザの親分は破顔。

「次、じゃないだろ。今回来ればいいんだよ」

「あ、まあ。そうっすね」


 という訳で訪れた一篠の豪邸。

 幾重ものセキュリティを通過して、このパーティの会場に足を踏み入れた時、青年は、昔読んだ村上ドラゴンという作家の直木賞受賞作である『限りなく透明に近い青』という小説を思い出した。


- 一條さんも読んだことあるのかな? -


 会場にはチェリーパイがあったし度の強い酒があった。

 女たちはドレスに身を包んでいる。

 色は大体がピンク。白や黄色もあるが黒はいない。

 ふわっと妖精っぽい感じだ。

 化粧は厚い。

 白粉(おしろい)頬紅(ほおべに)。髪は黒や茶が基本。


 興味深いのは、どの女からも誘発物質が出ていないこと。


 彼女たちは微笑んでいるが全く興奮していない。

 そしてぼろぼろだ。


 顔立ちは整っている。

 読者モデル的ファッション雑誌を切り抜いて実写化したみたいだ。

 または風俗情報。


 男たちも興奮していない。

 ただ、蛇が獲物を選ぶように、グラスに注がれた酒を舌の先でなめながら、じっとりと女たちを観察している。ちょうど、食材に向かってクリスマスメニューを考えるフレンチシェフみたいだ。


 部屋の中央では香が焚かれている。

 鼻孔の奥、大脳がひりひりする感覚。軽い酩酊。

 ここにアフリカンにジャズを混ぜたようなフュージョン音楽が鼓膜に押し寄せて、視界の溶融を加速させる。


― 有害環境レベルA条件の案件遂行訓練にはなるよなあ。 ―


 泉喪はコニャックのショットを一杯あおってから、空いたグラスにスピリタスを手酌して、蒸散するアルコールを嗅ぐ。鼻の粘膜の表面の嗅覚細胞が焼かれるような刺激。


― くっそ。(いて)え。でも、気付けにはちょうどいいや。 -


 目を閉じて刺激に耐えている間に、乱痴気騒ぎが始まった。

 阿鼻叫喚。男優役の黒人たちの野牛のような唸り声。

 女たちの大げさな演技。


- 訓練されている、なあ。お仕事お疲れさまです。 ―


 泉喪は頭を下げたい。

 が、大麻の吸引を少しでも抑えるために、ソファに落ち着けた腰を前に出して体勢を低くしているため、会釈くらいしかできない。


「泉谷、混ざらないのか?」

 胸をはだけた一條が声をかけてきたので、泉喪は上目だけで見上げる。

 陰毛のように黒々と濃い胸毛が汗を帯びて、照明にてかっている。

 その下の腹回りは贅肉でふくらしたあとの餅みたいに緩みきっていた。


「酒が回ってそれどころじゃねっす。この酒強いっすね」


 苦笑。気を損ねるのは悪いので、細心の注意。


「馬鹿野郎、それスピリタスじゃねえか。ライムかじらねえと回るぜ。砂糖もなめないとな」


 一條は笑いをこらえている。

 青年は再び苦笑。


「でも、美味(うま)いっすね、この酒」

「おう、気に入ったか。いくらでも飲んでいいからな。死なない程度にだが」


 目じりをたらした笑顔の一篠。とても嬉しそうだ。

 泉喪も思わず和む。


「はい、ありがとうございます」

「おう、楽しんでくれ」


 一條は泉喪の肉で盛り上がった肩を、ぽん、とたたいて、別の招待客に向かった。


― 憎めない人だよなあ。 ―


と、思いつつ、グラスのスピリタスを一口飲むと、強い液体に味蕾と喉をやかれて、泉喪はびっくりした。ついでに気道にも侵入されて、盛大にむせる。


 その間にも、宴は進んでいく。

 女たちはただてさえぴちぴちギャルなのに、地引網で上がった魚たちみたいに漏れなくぴちぴちと痙攣している。

 招待された男たちは彼らの上になったり下になったりきつく抱きしめたりお馬さんごっこの姿勢をとったり全力で殴ったりしている。

 瞳孔は全員ほとんど全開。

 抑制が効かない一人がソファを抱え上げ、その角を女の上に落としたりする。

 悲鳴。

 会場を警護する黒服たちは誰も止めない。


― まあ、そういうのもこみ、のパーティなんだろうなあ。 ―


 泉喪はぼーっと眺め続ける。

 限界を超えつつある酩酊。


― そろそろ帰るかな。 ―


 腰を上げ、トイレに行くふりをして会場の出口に向かうと、青年の背後から強い悲鳴がした。


― あ、これ、あれだ。 ―



 振り返ると、白い肌の小さく脱力した背中が、両脇を黒服に担がれて非常口の覆い布の向こうに消えるのが見えた。


 泉喪は素早く目線を泳がせ、宴の主を探す。

 すぐに見つけた。3人の女と、夢中でもつれあっている。


- うん、問題ない……よな。 -


 泉喪は足早に覆い布の漆黒に向かう。

 人を踏まないように気を使って。


 まあ、この場合踏んでもそこまで問題ではない。

 みんな乱痴気騒ぎに夢中だからだ。


 黒服が一人、ちょうど非常口前に控えていた。


 会場の警護担当だろう。

 青年は声をかける。


「すいません」

「何でしょう」

「今運ばれてった子」

「……あれは、今、ちょっと」

「今ちょっとだから、遊びたいんです。俺はそういう趣味なんで」


……渋るようなら、制圧して先を急ぐという考えも頭をよぎったが、幸い承諾してくれたので、非常口横の絨毯に彼女を寝かせてもらう。


 脈拍、呼吸を確認。

 二つともない。

 顔面は蒼白というより紫がかっている。


― 心停止に呼吸停止にチアノーゼ、か。 ―


 泉喪は両手のひらを、彼女の一糸まとわぬみぞおちに当てて、二の腕をまっすぐにする。

 それから、体幹を使って圧をかけた。


― あざとか残したくないけど、さ。俺は先生じゃねえし。後で痛かったらごめん、よ。 ―


 心拍の回復。

 続いて、彼女の細い鼻梁(びりょ)の先をつまみ、小さく整ったあごのしたに指をさしこんで、ゆるく上を向かせる。

 雪にかじかむ手のひらを息で暖めるように、大きくその口元に息を吹き込む。


 吹き込み3回で、呼吸は回復。


 が、瞳は白目を大きく見開いたままだ。目尻とこめかみからいくつもの筋が走る。

 細い首の下の白い肢体が痙攣を始める。


- 自律呼吸は回復してる、けど。これは、ああ、あれか。-


 泉喪は非常口横から視線をさりげなく投げてくる黒服に、呼びかけた。


「さぷり、ください。マルチビタミン。酔い止めでも使われてるやつです。あるでしょう?」


 ……ビタミンの欠乏。どれだけほおっておくと、こうなるのか。


- 先生、都会の生活は、栄養が偏るみたいっす。 -


 泉喪は錠剤を受け取ってから口に含んで噛み砕きそばのテーブルからぽかりをとって含み、彼女に口付けする形で流し込む。


― 注射のが速いけど、薬がないから、なあ。……後は。―


 細かに痙攣を続ける肉体。

 肋骨の浮き出た白い肌に手のひらを這わせ、その感覚に集中。

 内出血。

 いくつかの血管が体内で破裂している。

 客による暴行の結果だろう。


― ……使う、かあ。 ―


 泉喪は黒服に視線を投げた。

「見ないでもらえますか」


 強く言う。

 ……拒絶されたら気絶させるつもりだった。

 が、幸い受け入れてもらえたので、監視カメラの死角に小さくやわらかい肉体を運び、横たえる。

 

 それから、青年は左耳のピアスをはずし、指先の感覚に集中した。




 ……と、まあこんなすったもんだを経て、泉喪は彼女の命を救った。


 後日、黒服に彼女の名前を聞いたら管理番号をつげられたので、青年はいささか眉をしかめてから。


「サプリちゃん」


と勝手に名前をつけて、呼ぶことにした。


 名前をつけると愛着が沸くのが人の常。

 悪の組織の怪人青年である泉喪も多分に漏れない。


 彼は一篠の経営するアンダーグラウンドバー、乱痴気騒ぎの会場を訪れる度に、サプリちゃんの姿を探すようになった。


 そんなこんなで迎えた花粉症の季節。春。

 泉喪は外に出るのが億劫になった。

 バイト以外では、本当に全く100%外に出たくない。


 けれど乱痴気騒ぎの誘いに応じたのは、サプリちゃんを見たかったからかもしれない。

 ここら辺の感覚は、青年は今一分からない。

 

 あまり深く考えずに頃合いを見て、青年がパーティの会場をお暇しようとした時の事だ。


 一條の部下が、泉喪の右手に地図を握らせた。

 

 常に黒服に身をつつむ、丈の低い小男である部下は、身長に見合った小顔。

 目は招き猫のように、いつも見開いている。

 口は常に、やはり猫のように、もにゅっと閉じている。


 泉喪はこの彼が人語をしゃべるのを、ほとんど目にしたことがない。


 だから、

「私どものカジノが渋谷に移転いたしました。組長が泉谷さまのご来店を希望しております。こちらに住所が書かれておりますので」

 と、流暢だが猫目に似合わない渋い声を聴いたとき、


― 猫みたいな高い声だと思ってた。 ―


 と、泉喪は意外な顔をした。


 一条の部下はそんな彼を怪訝に見上げてから、

「お待ちくださいませ」

 という言葉を残し、事務所の奥に消える。


 そうしてしばらくしてから戻ってきて、胸の前に携えた封筒を、彼の手のひらに握らせた。


 お礼を言って、事務所を出た路上で開くと、天下のグオグルマップさんが三つ折りされていた。

 ご丁寧に渋谷駅と目的地に朱の丸が二つという念の入りようである。

 とても頼もしく、そして迷いようがない。

 

 青年は無言の圧力を散らすように、後ろ髪をかいた。

 


 それから3日後。

 渋谷の駅をでた途端、泉喪は鼻の奥がむずむずした。

 くしゃみの衝動。

 悪戯な小人さんたちが楽しそうに、こちょこちょこちょこちょを続けるような感覚が続き、彼は悲哀を覚えた。


― 村人は強いっていうけどさ。こいつらの方がよほど最強じゃんか。何で耐えれるんだ? 

  いや本当にさ。―


 身長180㎝を越えるその青年は、平然と行きかう人ごみの勢いにその肩をすぼめつつ、途方に暮れる。




 ……泉喪は渋谷の街路の複雑さには何の不安も抱かない。


 問題は、人だ。

 多すぎる。


 特に女たちの香水、化粧粉、リップにマニキュア、何より出産適齢期の雌が彼女たちの汗と共に蒸散させる誘発物質が街の大気に満ちて、生ぬるい風となって泉喪の頬に吹き付けると、鼻の嗅覚細胞が破壊される錯覚を覚えてしまう。


 つまり、こちょこちょの小人さんたちは大活躍で、そのあまりのわっしょいわっしょいぶりに、青年は涙目にならざるを得なくなってしまうのだ。


 ということで、渋谷の駅を出て、じっとくしゃみを耐えていると、額の生え際から汗がうきでてきた。前髪全体が水気を帯びて、長い眉の上にはりつく。


 一條が新しく営みを始めた、偽装バー兼裏カジノに顔を出すという事で、心をこめて乱れのないようにしゃきっと羽織ってきた数少ない一張羅(いっちょうら)、黒ジャケットも脱いでしまう。


 ちょっと解放された気分になるが、すぐに生暖かい風が体感温度を上げてくる。

 春物の黒のロングTシャツの首元をつまんで仰いでも、汗は止まらない。

 汗は、そこまで高くはないが真っすぐな泉喪の鼻筋にたれる。


 改札付近の天井に備え付けの時計を見ると15時を過ぎていた。


 この時間の東京は暖気と湿気を増してくる。


 ― 先生。帰りたいっす。村に。 ―


 春は嫌いだった。

 どうしても、弱気になってしまうからだ。


※※※※※※


 そのビルは渋谷駅から300mも離れていない。

 細い路地を引き返して少し歩けば、109ついでに散策を楽しむ渋谷的におシャンティな若者たちが連れだって歩くのを眺めることができる。

 その多くは制服だ。少女たちは、春のそよ風にわが世の春を重ねるように、スカートの端を揺らしている。


 ― 怖いものなんかないんだろうな。 ―


 と思いつつ、歳もそこまで離れていないのに、泉喪は強い隔絶を感じる。

 何故かはわからない。

 けれど、隔絶とともに、彼はとても悲しくなってしまうのだ。

 連れだって笑い合う彼女たちを眺めると、結局自らの孤独を意識してしまうかもしれない。


 あるいは……。


 ― 普通の育ち方、してないことなんて、さ。別に、気にしねえし。うん、気にしねえし。 ―


 謎の何かに意地を張りつつ、ビルに到着。

 日光と喧騒、鼻の奥の小人さんを刺激する様々な匂い物質から解放されて、泉喪は


 ― 砂漠を歩いて日陰に入ったらこんな感じなのかなあ。 ―


 と、安堵の息をついた。


 エレベーターは好きではない、というより習慣的に逃げ場の無い場所を避けてしまう彼は、裏手に回った。そんな彼自身の用心深さというか臆病さに、自己嫌悪的なため息をついて、非常階段を上りはじめた。

 ほどなく当該フロアに至る。非常ドアを開き、そのまま暗い通路を奥に進む。


 入り口は目立たないくせに、中々奥まったビルだ。

 その最奥にそのカジノはあった。表向きは、クラブ兼バー。


 扉は大きい。黒光りする強化ガラスだ。

 扉を囲むようにピンクとブルーのネオンランプが点滅している。

 南米のナスカの地上絵みたいな流線型。


 109に群がる高校生たちとはまた違ったおシャンティ加減。ガラスの上部には

「HELL GATE TO THE DOOR OF HEAVEN」

 と殴り書きされていた。書体はゴシック。金箔混じりの白ペンキの薬品臭はまだ新しく、新築のビルの香りがする。


 - 天国の扉に続く地獄の門、か。 ー


 なかなか含蓄に富む言葉だ。しかし、実際は……。


 ー 天国の扉にみせかけた、地獄の門なんだろうなあ。 -


 泉喪は扉の前で考え込みたくなったが、そんな暇はなかった。まねき猫顔の黒服がこちらに視線をむけて、礼をしてきたからだ。


 その所作は(うやうや)しい。が、世間話などができそうなアットホームさとはもちろん無縁である。


 泉喪も礼を返す。

 と、涙が目元から頬の先にこぼれた。これは街の臭気の後遺症だ。手の甲でぬぐって、あらためてにひゃっと笑顔を作る。


「泉谷です」

「お待ちしておりました」

 黒服猫は直立不動でまなこを、くわっ! と見開いたまま、口の端を上げる。

「ご案内いたします」

 言葉と共に踵を返した彼を、青年は呼び止める。


「あの」

「はい?」

「ティッシュもらえませんか? 鼻、かみたくて」


 ……入り口の扉をくぐり、広いフロアを横切り上に続く螺旋階段を昇ると、泉喪は村の助役の境間が毎年魅せてくれる、新春かくし芸を思い出した。

 彼の芸は生態系を攪乱(かくらん)するので、乱用は厳禁だが、年始の村の定番的な見世物であり、楽しみにしている者も多い。


 先生も人格者だが、境間も負けず劣らない。前回の案件にんむで悲惨なものをみてしまい、へこんでいた泉喪に、

「しばらく、村の案件もひと段落ですし。どうですか、東京とかで羽根でも伸ばしてみたら」

 と声をかけてくれたのは彼だ。


「アルバイトでもしながら、普通の人の生活(いとなみ)でも眺めてみると良いでしょう」


 ― こういうとこも、普通の人の営みなのかなあ。 ―


 泉喪は螺旋階段を上りきってから、クラブのフロアを振り返る。

 黒を基調とした壁面と床が色とりどりの電飾の下に沈んでいる。

 立方体。先生が昔クリスマスに調達してきたウサギの人形の家を、もっと邪悪にした感じだ。

 夜はここでおしゃんてぃな男女が酒と音楽に陶酔しつつ揺らめいたり、踊り狂ったりするのだろう。


 螺旋階段の先には踊り場。

 ここを起点としてバケツのへりみたいに、観覧席が螺旋階段の下の空間と天井の間をぐるりと囲っている。踊り場と観覧席が形成する上部構造は、ぱっと見、『□』のように見えるが、実際は『凹』だ。


 左右のへこみの部分は右が入り口で左が出口。扉は二つとも、壁に同化した漆黒の布に覆われている。


 招き猫がこの覆い布の隙間に体を差し入れて向こうにまわり、紐を引っ張ると、布が左右にわかれて、牛の頭の巨大像が現れた。

 像からは、青銅(せいどう)の金属臭がただよう。大柄の泉喪を眠たげに見下ろしている。腕はとても長い。フライドチキンのカーネルさんみたいに、やわらかく胸の前で両手のひら開いている。

 赤児を抱くのに丁度いい感じだ。


 ここで、泉喪はふと気づく。

 これは古代の祭壇のレプリカだ。本物は大量の赤子を抱いてきたはずだ。


 胸に開いた七つの穴がその証拠。


 ― 祀っていた神様の名前は、たしか。えっと。あれ? なんだっけ? えっと。……モレク ―


 悪の組織『村』の怪人である村人は民話や神話の(もとい)となった(いにしえ)の奇人たちの末裔であり、泉喪も多分に漏れない。

 そういうご先祖柄、案件でも特に海外ではごくたまに、海外の神話の末裔と戦闘(やりあい)になることがある。そのため、世界の民話、神話、民俗学は村人の必須知識なのだ。


― ……ヨルダンに豊穣をもたらす古代神。

 血と涙の魔王。これは生贄の祭壇。溶鉱炉(おーぶん)つき。めちゃくちゃ熱くできて、七つの穴に

 小麦粉、キジバト、牝羊、牝山羊、子羊、牡牛、王様の赤ちゃんを入れて焼くんだよな。シンバルと、ラッパと、太鼓と赤ちゃんの泣き声が儀式の肝で。ソロモンさんが信じてた。もとは天使で強くて荒っぽい。カルタゴでもバアル・ハモンって名前で信じられてた。祭壇から、子供の骨がめっちゃ出てきたりしてる。グロいけど商売繁盛の神様なんだよなあ。まあ、一篠さんらしい、けどさ。―


 ……モレク像は取り組み前の力士のような、見事なヤンキー座りをしている。

 股間の溶鉱炉部分はふちがあつぼったいひだの観音開き。

 なんとなく卑猥なつくりだが、そこが奥へ続く通路らしい。


 ― 入りたくないな。―


 泉喪は思い、黒服猫を見やる。


「花粉症がきついんで、帰りたいんすけど……」

 小さな声を出してみたら、彼は無視をされた。


 このまねき猫さんは、本当に情というものがないな、と青年はつくづく思う。

 じつの所、帰してくれたりくれなかったりはどうでもいい。

 こちらも無理を言っているのだから、まねき猫も困るだろう。

 けれど、もう少し……。


 ― 困ったふりくらいしてくれたっていいのに。本当に、東京の人って冷たいよなあ。 ―


 東京という言葉に、泉喪は気弱になる。


「……休み、田舎にすれば良かった……」


 情けない声で漏らした泉喪を、招き猫はちらりと振り返った。


 泉喪は何故か恥かしくなる。


 通路の向こうは視界が開けるのかなと思ったがそんなことはなかった。

 暗い。室内もそこまで広くはない。

 客のいない暗がりで、ルーレットやらポーカーやらの台座が、照明の光を待っている。

 深海で獲物を待つアンコウみたいだ。


 台座付近は静かだけれど、室内の人口密度は中々高い。

 黒服の男たちがなにやら会話をしている。

 主題は主に警備箇所とかだろう。


 黒の網タイツにウサギの尻尾の黒パンツのいわゆるバニーちゃんであるお姉ちゃんたちが、きびきびとした動きで皿やらグラスやらを運んでいる。

 彼女たちの動きはめまぐるしい。全員、ブラもつけず、乳房も思いっきりあらわにトップレスなのに、健全に思えるくらいの緊張感が漂っている。


 が、乳房は乳房。泉喪は目のやり場に困った。

 招き猫に助けを求めたかったが、彼はすでに消えているので、青年は最大限目を合わせないようにというより、視線を斜め下の高級ペルシャ絨毯に落としながら、バニーちゃんの一人に声をかける。


 花束を預け、奥の一條が横になっているソファーの前にまっすぐ歩く。

 それから後ろ手を組んで、青年は一篠の前に立った。


 彼はアフリカサイがトランポリンをしても壊れないような立派なソファーのへりに、プラチナ染めの髪がオールバックな頭部をあずけ、二の足を反対側のへりに投げ出し、ソファーから片手を絨毯にだらんと垂らして、暗闇の中でアイマスクをしていびきをかいていた。

 半開きのやに臭い金歯の隙間からよだれを一筋、そろえているのか無精の結果なのか分からないあごひげに垂らしている。


 ― 起こしちゃ、悪いよなあ。―

と青年は思いつつ、彼の隣のソファーに、音をなるたけたてないようにして腰をおろす。


 と、ソファーのへりの陰から、ぴょこん、と首を出す、さぷりちゃんと目が合った。

 さぷりちゃんの手のひらは小さく柔らかい。

 首元の首輪代わりの革ベルト以外、一糸まとわぬ肩も腕も華奢で、それは元々の骨のつくりもあるけれど、栄養不足が一番の理由だろう。


 乳袋は豊かではちきれそうな弾力がある。

 形状は白のジェロビーンズを彷彿(ほうふつ)とさせるが、これはやはり元々のつくりでもあるけれども、投与されているホルモンの副作用でもある。


 さぷりちゃんの乳房の大きさと張りをと揺れを、泉喪はその太ももに感じる。

 彼女の黒髪は日本人形のように長く、前髪も眉の2㎝上で切りそろえられている。

 潤んだ瞳は感情をこらえるというより、馬や犬といった家畜の潤みに近い。

 よだれも口の端からたらしている。


 が、そもそも彼女に人格はないのだ。そんなものは、麻薬漬け日々の中で、薄れて消えてしまった。

 その日々の長さは、彼女の華奢な首元を拘束する黒革ベルトのかすれ具合から見てとれる。


 彼女は泉喪が腰を下ろすソファの横の闇に一度引っ込んでから、野生の猫のように肩甲骨を低くして椅子の正面に這い、そのまま青年の肉体を這い上がる。

 膨らんだ二つの乳房が泉喪の太ももを覆うジーンズと擦れた。

 小さく整った鼻の先は青年の腹の前まで到達し、彼の腹を覆うTシャツを両手の人差し指と親指の先でつまんでめくりあげ、割れた腹の筋に舌を這わせる。


「さぷりちゃん、今日もぴちぴちだね」


 くすぐったさを紛らわすように、泉喪は彼女の頭部に声をかけるが、彼女は構わない。

 聴いていないというより、届いていないのだろう。

 泉喪はそのことに、悲哀を覚える。

 ろくろのようなシルエットの白い背にかかる長い黒髪と、背から先の臀部の丸みが、彼の言葉に何の反応もしないのだ。


 が、彼は彼女に対しては、目のやり場に困らない。

 これは彼女が肉人形であり、人形は人形でしかないからだろう。

 服を取ったリサちゃん人形に何も感じない感覚に近い。

 

 さぷりちゃんの舌は泉喪の腹筋を一通り舐めまわし終わった。

 くすぐったさに反応して、青年の腰の先もチャックの裏から硬直の盛り上がりを示したのを確認した彼女は、彼のベルトの金具に手をかける。

 それから両手で知恵の輪をカチャカチャするようにいじり始めた。

 ここにいたって、泉喪は苦笑をする。


「今日はいいよ。悪いね」


 さぷりちゃんの小さな頭部にその手のひらをあてて、物を丁寧にどかすようにして押してのける。


「今日は、じゃなくて今日も、じゃねえか」


 マリファナの常用でしわがれているが野太い声は、笑いを含んでいた。

 泉喪は声の方向、隣を見る。


 アイマスクを額の生え際付近にずらした一條は、相変わらずソファに寝そべり、首はソファの端に預け、顎は暗い天井を指していた。

 が、まぶたは薄く開いている。

 横目で泉喪を覗き込んでくるので、青年は照れをごまかすように、穏やかにきいた。


 「起きてたんすか?」

 「今起きたんだよ」

 「おはようございます」

 「こんにちは、だろ」


 一篠はそういったやりとりの中で、おっくうそうに上半身を起こし青年に向き直りつつ、投げ出した足をおもむろに組みなおす。


 ― だるそうだなあ。普通の人も、大変なんだなあ。―


「ですね。……開店おめでとうございます」

「おう。遊んでくか? 勝たせてやるぜ」

「遠慮します。俺、苦手なんで。賭け事」


 一篠は不思議な生き物でも見るように、泉喪を眺めてから、少し笑った。

 あくびをしつつ、主人の命令を待つ柴犬のように彼を見上げるさぷりちゃんに向かって、しっしと手の甲をふる、

 と、彼女は泉喪のソファの陰に再び隠れた。しつけが行き届いている。


 一條はもう一度軽くあくびをして、毛深い指をぱちりと鳴らす。

 黒服の1人が葉巻をケースに入れて持ってきて、片膝をつき、軽く口を開く組長の口にくわえさせて、葉巻の先に火を灯した。


 組長は虚ろな瞳でゆっくりと吸い、それから紫の煙を大きく吐く。

 このお偉いさんは、日常の動作のほとんどを部下にやらせる。


― 病院とか老人ホームで介護されている人たちとあんま変わんないよなあ。―


 と泉喪が思っていると、


「どうだ? この店は」


 と訊いてくるので、

「匂いがきつくなくていいですね。店の名前もかっけえっす」

 と素直な感想を返した。


 が、一篠は眉をしかめる。


「違う」

「へ?」

「俺が訊いているのは、お前なら、何分で制圧できるか? だ」

「10秒っす」


 泉喪は間を置かずに答えた。


「ほう」

「俺なら、10秒です。他は知らねえっす」


 組長は再び葉巻を吸い込んだ。その視線は宙を泳ぐ。


「……1分、いや、30秒かからない理由は」

「死角が多すぎます。黒服さんたちの意識も硬いっす。硬くちゃ浸せません。水みたいにならないと、(かたよ)りと隙ができます」

「お前の言葉は分からんが、具体的にはどこら辺に死角があるんだ?」


 泉喪は黙って室内のいくつかの箇所を指さす。

 一條は軽く鼻をならした。


「後で警護に伝えとくよ。……で、だ。仕事を受けるつもりはないか?」


― ほら、きた。これがいやなんだ。―


 ソファの前のテーブルの上の皿にはカルパスが山盛りである。

 今の生活では死はあまり見ない。

 案件にんむではこのカルパスよりもおびただしい量の死を見るので、食指は伸びない。

 いっぱいいいっぱい、というか、食傷している。泉喪は、もともと争いが好きではないのだ。


 手持無沙汰の時にカルパスに手を伸ばすように、暇つぶしで人を(あや)める村人かいじんもいるが、泉喪はそういう種類(たぐい)ではない。


 何より、今はオフなのだ。断るのはおっくうだが、これは譲れない。


「仕事、する気ないっす。俺、仕事したら物騒なんす」

「そうか。まあ、無理は言わないし、言えないわな」

「すいません」


 泉喪は一條のため息まじりの紫煙をさけるように、首と肩をすくめて、後ろ手で頭をかく。

 その仕草は猿を彷彿(ほうふつ)とさせた。


「そろそろ行きます」

「おう、また来い」


 うなずく一條に口角を上げて、泉喪は立ち上がり、ふと、違和感を覚え、室内を見渡した。


「……あれ?」

「ん?」

「さぷりちゃん、つか、この子だけっすか?」


 一條は片眉をあげ、その頬に酷薄を浮かべた。口の端も上げる。


「気づいたか。まあ、気づくよなあ」

「はい。乱痴気騒ぎの子たち、つまり、飼われてた子たち、みんないないっすよね」

「処分したよ」


 事も無げに言う。この男の中では、人の命は、あくのそしき並みに軽い。

 その点も青年が一條に親しみを覚える理由だろう。欲望に誠実で、命に容赦が無い。これは村人の特質だ。


 青年は念のために確認する。

「処分、すか?」

「ああ。薬漬けが長いからな。病気にもかかりやすい。引っ越しついでに処分してきたよ。ま、腎臓とか角膜とかそこら辺はさばくついでに中国あたりの成金にうっぱらったからな。あいつらも、ちゃんと役に立ったわけだ。本望だろうよ」


 ― 生け花みたいだな。―


 泉喪は思う。

 

 一篠のまわりには、常に花が乱れ咲くように女が乱れ、空間を飾っている。みんな花でつくった輪っかみたいに綺麗だ。下手なキャバクラなんか、文字通り顔負けの整い加減。


 けれど、長くはない。定期的に処分される。

 が、花である肉人形たちに悲哀は無い。悲哀を認識するための自我的な器官は麻薬に侵されて、ちょうど湯のみにこびりついた飲み残しが、洗剤入りの湯に浮いて消えるように、消えるからだ。

 それが彼女たちの生きざまであり、一條から見た、存在意義なのだろう。

 

 ― あれ? ―


「一條さん」

「ん?」

「さぷりちゃんは、この子は」

「ああ。お前が気に入ってるみたいなんでな。ほら、前も助けたことあったろう。で、こっちにも持ってきたんだが、お前も遊ぶ気もないみたいだし、今度処分するよ」


 開店を目前にして、室内を照明が照らし始めた。

 ルーレット、ポーカー台、ソファやテーブル。一定間隔に配置されたインドネシア製の木彫りの大きな顔。それらが、淡く輝き始める。

 音楽も流れた。ジャズだ。1930年代。

 保育所かいじんようせいじょ先生ほいくしがよくかけてくれた。

 曲名は……。


”HEAVEN”天国。


「さぷりちゃん。この子、貰っていいですか?」

「ん?」

「仕事、一回受けますから。代わりにさぷりちゃん、下さい」

「おお?」


 一篠は純粋に驚いていた。彼と同じ程度には、泉喪も意外を覚えている。


 ― 何言ってんだ? 俺。 ―


 と思いつつ、言葉を続ける。


「仕事終わったら迎えにきますから、この子に服、着せといてください」


 一條は口をあんぐりと開き、その口の端から葉巻が、二次関数的な重力的加速度を帯びて落下し床のペルシア製の高級じゅうたんを丸く黒く焦がす。

 が、組長は構わずに爆ぜるように笑った。


 ……というわけで、泉喪は一篠から仕事を受けることにした。


※※※※※※


 一條の傘下に、我妻組という、新宿を縄張りにしている組がある。

 この組の先代は一條の先代と兄弟の盃を交わしており、一條と我妻も親子の盃を交わしている。


 武闘派である組長の我妻は、敵対組織である不動会との抗争などには、非常に使い勝手がいい。

 が問題は、(ほこ)を納める時だ。

 ヤクザの喧嘩は見栄、義理や人情ではなく、純粋に経済的な問題であるというのが一條の考えであり、矛を出す時には納める時を常に見据える。

 調停の根回しももちろん忘れない。


 しかし我妻は違う。

 出した矛は何があっても納めない。相手がどれだけ条件を出しても、哀願に哀願を重ねても絶対に止まらない。たまに、調停役すら潰してしまう。

 そんな一條の組も小さい組織のままなら良いのだ。

 小さな組で小さな暴力に明け暮れるという行為には、ロマンもあるだろう。

 だがそういう時代ではない。大きな力を振るうということは、大きな落としどころを探す力に長けなければならない。

 つまり、一條にとって、暴力しか知らない我妻は切りたい尻尾なのである。

 律儀に上納は滞らないが、周囲から伝わってくるシノギは猟奇そのもので、いつ警察に眼をつけられても不思議ではない。

 かつ、その場合、一條の組にも火の粉が及びかねないのだ。

 という事で、普通ならすぐに壊滅するような無茶な喧嘩(かちこみ)にばかり行かせても、というより、そういう喧嘩(かちこみ)にばかり行かせるせいか、しぶとく生き残る。


 しかも、である。

 時代劇的な映画的浪漫を夢見る若い衆にとっては、我妻がカリスマに見えるらしい。


「つまり、我妻(あいつら)は邪魔過ぎるんだよ。……仁義はきっちり通してくるからな、こっちとしては何も言えんが」

「はあ」

「で、だな。俺んとこは、不動会ともめてる真っ最中でな」

「じゃあいいじゃないですか。好きに暴れてもらえば」

「と、思うだろう? あいつら暴れすぎてな。調停役がな、不動会に贔屓(ひいき)を言いだしてる」

「やだって言えばいいんじゃないすか?」

極道(こういう)世界は上下関係なんだよ。上に文句は言えん。ま、それも駆け引きだけどな、こんなくだらないとこで使うもんじゃないんだ」

「えーと、つまり俺に頼みたい仕事ってのは、我妻組の皆様を殺すってことですか?」

「泉谷」

「はい」

「お前、馬鹿だろう」

「へへ、すいません」

 泉喪は猿のようにおどけて、にひゃっと笑った。

 一條はそんな彼にため息をつく。


「お前が始末したら意味がないんだよ。奴らがおっ()んでも俺には得はない。俺が描いた絵の中で、死んでもらわないとな」

「どういう絵ですか?」


 泉喪の問いに、一條は悪戯をたくらむ子供のように、瞳をきらきらさせる。


我妻組(あいつら)には調停まで暴れてもらう。恨みを買い続けるからな。不動会の上はともかく、下は黙っていないだろう。つまり、調停後、我妻組(あいつら)は不動会に潰される。調停を破ったという事で、だな。名分は俺に傾く。そこでもう一度、俺に有利な調停をしてもらうわけだ」

「へえ。つまり、我妻組さんは、生贄(いけにえ)の山羊さんなんですね」

「ま、そうだな。つまり、我妻組(あいつら)には、調停まで無事に無茶して貰わねばいかん。調停後は、不動会に潰されるほどに、弱らねばいかん。強いのを1人くらい殺せば弱るだろう。無事の確保と弱体化をだな、お前に頼みたいわけだ」

「はあ。つまり、俺は我妻組さんを守って、守りの(かなめ)を摘めばいいんですね」

「自然にな。できるか?」

「そりゃ、まあ。で、調停っていつなんすか?」

「来月だよ。お前はカチコミの応援要員として紹介してやる。義理は欠かさないやつらだからな。

俺の顔を立てて、お前とも仲良くしてくれるだろうよ」



 ……こういった会話の三週間後。

 とても晴れている日に、泉喪(いずも)は新宿の、とある雑居ビルを訪れた。

 手には一篠の紹介状。

 対応したのは初老の老人。無言で事務所に通される。


 その事務所(というより部屋)には立派に皮が張られたソファが3つあった。

 奥の窓に向かってコの字を作っている。

 入って左の壁沿いから始まり、窓のある壁を背にして右側の壁に沿う。コの字の真ん中には、ソファに囲まれるように、堂々としたテーブルが1台。短いが黒く太い4つの脚に支えられたガラスの張りが美しい。


 ― スリランカの山奥で切り出してから磨かれたみたいだなあ。惚れ惚れしちゃうガラス加減つうかさあ。一条さんもこういう趣味ならいいのに ―


 と泉喪は思った。(実際は中国製であったが)


 降りきったブラインドの隙間から室内に漏れるわずかな光。その光に煌めくガラスの輪郭を筆でなぞるように視線を動かしながら、彼はさらに思う。


 ― もしここで戦闘(やりあい)になっても、こいつは痛めないようにしよう。―


 泉喪に惚れ惚れさせたガラスの平板。その上には酒瓶が夏の雑草か、新宿のビルの乱立のような繁華を成している。

 黒だったり赤だったりチェ・ゲバラみたいな外人が遠い目をしていたり、マリリン・モンローみたいな女が大口を開けてこちらに笑いかけている。

 ロッキーかアルプスか分からない山脈の隣でヤシの実の重さにこずえがバナナ・カーブを描くそれらは、基本的には縦に直立して並んではいるのだが、いくつかは横に転がって、その丸い口からだらりと粘りの帯びた白い液体を透き通ったガラスにたらしている。

 

 ― 52本か。みんなアル中なんだなあ。 -


 部屋全体が酒臭くヤニ臭い。

 さらに新宿歌舞伎町の居酒屋の便器の裏のようなアンモニア臭が微かに漂う。

 室内全体が一条の邸宅で行われる乱痴気騒ぎの後のような退廃に(よど)んでいて、泉喪は入り口でため息をつきかけた。


 「変わってんな。このぼんぼり」


 後ろから耳を引っ張られる。

 正確に言うとピアスだが、泉喪が寝違えの朝に首を縮めるように、肩越しに振り返ると、勾玉(まがたま)のフォルムのピアスの下部の釣り針のように尖っているその先にまじまじと視線を落としているそのやや小柄で線の細い男が視界に飛び込んできた。

 

 「拷問にも使えそうだ」


 何事も無さげなその声は低い。

 彼は泉喪の脇を通り抜けて室内奥の暗がりに進み、薄い光がを床に漏らしているブラインダーの(かたわ)らに垂れさがるひもを引く。笹を揺らすような音がした。

 日光が空間の四隅を浸食。波が砂浜に寄せて上がるみたいだ。


 そのまま窓を開けた男は懐からシガレットを取り出してくわえ、窓枠に備え付けのマッチ箱からマッチを一本とりだして肩をすくめるように火をつけた。

 役目を終えたオタマジャクシのような黒棒を、男は、ひょい、と窓の外に放る。

 それは放物線を描いてビルの隙間に消えていく。

 

 泉喪はなんとなく、その男の傍らに立って、地割れのような窓の下に視線を落とし、マッチ棒の描く軌跡を見守る。

 と、強いビル風が吹いた。

 美容室のおしゃれ感満載の黒ジーンズのブランド物の男性がわしゃわしゃとするみたいに、泉喪のゆるくクセがかかった黒髪を乱す。

 つられて枠外に堆積したほこりや、隣室から排出された空調の湿気が生暖かく彼の額と鼻筋をなでたため、彼はくしゅんと小さくくしゃみをした。

 鼻水が鼻孔の奥から垂れてきたので、すすって引っ込める。

 

「たまに吹くんだよ」


 そう言って瞼をせばめる男の目じりには、ちょうど左右に3本づつ深いしわが入り、泉喪は、昔、『先生ほいくし』と読んだヘミング・ウェイの名作、老人と海を思い出し、わずかに後ずさる。


 悪いくせだ。悲哀を帯びる者に、感情移入してしまうのである。

 移入への自戒に、彼の顔面に比べて大ぶりの肉体は自然に後ろに下がってしまう。 

 それはあるいは、移入に任せて仕事を放棄したいという逃避行動かもしれないが、実のところ彼自身も判別はつかない。


 「3人。出てるが、いずれ戻ってくる。くつろいでいてくれ」

 押しつぶしたようなトーンの言葉と、紫煙のゆるい螺旋(らせん)を空気に残して、男は泉喪に背を向ける。

  そのまま室外に出て行った。


 ― 出来れば、生かしておいてあげたい、けどさ。 ―


 泉喪は男の残像を目で追うように、室外に続く閉じた扉に眼を凝らし続ける。


 ― まあ、こればっかりは、なあ。 ―


 青年がため息をつきかけると、急に先ほどよりは3倍ほど強いビル風が、窓上(そと)から吹き込んできた。彼はその(はら)(ほこり)にケホっとむせてから、体をくの字に折って、盛大にくしゃみをした。


 3人が戻ってきたのは日も暮れてしばらくたった時間で、泉喪はトイレや床の掃除も終えて、手持ち無沙汰も極みに達しようとしていたところだった。


 なので、青年にとって彼らとの対面は、緊張よりも、ほっとしたという感覚のほうが大きかった。


 まず、扉の向こうから声。甲高いが男特有の重さのある声だ。

 なだめるような穏やかな低い声が混ざる。

 足音にはあと2人。1人はおそらく昼に部屋に案内してくれた男だ。


 扉が開く。

 若い男が現れた。小さな丸顔。頬に幼さが残っている。10代を抜けたかどうかという面持。髪はいかにもギャル男なきんきら金だ。


― 愛染祐樹(あいぞめゆうき)。25歳。元ボクサーバンナム級。2勝1敗。勝利は全てko。

傷害事件を起こして引退。暴力、警護担当。趣味は婦女暴行。特に女子高生。拉致、監禁、薬漬けにしてシノギにもする。特に気に入ったのはホルマリンに漬ける。―


 泉喪は事前情報を脳内ですばやく反芻(はんすう)する。目が合ったので、姿勢を正し、

「今日からお世話になります」

 と礼をしてから、頭を上げる途中の事だ。

 泉喪の視界で、愛染の、にかっという笑顔が弾けた。

 虹彩に飛び込む白い歯。


「よっ」

 泉喪の顎先に向かって気軽な声と、右フックが下から飛んでくる。


― 食らう、ほうがいいのかなあ。あ、でもあれか。腕試しってやつかあ。 ―


 スウエーでのけぞって避けると、脇腹を目がけて左フックが襲い来る。体を捻ってこれも避けると、愛染のこめかみ付近が赤く染まった。


 ギャル男の手はテーブル上のチェ・ゲバラの酒瓶の先をむんずとつかむ。カウンターに振り上げる愛染。割られる酒瓶。響く高い音。


 ― あ、戦闘態勢だ。 ―


 泉喪の中で、何かがむずむずとして、首をもたげたが、苦笑をしてこらえる。

「ちょ、勘弁してください」


 と手のひらを胸の前で開く。


「うっせえ…! 避けるとか生意気なんだよ!」


 ― 受けときゃ良かった。 ―


 怒りにきらきらする愛染の瞳にため息をこらえる。さて、どうすべきか。

 切れやすい若者の典型を制圧すべきか。それとも、酒瓶の直撃を食らうか。

 致命傷を避けることはできる。今後を考えたら、受けておくべきなのだろう。


 ― 痛いのは、いやだけど、さ。-


 泉喪が覚悟を固めた刹那、愛染ぎゃるおの豹のような肉体が横にくの字に曲がった。

 そのままカウンターに吹き飛ぶ。

 愛染は『ぐへ』と呻いて、せき込む。そのままわき腹をかかえて染みだらけの床に(うずくま)った。

 割れたチェ。ゲバラが床を転がり、微妙な破線を絨毯に作った。


「いきなり、悪いね。愛染はアホだからさ。」


 穏やかな低い声を発したのは金髪の愛染を後方から蹴りで吹き飛ばした主。

 30も半ばの外見の男。身長、目線が泉喪とそう変わらない。

 短髪。肉を集めたような密度のある体。目じりは下がって口元も上がっている。が、瞳は酷薄を宿す。


― 越智郁夫(おちいくお) 32歳。極真有段者。クレーン作業者時代、工事監督者を()き、業務上過失致死で服役。車輛担当。趣味は拉致。主に夜中に歩く男女の二人連れを狙う。金品を奪った後、工事現場に埋める。――


 泉喪は、やはり事前知識を反芻(はんすう)する。


「いえ、俺もよくわからなくて」

「うん、見てたよ。反射神経はいいみたいだけど、性格は煮え切らないね」


 ― うっわ。ダメだし。 ―


 泉喪は後ろ手で頭をかく。


「すいません」

「気にすんな。愛染の拳を避けれるだけですげえよ」


 扉の向こうから、真打(しんうち)が登場。身長は平均。黒の長い髪に無精ひげ。

 全体的にしまりのない体型だが、目は鋭く、面立ちは整っている。少し一篠と似ている。


― 我妻勝也(わがつまかつや)。32歳。我妻組組長。武闘派。趣味は人妻の拉致と解体。暴行後、家族を全員呼び出して金と命を奪う。――


「あ、えっと。もったいないお言葉です。泉谷重治(いずみやしげはる)です。今日からお世話になります」

「ははは。だっせ! 歌手かよ?」

 カウンターの下に崩れていた愛染が上半身をむくりと起こし笑う。


「そうなのか?」

 我妻がきいてくるので青年は頬を小さくかく。


「あ、はい。名前似てるっていわれますけど、親戚じゃねっす」

「頭によく手ぬぐい巻いてるたらこ唇のフォークシンガーですよ」

 越智が穏やかに補足を入れてくれた。

 その間も愛染は笑い続けている。

 我妻は鼻をならした。


「まあ、いい。一條さんの紹介だ。悪いようにはしねえが、足手まといは困る。が、泉谷(おまえ)には心配ねえみたいだ。俺は合格出す。越智はどうだ?」

「組長がいいんなら、反対する理由がありません」

 涼しく答える越智。


「ま、そうだな。愛染は」

金髪は返事をする代わりに床に笑い転げ続けた。その笑い方はひどく若い。


我妻はため息をついて、後ろを振り返る。

「東寺は?」

ドア横の壁に背を預ける渋い中年。泉喪を案内してくれた彼は、沈黙のままうなずく。


ー 東寺五郎(とうでらごろう)。52歳。先代からの我妻組構成員。同性愛者。趣味は拷問。主に新宿二丁目で獲物を探す。獲物の臓器は福建マフィアに売られる。 -


 泉喪を情報が駆ける。


ー しかし、揃いもそろってシリアルキラー、だもんなあ。-


 愛染はユルカジ。越智はユニグロ。我妻はお兄系。東寺はちょいわる。

 ファッションはバラバラだが服は揃って黒で統一されている。

 黒い服着てきて良かったと思いつつ、青年は東寺にはにかむ。そのまま会釈。


 すると、東寺はわずかに首を横に振った。

「おし! 決まりだ。歓迎するぜ、泉谷。とりあえず今晩は歓迎会だ」


 我妻の声が明るい。

 ……酒宴というか歓迎会にかこつけた飲み会が始まると、我妻はコニャックをあおり、越智は杏露酒を傾けた。愛染はカルアミルクを舐め続ける。


 つまみは彼らの犠牲者についての四方山話。その内容の残虐性に、泉喪は苦笑を禁じえなかった。


 ― 村かよ。ここ。 ―


 東寺はカウンターの奥で氷をアイスピックで砕いている。その(たたず)まいはとても渋い。

 手練れの風格を滲ませる手つき。


 ― やっぱり、東寺さんが一番強い、か。やっぱ、そうだよ、なあ。そうだよ、なあ。 ―


 泉喪はふやけた笑顔でビールのジョッキをあおり泡でひげを作る。強い男は殺さねばならない。禍根を残すからだ。


 ……とても悲しくて泣きたい。が、(こら)えて、ますますその口元をふやけさせる。


 夜通しで酒盛りの歓待を受けた泉喪は、新宿歌舞伎町のホスト並みの酒量を一晩でがぶ飲みするはめになった。

 酔いつぶれる愛染。爆睡する我妻。酔いの勢いで獲物を狩りに出かけようとする越智。窓際で外の闇に紫煙をくゆらす東寺。

 

 彼らをしり目に泉喪は、彼自身が磨いた便器に顔を突っ込んで、盛大に嘔吐をした。



※※※※※※※


 喧嘩(かちこみ)の準備は念入りだった。

 この新宿に来た翌日の昼下がり、泉喪は八幡会の若い衆の尾行に狩り出された。


 八幡会は一篠組の敵対組織である。


『暮ってやつの注意を引いてよ。ひたすら逃げ回れ。お前は囮だかんな』

 手に顔写真入りの組員リストを握らせてきた愛染が意地悪く下した命令の通りに、青年は「江新宿未広亭」や、お笑い劇場「ルミネもともと」の裏通りを歩いた。

 見つけた組員たちを一発ずつ殴る。組員たちの奥のひょうてきも、鳩尾みぞおちを殴って膝をつかせた。

 それから泉喪は全員のえものを奪って逃げた。

 新大久保のヨン様界隈に至り、西口にもどって銃を捨てる。高層ビル群で追いかけられた果てに、こだわりのショップがそろう「代々木村」の裏通りまで全力疾走。


「ルミネもともと」では3人を殴って銃を奪っただけなのに、「代々木村」まで逃げる間に、八幡組の若い衆は10人にまで増えていた。皆さんとても血気盛んである。あきらめを知らない。


 10人で代々木村のビルの隙間まで追い詰めた泉喪に、雨戸を伝う水滴のように滑らかにすり抜けられて、そのままとんずらをされても、彼らはしばらく付近をくまなく捜索していた。職業的な情熱にあふれている。


 彼らの姿を泉喪は上空から見下ろす。

 ビルの4階の窓枠の四隅にKの形で両手と両足を押し付け、落下から体を支えつつ、地上で連携を取り合う若い衆達の様子を観察。


 - 一生懸命、だなあ。しかも、迷いがない。-


 指示系統がしっかりしているのだ。指揮をとっているのは、あご骨があんこうっぽい、ごつい男前。

 先ほど囲まれてすり抜けるときに男前の足元から、嗅ぎなれない獣の臭いがした。あまりいない(たぐい)の獣だ。


- なんだけ、あれ。-


 考えているとスマホが振動。取り出すと、両手の支えを失った身体がよろりと落下運動を始めた。


「はい」

「こっちはすんだよ。今どこ?」

「代々木村っす。八幡会の皆さんに追っかけられてます」

「何人くらい?」

「10人すね」

「助け、いるかい?」

「いえ。けど、30分かかるっす。まくのに」

「どこで拾って欲しい?」

「池袋西口のカメラ屋さんの前がいいっす」

「了解。切るね」

「はい」


 といったやり取りの間に、泉喪は目の前を加速度的な速度でコンベアのように移動していくビルの壁面を右足で蹴った。そのまま身体をひねって後転。向かいのビルのコンクリート壁を左足で蹴る。

 靴型がわずかにつき、肉体のベクトルの方向が斜め上に転換。蹴りと回転を繰り返し、じぐざぐに谷間を跳ねていく姿は山猿のそれだ。

 屋上に背面とびの形でたどり着く間中(あいだじゅう)、泉喪の虹彩は男前を離れなかった。


- 越智さんは『すんだ』て言った。あんたたちは、どうする?-


 泉喪の虹彩は密度を増した。それは獲物の動向を伺う肉食獣の光を宿す。


 男前はスマホを取り出した。連絡。一度切る。しばし(たたず)む。口元に悲哀。再びスマホを取り出す。


「けたみんをじゅんびしとけ」


 唇を読むとそう発音していた。


- ケタミン、かあ。……えぐいこと考えるなあ。ま、人のこと言えないけどさ。 -


 泉喪は肩をわずかにすくめて身を(ひるがえ)した。この情報を、どう扱うかで仕事の成否が決まる。

 が、とりあえず彼は越智との待ち合わせ場所である、池袋西口に急ぐことに集中した。


※※※※※※


 泉喪が八幡会の皆様から逃げ回っている間に、東寺が(くれ)を捕獲していた。

 暮は八幡会の若頭である。

 彼は越智がハンドルを握るランドクルーザーの後部の荷物席に放り込まれていた。

 昼の泉喪は陽動だった。

 若い衆を襲う泉喪。泉喪を狩ろうとする暮。そして狙う東寺という構図は、見事に功を奏していた。


- あ、キャンプでファイアーを囲んで輪になって相手を変えながら踊るあれ、なんだったっけ。-


 池袋の西口で拾われた車内でこの構図を聞かされた時、青年はおとりにされたことよりも、キャンプのダンスの名前が思い出せないことに、微妙な心持ちになった。

 が、何はともあれダンスの果てにあたりを引いたのは東寺で、ババを引いたのは八幡会の若頭、暮である。


「暮ってやつは絶対に病院送りとかにしちゃだめだよ。物事には順番ってのがあるからね」


 ランドクルーザーから尾行に送り出す時に越智がかけてきた言葉を思い出す。


- そりゃ、エサが魚を潰しちゃ、釣りにならない、よなあ。-


 池袋から東、荒川の河川敷に向かう車内でしみじみと思う。


 運転は越智。助手席には東寺。泉喪が腰を落ち着ける広々とした後部座席の後ろの荷台では、暮が呻いている。後ろ手で釘打たれ、串刺しにされた彼の両手の親指に、泉喪はアスパラベーコン巻きを思い出した。とても痛いのだろう。暮の垂らす涙でシートが湿っている。白いタオルが猿ぐつわの代わりになって

、口の端の隙間から漏れるうめき声が、ラジオのお姉さんの落ち着いた穏やかな声と不思議なミックスをしている。


 泉喪はその姿に同情を抱かない。

 何故なら、ここはそういう世界なのだ。敵対する組織に(さらわ)われる事も極道の職分である。


 それにしても、親指が痛いのだろう。ぎゅっとつぶったまぶたの端の3つのシワからポロポロと涙を流しては流す。小刻みに肩をよじり首をよじりタオルを固く噛むのは、この車内の方形の空間から逃れたいというよりも、単純に車体の振動が指を痛めるからだ。


- 若頭、かあ。えらい人なのになあ。-


 哀れだ。しかし、どれだけ身をよじっても振動は止まない。車体は荒川に向かっている。

 エンジンは切れない。絶え間ない振動という拷問。しまいには暮の身体のくねりのために、くつわの結び目が口の位置にきてしまった。

 開かれたあごが更に上下に開かれる。呼吸だって苦しいはずだ。


 - 辛そうだな。-


 と思ってくつわの位置を直してやると、泉喪は人差し指の先を噛み千切られかけた。


 ……情はかけない方がいい。それがどんな情でも、そのどれかの情のせいで、死ぬ日もくるのだろう、と泉喪は思いつつ、尻の穴のようにきゅううっとすぼめた。

 この原因は指を噛み千切られかけたという驚愕ではない。自らの死の想像イメージがそうさせたのだ。


 彼は最期の時を思うと必ず先生ほいくしの食事を思い出してしまう。死ぬ前にもう一度、あの人の作る食事が食べたいと思ってしまう。それくらい、師の料理には妙な愛着があるのだ。


 この、暮さんだって家族がいるし食べたいご飯もあるだろうに、と青年は思う。だがしかし、この極道も、誰かを拷問してきたのだ。

 つまり、極道は順番に拷問をして、順番に殺し殺されている。それはキャンプなファイアーを囲んで

中学生たちが踊るダンスに近い。


 - あ。思い出した。マイムマイムだ。 -


 泉喪の胸中が晴れると同時にランドクルーザーは荒川に到着。拷問が始まった。

 時間は午後の5時。

 日はまだ沈まず、沈んでもしばらく空は白いのだろう。

 東寺と暮がしけこんだコンテナの横で越智と泉喪は黄昏(たそがれ)の光を反射する黒い鋼板、ランドクルーザーの車体を磨いたり、河川敷の歩道横でキャッチボールをしたり、土手に二人で腰を下ろして川向こうの足立区の町並みを覆う夕焼けを眺めたりした。


 そんなこんなのうちに陽はすっかり暮れ、空は焼けの黄金を混ぜた赤から紺に変わった。


 外でできることもなくなったというより、できることはひとしきりしたので、彼らは東寺の隣のコンテナの武器庫で武器(どうぐ)の整備を始めた。


※※※※※※※※


「やったことあんの?」

 訊かれて泉喪はぎょっとした。


 越智は黒縁眼鏡の奥の細い目を凝らして、餃子みたいな形のジャックナイフの刃先を()いでいる。 

 たくさんの皮膚と肉を裂いてきたと思われるそれの研ぎも仕上げにかかり、布で磨かれ、最後はタンポポがとばすような綿毛で先をぽんぽんとはたかれている。

 スーパー銭湯で幼児が父親にぬれた髪をタオルでわしゃわしゃとされる、そんな光景を泉喪は思い出した。愛情。


 今晩、不動会八幡組に出入りをする。そのための道具の確認ついでの手入れである。

 時間つぶしと言えば時間潰しではあるけれど、重要な作業だ。

 

「人殺したことない奴ってさ、いろいろパニくるから、扱い困るんだよね」

「あ、えっと。結構殺してます」

「何人くらい?」

「100人までは数えてたんすけど、後は忘れたっす」

「ふーん」

「え?」

「意外だね。大人しい顔して、けっこう肉食系なんだね」


 越智が綿毛をつまむ指はぶれないし、視線も刃先から上がらない。代わりにナイフの光沢は輝きと存在感を増す。越智の周囲の空気がその輝きに吸い込まれていくような錯覚。

 とても静かな禍々(まがまが)しさ。


 泉喪は性体験を訊かれたのかと思って戸惑ったが、実際は殺人の経験についてだったので、(ひそ)かにその胸中を撫で下ろす。


『童貞ってさ、いろいろパニくるから、扱い困るんだよね』

『あ、えっと。結構経験してます』

『何人くらい?』

『100人までは数えてたんすけど、後は忘れたっす』

『ふーん』

『え?』

『意外だね。大人しい顔して、けっこう肉食系なんだね』

 ……でも違和感ないよなあ。この会話。-


 男同士の普通の下ネタ。

 実際会社の更衣室のロッカー前で話すような何気なさで淡々と訊いてくる越智だが、泉喪には、彼が重要な情報の確認作業をしているのが分かった。


「じゃ、今晩もたくさん殺すの?」

「しません」

「殺さないと殺されるよ? 昼みたいな街中じゃないんだし」

「殺しは、しません」

 視線が刺さる。ナイフがぴくりと動いた。海底にうずくまる生き物が獲物に反応する映像を、青年は思い出した。


「今回は我妻組(みなさん)のサポートできてるんす。無力化はします。けど、(たま)の手柄は我妻組(みなさん)から横取るなって、一條のおやじから言われてます」

「ふ-ん。色々大変だねえ」


 越智は(あき)れている。


「ま、でも殺しは嫌いじゃないっす。越智さんも好きですよね」

「そうだね。殺しが好き、というよりも、道を行く二人連れとか幸せそうだろう。そういうのを(さら)って穴に入れて重機で土をかぶせて埋める。最後に鋼鉄のショベルの背で地面をならす。あの時のとんとんって感じに意味があるんだ。僕の操作する重機によって二人の愛は固く永遠になりました、みたいな。ほら、おとぎ話の決め台詞(せりふ)。『こうして二人はいつまでも幸せにくらしました』みたいな幸福感。あれがとても好きだね」

「おとぎ話ですかあ」

「うん。まあ僕も本当に愛する人と出会ったら、組長(おやじ)にうめてもらいたいからね。僕と彼女を」


 越智の細いまぶたの奥の光が柔らかくなった。

 泉喪は、意外に夢見がちな人なのかなあ、と思う。


「愛する人、ですかあ」

「ま、こればっかりは相性だからね。東寺さんみたいに、誰でも彼でも楽しめるってわけじゃないよ」

「東寺さん、すか」

「うん。今も楽しんでるじゃないか」


 悲鳴が隣のコンテナからひっきりなしに漏れてくる。

 鉛色のパイプ椅子の上で、長い肢体を折り曲げるようにして小さく丸めている泉喪の背に、それは届く。

 その響きは見えざる手となって青年の肩や腕、わき腹をつかんでくる。

 幻のようなその握力は、助けて、と言っていた。


「楽しんでいるんすか? 東寺さん」

「拷問される男の悶絶とか叫びがね。あの人の中では快楽によがる女の声みたいに脳内変換されるらしい。本当に変態だよね」


 泉喪は苦笑しかできない。



 ……東京は荒川の、とある河川敷に並ぶコンテナ倉庫の一帯を、我妻は貸切で使用している。

 泉喪と越智が待機している一角には、組の道具が静謐(せいひつ)の中で黒光りをしていた。光ケーブル工事の備品棚みたいだ。


 ここにオペラやフラッシュモブのような賑やかさが溢れていても、それはそれで心霊現象だけれども、越智と2人だけの沈黙は、泉喪には息がつまる。

 なので、ぽつりぽつりとでも話しかけてもらえるととてもありがたい。

 続きはしない会話でも気休めにはなる。今の性癖談義などはとても続いたほうだ。


 それでも、断続的な悲鳴というBGMが例えばシューベルトのワルツ組曲、ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 第3楽章とかならまた話も違うかもしれない。


 ただ、コンテナの臭いは春の渋谷ほど不快ではない。金属臭。越智の握ったハンドルのプラスチック臭。東寺が男と遊んでいる隣のコンテナから漂ってくる血と臓物の香り。

 この香りが一番慣れているが、それでもやはり、断続的な悲鳴は青年の耳に(さわ)る。


 ― けど、そろそろ、かな? ―


 と泉喪が思ったとき、隣のコンテナから声がした。


 ― あ、これ。あれだ。 ―


 越智も気づいたらしい。ジャックナイフを手早く鞘に戻して立ち上がる。


 泉喪は、のびをしたい衝動をこらえた。長かった。

 とりあえず立ち上がると東寺が入ってきた。皮のベルトをカチャカチャさせて腰元もふらふらとしている。


 青年は彼に姿勢を正し、

「お疲れ様です」

 と深く礼をしてから、表情を確認。


 賢者タイム真っ只中なのか、目が(うつ)ろだ。疲労が口元に浮かんでいる。が、頬は(かす)かに紅く、肩でする呼吸は恍惚(こうこつ)をはらんでいた。裏腹に、初老の全身を覆う死臭。


「大体分かった」

「良かったです。いつもより、粘られましたね」


 越智が微笑みかけると、東寺は胸元からシガレットを取り出してくわえた。

 うつむいて、マッチで火をともす。


「八幡組の若頭だ。口も堅い」

「東寺さんの拷問(わざ)にかかれば、若頭とか関係ないでしょう」

「愛だ」

「はい?」

「俺の拷問は、愛だ。だから奴も吐いた」


 - あ。なんか、はぐれ検事純情さんみたいなこと言ってる。-


 泉喪は苦笑をこらえた。

 冗談みたいだが、彼らが交わしているのが、とても真面目なやりとりであるのを分かったからである。


※※※※※※※※


 暮が吐いたのは八幡会組長、八幡芳樹(やはたよしき)の邸宅の警備体制。監視カメラの配置と死角。

を埋める巡回頻度。


 通用門と庭は柵で隔てられている。監視カメラは通用門の方が多い。出入りは通用門の方が頻度が高いからだ。庭は広い。カメラの死角は組員の巡回が埋める。

 ただし、人のすることだ。

 隙もいくらでもある。邸宅の電源を切断し、通用門から攻めるのもありだが、監視カメラが働いているという油断に付け込んで、確実に潰していくべきだろう……という結論に、東寺と越智はたどり着き、泉喪の血の気は引いた。



 ……我妻(くみちょう)に報告の電話を入れるのは、越智である。


 通話の内容は結論から。その後に位置情報。


「泉谷君、キャッチボールも上手いですよ。ま、見た目どおりですけどね」


 と持ち上げられたりするので、泉喪は背中がむずむずする。


 - 我妻さんに誘われたら、困るなあ。情がわいてしまう。キャッチボールは好きだ、けどさあ。-


 憂鬱(ゆううつ)

 これは彼の弱点と言えるのかもしれない。つまり、どういう性癖の奇人でもともに時を過ごし、明るく接してもらえると、情が湧いてしまうのである。

 そして、できれば、そういう情とは無縁に精神的な波風を立てずに静かに仕事を終えたいというのが、彼の望みだった。おそらくだが、それがマイムマイムの順番を先送りする手段でもあると、彼は思っていた。


 なんだかんだで我妻組の面々は、気を許す許さないはともかくとして、意外とすぐに泉喪に慣れてくれた。とてもありがたい。


 組長の我妻は黒髪が昔一世を風靡したアイドルさんを彷彿とさせる。服の端からのぞく刺青は龍のうろこの照りがいい。蛇のような眼力だが仲間と笑う顔は無邪気だ。

 さすがにたたずまいは組長であるだけあって、野生的な男臭さがぷんぷんするが、泉喪は不快ではない。

 組長はよくアルバムに見入っている。これは戦利品だ。

 つまり、彼が(なぶ)り殺した一家の後片付けのときに彼が必ずくすねる品なのである。

 もちろん今時の家族はアルバムがなかったりもするが、そういう場合はスマホを奪う。

 そういったスマホやアルバムの中の彼らは、写真や画像ファイルの中で生きているし、とても幸福そうだ。そして我妻は彼らの幸福に目を細める。


 犠牲家族の驚くべきは、SNSでは彼らは未だに生きていることになっているということだ。

 我妻は酒の注がれたグラスを片手に犠牲者たちののスマホを操作し、彼らに成り代わり、日々SNS的交流を継続している。おそらく、その交流先が次の犠牲者となるのだろう。もちろん、彼の食指が動いた場合だけれど。



 ……東寺、越智、泉喪の三人組が八幡会の暮をカタにはめている間中ずっと、我妻は常日頃しているように、犠牲者(その日は享年33歳1男1女朝ドラのサブヒロインに激似、好きだったブランドはカルティ-エ)のスマホをいじりながら、新宿御苑のベンチに腰をかけてチューハイを飲んでいた。


 ベンチというよりはちょっとした小屋で、雨よけもできる。

 木の香りを嗅ぎながらたまに足元に転がってくるボールを追いかけてくる幼児に返してやる。

 会釈をしてくる母親に口角を上げる。

 

 その彼の周囲を愛染が警戒。が、たまに遊歩道を行く女子高生のラインに視線を飛ばす。

 いい感じなぷりぷり加減に口元を半開きにしつつ、組長に突進する八幡組組員のあごを砕いたり、騒がないように小屋のほとりの池に沈めたりするが、(たま)は取らない。

 昼だし、公衆の面前だ。それにこれは陽動だからだ。

 何より若い女たちの眺めが悪くなる。

 愛染は尻フリークだ。世の中の胸フリークは頭がおかしいとしか思えない。

 尻というか、下半身の実用性と美の前には、脂肪の塊にすぎない乳袋など、無価値なことこのうえない、と彼は思う。

 愛染は彼自身を理論的で冷静な人間であると常々思っているのだが、そこは周囲と温度差があるらしい。


「ざっけんなよ!!」

 と新入り、応援員の若造をまっすぐ睨む時も、愛染は冷静だった。

 現場もよく分かっていない馬の骨に好き勝手させないという役目をはたしているのだ。ちゃんと、睨む前に一発、新入りのみぞおちに強いブローを入れている。

 馬の骨の口の端からはゲロが滲んでいた。打撃は効いている。つまりお灸はちゃんとすえている……はずなのだが、新入りは動じない。


 - 可愛げがねえ -


「ふざけてないっす。真面目っす」

「てめえはマジメにフザケテんだよお!!」


 さらなる一発が必要だ。這い(つくば)らせて、話はそれからでいい。

 愛染は右脇を引き左でアッパーを放つ。

 が、インパクトの刹那、ギャル男の肉体は横に、くの字に曲がり、そのまま吹き飛んだ。


 愛染を吹き飛ばした回し蹴りの主は越智。


「すまないね。あ、昨日もこういうやりとり、したね」

「はい。でも気にしないっす」

「うん、助かる。で、どうしてなんだい?」」

「あ、はい。その前に吐いてきていいっすか? 愛染さんの一発、きつかったんで」

「どうぞ」


 泉喪は便所に向かってきびすを返した。

 背中に刺さる越智の視線が痛い。が、駄目な物は駄目だ。


 - 俺の仕事っすから。 ー


 便所の後に控える修羅場を想像して、青年の体温は2度下がるが、修羅場も仕事の一部なのだ。


 青年は便器に顔を突っ込む。今朝に続いて二度目。

 食道をあがり口腔を怒涛のように過ぎる胃の内容物からは、まだアルコールの香りがした。

 口元を左の甲、涙目の目元を右手の甲と交互にぬぐって一息ついてから、会議の場に戻る。

 昨日と同じ新宿のビルの一室。

 違いはガラステーブルの上の酒瓶が片付けられ、八幡邸の見取り図が毛布のようにテーブルを覆っていること。


 見取り図を囲む形で我妻組の面々がソファに鎮座。


 泉喪は室内と外界をつなぐ扉を背にして、テーブルの前に直立した。手は後ろ手で組む。

 彼の正面のソファには我妻。窓を背負って腰を前に投げ出している。眉間にしわが、微かに寄っていた。


 右のソファ手前には愛染。不機嫌に金髪を揺らして、親指の爪を噛んでいる。

 同じソファ、奥の越智のこめかみにはうっすら筋が走っていた。

 左の東寺はソファに腰を深くして、両ひざに両肘を乗せ、両指を組んでいる。照明が当たらないうつむき加減の分、凄みがある、というより怖い。


 ……行動を共にしてまだ24時間もたつかたたないかの彼らだが、青年は分かったことがある。

 酷薄さを極めた彼らだが、連携は良い。相互の信頼が強いのだ。強い信頼が、自由な連携とあうんの呼吸を可能としている。昨日からの新入りが彼らの計画に異を唱えること自体、その信頼への冒涜(ぼうとく)なのだ。

 が、ここは引けない。引いたら仕事は失敗する。


「失敗します。暮の情報は間違ってるっす」


 ガラスのテーブルの前で身体の芯に力をこめて、泉喪はそう言い放った。


 次の刹那、すねの骨が欠けるかと彼は思った。

 我妻が蹴りだした素敵なガラステーブルの縁が素敵な速度で泉喪の脛に激突したのだ。


「ツっ…!」


 ここは素直に痛みを顔に出していい。ただし姿勢は崩さずに。


「結論じゃねえ。過程を言え。なんで、東寺が間違ってんだ?」

「暮の情報は古いっす。八幡は暮が(さらわ)われた時点で、情報を古くしたっす」

「まどろっこしい物言いは好きじゃねえ。てめえも、『痛い』のは好きじゃねだろう?」


 問われた青年はテーブルの前に正座し、額と両手を床に付けた。

「すいません」

「…いい。顔を上げろ。お前は一篠さんの若い衆だ。大目にみてやるから、もっとわかりやすく説明しろ。なんで、暮の頭ん中は古いとてめえは思った?」

「俺を代々木で囲んだ若い衆は、暮の下のもんです。つまり、暮とは密に連絡してます。実際、東寺さんが暮をさらった後も連絡とろうとしてました。16時30分に暮のスマホに着信入れてるのがその若い衆です」


 東寺はおもむろにその懐から黒のソニーを取り出し確認。眉をしかめ、我妻にうなずく。

 彼らの様子を確認しつつ、泉喪は続ける。


「奴は、連絡つかないことに、あんま驚いてなかったっす」

「つまり」

「暮が(さら)われるのは、本人以外には予定通りっす」

「ほう。それで」

「若い衆は暮の連絡がつかないのを確認してから、別の奴にケタミンを手配してました」

「ケタミン? (やく)か?」

「狂犬病の薬です。そいつの足元からドーベルマン、中型犬の臭いがしました。チタンゲージの金属臭も」

「……」

「暮の話には犬はでてきません。そりゃ、死ぬまで黙ってたって事かもしれねえっす。けど、東寺さんの拷問は、黙ってられるほどぬるくはないはずっす」

「ふむ」

「続けていいすか?」

 我妻はうなずく。


「つまり、あの若い衆が狂犬病の犬を用意してます。ケタミンは噛まれた場合の治療薬っす。八幡の庭は、組員じゃなくて犬っころが守っています」

「お前の(はなし)には矛盾がある。犬で塞いだら、あいつらも外にでれねえだろうが」

「それは、ここです。この通用門に続く通路っす」


 泉喪は立ち上がり見取り図を指した。

「ここが柵に囲まれて、庭の犬よけにちょうどいいっす。しかも庭からもここの柵なら、人の手で開けられます。つまり八幡は……」

「俺たちを犬に噛ませたい。または、犬から逃げてここに入ったのを袋つめにして、()りたいってことか」

「はい。袋つめには(ちゃか)です。ここは(ちゃか)だと逃げ場はねっす」


 我妻の目が鷹のようになった。値踏み。空間が変質するような錯覚を青年は覚える。

 この空間が彼の領域。彼の「一家」以外は踏み入れることすら許されない場所。

 つまり、我妻は初めて泉喪を一條からのお荷物ではなく、一人の戦闘員として見たことになる。


「泉谷」

「はい」

「……おめえ、何年目だ?一條さんとこきたのは、よ」

「今年の春からっす」


 我妻は大きく息を吐いた。右手がシガレットを探すが、途中でやめる。話は途中なのだ。


「……道理でだ。納得したよ。腕はものすげえんだろうよ。一條さんがよこすんだからな。肝も据わってるし目端もきく。が、わかってねえ。暮は八幡の子供だ。若い衆の頭だ。喧嘩のためにトカゲみてえに子供を切れるのは極道(やくざ)じゃねえ」

「切っていい奴におとりの価値はないっす。切れない暮を切ることで、八幡は俺らを潰すつもりっす」


 ……酷い話をしているのは分かっていた。

 仁義の基本。親は子を守るという道理を八幡は破った。が、破らせたのは我妻の恐ろしさである。


 我妻は泉喪に応えるのも億劫(おっくう)らしく、ひたすら眉間にしわを寄せて、何かを考えている。


- ここが肝心、だ。……よ、な?-


 泉喪は腹をくくり、再び床に両手と両膝をついた。


「親分、喧嘩(かちこみ)先に行きます。犬がいたらなんとかします。俺に、先に、行かせてくださいっ!!」


 泉喪は首が吹き飛ぶかと思った。

「泉谷あっ!!」

 見取り図に飛び乗った越智の鋭い声と共に、マスターズオープンのような綺麗なゴルフ・カーブを描いて、サッカーボールキックの靴先が泉喪のこめかみに正しくインパクトした。

 さすがに脳髄をとらえられると意識が飛びかけて、青年は横に崩れるが、越智は容赦をしない。

 青年のそばにかがんで、両の拳を交差させる形で青年の襟を掴み、直立と共に締め上げる。


組長(おやじ)が考えとろうが!! 何様じゃきさんは!?」

 細いまぶたの奥がほぼ白目だ。満ちる狂気。


 泉喪はこれに無抵抗を貫きつつ、目の端で愛染を探した。

 金髪ぎゃるおはソファに体育すわり。親指の爪を噛み、越智に踏みにじられて歪んだ見取り図に見入いる。血色は悪い。体温も低下しているだろう。警護担当なら、泉喪の告げた事実、犬と袋のねずみ、が如何に絶望か分かるはずだ。


 東寺も同じく、というより元々血色はわるいので変化はわからないが、呼吸を忘れるように、通路に見入っている。


 詰め将棋のようなものだ。愛染と東寺の視線の先には、あるのだ。親が子を捨ててこそ成り立つ誘導が。


 ― それにしても、いつまで締めるんだ、よ。越智さん。―


 越智の力は増している。その拳にも二の腕にも血の筋が太く走っていた。熱量のこもった息が泉喪のあご先に荒くかかる。開かれた白目の横の青筋。


 その痙攣に、泉喪は、救命時のさぷりちゃんを思い出した。

 のんき過ぎる自らに苦笑がこみあげつつも、青年の意識は遠のき始める。

 さすがに、この状態で落ちたら首を折られてしまう。さらに、首を折られたら死んでしまう。

 彼は困った。


「越智、落ち着け」


 我妻の声に首の拘束、締め付けが緩んだ。

 青年はげほげほとむせる。涙が目じりからとめどなく流れ紅潮した頬を伝うが、今はぬぐわない。

 涙をふくよりも大切なことがあるからだ。


 そんな彼を不思議そうに見てくる我妻と、目が合った。


「泉谷あ」

「はい」

「おめえの話は、外道の外道だが、筋は通っている。何より、おめえがわんころの生贄のヤギになれば、その後の手はいくらでも打てる。が、何故だ? そこまでする義理が昨日今日の俺らには無い、だろう?

けなげな奴だってのは見りゃわかる。だが、けなげすぎるのも逆に怪しい。もっと、何か企んでんじゃねえか? 我妻組(おれたちいっか)をハメるような、な」


- だってさ。あんたらが死んだら、さぷりちゃんが死んじゃうじゃないか…!! 一篠さん、絶対迷わねえもん。-


「俺は、一篠のおやじが怖えっす。わんころよりもっす。それだけっす」


 本当だ。助けると決めた子が殺されるのは怖い。それが真実だ。


 我妻は泉喪を見上げたまま、きょとんとして、それから盛大に笑った。


「はは、はははははは。わかった。確かに一篠のおやじは怖えよな。いいぜ。おやじに免じて、お前に乗っかってやる。……越智はどうだ?」

組長(おやじ)がいいなら、俺に反対する理由はありません」

 越智は涼しい顔に戻ってソファに腰を下ろしている。そして、細い目の奥が全く涼しくない。

 が、組長はうなずき、金髪に視線を泳がせた。


「愛染は?」

「俺もおけっす」


 我妻は東寺を見る。

 同時に初老はうなずいた。


「決まりだな。泉谷。喜べよ。俺たちは乗ってやる」


 声の響きは、冒険に出かける前の夏休みの小学生のうようなわくわく感を帯びている。

 うって変わったきらきら感とでもいうべきか。


 - 切り替えが速い、なあ。この人、いい人だなあ。 -


 首をもたげる情に背筋がむずむずするのを誤魔化すように、泉喪ははにかんだ。

 そんな彼に注がれる組長の視線は柔らかい。

 我妻はしばらく泉喪を眺めてから、ソファの背もたれに背をどっかりと預けた。胸元からシガレットを取り出して、おもむろに火をつけ、吸いつつ、もらす。


「大したタマだよ、お前は。相当強いのに、わざと愛染の拳、越智の蹴りと締めを食らった。話を通すためだけに、な。相当な覚悟だぜ」


 ……脛にテーブルをぶつけたことは省くのは天然なのか計算なのか判別はつかなかったが、とりあえず泉喪は照れ隠しでおどけて、猿のように後ろ手で頭をかいた。



 長い一日も日付を越えた真夜中の1時、装備を入念に整えてから、我妻組+泉喪の一行は喧嘩(かちこみ)に出発した。

 運転は越智。助手席には東寺。右後部には我妻。左後部が愛染。

 彼らに挟まれる形で泉喪が乗り込む。


 車輛にかかる音と震動に合わせて、愛染が口笛を吹いた。

 走り出して車内をしばらく賑わしていた軽口や陽気さも、車窓の外を流れていく深夜の街並みの闇、暗い大気に蒸散。車内を沈黙が浸す。

 都会は、特に幹線道路は明け方まで電灯が路を照らしている。が、その照らしかたは控えめというより寂しい。上空から俯瞰(ふかん)すれば、夜景は煌めいているのだろう。

 そこに喧騒はない。つまり、騒がしさというものは、人の()があってこそ、成り立つものなのだろうと青年は思う。


 ― 村、を思い出すなあ。人のいない、この感じ。―


 郷愁に浸る脇を小突かれる。左隣の愛染が細く長い眉を意地悪くしかめて、首を泉喪にあずけ。青年の顎元を見上げた。

「ワンころにぶるってんのか?俺ならビビるぜ。後悔してんだろ?」


 泉喪は湿った息をのど元に感じた。キシリトールの匂い。青年は口角を上げ、童顔の瞳を覗き込む。


 ……興奮、冷やかしと嫌味、の奥の純粋な、値踏み。狂犬病のドーベルマン相手にどこまでやれるのか。泉喪の力量によって、我妻を守る愛染の取るべき動き方も変わってくるのだ。


「……犬は嫌いじゃないっす」


 愛染の瞳が大きくなった。表情から嫌味が消え、素の彼が現れた。金髪は舌打ちをこらえるように、その眉と口元を歪めて視線を()らす。そののままサイドガラスに額をつけた彼は、まつ毛の長い瞳を閉じ、何かを口ずさんだ。


 泉喪が耳を傾けると、それは聖歌(ゴスペルだった。本場の葬式で歌われるような、哀しげだが美しい旋律。行先を考えると場にそぐわないことこの上ないが、愛染にとっては意味のある行為なのだろう。

 反対側の我妻は、右のサイドガラスに肩と首を預けて寝息を立てている。


 ― 子供みたいだなあ。 ―


 泉喪が思うと、前席のミラー越しに視線を感じた。東寺に凝視されていると思ってぎょっとしたが、すぐに初老が眺めているのは泉喪ではなく組長であると分かった。

 その視線はすごみのある中にも柔らかく、口元には慈しみが浮かんでいる。


 ― 愛されているよなあ。組長さん。―


 我妻が愛されているのは、彼が組員を愛しているからだろう。

 それは人類の願望の産物である神がヒトを愛するようなものだ。

 父が子を愛するように、我妻は組員を愛している。そして、絶対に見捨てない。彼の親である一篠が見捨てた結果、泉喪は彼らの元に派遣されたのだが。


 ……泉喪の悲哀、東寺の視線におかまいなく、我妻の寝息は続いていた。


 彼らを乗せた車輛も疾走を続ける。目指すは新宿区の端。文京区との境にある住宅街だ。そこに、彼らの臨む修羅の場が控えている。


 車輛は302号線を東に進み、牛込柳町げ外苑東通りに差し掛かり、右折し、弁天町まで北上。25線にて右折。進路を東に戻し神楽坂が近づいてきた時点で道を外れる。

 ここまでは問題なく進んできた。変化は側道に入って3分ほどしてからのことだった。

「おい」

 我妻が起きて、誰に言うでもなく言う。組長の掛け声一つで車輛は停止。

 東寺が越智にうなずき、助手席から降りてカバーを開く。夜の静寂をはらんだ大気が車内に流入した。

 静寂といっても都市は静かな巨人のようににうごめいている。湿った水の匂い。川が近いのだ。


 東寺は荷台から三脚と狙撃銃を取り出し、車のすぐ脇のビルに消えていった。

 泉喪は土曜日の朝の情報番組の撮影スタッフが話題になりそうな店に入っていく姿を連想するが、もちろんそんな店はない。目の前にあるのは高いだけの建築物だ。もし、あるとしても閉じている時間である。


 東寺は暗視スコープをかけながら入っていったが、銃の射程円は、まだ八幡邸を包有しない。


 だが泉喪以外は、初老の手練れが何をするのか分かっている。

 というより、至極当然の手続きをしに行ったという空気だったので、泉喪はわずかに首をかしげる。


 同時に爆発音。震動。


「え」


 泉喪は振り返った。

 ビルの木立の向こうの国道25号線。直線距離で車輛進行方向の斜め後方およそ250mで通過してきた24時間営業のガソリンスタンドの映像が脳内に再生される。

 間をおいてサイレンの響き。


警察(さつ)払いだ。驚くことでもないだろう」

 あくびを我慢するように、隣の我妻が言った。


「なるほど、す」


 青年はそれだけしか言えない。馬鹿みたいに派手なやり口だが、合理的である。こんな、かたぎの皆様の迷惑を全く考えない方法でも、成しえることは厄介払いだけではない。


 メッセージ。


『俺たちはここまで来た。これから行く。警察は払った。存分に()りあおう』


 ……くらいは伝わるのだ。



 ビルから戻ってきた東寺は三脚と狙撃銃を戻す。その手つきはとても丁寧だが、彼の面持ちはスタンドの狙撃、爆破の前後で違いが全くない。


 ― ほんと、村っぽい。というか、この人たちのキャンプのファイアーは派手、だなあ。―


 東寺は開いた口が半開きな泉喪をしり目に助手席に乗り込み、静かにドアを閉めた。

 同時に発進。

 このあとで、他愛もない会話がなされた。内容はタンクの爆発のし方、炎上した給油車、消防車の到着時間などなど。

 彼らには普通の事、なのだろう。ずっと、これからもマイム・マイムの踊りを続けるつもりである。

 しかし泉喪は来てしまった。

 終焉の静寂が迫っていることに青年が悲哀を覚えている間に、車輛は目的の住宅街に差し掛かる。


 その住宅街は街というには小さすぎるかもしれない。

 再開発の波から身を寄せ合うようにひっそりとした昭和の空気が漂うその街に、区画は数えるほどしかない。その北の端に不動会八幡組組長の邸宅がある。

 文京区の境に沿って敷地は複雑に歪んだ曲線を描く。全体としては東西に伸びる楕円を成しており、囲むように生垣とその奥の庭が緑をなしている。が、深夜も2時にさしかかろうとしている闇の中では、暗く不吉な印象しかうけない。その生垣のさらに外は、細胞を囲む膜のように鉄柵が隙間なく屋敷を覆う。


 庭の奥には江戸屋敷を無理やり洋風にしたような現代と近代をごちゃまぜにしたような前衛的な邸宅が構える。が庭木の陰に隠れるように配置されているので、昼に屋敷の前を通るものは、立ち止まって色々しないと邸宅の全貌を眺めることはできないだろう。


 国道の爆発は八幡組(かれら)にも伝わっているはずだが、正面から眺める邸宅は闇で息をひそめている。犬の鳴き声もしない。

 が、色々な物陰から漂ってくる殺気に、泉喪の背はむずむずした。


※※※※※※※


「わんころ、いないとか、そんなオチなら笑うぜ」

「……俺が入ったら、すぐ閉めて下さい」


 愛染は泉喪の返答に舌打ちをした。


「お前本当に可愛げがないな」

 暗闇に色の沈む前髪をかすかに風に揺らして、愛染はうつむき門の錠に銃を両手で構え、そのまま吹きとばす。使われた弾丸は44マグナム。装填されている最後の一発だ。

 これ以外の5発は全て八幡組員達の人体にめり込み済である。


 前哨戦はすでに終わっていた。鉄の扉が横に小さくずれる。続きの始まりだ。


「俺たちは、お前がどうなろうが、どっちでもいいように動く。つまり、お前がこの先に入ったら、それで仕事はクリアしているってことだ」

「愛染さんって」

「あ?」

「意外と優しいっすね」


 青年の正直な感想だった。


「死ね」

 金髪の童顔は舌打ちとともに言い放ち、門を成す鉄柵を横に引く。広くなった隙間に、泉喪はその体を滑りこませる。


「じゃあな」


 声と共に愛染は泉喪の後ろで門を閉めた。鍵の代わりに手錠で柵をふさぎ、身をひるがえす。

 が、青年は返事をしない。余裕が無いからだ。


 中型犬ドーベルマンが2匹、並んで駆けてくる。その奥からも2匹。さらにその奥からも同数。

 そりの無い犬ぞりみたいだと青年は思った。またはサンタのそりをひくトナカイたちとも。

 もちろんサンタは不在だけれど。


 犬たちに鳴き声は無かった。狂犬病で、鳴くことすらできないのかと、泉喪は哀れを覚える。


― 可哀想、だなあ。 ―


 ドーベルマンたちはゆるい曲線を左右に描きながらも、結果的に真っすぐに泉喪に駆けてくる。その姿は父親に駆け寄る幼児(おさなご)を彷彿とさせた。


 泉喪も父が子を迎えるように狂犬達の前にしゃがみ込み、両手を広げる。噛まれたり、唾液や血液が粘膜に付着した時点で終わる。死ぬ死なないはともかく、行動不能になり、仕事は失敗してしまうのだ。極限の感覚に、泉喪の背筋の毛は逆立つ。


 ドーベルマンのしなやかな肉体たちが、丑三つ時の闇に溶けるように跳躍。その鼻先にむき出しの牙が並列を成す。一本一本がとても鋭く尖っていた。表面を濡らす唾液が月明かりを反射している。


 泉喪はつま先立ちでしゃがみ込んだ。あまり(かれら)の口元に集中すると、狂犬の唾液が角膜に付着するかもしれない。それは避けたい。


「暗視スコープはいいのか?」

「はい。裸眼の方が集中できるっす、俺」


 断ったのをかすかに後悔しかけるが、思い直す。人工的な視界では、自然にふるまえない。そう。大切なのは、自然に振る舞うことだ。


 右にステップ。向かって左側の狂犬は後部の柵に突っ込む。右側も突っ込みかけるが、青年は地上70㎝上空の左脚先を両手で包むように(つか)む。そのまま円盤投げのように回転。

らせん状に直立しつつ後方に()って上空、柵の向こうの暗い夜空に放り投げる。

 星は見えない。犬もどこまで高く上がるのか、泉喪には見もしない。が、飛び掛かられる横のベクトルをらせんで上方に変えた分、かなり上空に浮いたのは分かる。

 それに、彼には見る余裕がない。

 左側、柵に突っ込んだ一匹が体勢を立て直して飛び掛かってきたからだ。


 青年は右に避けつつらせん状の動きと共にしゃがみこみ、やはり同じ動きで柵の向こうに放り投げる。

 降り注ぐ唾液のシャワーが描く放物線を螺旋の動きで避け切った時、遠くで、ずだ袋を地面に打ち付けるような音がした。


 ― 悲鳴も上げれないのか。可哀想だなあ。―


 犬は猫ではない。体の構造上、受け身が取れない。しかも、柵の向こうは舗装済の硬いアスファルトだ。青年は、落下の衝撃で肉と骨が砕け血が飛散しても届かないほど、犬の肉体を高く、そして遠くに投げておいた。


 ― でも、大体分かった。 ―


 先生ほいくしとの会話を思い出す。

「まず、大きな動きで力のやり取りを覚えよう。コツを掴んだら動きを小さくしてみよう。で、目指すは最小限だ。その方が動作の隙も少なくなるからね」


 すでに第二陣は2m前方まで接近済み。今度は、できるだけ動きを小さく、理想は太極拳のように腕の回転だけでほおり投げること。



 ……暗い上空にほおった番犬が10匹を越えた所で、狂犬たちの成していた列が尽いた。

 泉喪は

「ぶはあ」

 と大きく息を吐く。


 呼吸を忘れていた。髪の生え際から眉に向かって、汗がいくつもの筋を作っていた。青年は後半、そこまで動いていない。こめかみに痛みを覚えるほどの集中と弛緩(しかん)。鼓膜の奥の三半規管が揺れ続けている。船酔いのような感覚。


 ー 先生なら、もっと涼しい顔でできるんだろうけどさ。 -


 泉喪は胸元からスマホを取り出し、愛染に連絡。


「おう」

「終わりました」

「そうか」

「前庭は片付けました。屋敷ん中はわからねえっす」

「そうか。漏らしがねえか、確認したら、邸宅内(なか)で合流しろ」

「はい」


 唐突に通話は切れた。ねぎらいも驚きも伝わってこない通話だったが……。


- 愛染さんとは、うまがあうかも、なあ。 -


 と思ってしまう彼自身に軽くため息を漏らしつつ、青年は辺り、闇がパイ生地のように平たく伸ばされた前庭を見回す。

 犬の気配は無かった。そもそも狂犬のいいところは、無闇やたらに突進してきてくれることであり、隠れて気を伺うような健康な狡猾さがないのは、ほうってきた犬たちを見ても分かることだ。

 それでも、愛染たちのためには、彼の言うとおり、漏らしをしらみ潰すことは肝要である。


 青年は門から屋敷を遮るように茂る木立に向かって歩く。

 狂犬の隊列は木立を発生源としていた。残りがあるとすればここであり、実際間違いではなかった。


 足を少し踏み入れたところで泉喪は複数のチタンゲージを発見。1つを除いて全て開かれている。

 鍵で閉じたゲージの中には子犬が一匹。ドーベルマンではなく、ヨークシャーテリア。

戦闘犬ではない。うずくまるようにして背を低くし吼え始めたので、首をかしげると、かさっと、葉を踏む音がした。(こずえ)の影から白刃がきらめく。

 サイドステップで刃の軌道をかわしつつ後ろを取り腎臓にひざを入れる。

 と、人影は低くうめき前のめりに二の腕を地面についた。ナイフは手をつく前に落としている。


 ー 刃物(えもの)を落とした。どういうこと、だろ?-


 戦闘で武器を手放すのはありえない。陽動でほおる場合もあるが、今の落とし方は握りきれなくて落としたという感じである。


 ー 戦闘慣れしていない、のかな?-


 状況的にありえない。足音を立てるまでの、気配の消し方は見事だったが、そんな芸当ができるなら、そもそも足音などたてないだろう。


 疑問はすぐに解消された。振り返りざまに飛び掛ってきた男に、木立を覆う闇の中でも見覚えがあった。昨日の代々木村で指揮を執っていた男前。


 泉喪の肩をとらえようとする両手には噛み傷がついていた。新しくは無い。わずかに震えている。首を傾けた男の顎は大きく開いていた。喉を噛み千切りに、きている。


『けたみんをじゅんびしろ』


 昼間の口元を思い出す。足元のドーベルマンの獣臭。手には無かった噛み傷。握力の低下と震える手元。つまり、この男の肉体は狂犬病に侵されている。

 そこまで考えて、泉喪は違うと否定する。

 男が進んで、犬に噛ませて、病原菌に自らを浸したのだ。全ては……。


ー 我妻組壊滅(けんか)のためだけに、よくやる、なあ。-


 噛まれても、唾液や血と接触しても感染する。普通なら戦闘(やりあい)も難しい。


 ― けど、俺は村人だから、なあ。ー


 泉喪は男の脇と梢の間をするりと抜けて。再び背後を取り、やはり腎臓にひざをいれ、男の手が地を突く前に延髄を(かかと)蹴り。


 ― ふうっ。ー


 刹那、すねを噛まれかけた。ヨークシャーテリアが足元に来ていたのだ。

 牙をよけた脚で、そのまま頭部を踵で砕きつつ、青年はひやっとした。


 ー 手が込みすぎだろ。ごめんよ、わんちゃん。 -

 罠の主は地面にうつ伏せで痙攣。つまり息はある。


 泉喪はしばし考えた挙句、とどめを刺すかわりに、男の衣服をまさぐり、2本の薬品瓶と注射針を一本取り出した。

 ……ケタミン。狂犬病治療薬だが投与すれば治るといえるものではない。そもそも完治例自体が極端に少ない。ケタミンは狂犬病原菌を攻撃する薬品ではなく、免疫力が病原菌を駆逐する力をつけるまで、

脳を眠らせる薬なのだ。というのも、脳は狂犬病菌には攻撃されないが、全身を浸す病原菌に混乱を起こす。その混乱が死を招く。ならば脳を眠らせればいい……という着想を元に開発をされた薬なのである。



 ー 2本は打ちすぎだよなあ。多く打てばいいってものじゃない。 -


 用量を間違えて大量に投与すると、昏睡が深くなり、二度と起きないという劇薬なのだ。


 泉喪はため息をついて、注射器に一本分の薬液を満たした。男の腕をまくりあげて、彼の太く青い静脈に注射。


ー 死ぬか生きるかはあんたの次第だけどさ。一本もらってくお礼、だよ。-


 青年は注射針を男の(かたわ)らに置いて、立ち上がり、通用門方向に愛染たちを探すべく、その目を闇に凝らした。


※※※※※※


 (はや)いと、泉喪は思った。


 通用門付近から始まった戦闘。


 愛染は我妻の援護をしている。組長は正面から通用門(せんじょう)に立ち入り、構えた散弾銃で手当たりしだい撃つ。愛染は彼の前で、端から隠れ撃ってくる八幡会、我妻が残した分を、両手で構えた拳銃で丁寧に掃除する。弾はマグナム44。破壊力があり、八幡会(てきさん)の防弾チョッキの隙間を正確に縫い砕いているのが遠くの泉喪にも分かる。


 越智と東寺は、泉喪が犬を祓った前庭を、通用門から勝手口に向かう通路に向かって斜めに進む。

 越智は構えたハンドガンで、我妻を狙う八幡会を手当たりしだい撃ち、東寺は屋敷二階の狙撃手を、長銃で狙撃する。


 通用門には川が近いので、水の匂いが漂う。火薬の煙も風に乗ってくる。血の香りも。


 初めは拮抗(きっこう)していたその撃ち合いも、あっさりと我妻組に形勢は傾いた。

 配置されていた人員数は八幡組が圧倒的だった。35人である。

 暗視ゴーグルに黒の防弾チョッキに身を包んでいるにしても、約9倍の彼らにたいして、挑むなど、そもそも無謀だし、普通は壊滅、よくて劣勢の喧嘩(かちこみ)なのだが。



 ー 踏んでる場数と戦術かあ。 -


 単純な話だった。

 我妻たちを前庭から通用門通路に追いたて袋のネズミにするために前庭に準備されていた狂犬たちは、泉喪がひきつける。広大なフィールドを我妻たちの手中に入れ、側面攻撃を実施。

 通用門通路方面で構えていた八幡会は、正面の我妻、愛染、斜め前方から襲撃してくる越智、東寺

によって逆に袋のネズミになった。

 囲んでしまえば、人数は関係がない。傾いた形勢はやがて圧倒的になり、最終的に、我妻組の一方的な殺戮に終わった。


 この直前に、泉喪は


 ー あ、ぼーっとしてたら怒られる、よな。ー


 と思い、邸宅に正面から侵入。

 屋敷内の見取り図は頭に入っている。通路をゆきつつ、監視カメラに目をとめてはレンズに会釈。

 カメラの向こうの、八幡組長(おやぶん)の心境を思い図ると苦笑いしかでない。

 が、とりあえず、勝手口方向に向かう。

 戦闘(やりあい)が起きているかもしれない。その場合は、我妻組と対峙する八幡会残党の裏を泉喪がつく。これは青年の判断である。


 通路の果てから響く発砲音が向かうにつれて大きくなったが、角を曲がって青年が戦闘の場に着くと、ちょうど最後(とどめ)の一発を打ち終えた我妻と目が合った。


「おう」

「お疲れ様です」

「お前ほど、じゃねえよ。たいした活躍だ。おかげで鼻歌も歌えたぜ」


 我妻はまぶたを柔らかく落として笑った。青年もつられて笑う。


 硝煙と流血にフローリングの床やクリーム色の壁は赤や茶色に汚れている。肉の塊である元人体がそこらかしこに転がっていた。村人にとっては見慣れた景色。


「とりあえず、皆さん無事で良かったです」

「……たりめえだろ!! なめんじゃねえ」


 愛染が割り込んできた。


「あ、どうも。前庭は終わりっす。犬使いもつぶしました」

「見りゃ分かる。噛まれたか?」

「いえ。犬は慣れてるんで」


 我妻が破顔。

「ははは、大したもんだ」


 とても照れる泉喪から、愛染は視線をきった。その先には向かいの角から現れた東寺と越智。

 2人も丁度、掃除を終えてきた。

 どうやら挟み撃ちの予定だったらしい。予定は外れて終わったが、良いはずれ方だと泉喪は思った。


「怪我はないですか?」

「ない」

 問う愛染に東寺が短く答え、越智がにやにやする。


「危なかったくせに」

「あれは、そう見えただけだ。おまえなら死んでいたかもしれんが」

「はいはい」


 軽口を叩き合う二人は別の窓から侵入し、通路の組員を掃除してきたらしい。

 黒の防弾チョッキが二人とも血まみれで、仕事を終えた後の塗装工のように真っ赤である。


「とりあえず、揃ったな。じゃあ、行くか。八幡探しの始まりだ」


 我妻に全員がうなずく。泉喪ももちろん、つられた。


※※※※※※


 ……その部屋は二階の最奥にあった。

 部屋の前には男が2人。

 真近から見る愛染の射撃に、泉喪は感心した。

 反射と言っても良いそれは、両手で構えから狙いを定めて打ち込むという一連の動作を、とても忠実に

行っていた。ロサンゼルスで習う射撃の教本に出てきそうな綺麗なフォーム。彼の放ったマグナム44は正確に組員の頭部を撃ち抜いて、後ろの壁にめり込んだ。


 同じ刹那に我妻が散弾銃を構えるが、フォームは荒い。肩と首の肉を赤くえぐり飛ばす。むき出しの骨と血は屠殺の場の牛肉を彷彿(ほうふつ)とさせた。

むせるような血の臭みが廊下の空間に満ちる。


 我妻は

「こっちが正解か」

と呟いた。

 越智と東寺は我妻から分かれて地下の捜索に向かっていた。

 我妻達とは逆方向である。



 壊滅状態の八幡組が最後に守る部屋の両脇に、我妻と愛染が構えて控える。

 金髪が泉喪に目配せをしてきた。


 ― はい。この場合は俺ですよね。―


 どういう反撃(りあくしょん)が部屋からくるのか分からないのだ。が、突入の必要がある。というより、そのために来たのだ。


 泉喪はうなずいて、全身をばねにして、肩から扉にぶち当たった。

 樫材の板は(きし)み、奥に開く。


 桜色のネグリジェの女が、青年の視界に飛び込んできた。

 灯りのない室内。窓から左斜めに差し込む月明りに照らされながら、女は室内の闇に浮かぶように、ダブルベッドにその腰を下ろしている。

 組んだ脚から覗く白い太ももは艶かしい。ベッドの端についた両腕は細く、開いた襟元から鎖骨がくっきりとしたラインを形作っている。華奢で、胸はそこまでないものの着衣の上からでも、その形の良さは見て取れる。髪は亜麻色のセミロング。毛先が肩や首元にかかっている。

 鼻筋がすっきりと通った鼻梁と、その下の、厚く、肉感的というより(みだ)らな唇。

 自然で長い眉の下の黒めがちな瞳は目じりが上がっている。

 月光の銀糸に浮かび上がる彼女の輪郭は、男たちに、魔女のような印象を与えた。


「なんだよ、不正解か。……だが、まあ。上玉だな」


 泉喪の後ろから室内を覗き込みつつ、我妻は言った。

 その声の響きは、肉食獣の舌なめずりに近い何か……欲望をはらんでいるのが分かったので、泉喪の頬から血の気が引いた。


 我妻が懸想をしている。

 泉喪は彼に、一篠の(もよお)す乱痴気騒ぎの客と同じ類の獣性を感じた。

 つまり、目の前の肉体相手に自らの暴力と性的欲求をどう満たすか、という思考。それは若干の遊び心も含む。如何に手早く2つの衝動を満たすかという命題(ぱずる)嗜虐(しぎゃく)的思考に双眸を輝かせる我妻に、泉喪は突然言った。


「俺、こいつとやりたいっす」

「お?」

「先行ってて下さい。手早く済ませます」


 愛染の豪速(すとれーと)を避けた。今は受けている余裕など、青年にはないのだ。金髪の追いすがる拳をひたすら避けつつ、彼の脳裏を『制圧』という言葉がかすめるが、さすがにそれは駄目だ。

 とにかく、組長から視線を()らさない。


 我妻は、きょとんとしている。


「俺、こいつとやりたいっす。」

 泉喪はもう一度言った。時間がない。さすがに、これは無理だと泉喪は思った。


― くっそ。守り切れない……!! ―


 我妻が小さく手のひらを振ったので、愛染は止まった。

「組長、こいつナメてます」

「ああ。だが、面白えじゃねえか。泉谷あ」

「はい」

「念のため、訊く。お前、こいつとやりたいんだよな?で、俺らに先に行けと」

「はい。人前でやるの苦手なんで。でも、こいつとやりたいんす」


 泉喪も我妻も、女の額に指をさしている。

 指された彼女はベッドの端に腰をかけたまま微動だにしない。が、月光の中でかすかにその眉をしかめた。


 我妻は泉喪の瞳をまじまじと覗き込んでから、笑いはじめた。とても可笑(おか)しそうだ。そして不吉である。

 青年は、場にそぐわないだだをこねていることは承知している。が、引けない。


 不意に、我妻は笑いを止めた。


「……いいぜ。わんころ退治の褒美だ。楽しめよ。お前とこいつの因縁は問わん。安心しろよ」

「ありがとうございます」

「ま、どういうつもりだろうと、だ。やる、って言ったんだからよ。ちゃんとやれよ。三こすり半で終わらしたら承知しねえぞ。愛染に確認させっかんな。気合入れて楽しめ」


 愛染は露骨に嫌な顔をして、泉喪をにらみ舌打ちをした。それから、すでに通路の向こうに歩きだした我妻の背中に向かって、身をひるがえした。


 泉喪は安堵のため息をつきつつ、後ろ手で扉を閉めた。女に向き直る。


「なんで、藁卑(わらび)。お前がここにいんだよ?」


 言いつつ、へなへなとしゃがみ込んだ。


「それ、あたしが言いたいんだけど。ばっかじゃないの? ほんと、バカみたい」


 中性的でハスキーな声が響く室内の闇には、色々な匂いが満ちている。

 すえた鉄のような粘液の香り。アンモニア臭。汗。血液。


 泉喪は納得した。


 ― つまり、八幡邸(ここ)藁卑(こいつ)餌場(えさば)なんだ、な。―



 

 ……藁卑は泉喪と同じ、村人である。


休暇中(おふ)って噂は聴いてたけど、何でこんなとこ来んのよ。任務なの?」

「いや、俺は休暇中(おふ)だよ」


 青年がしゃがんだまま答えると、藁卑はため息をついた。


「殺し合いのお休みに殺し合いしてたらお休みじゃないじゃない」

「そりゃ……お前。色々あんだよ」


 藁卑の言葉は正論である。任務の後の休暇という、しっかりと休むべき時に全力で走っている。

 呆れられて当然だが、泉喪はひけない。


 流れる沈黙の中で、藁卑の亜麻色の髪に月光の銀糸がやどり、ゆらめく。


「そう」

「お前は、どうなんだよ? やっぱ、ここはお前の餌場なのか?」

「その言い方やめて」


 藁卑は眉をきつくしかめた。


「あ、悪い」

「あんたのそういうデリカシーのないとこ、ホント最低。八幡は私の彼氏なの」

「そっか。でも、困ったな。……俺は八幡さんを狩りに来てる。ちゃんと言うと、狩りのサポートだけど、さ」

「見りゃ分かるわよ。派手にやらかしといて」

「だよ、なあ」


 沈黙。気まずい。泉喪は、月光が止んでくれたらと思う。


 藁卑はため息をついた。


「私は八幡を狩る者を摘むつもりでいた。見られたくないから動けなかったけど。あいつらがここの部屋に来たってことは、もう構わない、わよね。屋敷(ここ)にはあいつらと八幡しかいない」

「そうだな。もう、いないんじゃないかな」


 亜麻色の髪の彼女は、すっとベッドから立ち上がった。

 ネグリジェの(すそ)の桜色がふわりと暗く揺れる。



「私はこれから、あいつらを殺しに行く」

「それは困る。俺はあの人たちを守りにきたんだ」


 つられて立ち上がりつつ、泉喪は答えたので、藁卑はとても美しく口角を上げた。


「こういう時は、やっぱり……じゃんけん、よね」

「そうなる、かあ」


 ため息まじりの泉喪に向かって亜麻色が一歩踏み出すと、ずん、という音がして彼女の横幅が一瞬で二倍になった。

 筋肉の膨張。筋走り浮き立つ血管。腕も脚も首も顔もこめかみも、はちきれるほど太くなる。

 変わらないのは形の良い乳房くらいだ。


 ― 藁卑の因果は、悲惨だ。こいつは自分の体の中で、ホルモンの元を作る事ができない。だから、人から貰う必要がある。 ―


 もう一歩踏み出すと、再び同じ音が室内に響き、さらに二倍になる。ピンクのネグリジェはびりびりに裂けて、床にはらはらと落ちた。まるで桜の花弁が落ちるように。


 ― 人の分泌物の中にある、ホルモン目当てに。おしっこを飲んだり、うんこを食ったりしなきゃいけない。(ぱーとなー)に毎晩抱いて出して貰えればそれが一番いい、けれど、必要な量がどうしても違う。だから、どうしても足りなくなるし飢える。飢えはこいつを人の血を飲む衝動に向かわせる。ご先祖様が、ドラキュラ伯爵とサキュバスだもんなあ。 -


「あんたのそういう目、嫌い。因果かいじんののろいから逃れ得た者って、ほんと上から目線よね。

それはたまたまに過ぎないのに」


 身長165㎝の藁卑は泉喪の顎元に真っすぐ立って、彼を見上げている。

 彼女の肉体は膨張しきり、球体に近い。全て筋肉だ。脛も太腿(ふともも)も腰元も腹も肩も首もあり得ないふくらみを見せている。あられもない姿に色気という物は全くないが、不均衡(アンビバレントに亜麻色の陰毛やセミロングな髪が窓から差し込む月光を受けて、煌めいている。わずかに湿る陰毛。極度の緊張状態によって、自然に微量の失禁が起こっているのだ。



― ホルモンが作れない代わりに、ホルモンを操作できる。急激な変化で体にかかる負担は半端ないけれど。怪力の戦士にも、一瞬で変われる。高濃度フェロモンを出して気絶させたり、心停止だって起こせる。よく、停められたもんなあ。おかげで俺は、女の子のフェロモンはトラウマになった。-


 頭部は川辺に打ち上げられた水死体のように膨張。クルミのように頭部、顔面全体に血管がギシギシしている。剥かれた白目と瞼の境から黒目が小さくのぞき、静かに泉喪の瞳を覗き込んでいる。


― こういった話は生き物の世界では特に変わったことじゃない。蝶は産卵のホルモンを他の動物の尿を吸って補う。アンモニアがホルモンの材料だからだ。けど、やっぱり人間からしたら異常だから。化け物と言われてビビられる。でも、こいつは『ふん』と鼻を鳴らすだけだけど、それでも、やっぱり傷つくんだろうな。 ―


「わりい。とりあえず、やるか、じゃんけん」


 青年の言葉に、藁卑は白目と犬歯をむき出しにして笑った。


「いくわよ。……じゃんけーん」


 泉喪も合わせて構えつつ唱和。


「じゃんけん」




「ぐ」

「ぱあ」


 ごうっと岩石のような硬い拳が流星のような速度で顔面に飛んできたので、青年は手のひらの、ぱあ、で受け、衝撃を床に流す。受けきれない場合は即死だ。


   拳


 を


   掌


 で受ける形。


「うう」

藁卑の声と拳は続く。


    拳


 を手のひら


掌 

    掌


 の形で受け止める。



「ううううう」


拳  拳

 拳   拳


 を


掌  掌

 掌   掌


 で受ける。


「ううううううううううううう」


拳拳   拳拳

拳 拳拳

 拳    拳拳

拳拳   拳



 を


掌掌  掌掌

掌 掌掌

 掌   掌掌

掌掌  掌


 で受ける。


「うううううううううううううううううううううううう

ううううううううううううううううううううううううう

ううううううううううううっ!」


拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳

拳拳拳拳拳拳拳拳



 を


掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌

掌掌掌掌掌掌掌掌


 で受けた。

 手のひらを合わせるだけ、予備動作に差がある。拮抗する実力なら、その差の分、負けようがない。


 ― けど、床が。それに、こいつの体力(ほるもんすとっく)持つのか? -


 床にひびが入り始めた。危機感。


 ― 床に流せないと、死ぬ。 ―


 藁卑も体力が尽きると、つまり体内のホルモンが尽きると、彼女は干からびて死ぬ。限界や後先を考えない乱打。


 ― ……使う、しかないのか?―


 と青年が思った時、拳が()んだ。

 泉喪を見上げていた瞳には、黒がもどり、体表に走っていた無数の青筋も白い肌の下に沈む。

 彼女の上気した呼吸が、落ち着きを取り戻していく。

 興奮から冷静。同時に彼女の肉体もしぼみはじめ、亜麻色の髪を湿らせるような湯気を残して、藁卑は女性に戻った。

 銀糸を帯びる髪。小ぶりな顔。通った鼻筋に、淫らな唇。白く華奢な肩と鎖骨のラインの下はあられもなく、青年は思わず目を()らせる。


 ― 良かった。終わった、よな。うん。良かった。-



「ふんっ!」

「げほっ」


 藁卑が逆手に繰り出した掌底が、泉喪のみぞおちに直撃。不意の光速。

 衝撃に呼吸を封じられ、自然に泉喪の両膝がひび割れた床に触れた。

 彼は藁卑の乳房の陰を下から見上げた。


「おま、え」

「油断しすぎ。ばっかじゃない」

「ま、あな。……くっそ。負けた」


 藁卑がその眉を美しくしかめた。


「は? あんたの勝ちに決まってんでしょ? あたしの全力の拳を、あんたが全部、受けきったんじゃない」


 泉喪は立ち上がる。


「俺も、一生懸命受けた。……いいのか?」

「あたしの全力とあんたの一生懸命を一緒にしないでよ! いいに決まってるでしょ。それに、今のは、ぱあ、よ」

「そうか、悪いな」


 頭を一度下げてから、泉喪はその拳を握り、自らの鼻先にぶつけた。

 ごきっという音と衝撃がして鼻骨が折れたのが分かる。

 赤い液体が鼻腔から唇、顎を伝うので、彼は手のひらでぬぐい、そのまま藁卑の柔らかな頬に(なす)り付けた。


「何すんのよ? きったない!」

「俺が守ってる人達に、カモフラージュだよ。お前は俺に襲われた。服も破かれた。俺を殴って殴られた。顔中血だらけにされて俺にやられた。……て、事にする」

「……ふん。童貞のくせに」

「……、……、……はっ!? な、何で俺が童貞だってわかるんだよ?」


 藁卑はぷいっとその小さな顔を背け、亜麻色の前髪が横に揺れた。


「焦る姿も童貞臭い。丸わかりよ。あんた色気無いし」

「は? 何言ってんだよお前? は? わけわかんねえ! 今お前全国の童貞を敵に回したぞ!」

「くっだらない。相変わらず、あんた馬鹿よね」

「バカバカうっせえなあ」


 青年は頭をかきたかったが我慢する。元々、昔からこの幼馴染とはウマが合わないのだ。


 すると、足音が近づいてきた。このリズムは愛染。

 泉喪は重心をわずかに落として藁卑の裸の腰にかがみ、膝の裏と背に腕を差し入れて抱え上げ、寝台に運び、柔らかく下ろす。


「なに、よ?」

「台本の続きだ。お前は俺にきつくやられてベッドで息も絶え絶えだ。実際、体力尽きてるだろう?」


 藁卑は答える代わりにシーツで顔を隠した。

 裸のままだし、隠すのは体だろうと思うが、ここら辺の女ごころは全くわからない。


「……八幡さんだけどさ」

「あんたたちの、好きに、してよ。弱者は強者の(さだ)めに従う。それが、村の掟でしょ」

「ま、そうなんだけどさ。できるだけ、助かるように頑張るよ。なんたって。お前の彼氏さんだかんな」

「……ばか」



 消え入りそうにかすれた声に、泉喪は苦笑をした。

「じゃあな」


 踵を返し部屋を出ると、ちょうど扉の前まで来ていた愛染と目が合った。

 途端、爆笑される。


「はは、ははは。お前、なんて(つら)してるんだ」

「ああ。気が強い女だったっす。強すぎて鼻折られました。……中、見ますか? 女、血みどろっすけど」


 金髪は舌打ちする。


「なんで俺がてめえが使った後、を見なきゃいけねえんだよ。女は叫び方は酷かった。こっちまで聞こえてきた。確認はあれで済んだ。行くぞ」


 愛染は踵を返し、泉喪が追おうとする。

 と、金髪は泉喪に背を向けたまま、ぽつりと言った。


「お前も同類なんだな。俺たちと」


 その声はいささか寂寥(せきりょう)を含んでいる。


「へへ。照れます」

「……ほめてはいねえよ」


 ― 俺の同類は藁卑だけどさ。安請け合いしちゃったな。また、面倒なことを。……ほんと、俺。何やってんだ? ―


 泉喪は鼻の骨を戻しつつ、再び、彼自身を殴りたい衝動に駆られた。それは全力で。


※※※※※※※


 八幡邸の地下は意外と広く、入り組んだ真暗い通路の至るところに資材やら何やらが転がっていた。

 

 越智も仰向けに転がっている。

 通路最奥のシェルターを無理やりこじ開けようとしたら電撃が走ったらしい。


 暗視スコープを額に上げて東寺が救命しているところに、我妻、愛染、泉喪は到着した。


「生きてんのか」


 問う我妻に東寺は首を横に振り、泉喪と目が合った。

 顎で口元を指した初老に泉喪は

「はい」

 とうなずいて、越智の首のそばに膝をつく。それから大きく口を開け、息を吹き込み始める。

 東寺のマッサージの波動が、心停止中の心臓から胸、首を伝い、顔面から青年の唇にも及ぶ。


「この型は、電源切らないと無理ですね。福建マフィアが使ってました。最近はやってんのかな」


 愛染は越智に眼もくれない。代わりにシェルターの錠、とても分厚い鉄、にしゃがみ込んでつぶやく。

 その手は扉を触れない。


「C4爆弾でも行けますけど。つけてる間にびりってきたら、越智さんになります」


 我妻は眉をしかめ、東寺は無言で越智の救命行動を続ける。

 びくんと、越智の大柄な肉体全体が痙攣した。

 戻ってきたのだ。呼吸も回復。唾液が泉喪の口腔に入った。


 ― 良かった。さて。 ―


 青年は見取り図を思い出す。電気系統図に電気ショック的なアンペアは記載されていなかった。

 つまり、狂犬と同じく……。


 ― 情報が(ふる)い。 ―


 この先に八幡がいることは間違いがなかった。が、届かない。


 ― 天の岩戸みたいだなあ。違いは神様と組長。でも、さ。―


 時間がある、ということだ。扉に仕掛けられたショックの電源は、十中八九、シェルター内部にある。

 外に置いておいていじられたら意味がない仕掛けだ。


 機械仕掛けの扉の奥で、警察なり不動会の救援なりを待つ。戦略的にはとても正しい。そして、とてもありがたい。我妻達は、手が出せない。出せるのは……。


「俺、ダクト見てきます」


 我妻はうなずき、愛染は

「つけとけ」

 と言って泉喪にほおる。

 受け取ったのは暗視スコープだった。


「ありがとうございます」

「お前が罠にはまっても俺は助けねえ。芋づるは避ける」


 ― なんつうか。愛染さんって、つんでれ、だよな?―



 喧嘩(かちこみ)に同行して、青年は分かった。

 一番の手練れは東寺だが、一番、周りを見ているのは愛染だ。つまり我妻の采配は正しい。


 移動の要は越智。情報は東寺。警護は愛染。そして統率は我妻。よくできている。


 ― 見込みが違ってきたなあ。―


 折れて戻した鼻骨の痛みに涙目になりながら思いつつ、ため息をついて、ダクトに続くそこまで高くもない天井を開くと、堆積していたホコリが大量に落ちてきた。泉喪は盛大にむせる。


 ……狭いダクトを垂直方向に登る時間がしばらく続いた。

 ダクトを含む天井裏は全体に排気熱がこもり、蜘蛛の巣やらちょっとした凹凸の至る所に蛾や油虫の死骸が散らばっている。

 都会とか東京都とか新宿とか関係ない小さな大自然なのだが、虫嫌いな藁卑がここを通ったら、滅茶苦茶不機嫌になるんだろうな、と泉喪は思う。


 脳内の見取り図の写しから探すべきは、八幡(もくひょう)のシェルターの天井裏に至る(みち)ではなく、彼の部屋へとつながる少しでも高い場所だ。


 そこにたどり着きたくて、青年はくしゃみやせき込みを続けながら、結局2階まで来てしまった。

 ほこりを吸いすぎて肺に痛みを覚えるが、それが我妻組のマイム・マイムに対する悲哀なのか、単純に環境的に苦しいのか、分からなくなってきた時に吹き上げて来た爆発音。

 ダクトの遥か下方からだ。


 ― 指向性爆弾、C4をいじったのかな? -


 下を見ると、ダクトの果て、侵入してきた天板の位置に四角く切り取られた光があったので、泉喪は眉をしかめた。ついでに涙もさらに溢れだす。


 ― 電気が()いた。急がないと。 -


 愛染たちは方法を見つけ、実行している。が、不思議ではない。結構な時間が経ってしまっていた。


 泉喪は垂直から平行に変化したダクトを横に這う。脳内の見取り図に沿っていくつかの分岐を過ぎた末、ようやく目標地点に到達。

 二階の天井裏。外壁に隣接。八幡の地下シェルターの機械仕掛(いりぐち)とちょうど反対側だ。


 シェルター付近には感電ショック的な罠も巡らされているかもしれないことも。さもありなんだが、ここはただの、光ファイバーなどが外部から繋がるケーブルダクトに過ぎない。

 目の前の、鉄パイプほどの太さしかないその配管が、八幡のシェルターまでつながっている。


 ― さ、使うか。 ―


 泉喪はその懐からケタミンの小瓶を取り出した。狂犬使いの男前から拝借してきた逸品である。パイプのたもとに置き、左耳のピアスを外して集中する。涙も鼻水も埃の中で止まることを知らないし、口は半開きだけれども、くしゃみと咳は止まる。


 深い集中。


 それは、穏やかな、意識が原初の闇に(かえ)るような、そんな錯覚さえ覚えるほどの、静寂。




 ……泉喪は、水が飲みたいと思い、(ほこり)でざらついた唾を飲み込んだ。


 終わったのだ。ピアスを左耳に戻しながら、


― どっかで水でも飲んで、ついでに(すず)んでもいい、かな? ―


 と思いつつも、体はダクトに向かって、一路後方に這う。そのまま滑り下りる。

 鋭角に開いた両足の靴の踵で速度を調整しつつも、上りより下りの方が断然速い。下方から、四角い光が急速に迫ってくる。


 落ちるだけなのだから、当たり前だけれども、この手軽さは彼にはありがたかった。天板を抜ける。



 愛染が見上げていた。まつ毛の長い瞳が大きい。目を丸くしている、とも言う。

 とっさに天板のへりをつかみ、横に体をねじりつつ、壁を蹴って青年は斜めに飛ぶ。

 延髄蹴りのようなモーションで、壁に激突。


 ― いっってえ。 ―


 C4爆弾の硝煙ですえた匂いの壁に体を擦るようにして、床に落下。


「大丈夫か」

「あ、はい。おけっす」


 右手を上から差し伸べる愛染の手を取り、立ち上がる。


「あんまり遅えから死んだと思ってたぜ」

「あ、死にかけたっす。電気にやられて」

「そうか」

「シェルターは空きましたか?」

「ああ。結局爆薬かき集めて吹き飛ばした。ショックの仕掛けだけな。後は無理やり開けた。照明も点けてな」


 愛染の淡々とした言葉に、泉喪は電気工事のお兄ちゃんと話しているような錯覚を受ける。


「八幡は()ったんすか?」

「……いや。必要が無かった。中で廃人になってた。白目剥いてしょんべん垂らしてたな。あれはヤク、じゃねえな。怖すぎて、いっちまったのかな。頭が」

「はあ」

「てか、泉谷」

「はい」

「殴らせろ」


 泉喪に向き直った金髪の右のフックは綺麗な流線形の軌道を描いて、正確に青年の顎の先をとらえた。

 両膝を床につくのは本日2度目である。


「愛染さん」

「なんだ」

「なんでっすか?」

「なんとなくだ」


 堂々と言いつつ、やはり上から手を差し伸べてくるので、その手を取る。


「他の皆さんは」

「ああ。もう引き返した。俺がここにいたのは、なんとなくだ」


 愛染の顔をまじまじと見る。


「愛染さんって……」

「なんだ」

「優しいっすね」

「殺すぞ」


 青年は本当に優しいと思った。そしてとても悲しくなった。


 その晩、八幡会は壊滅した。

 新宿のビルに戻ると酒盛りが始まり、どんちゃん騒ぎの後で空が白んだので、泉喪はセブンまで歩き、新聞を確認。


『新宿区神楽坂のガソリンスタンドで爆発』


 と、大見出しが出ていたが、八幡邸については扱いが小さかった。


『新宿区水道町で発砲音』


 もう、扱いですらない。

 どういう力学が働いたのか。おそらくは、一篠の客の力技なのだろうけれど。

 真偽が判然としないまま、青年は新聞をたたんで、店に備え付けのダストボックスの鉄の容器にほおりこむ。


 捨てる、ということ。

 新聞をダストボックスにほおる。煙草を路上にほおる。どちらにせよ、ほおり捨てることに変わりはない。病院でチューブに巻かれて息を引き取るのも、邸宅で肉塊になるのも、死は、死だ。


 喧嘩かちこみのマイムマイムは盛大だった。60人以上が物言わぬ肉になり、焼肉バイキングで食べ散らかされた皿まみれの席が店員によって綺麗に片づけられるみたいに……とても整然極まりなく整頓されたのだ。


『新宿区水道町で発砲音』

 という言葉に、綺麗にくるまれて、60人以上の構成員の命が。


 ……始発はすでに動いている。朝の新宿には、何かが立ち込めている気がする。この街で眠らずに夜を渡った人々の時間が、感情が、記憶が臭気が、光に(ほど)けて白く蒸散していくように、泉喪は感じた。


 ― 寝よう。 ―


 ビルに戻ると東寺以外は、ソファに埋もれるようにだらしなくよだれを垂らしていびきをかく我妻を筆頭に、全員爆睡していた。

 そんな彼らをはた目に、初老は窓際で紫煙をくゆらせている。


 ― この人は殺しの対象から外れた。それは嬉しいけど、さ。なんか複雑だな。―


 目が合い、背筋がびくっとなる。


「強いな。助かった」


 渋い声がブラインダー越しに差し込む光と共に届いたので、泉喪は小さく照れ笑いをした。


「なんもっす」


 東寺は煙草を灰皿で潰して黒い殻にしてから

「寝てくる」

 と言って青年の胸の前を通りざま、見上げてきた。


「…一緒に寝るか?」

「あ、俺そういう趣味ないんで」

「そうか」


 初老はその瞳に何の感情も浮かべず、そのままドアの向こうに消えたが、青年は少し眠気が飛んだ。


 泉喪が彼らと過ごしたのは、そういう日々だった。

 酒と血のぬるりとした匂い。細密画(みにちゅあーる)のように精密な綱渡り。調停の日が近づくにつれて、泉喪の眠りは浅くなっていった。救いなのは、その日々の中で鉢合わせた村人は藁卑(わらび)だけだったという事くらいだ。

 共に(くぐ)り抜ける死線の分だけ情が湧きいてしまう。精神的な波風は台風並みの暴風雨。


 ― いや。仕事っていうのは、そういうもんだけどさ。 ―


※※※※※※


「愛染さんって、いつから変態だったんすか?」

「お前、失礼な奴だな」

 愛染は細く長い眉をしかめた。


「あ、すいません」

「たくっ。ちっとは可愛げも出てきたと思ったらこれだもんな。ま、それがお前か」

「ほんと、すいません。で、いつからっすか?」


「……いつの間にか、だよ。家族が変態だった。けど、そうだな。姉貴が優しかった。それくらいだ」


 どこがそれくらいなんだろうと疑問符の泉喪の瞳を不機嫌に睨んでから、愛染はグラスに口をつける。


「それくらい、としか言えねえ。姉貴が一番好きで、親父(じじい)が一番嫌いだった。一番色々してきたのは母親(ばばあ)だけどな。全員死んだ後も、俺はそこいらの女子高生達(がきども)に、俺がされたのと同じことをしている」

「はあ」

「越智さんだってそうだ。」


 愛染は半円状に並んだソファのちょうど向かいの越智に視線を投げる。

 静かに飲む東寺と、キャバ嬢なお姉さんを大人の余裕で口説く我妻に挟まれながら越智は、やはりキャバ嬢なお姉さんに彼氏さんとのあれこれを、根掘り葉掘り聞いている。

 金髪の視線が遠くなった。


「あの人は親に捨てられた。……埋める奴らには共通点がある。路を歩いている。幸せそうに手をつないでいる。20代の男女。越智さんが覚えている、親の記憶だ。痛みとか、幸せとか、そんな淡い思い出だ。

あの人にとって、誰かを埋めるってのは、思い出の供養っつうか、儀式なんだよ」

「病んでますねえ」


 素直な感想。


「……失礼な奴だな。まあ、そうだ。俺らは病んでるし、どうしようもねえから、走るだけだ。東寺さんと組長は知らねえけどな」


 性的虐待を受けたり親に捨てられた子供が全員サイコパスになったら、世の中は大変な事になるなあ、

と泉喪は思うが、言葉には出さない。


 愛染は過去を飲み込むように、グラスをあおり続ける。口の端から漏れた酒が照明に煌めく。


「ねえ、なんの話してんのお?」

「うるせえ。黙って飲んでろ。」


 柔らかい体を擦りつけてきたキャバ嬢なお嬢さんを、見もせずに愛染は言った。

 その声は押し殺すようだ。


 ― 一篠さんの店じゃなかったら、絶対凄んで、泣かせてるよなあ、この人。 ―


 空気を読まないキャバ嬢さん相手にも、最低限の空気は読む。

 一篠の運営する店舗で暴れることはできないし何より今晩の飲み代は、一篠の持ち、なのだ。

 礼儀として、我妻組は誰も、ナイフや銃等の光物は持参せず、完全武装解除状態である。ここら辺の筋を律儀に通す我妻は、ざ・極道(やくざ)という感じだ。


 今晩は、抗争の慰労会兼一篠会に戻る泉喪の送別会。

 一篠は現れていない。調停役の接待でそれどころではないのだ。


 機嫌を損ねた愛染から無事であるという事の幸運を認識しないキャバ嬢なおねえちゃんは、無邪気に鼻白んで、グラスを持ちあげ、中身を黒のプラスチックのかき混ぜ棒でくるくると回し始める。

 回転。輪。マイムマイム。


「……それにしても、お前には助かったよ」

「死ぬかと7回は思いました」

「俺はその倍思ったぜ。あ、死ぬな、こいつってな。しぶといよな、お前。強いし、生意気なだけある」

「へへ、照れます」

我妻(くみちょう)が言ってた。一篠さんとこに帰すのが惜しいってな」

「へへへ」


 泉喪は照れ笑いを続けた。

 いたたまれなさが辛いから、こういった(たぐい)の話はあまり聴きたくない。いつものように黙って飲んでいて欲しい。そうすれば、まだ耐えれる。

 悲哀に。


 愛染はグラスに視線を落とした。鈍色の銀器の中で氷が白く煌めいている。


「俺も、そう思う。お前は帰すのが惜しい男だ」


 ― 頃合いだ。―


 潮時とも言う。


「愛染さん」

「ん」

「しょんべん行きたいっす。付き合ってくれませんか」

女子高生(がき)かよ。一人で行……」

「お願いします」


 泉喪はその切れ長の瞳で、愛染の瞳を真っすぐに見た。

「お願いします」


 もう一度言う。愛染の幼さの残る頬から酔いの赤みが引いた。


「しゃあねえなあ」


 金髪はけだるく立ち上がる。

 合わせて泉喪も腰をあげつつ、他の面々に視線を走らせて様子を確認。

 問題はない。時間が止まったかのように先ほどと同じ光景。

 出来れば、このまま時間が止まってくれたら、と思うが……これは頃合いなのだ。


 一篠から引き受けた仕事は、調停まで我妻一家を守る事と、調停後、警備の(かなめ)を摘むことの2つ。前者はこなした。そして後者、警備の要は愛染。実際、どういう不測の事態が起きようと、愛染は状況に素早く対応し組を守るのだ。

 切れやすい若者という表面の下では、非常に冷静な人物像が息をひそめて、全てを(うかが)っている。


 かすかにふらつく足取りの愛染と連れだってトイレに向かう間に、泉喪は彼との日々を振り返る。


 ― だから、嫌なんだよ。情を抱くのは、さ。 ―


 それでも、仕事は仕事だ。そして、命は命に過ぎない。


 そのトイレはホールから布で仕切られていて中は見えない。卵型の小便受けと奥の便座のある小部屋の空間は一人用だったが、キャバのお姉さんに

「足元が不安だから」

と泉喪はお願いして、愛染と二人にしてもらった。


「さきにどぞっす」

「おう」


 金髪がチャックをかちゃかちゃしたハレのTRリブパンツは黒の生地にツヤがあり、スリムなシルエットが愛染の長くしなやかな脚のラインを美しくしている。その姿を青年は後ろから見守る。

 アディダスの黒のスニーカーにかからないように丁寧に放尿しながら、愛染はぽつりと言った。


「一篠さんか。お前、目が辛そうだもんな」

「あ、はい」


 さきっぽの滴がハレとアディダスにかからないように注意深く振ってから、もう出てこないことを確認してしまいこみ、チャックを上げてから、泉喪に向き直って、愛染は首を傾げた。


「手、洗っていいか。それとも、俺の勘違いか?」

「勘違いじゃねっす。手は、どうぞ」

「悪いな」


 愛染は苦笑して、泉喪に背を向け蛇口をひねり、両手を水流でもみ始めた。

 感づかれている。まあ、バレバレな言い方をしてしまった。

 これから裏拳が飛んでこようが、アディダスの後ろ蹴りが来ようが、誠実に制圧(たいおう)しようと、思う泉喪に背をむけたまま、愛染は言う。


「何もしねえよ。お前強すぎるし。俺は丸腰だし。無駄な事はしねえ」

「愛染さん、訊いていいっすか?」

「ん?」

「何で、きたんすか?便所(ここ)来ないでみなさんで俺とやりあえば、助かる見込み、あったかもしれないのに」


 愛染はため息をつく。


「お前、馬鹿だな」

「あ、はい」

「…一篠さんの店で不始末できるわけねえだろうが。組長の親の店で暴れてみろ、大騒ぎになる」

「はあ」

 青年は、正直下らないと思った。

 そんな彼を傍目に、愛染はヴァーヴァリの黒のハンカチーフを取り出してその指を丹念に拭く。


「それに、俺一人を呼び出したってことは、俺が狙いってことだ。()れる場面がいくらでもあったが、今日で今でここってことは。今日が期限で差し金は一篠さんてことだろ。4人でお前潰しても、この店の黒服にはめられれば、詰みだ。俺たちは丸腰だかんな」

「そうっすね。俺は一篠さんに言われて愛染さんを殺すためにきましたし。店の人たちにもお達しがきてるかもしれねっす」

「ま、なんで俺なんだよってのはあるけどな。逆に、俺がくれば、組長に手は出されない。つまりは守れるわけだろ。警護は俺の仕事だからな。俺は俺の仕事をする。」

「そうですね。……なんか、すいません」

「あやまんなよ、馬鹿野郎」

「すいません」


 舌打ちをする愛染に、再び謝ってしまって何もいえなくなりつつ、青年は左耳のピアスをはずした。

 童顔の犠牲の山羊はその仕草をマジマジと見てくる。


「それ」

「はい?」

「やっぱ凶器(どうぐ)だったんだな」

「はい。人に見せるものでもないんすけど」

「奥の手ってやつか。必殺お仕事さんかよ?」


 片眉を上げて茶化してくる愛染に、泉喪は苦笑をした。


「たしかにそっすね。けど、これを見せるのは、愛染さん。あなたへの敬意です」




 ……意識を失って倒れこむ愛染を前から抱くように支えつつ、泉喪は

「すいません。それは無理です」

 と呟いた。


ー 『組長(おやじ)を守ってくれ』とか。愛染さん。本当にどSだよなあ。 ー


 きわの狭間には人格が出る。愛染は異常者だが、立派な男だった。


 眠るように瞼を閉じる愛染の脇に肩をはさみこみ、席までまで戻ると、東寺が視線を投げてきたので、

「なんか、酔いつぶれちゃったみたいっす」

 と青年が苦笑いすると、初老は視線をシガレットに戻す。


 ……表面上、愛染は眠っているように見える。

 が、起きることはない。


 愛染を背負ってキャバを出るときも、青年が背に感じる脈拍は規則正しく、体の温もりも伝わってくる。


「珍しい潰れ方ですね」

 呆れたように越智が言い、蹴りの準備を始めるが、我妻が手で止めた。


「やめとけ。抗争(けんか)の糸が切れたんだろうよ。それに、寂しさが原因(もと)の飲みすぎはそっとしといてやるのが一番だ」


 その言葉に、泉喪は思わず、

「ふぇ?」

 と言ってしまった。


愛染(こいつ)はお前を可愛がってたからな。珍しいんだぜ?」

「……ありがたいっす」


 はにかみ笑いを無理矢理つくりつつ、青年は悲しくなった。とても泣きたい。

 が、これは順番なのだ。それは巡りめぐるマイムマイム。ただそれだけの話なのだ。


 翌朝の明け方近く、泉喪は、冷たくなっている愛染の首元にかがみこんだ。

 それから、

「愛染さん、息してないっす!」

 と白々しく叫び、出かけようとする東寺を呼び戻す。

 我妻と越智もたたき起こした。


 寝耳に水。起き掛けの死体。救命のきわが過ぎていることは、その冷たさから明らかだった。

 にも関わらず、東寺は救命を始める。


 青年は、越智に突き飛ばされてしりもちをついた。

 それから、心臓を渾身でこねる東寺のあぶらっけのない両腕と、死者の端正な口元に息を大きく吹き込む越智の短く黒い髪、そして越智の反対側で死者の下の名を叫び続ける我妻の形相を順に眺める。


 ……仕事は仕事であり、死は、死に過ぎない


 長いまつげが美しい死体相手に腕をこねり、息を吹き込み、叫ぶ彼らに、

「救急車呼んできます」

 とだけ呟いて、青年は立ち上がり、通路に出て、静かに扉を閉める。



 非常階段に出ると、複数の足音が赤茶けた鉄の段々の下方から迫ってくるので、彼はため息をついた。



 踊り場に現れた男たちは15人。


 - エレベーターも ー


 おそらく使われている。面倒な事になる。もちろん、今の状況も面倒には違いがないが、それでも……。


 目が合った男たちがリアクションを起こす前に、青年は

「運いいっすね。今なら隙だらけっす。我妻組の皆さん」

 と言って、非常階段のもたれから飛び降りる。

 壁面をけりながら、ジグザグに降りていく。回転する視界が悲しいほど心地よい。


 大柄に似合わない軽い音をたてて、地面に着いた時、靴底に大地を感じて、彼はなぜか安心した。

 かがめて衝撃を吸収していた膝と背をまっすぐにして、彼がいたところを見上げると15人のうちの一人と目が合ったので、軽く会釈をする。

 男が背を向けて、階段の向こうに消えたのを確認してから、青年は踵を返した。


 ー エレベーターが15人。非常階段が15人。事務所の3人と1つの遺体を袋のネズミ、か。ー


 泉喪は尻の二つのポケットに無造作に両手をつっこみ、足元のアスファルトの黒に不機嫌に視線を落としながら、新宿駅まで行く。


 空は白んでいた。

 朝日を受け始めた広い背に、銃声と怒号が届くが振り返らず、そのまま新宿駅まで行って、山手線に乗る。


 一回り分車内で眠って、日暮里で乗り換えて北千住のアパートに久しぶりに戻り、たまったほこりにむせつつ、換気。押入れからマスクの袋を取り出して、一つ装着し、部屋の隅の壁に背をあずけながら座り込む。そのまま肩と首を預けて、青年は眠った。


 ……仮眠のつもりが、とても深い眠りだった。夕方に起きた彼が、一篠に連絡を取ると、さすがに仕事が終わったことは依頼主も把握していた。

 さぷりちゃんを迎えに行きたいです、という旨のことを伝えると、青年は快諾される。


 渋谷のカジノに行くと、一篠はいつもの一篠なので、泉喪はなぜかほっとした。


 我妻組の末路については、依頼者は何も言わなかったし、泉喪も何も訊かなかった。


 さぷりちゃんが出てこないので店内に視線をめぐらすと、出口付近のカーテンからひょこっと顔を出して、長い黒髪も揺れたので、その変わらなさに、青年の口元は思わずゆるむ。


「じゃ、もらって行きますね」

 と言って立ち上がると、ソファにだらしなく沈んだままの一篠は

「ま、見切り品だがな。楽しめよ」


 と言って、猥雑(わいざつ)感満載な笑い方をした。


「はい。ありがとうございます」


 と頭を下げ、泉喪はさぷりちゃんの待つカーテンの向こうに向かう。


 ……お人形さんみたいだった。ゴスロリが一篠の趣味なのか。不思議の国に迷い込んだアリスを思い出して泉喪は彼女をまじまじと見ると、さぷりちゃんも、まじまじと青年の瞳を覗き込んできた。

 なので、なぜかとても照れながら

「さ。いこうか、さぷりちゃん」

 と言って、彼女の小さな手をとる。


 ……北千住のアパートには招き猫な組員さんが送ってくれた。

 無駄にロールスロイスだが、まあ、人格のないさぷりちゃんを思えば介護車のようなものだし、渋谷の街は苦手なので歩かなくて済むのは、泉喪にはとてもありがたい。


 走り去るロールスロイスにお辞儀をしつつ見送り、アパートの鍵を開けて、たてつけのよくない扉を開け、点灯してから、振り返り

「いらっしゃい」

 とやわらかく言って、青年はさぷりちゃんを招き入れた。


 ……1人だと、気が沈むだけだったのに、2人だと、青年はとても悲しくなった。

 愛染。我妻。東寺。越智。


 彼らとの日々が胸に渦巻き、それは慟哭となってこみ上げる。膝が力を失い、フローリングにしゃがみこむ。切れ長の泉喪の目元から透明な液体があふれ、熱く頬を伝った。


 さぷりちゃんが、頬をなめてきたので、青年は首を横に振り、膝を抱えてうずくまる。


 そのな彼のくせのかかった黒髪を、さぷりちゃんは、きょとんと眺めていた。

 その視線に呼吸はあるが、人格はない。泉喪の胸には悲哀しかない。


 それでも、その晩から、彼らの日々と、営みは幕を開けた。



 翌日。

 一篠会から大型の空気清浄器が一台収まりそうな段ボールが一箱届いた。

 中にはさぷりちゃんの着替えと、彼女用の薬品、それと彼女の取り扱い説明書。


 泉喪はとてもありがたかった。特に説明書が。というのも、青年は一晩、彼女と屋根を同じくしただけで、ほとほと、彼女とのかかわり方に困り果てていたからである。


 彼女は人格のない人形だが人体なので、いやむしろ、人体だが人形なので、色々な問題を起こした。


 例を挙げると、一人で用が足せない。限界を超えて我慢する。

 たえずなめてくる。そのままにしておくと、それ以上をしてくる。

 眠らない。時折痙攣し、叫ぶ。


 説明書にはこれらの問題に対する一篠会なりの解決法が記載されており、その方法は青年にとって好ましいものと、あまり好ましくないものに分かれていた。

 が、あくまでマニュアルはマニュアルである。自分なりのかかわり方を、探せばいいと思いつつ、彼は天井の白い板に這う糸くずのような模様を見上げた。


 なぜ糸くずなのだろう。けど、あらゆる場所でこの模様はみかける。なぜなのだろう。

 と、泉喪はこのアパートに越した時には大して不思議には思わなかったのだが。


 ― 何で、かな? -


 1人であるときは気にもならなかったのに2人でいると、あらゆることに疑問符がつく。


 足元で親指を舐めてくるさぷりちゃんの黒髪がフローリングの床にばらけている。なぜこの子は舐め続けるのだろうか。何を求めているのだろうか。どういう戒律(コードがこの小さな頭蓋の奥で作用しているのか。


 ― 何で俺はこの子を助けたいと思ったのかな? -


 性欲を処理したいわけではない。死体など山ほど見てきた。命を殺めることなど、村の案件では、ざらである。それは大いなる謎なので、泉喪はとりあえず記録をつけてみることにした。


 先生ほいくしの言葉を思い出す。


『分からないことがあったら、まず書き留めてみよう。後で色々な角度から眺めてみて、分かるかもしれないし少なくとも、眺める練習にはなるからね』


 眺める、という行為は嫌いではない。泉喪は近所の大型スーパーアエオンに出向いてA4ノートを購入し、その日から、さぷりちゃんについての記録をつけ始めた。


『〇月〇日。体温36・6℃

 高めだけど、女性だからかもしれない。血圧、脈拍は安定している。血色は悪く、下腹部を抑えていたが説明書の通り、シーツを引いて下半身を露出してじっと見ていたら排便と放尿を同時にしてくれた。このやり方は恥ずかしい。けれど、痛みが治まって良かったと思う。トイレットペーパーを渡すと使い方が分からないのか、不思議な顔をされる。仕方ないので清拭(せいしき)をすると、首を舐めてくる。何かにつけてそっち系に行くのは、一篠さんとこで、そう仕込まれたからなのだろう。でも、腹をなぐり飛ばせば、駄目は伝わるとも書いてあった。けれど、乱暴はしたくないので、別の方法を探そうとも思う』



『〇月〇日。体温36・6℃

 バイタルに異常なし。ポカリと牛乳が主食のさぷりちゃんのために。ヨーグルトを用意した。はちみつを混ぜて食べやすくしたが、中々飲み込んでくれない。味に問題があるかと思って一口食べる。と、口を舐めてきた。口移しを試してみると、飲み込んでくれる。嬉しいと思っていると、まじまじと見られてたくさん舐められた』



『〇月〇日。体温36・4℃

 バイタル異常なし。さぷりちゃんは鎮静剤で入眠する以外は、日がなぼーっと床を眺めている。またはそっち系をしようとしてくるけど。俺に人形と寝る趣味がないことをようやく分かってくれたらしい。駄目なことをしてほしくない時は、俺が外にでる。これが一番、伝わるみたいだけど。部屋に戻ると、ひざを抱えている。室温に問題はないはずだが』



『〇月〇日。

 体温36・5℃バイタル。最高血圧が100を切ってきた。薬抜きの影響かもしれない。痙攣して叫ぶさぷりちゃんを抱きしめて声を抑える。とても辛そうだけど。でも、必要なことだ』



『〇月〇日。体温36・7℃

 バイタルが戻ってくれた。柔らかくした野菜を混ぜたヨーグルトから、そろそろ固形物にしようと思う。というより、俺が肉が食べたい。口移しでなくても、食べてくれるようになったのはありがたい。今日からピザの配達のバイトを再開した。戻ってくると、ひざを抱えている。ただいま、といったら、まじまじと見てきた。顔を舐めてこないのは、学習の成果かもしれない。けれど、目が潤んでいるのは、どうすればいいのか、分からないから、かな。言葉を教えれればいいのに。バベルの人たちの苦労が、なんとなく分かった』



『〇月〇日。体温36・6℃

 さぷりちゃんがここに来てから二回目の月経が終わった。世の中の女性ってのは、ほんと大変なんだなあ、とつくづく思う。トイレでする、という事を覚えてくれて良かったと思うけれど見られないとできない、というのはどうなんだろう』



『〇月〇日。体温36・5℃

 もう少し体力をつけてあげたい。色々考えた結果、音楽を使うことにした。冬も近づいてきたので、ヴィバルディの冬をかける。両手をとって、ゆっくりとステップをふむと2テンポ遅れてついてきてくれる。嬉しいので笑いかけると。顔をまじまじと見られる。表情はない。目が潤んでいる。笑顔を教えてあげれたらいいのに』



『〇月〇日。体温36・5℃

 冬服をアエオンで買ってきた。着せてあげると、セーターの毛糸をくるくるしている。和む。最近スプーンの使い方がさまになってきた。箸も教えてあげたい。けど、やっぱり人格がない限界なのか、食器という概念がないみたいだ。バイトから帰ると食器棚からスプーンを取り出してフローリングをがりがりやっている。俺が外にでても、効果がない。閉じこもりきりというのが、良くないのかな。一緒に街を歩けたらいいのに』



『〇月〇日。体温37・2℃

 バイタル。頻脈。けほけほとせき込んでいる。栄養状態は良いはずなのだが、風邪をひかせてしまった。加湿器を買う。乾燥がよくないらしい。一人でお風呂にはいれるようになって湯冷めしたのかもしれない』



『〇月〇日。体温36・5℃

 バイタルが正常に戻ってくれた。良かった。クリスマスソングをかけてみる。両手をとって、ゆっくりとステップをふむと1テンポ遅れてついてきてくれる。嬉しいので笑いかけると顔をまじまじと見られる。表情はないが、顔が紅潮している。熱はないはずなのに』



『〇月〇日。体温36・5℃

 バイタル異常なし。ただ、脈が飛ぶのが気になる。ちゃんとしたお医者さんにみせてあげたい。箸も少しずつ、使えるようになってきた。相変わらず、スプーンで床をがりがりしている、けど。もう少しちゃんと、色々できるようになったら。ちゃんとした施設に入れてあげたい。そして、たまに顔を見に行きたいと思う。さぷりちゃんは、見るのに飽きない綺麗なお人形さんなのだけど。人に戻ってほしいと、やっぱり思うし。それは俺では無理だ。俺は村人だし。そのことに迷いはないけれど。俺では無理であることに、胸が痛む』



『〇月〇日。体温36・5℃

 クリスマスがきたので、世の習わしにそってケーキを買ってきた。二人で食べる。俺の口の端の生クリームをなめたそうに羊さんみたいにセーターでもこもこの肩をもじもじしているので笑う。逆に彼女の口元のクリームを舐めてあげると抱きついてきたので、頭をなでなでする。今日くらいはいいかもしれない』



『〇月〇日。

 朝起きたら、冷たくなっていた。死因は分からない。けれどとても綺麗に。長い瞼を閉じて。眠っているみたいだ。上手くかけないけど、泣く気にはなれずにひたすらぼーっと見ていたらリンスの匂いがする黒髪が、とても長くなっていることに気が付いた。美容室に、連れて行ってあげればよかった』


 先生ほいくしがA4ノートを閉じて、小さく息を吐くまでの間、泉喪は彼の姿を呆けた面持ちで、見るともなしに見ていた。


 変わらない。保育所を出た時より、むしろ若くなっている気がする。

 髪は相変わらず三つ編みで長いし、猿のしっぽのようにゆらゆらと動いたり蛇のようにとぐろを巻いたりしている。黒い前髪はやはり顔面を覆っているが、その向こうの視線は青年のしたためた(つづ)りを真剣に追っている。


 泉喪は彼の言葉を待っていた。ねぎらいでも同情でも蔑みでも罵倒でも良かった。何でもいいから、さぷりちゃんの死についての定義付けが欲しかった。

 彼女の死は青年が眼にしてきたあらゆる死と同じで本質的に全く違っていた。その違いも、違いの理由も分からないまま、彼は育ての親である保育士に連絡をとったのである。


「ちゃんと食べているみたいだね。良かった」


 先生はノートを閉じて微笑んだが、泉喪は、とてもどうでもいい、と思った。聴きたいことはそんな事ではなかった。

 恩師は青年にノートを返しつつ、さぷりちゃんの亡骸にその視線を投げた。とても静かだ。部屋の暖房も切ってあるので、余計に冷え冷えとした静けさだった。


「幸せな終わり方、だったね。随分と辛い生を編んできたようだけど」

 幸せという言葉の意味がよくわからない。さぷりちゃんが起きる事のない眠りについてから、幸せという言葉の中身がどこかに消えてしまったみたいだ。泉喪は首を傾げ、そんな彼に先生は苦笑をした。


「好きな人のそばでその生を終われた。とても幸せな事さ」

「好き、とかって、なんすか?この子、人格ねえし。俺は人形としか見てなかった!幸せなんて……!」


 荒げた言葉に詰まる。それが八つ当たり、だからとかではない。

 幸せとか、好き、とか、そういう甘ったるいものじゃないのだ。この子の死にまつわるものは。

 そして、そういう甘ったるいことすら経験させてあげられなかった事に悲哀を感じる泉喪から、先生は視線をさぷりちゃんに戻した。それから彼は彼女の首元にしゃがみこみ、床と彼女を交互に見る。


「恋、とか、愛とかは理屈でするものではない。人格とか理性とかでもなくて、ね。人はその魂で、人を愛する。この子は」


 そこで先生は言葉を切り、彼女から離れた床のフローリングの板目をしばらく凝視したので、泉喪は、よくわからない苛立ちを押さえつつ、恩師の次の言葉を待つ。


「……この子の魂は君を愛していた」

「さぷりちゃんは人形ですよ?」


 青年は奥歯を噛みつつかすれた声で問う。先生は首を横に振り、三つ編みの先も横に揺れる。


「関係ないよ。そんなことはね。この子はどうする?」

「……許されるなら。村の共同墓地に眠らせてあげたいです」

「わかった。事情は僕が説明しとくよ」

「先生」

「ん?」

「教えて下さい。何で、俺はすげえ悲しいんですか?分からないっす。全然、分からない、す」


 先生はきょとんと青年を見上げた。それから再び苦笑して立ち上がり、表に出てスマホを取り出し、画面の向こうと通話を始める。


「ああ、すいません。僕です。はい。急ですが境間さんにお願いがありまして。木炭を1つ。カラス便でお願いしたいです。至急、できれば五分以内で。あ、はい。生態系は少々乱れても、構いません。案件を1つ受けますから、最速で届けて下さい。場所は東京都足立区北千住……」


 5分後、空から降ってきた小箱をキャッチボールのように、恩師は両手で受け止めて室内に戻り、青年の胸にぽんと預ける。


「後で、床に塗ってみたらいい。多分、分かるよ。それからたくさん、泣いてあげなさい」



 彼は静かにそう言って、さぷりちゃんのそばにかがんだ。

 長いまつ毛を閉じて眠る彼女の華奢な背中と膝の裏に両手を差し込んで抱え上げる。


 すると彼女の長い黒髪が、音もなく冷たい茶色のフローリングに垂れた。

 

 泉喪は何かの幕引きを告げられた気がした。


「一緒に埋葬してほしい物はあるかい?」

「この、ノート。お願いします」


 保育士はうなずいて三つ編みの先でノートを巻くようにして受取った。彼女との記憶を譲渡したような錯覚を泉喪は覚えた。


「では、行くよ。たまに、顔を見せなさい」

「はい、ありがとうございます」

 泉喪は頭を下げた。



 ……さぷりちゃんを抱きかかえた保育士が部屋を去ると改めて、四隅から冷えが寄せて来る気がしたので、暖房をつけ、小箱を眺める。


 卒業証書の入った筒みたいだけど実際に入っているのは証書ではなく、炭であるのは分かった。端に獣の爪跡が複数。境間さんのカラス。


 しばらく時間が経った。南に高かった陽が西に傾き、部屋が薄闇に沈む。

 おもむろに腰を上げて点灯をして、恩師が指をさしていった床にしゃがみ込んだ。さぷりちゃんが、スプーンでがりがりやっていた姿を思い出す。


 ― 猫の爪とぎみたいだ、って思ったんだっけ。 ―


 泉喪は力なく微笑んで小箱から炭を取り出して、その黒を床にこすり付ける。窓を拭くように腕を扇状に動かす。


 床はすぐに真っ黒になった。線が浮き上がる。傷が。彼女が床につけていた傷が。黒から逃れて、茶色く浮き上がった。


 それは絵だった。手をつないでいた。笑う泉喪とさぷりちゃんが。口を大きくあけていた。


「……子供の絵じゃねえか。」


 感情が胸をこみ上げ、嗚咽となった。涙が視界に溢れる。

 さぷりちゃんの絵が(にじ)むのと裏腹に青年の脳裏に記憶がよみがえった。


― この、絵は。あの日の思い出、だ。2人で手をつないで。踊った。あの、日、の。 ―


 泉喪は声を大きくあげて泣いた。


「意外と()ったなあ」

「そうっすか?」

「ま、見切り品だからな。……楽しめたか?」

「はい。楽しかったです」


 泉喪が言うと、一篠は嬉しそうに笑った。いい人だ。

 開店前の裏カジノは相変わらず忙しそうだ。黒服たちも、トップレスのバニーちゃんたちも。

 座っているソファーの端から視線を感じる。女の子だ。首輪をしている。

 やっぱり感情の無い視線だけど、さぷりちゃんを思い出してしまい、泉喪の胸は(うず)く。


「寂しいだろ?楽しんだ分、よ」

「正直そうっすね」

「そこのソファの陰のそいつ、持ってくか? タダでやるぜ。俺は優しいからな」

「あ、大丈夫っす。それより、さぷりちゃんの遺品。あの子の家族に届けてやりたいんすけど」

「んなもんねえよ。あいつの一家は我妻が殺してる。根こそぎ、な」


 ― ………。―


「そうっすか。じゃ、適当に処分しときます。一篠さん」

「ん?」


 一篠はソファに沈んだまま、泉喪を見る。何の警戒もない。

 この人に……この人の子の我妻に関わらなければ。さぷりちゃんは死ななかった。見切り品などではなく、今も、生きていた。


 ― 俺の知らないどこかで、さ。―



「浄連の滝って知ってますか?」

「演歌か?」


 はにかみ笑いを作りながら、左耳のピアスを外す。


「演歌にも出てきますけど、実際にあるんすよ。伊豆なんすけどね」

「ふむ」

「俺のご先祖様、伊豆の出身なんです」

「ふむ」


 一篠の集中が、急速に薄くなっていく。興味のない話なのは分かる。

 青年は苦笑をして、外したピアスの先のつまみを外す。


「泉谷ってのは偽名で、実際は俺。泉喪っていうんです」

「偽名か。珍しいことじゃないが」


 ピアスの腹をこすると糸が出てくる。

 こすり続けると、(かいこ)が糸を吐くようにその糸は長くなる。目には見えない、鉄の糸だが、それが今どこを這いどこに向かっているのかは、指の感覚から伝わってくる。


「大した理由じゃないんですけどね。泉喪って、伊豆蜘蛛(いずくも)がなまって、いずもになったんです」

「ふむ」

「伊豆の蜘蛛って意味っすね。俺のご先祖様は、蜘蛛なんです。浄蓮の滝の民話にでてきた、女郎蜘蛛っす」


 ピアスから伸びた糸は膝を伝い、ソファの縁を上がって一篠の肩にかかる。この糸の素材はナノステンレスだ。先生がくれた。とても柔らかく、そして強い。鉄も切れる。痛くない注射針よりも細いから、こんな風にうなじを刺しても気が付かれない。蚊が刺しても痛がられないのと同じだ。うなじから脳動脈に乗る。


「先祖が蜘蛛、か。おとぎ話だな」

「正確に言うと、蜘蛛の話の元になった人なんすけどね」


 糸は深層に達した。動脈を突き破り、いくつかの神経に巻き付かせる。そのまま切断する。血管も。


「なんか、話したくなったんす。…一篠さん。眠いっすか?」

「ああ。急に、眠く、なって、きた」

「俺が変な話したせいっすね。すいません」


泉喪は糸を抜いた。血は出ない。一篠の頭部は小刻みに揺れている。脳の深層を破壊した。もう目覚めることは無い。生命の維持機能は明日の朝には停止する。


「いや、い、い。」

「もう、行きます」

「・・・お、う。ま・・・た・・・・こ、い・・・」


 泉喪はピアスを左耳に戻して立ち上がり、深く辞儀をした。




 ……一週間後。ピザのバイトの帰り。気配を感じる。


 月明りに煌めく白刃。正確にうなじを狙ってきたので、青年は横に避けつつ左耳のピアスを外した。

 狙いを外した白刃とその握り主が空中で猫のように回転してアスファルトに三点着地。


 ゆっくりと立ち上がる猫目の男と目が合う。


 ― 招き猫さん、か。―


 意外に思いながらも、どこか納得する。まあ、気づくだろう。一篠組では一番、勘がいい人だと、思いつつ、猫男の四肢に糸を巻き付ける。その糸はもう。逃しようがない。それは因果の糸のように。


「何故。殺した」


 渋い声なのは相変わらずだ。青年は肩をすくめてほほ笑む。


「さあ、なぜでしょう」


猫の中で何かが切れるのが分かった。動こうとする。

が、させない。痛覚のポイント。痛点も糸が四肢に巻き付くついでに縫ってあるし、縫い続ける。


猫は眉をしかめた。

その肉体は硬直している。呼吸の揺らぎですら、激痛が走っているはずだ。それでも無理に動こうとすれば、全身がスライスされる。骨は鉄より脆いという道理。


「叫ばないのは流石です。では、敬意のかわりにお伝えしましょう。俺が一篠さんを殺したのはあの人を嫌いになりたくなかったからです。今でも好きです、よ。あの人の事は」


 猫のまなこが、さらにくわっとした。

 大した迫力だが、全身に絡まった糸にがんじがらめで繭のようにぐるぐる巻きである。

 けれど。糸は不可視。不可視は混乱を呼ぶ。混乱していなくても、すでに声を出すことはできない。青年が唇も縫ったからだ。


 泉喪は逆に、金縛り状態の男の瞳を覗き込む。とても暗い、凶気を滲ませて。


「お怒りなのはごもっともです。死は悲しいものです。それが殺人なら特に。俺が育った村では、死は生と同じ位美しいと教えられましたけど。全然、悲しいだけです。俺は、悲しいです。でもそれは俺の勘違いで死は美しいのかもしれません。貴方を殺して、確かめてもいいかもしれませんね。貴方の死が、美しいのかそれともただカナシイのか。殺してみれば分かるはずです」


 ― 饒舌(おしゃべり)だな。俺。境間むらのおえらいさんが乗り移ったみたいだ。 ―


 めったに使わない糸も使って、とってもやけになっている事に、彼は滑稽(こっけい)を感じて苦笑した。


 男は震えている。瞳には恐怖しかない。


 ― おとなげ、がない。本当に駄目だな。俺。―


 泉喪はため息をついた。


「……嘘、ですよ。なんか八つ当たりしてしまいました。お詫びに俺の正式な連絡先お伝えします」


 そう言って、青年は息を吸い込み長い呪文を唱え始める。それは1から4までの4つの数字からなる数列で、古代の詩のように長い。


「……以上っす。一篠さんの仇、討てるようになったら。連絡下さい、今の貴方じゃ、弱すぎます、から」



 不可視の拘束を解くが、猫が動かないので、青年は訊いてみた。

「それとも、今、やり合いますか? 手加減、しませんけど」


 猫は動かない。凄みすぎたようだ。


 ― 怖がらせちゃったな。 当たり前、か。 ―


 泉喪は苦笑。


「それでは、また」

 といって猫に辞儀をし、踵を返した。

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