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タイムリミット

 このまま眠っていたいと思うのは自分を包む感触が心地よいからだ。

ふれあっているだけで安心する。自分以外の体温を感じるだけで言いようのない安堵感を得るのはどうしてだろう。

 不安定でありながら、ゆらゆらと波間を漂うような感覚。

 花蓮は他のことがどうでもよく思えた。このぬくもりがあれば他のものはいらない、それだけ温かくて、離れがたい……どう言い表せばいいのか、表現できる言葉を花蓮は知らない。

 その手から伝わる温もりや、硬質な声も、そばにあると思うと不思議な安心を与えてくれる。


(手……誰の、手……?)


 自分のとはちがう。節高な男の手を連想して、花蓮はハッと我に返る。

 自分のなかに鮮明に焼きついた手のイメージ。想像じゃない。ちゃんと触れた感触もある。

 頭のなかのイメージではなく、記憶に残るリアリティー。


 その疑問を自分に投げかけた直後、稲妻が駆け抜ける。暗闇を照らし出した雷の光に映し出されたのは……


「ひゃ……っ!」


 花蓮は勢いよくベッドから起き上がった。

 周囲を見渡せば妹の蓮実が呆気にとられてこちらを見ている。窓の外はすっかり明るくなっていた。まだ目覚ましのアラームも鳴っていないのに、妹は服に着替えて身支度を整えている。

 落雷と停電があった日から二日経っていた。


「お姉ちゃん、何か悪い夢でも見たの? ひゃって……小さいけど悲鳴だよ、アレ!」

「悪い夢? ……ううん、ちょっと驚いただけ」

「夢のなかで?」


 妙な言い回しに蓮実が眉根を寄せる。

 蓮実は小学六年生にしては勘が鋭い。停電のあった日の出来事は自分から話す気になれず、蓮実に尋ねられてもどう説明していいかわからず話しそびれてしまった。

 なぜ後ろめたい気持ちになるのか、花蓮自身がわからないのだ。


「長峰さんも、そろそろ絵の仕上げに入ってるだろうから、モデルのお仕事は務めあげてね」

「仕上げ……仕上げ?」


 蓮実の言葉に、花蓮は耳を疑った。


「仕上げってことは、もうすぐ絵が描き終わるってこと?」

「夏休み終わるまでに完成させる約束だよね。だって前に描きかけの状態見せてもらったんでしょう?」


 以前見せてもらった時は、モデルである自分の象をきちんと捉えていた。あれから陰影や細部を描き込んでいるはずだ。背景を描き込まないほうが、人物が際立つと長峰も言っていた。そうだとすれば、蓮実の言うとおり絵の完成は近い。伯母の家に滞在する理由もなくなってしまう。


「……だな……」

「え?」


 花蓮の掠れたつぶやきは、蓮実の耳に届かなかった。自分でさえ聞き逃してしまいそうな声だ。


(いやだ。)


 肖像画が完成すれば、伯母の家を出ることになる。モデルをはじめたばかりの頃は、早く終わればいいとさえ思っていたのに、今は真逆の心境にある。

 夢と現実の間に見たような長峰の顔。稲光に浮かび上がる表情は一度も見たことがないものだった。硬質的で、触れるのも気後れするほど威圧感があったのに、それでも綺麗と感じるのはなぜなのか。

 絵が完成してしまったら、彼に会う理由がなくなってしまうのだ。



「花蓮! 蓮実! 早くきなさい! 朝ごはんできたわよ~~!」


 キッチンから鞠絵の声が飛ぶ。


「お姉ちゃん、先に行ってるからね」


 妹は花蓮を残して、先にキッチンに向かった。配膳くらいは手伝う気でいるのだろう。覚醒しきれていない頭を振って、花蓮は夏休みの残り日数を数えてみる。宿題は何とか終業式までに終わりそう だが、絵の完成を意識すると他のことが頭に入ってこない。

 キッチンそばのダイニングテーブルでは、すでに朝食の支度できていて、鞠絵はもちろん蓮実も長峰も朝食を食べはじめていた。


「おはよう」


 挨拶をして花蓮も食卓に加わる。普段どおり食事する長峰を前に、花蓮のなかに単純な疑問が生じた。


(長峰さんは、絵を描き終わったらどうするんだろう?)


 アトリエ部屋で額面通りに尋ねると、長峰は首を振りながら考えてないと答えた。芝居っ気もなく、彼の本音に聞こえた。


「次にどうするかってことだろ? これを完成させないことには次の予定を考えるのもなぁ」


 これ、とは当然花蓮の肖像画のことだ。


「また旅に出たりする?」

「そうだな……ないこともないけど、旅費が足りるかな……」


 その言葉に花蓮は胸を撫で下ろした。海外なんて遠いどこかへ行かれたら、またいつ会えるかわからない。


「どういう風の吹きまわしだ? 絵が完成した後のことなんて今まで聞いたこともなかっただろう」


 長峰の問いに花蓮は返事に困った。素直に長峰の今後の動向が気になるとは、本人に言えなかった。


「だって、もうすぐ完成するんでしょう? 最初からモデルは夏休みの間だけって話だったし。絵が描き終わると思ったら、現実味が出てきて……」

「それもそうだな。鉛筆で下描きしてた頃とはたしかにちがうよな」


 苦笑しながら長峰は頷く。彼も夏休みがはじまった頃を思い出したのだろう。こんな風に被写体と向き合って話すようになるとは思ってなかったはずだ。

 花蓮にも同じことが言えた。女子校に通う自分が、年上の男性と気楽に世間話をしている自身の姿を想像できたはずがない。


「絵を完成させて……道具や旅費を稼ぐのにまた働き口を見つけなきゃならないだろうな」


 売れない画家は暇なようで、絵が売れないぶん別の手段で生活費を稼がなければならない。以前長峰が言っていたことを思い出し、簡単にこの場を離れることはなさそうだと安心した。


 確実に言えるのは、長峰が間違いなく絵を描きつづけることだ。

 自分が怯える雷鳴さえ、彼にはBGM代わりだ。いや、雷の音がまったく聞こえていなかったのかもしれない。絵に集中してすべての音を遮断していたとも考えられる。それだけの情熱を傾けられるものを持っている長峰が羨ましく思えた。

 自分もいつか見つけられたら――花蓮はそんな憧れを抱きはじめた。


「長峰さんは、また肖像画とか描くの?」


 花蓮の問いに長峰が絵筆を止めた。


「もとから人物画は苦手だからな。気が向けばまた描くかもしれない……もっとも、プロのモデルを雇う金もないけどな」

 花蓮は、鼓動が一拍ずれたように息苦しさを感じた。

 長峰が次に描くのは自分じゃない。たしかに自分は絵のモデルとしては素人で、制作中も優等生と言えるものじゃなかった。

 でも――


「ちがう人を描くんだね……」


 花蓮の唇から零れた言葉がやけに印象的で、長峰は聞き流すことができなかった。思わず彼女の顔を見ると、互いの視線が正面からぶつかってしまう。無防備な花蓮の頬が上気した。


「だ、だって、色んな人を描かなきゃ人物画の練習にならないでしょう? 私がトップバッターっていうのは、ちょっと光栄なことかな、なんて思ったの!」


 ずいぶん早口な弁解だったが、花蓮の言い訳にしては上出来だった。長峰の表情からは、彼女の言葉を額面通り受け取ったのかを判断できない。


「今が完全燃焼できなきゃ、次なんて思いつかない」

「うん、そうだね。うん……」


 花蓮は何度も頷きながら考えた。どうして誤魔化す必要があったのか。

 これから彼が誰かを描くことを想像できない。想像したくもなかった。

 男でも、女でも、子どもでも、年寄りでも気に入らないだろう。

 長峰の技術の問題でもない。ただ、彼が熱心に見つめる対象が まったく知らない誰かであることが嫌で仕方がなかった。


(なんでこんなに嫌な気持ちになるんだろう……)


 結局ふたりは絵の完成後の話を頭のなかから追い払い、普段どおりの会話を続けるだけだった。



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