雷に打たれたように
前日、鞠絵の買い物に付き合ったために絵を描く時間がほとんど潰れてしまった。
遅れを取り戻そうと意気込む長峰は、制作活動が再開された直後から思いげけない出来事に度々作業を中断する羽目になった。
その日は、朝から雨だった。空に灰色の雲が垂れこめて気温も低く、昼前から雷鳴が遠くで聞こえはじめると花蓮が肩を竦め、その目が泳ぎはじめた。視線も決まった方向へ維持できなくなる。
同じ姿勢を維持するのもだいぶ慣れてきたのに、雷が聞こえるたびに花蓮の肩が揺れてしまう。
長峰は溜息をつき、一度絵筆を置いた。
「……どうした?」
「雷、ダメなの……お経より、黒板に爪立てられるよりもイヤ!」
長峰も花蓮の微動が気になる。表情まで強張るのはまずい。では、聞こえなければいいと一計を案じた。
「耳栓でもするか?」
「耳栓? 持ってるの?」
「ティッシュでも耳に詰めとけ」
その答えに、花蓮は恨めしそうに長峰を睨みつけた。
うら若き乙女にティッシュで耳栓というのはいただけない提案だったのだろう。
「スマホ持ってきていいよね? イヤホンで音楽を聞けば、雷も聞こえないでしょ!」
「それを早く言えよ。さっさと取りに言ってこい」
許可が下りると、花蓮は素早く自分の荷物がある部屋に走って、イヤホンを接続したスマホを手に戻ってきた。
椅子に座り直し、イヤホンを耳に装着。音量を確認して大丈夫です、と居住まいを正す。
音楽で外界の音が遮断されたため、花蓮の姿勢は安定した。
スマホのおかげで、しばらくは長峰もキャンバスに向かって絵筆を走らせた。部屋のなかはひどく静かで、彼女をモデルに絵を描きはじめた一日目を思い出す。猛暑のなかエアコンもないアトリエで絵を描いたことが失敗だった。あのときは蝉の大合唱に苛ついたものだが、今のBGMは雨音とひゅうひゅうと吹きすさぶ風たちだ。
(嘘みたいだな)
静まり返った空間。
無言のモデル、進む絵筆。最初自分が理想としていた環境なのに、今は物足りなく感じる。日々、花蓮の話を聞かされることに慣れてしまったらしい。あれほど人の声を敬遠していた自分が、静かすぎて集中できなくなるとは。
窓から時折差し込む稲光はさほど気にならない。だが、いよいよ雷が接近してくると見過ごせなくなった。雷の衝撃で家のなかに振動が伝わってきたからだ。足元からの揺れを感じとった花蓮は怪訝そうな顔で長峰を見る。
気にするな、と長峰が言うよりも花蓮がイヤホンを外すほうが早かった。
「雷、そんなに近くにきてるの……?」
「よせ! わざわざイヤホンを外すやつがあるか!」
長峰の言うとおり、この状況でイヤホンを外してしまうのは雷嫌いの人間には逆効果だった。イヤホンをつけ直せと長峰が叫んだが、間に合わない。
バリバリと派手な助走つけながら、次の雷は底が抜けるような轟音とともに落ちた。衝撃で家中が微震に見舞われる。
「いゃああああぁぁっ」
椅子から飛び上がる、そんな表現がぴったりだった。花蓮はそのまま床に落ちて尻もちをつく格好になった。直後、視界が真っ暗になる――停電だ。
パニックに陥った花蓮は悲鳴をあげるばかりでイヤホンをつけ直す余裕はない。
「落ち着け! 花蓮!」
外も雨で薄暗いため室内はずっと電気をつけていたのが災いした。窓からわずかに自然光が入ってきたがブラインドでほとんどが遮られてしまった。
暗闇のなかを感覚だけを頼りに花蓮に手を伸ばす。長峰の指が、柔らかな髪にふれた。頭だと認識して、何となくの加減で肩に手を置いた。
「おい、大丈夫だ。すぐに電気もつくから。イヤホンを……いてっ」
言い終わらぬうちに細い腕が長峰にしがみついてくる。中腰で、重心が半端な位置だったため、バランスを崩して長峰まで尻もちをついてしまった。
「やだぁ―――! 怖いよぉぉ~~!」
子どものように力いっぱいしがみついてくる花蓮を前にして、長峰はただ呆気に取られた。
宥めようにも、雷鳴と花蓮の悲鳴で長峰の声はかき消されてしまう。
混乱して胸にしがみつく花蓮の髪が、さわさわと長峰の顎のあたりを掠める。くすぐったいが、やめろと言うわけにもいかず、子どもにそうするようにポンポンと彼女の頭に手を置いた。
まだ辺りは暗いが、冷静になった長峰は、先程から姿も見えない鞠絵のことを思い出した。停電になっても、声さえ聞こえてこないということは、家のなかにいないのか。黙って外出するはずはないのに。
暗闇のなかでは時間がどれだけ経ったのかもわからない。
花蓮のスマートフォンの画面はすでに暗くなっている。拾い上げたくてもがっちりしがみつかれていると身動きがとれない。
結局雷が通り過ぎるのを待つしかないらしい。
床に尻もちをついた姿勢で、少女にしがみつかれたまま途方に暮れる。
(苦手なものが多すぎるだろ……)
絵を描きながら、モデルである花蓮のお喋りにつきあって(黙って聞いているだけだが)、彼女が苦手なものをいくつも聞いていた。
雷以外の苦手なモノ。虫もダメ。魚も加工済みでなければ触れない。食べ物の好みも、かなり偏りがある。自炊もできないタイプだろう。そうなると彼女が好きなものは、消去法で見つけられるかもしれない。どうしてそんなことを思い立ったのか長峰自身も不思議だった。
「雷……静かになってきたかな?」
長峰の胸に縋りついて震えていた花蓮が、自分から話しかけてきた。息をひそめるような声は、思った以上に近くに感じる。
「やっと落ち着いたか。ずっとイヤホン耳につけとけば騒がなくても済んだんだぞ!」
「あ」
気づかなかった、という花蓮の心の声を聞いた気がした。
頭上でチカリと音がしたかと思うと、パッと照明が点灯した。
飛び込んできた眩しさに目を細めたが、直後にこれまで見えずに済んだものが視界に浮かび上がった。床に座り込んだふたりの目に真っ先に映り込んだのは互いの顔だ。花蓮が長峰にしがみつく……抱きついていたのだから、顔が接近していたのはごく自然なことだった。
だが、あまりにも近すぎて長峰さえ愕然とした。
「きゃっ!」
「どわっ?」
しがみつかれたかと思えば、今度は思い切り胸を押し返される。しかし、すでに床に座った状態なので長峰はのけ反る程度で済んだ。花蓮は大慌てだ。
「な、なんでこんな格好になってるの~?」
長峰としてもそんな言われ方は不本意だ。非難される筋合いはない。
「お前が抱きついてきたんだろうが!」
「抱きついてなんかない!」
花蓮が真っ赤になって叫ぶ。暗闇のなかで自覚してないのか。
「それじゃ、俺のほうからお前を襲ったとでも言うのか? あの体勢で?」
「……」
長峰を突き飛ばす直前の状態を思い出した花蓮の動きがぴたりと止まる。長峰もその場から動かず様子をうかがう。
「……抱きついたかも」
「わかればいい」
冷静になった証拠だろう。長峰は立ち上がりながら、項垂れる花蓮の頭をポンと軽くたたいた。
(それにしても――)
普段は子供のように表情が豊かな印象なのに、不安と怯えを映した花蓮の顔には憂いを通り越して、かすかな色気さえ感じた。中身はともかく、そんな表情ができることに驚いた。
精神的に幼くても、肉体的には大人と扱われる年頃なのは間違いない。その年頃の危うさを長峰も知っている。誰もが通過する未熟な時期だからだ。
「……ね、鞠絵伯母さんは?」
「わからない。声も聞こえないぞ」
あれだけの落雷と停電のなか、声をかけるなり、悲鳴なり聞こえてもいいはずだ。
「伯母さ~ん?」
花蓮が呼んでも返事はない。不審に思って花蓮は廊下に出て再度呼びかけた。長峰も後に続く。
「鞠絵伯母さーん! いないのぉ~?」
リビングに入ったとたん、花蓮も長峰も思わず固まった。鞠絵がソファーに横たわったまま動く気配がない。慌てて駆け寄り鞠絵の体を揺さぶる。
「鞠絵さん!」
「伯母さん! 伯母さんってば! 気分でも悪いの?」
反応がない鞠絵に不安を覚えて、ふたりは交互に呼びかける。すると、スイッチが入ったようにウーン、と鞠絵が唸り声をあげた。次いで両腕を大きく左右に開いたものだから、ぶつかりそうになった花蓮は慌てて飛びのき、それを後ろにいた長峰が受け止めた。
「ははぁぁぁ~~っ! よく寝たぁ~~!」
「「?」」
ソファーに横たわったまま万歳した格好の鞠絵はそのまま大きく伸びをして、ようやく上体を起こした。呆気にとられた長峰と花蓮に気づいて鞠絵は目を丸くした。
「ん? なに、アンタたち二人揃ってどうしたの?」
「どうしたのって……雷落ちても、声ひとつ聞こえないから心配して様子を見に来たんだよ?」
「雷?」
何のことだと言いたげな様子で鞠絵は首を傾げる。
「鞠絵さん……さっき、よく寝たって言ってたけど、ソファーで寝てたの?」
「そうよ! しばらくひとり暮らし状態だったのに、この夏に皆のご飯作りとか家事一切合切やってるじゃない? ちょっとひと休みのつもりでお昼寝タイムをとってたの♪」
十分な仮眠をとって目が冴えた鞠絵はご機嫌だ。
「昼寝って……あんなに雷が鳴ってたのに?」
「さすが鞠絵さん……図太い神経してんなぁー」
拍子抜けした二人はがっくりと肩を落とした。
「何よ、アンタたち。心配してきたんじゃなかったの?」
「……伯母さんが無事でホッとしたのは本当だよ」
花蓮が飛び上がるほどの雷の音など、鞠絵の前ではただの物音に過ぎないのかもしれない。二人は、互いの顔を見遣って苦笑した。
花蓮の妹が戻ってきたことで、長峰は内心安堵していた。
第三者がいることで花蓮と距離を置くことができる。
昨日、皮膚が粟立つような感覚を覚えてから、どうにも落ち着かないのだ。理由はわかっている。
落雷で彼女のなかに蠱惑的な表情を見出したからだ。花蓮本人には何の自覚もないだろう。おかしいのは、自分のほうだ――わかっている。
毎日見ていた人間が突然、別人のように見えてしまう。それは長峰自身も不本意だが、花蓮への意識が切り替わってしまったせいだ。強烈な印象づけによって。
まるで自分が雷にでも打たれたように。
彼女がひとりの女性に見えるのだ。