ちがう視点
「お姉ちゃん、宿題! まだプリント終わってないでしょう! 読書感想文の本はどうしたの?」
妹・蓮実が客間の扉を潜るなり、ベッドで寝そべる花蓮に向かって怒鳴る。伯母の家にいる間、姉妹は客間を提供されてふたりで使っている。
「今は宿題って気分じゃないの。疲れてぐったりってカンジ……」
蓮実が姉のお目付け役として伯母の家に寄こされてから、ほぼ毎日姉妹でこのやりとりを繰り返していた。
「どうせトマトカレー食べすぎて眠くなっただけでしょ! あれだけおかわりすればお腹もいっぱいになるよ!」
怒り方まで母親そっくりだ、と花蓮は眉を顰める。
昼間は絵のモデルとして椅子に座ったまま身動きせずにいるのだから、仕事から解放されたら手足を伸ばして寛ぎたい。そんな怠け心を見透かしたように蓮実は切り札を持ち出してきた。
「宿題をサボったら、絵のモデルは即刻中止して家に帰ってくるようにってお母さん言ってたから」
「なにそれ?」
花蓮はベッドから飛び起きる。
「絵のモデルをつづけたいなら宿題をきちんとやること――お父さんにもそう言われてきたの!」
「……」
自分の怠慢でモデルの仕事をやめたくなかった。真剣に絵を描いている長峰に、本当に迷惑をかけてしまう。
花蓮は仕方なく、机に数学のプリントを広げて問題を解き始める。ふとシャープペンシルを持つ手の動きが止まった。
「蓮実……アンタ、将来の夢とかある? どんな仕事してみたいとか、考えたことある?」
質問した直後に花蓮は後悔した。小学生に自分の将来を具体的に思い描くなんてまだ早いだろうと。
「……作家になる。小説家になりたい」
「えっ?」
ベッドに座り直した妹は、表情ひとつ変えずに即答した。
「作家って……なんで?」
「頭のなかで物語を作るの好きだし、それを文章にしたら面白かったの。いいことも悪いことも、物語を通して経験できるんだもん……それを仕事に繋げたいの」
明快な答えだった。作家という職業は現実的ではないが、志望動機がはっきりしているだけ自分よりマシだと花蓮は思う。
「クラスメイトの内野さんは弁護士になりたいんだって……ドラマの『女弁護士・渡会あずさ』シリーズの影響みたい。川井くんはお父さんの経営しているスーパーをもっと大きくするって言ってたかな――」
他にも、蓮実は自分の知る限りでクラスメイトの将来の夢について花蓮に話した。
「小学六年生でも、結構考えてるんだ……」
軽い眩暈を覚える。小学生のほうが、自分よりも将来について具体的に考えていることがショックだった。
自分が、計画性どころか目標もなく、将来について考えていなかったと思い知らされたのだ。
「どうして将来のことなんて聞くの?」
「私、進路のことなんて何も考えてなかったから……」
伯母・鞠絵の想定した展開に蓮実は驚いた。少なくとも姉は、自分に欠けていたものに気づきはじめている。
自分の人生なのだから、やりたいことを貫けばいい――蓮実にはそれ以上に単純なものはない。姉はそれがわからないらしい。
「進路なんて堅苦しく考えないで、お姉ちゃんがやりたいことは? なんでもいいから……」
ベッドの上に正座した蓮実は、姉の表情をとくと観察しながら詰め寄った。
「私、勉強とか苦手だし……でも今は、長峰さんの絵が完成するまでちゃんと協力したいって、そう思ってる」
「だから、そういうことじゃ……」
言いかけて、蓮実は口を噤んだ。なんでもいいと言ったのは自分のほうだ。それに長峰の絵が完成する頃には、花蓮が自力で答えを出すかもしれない。
「じゃあ、どうせ協力するなら長峰さんが絵を描きやすくしてあげれば?」
「は……?」
蓮実が少し考えてから発した言葉に、花蓮は口をぽかんと開けた。
翌日、絵を描きはじめた長峰は、十分も経たないうちに違和感を覚えた。
いつもより絵筆が進む。描きかけのキャンバス。視線の先には安定した姿勢で椅子に座る花蓮。
(何が起きたんだ?)
そう、花蓮が大人しい……大人しすぎる。
表情から見て緊張しているわけではないようだ。しかし口数も少なく視線も、当初長峰が指示したとおりの方向を向いている。そんな状態で十分がニ十分、ニ十分が三十分と経過すると長峰の不安が募った。
何か悪いものでも食べたのか?とも考えた。だが朝食はもちろんのこと、昨夜食べたトマトカレーだって異常はなかった。
花蓮は喜んでおかわりまでしていたので問題はないはずだが。
「どうした? 今日はやけに大人しいな」
つい長峰のほうから話しかけてしまった。
「蓮実から、長峰さんが絵を描きやすいように姿勢を維持しなさいって言われたんだけど、余計なお喋りしないで時間いっぱい大人しく座っていられたら蓮実のぶんのアイスをもらう約束なんだ♪」
「子どもかよ……」
昨夜、鞠絵まりえが近くのコンビニでアイスを買ってきたという話を小耳に挟んだが、馬の鼻先に人参をぶら下げるようなものだと苦笑した。効果があるなら今後同じ手が使えるかもしれない。
「それと、子どもの頃に読んだ『かさじぞう』になった気でいればいいって言われたから」
「……地蔵?」
なぜ?と長峰が問えば、じっとしてるイメージがわかりやすいと言われた。地蔵は石だから動かないのは当然だ。
どうやら花蓮には理屈を説くよりも、感覚的なものを想像させたほうが物事を理解させやすいようだ。子どもじみたやり方だが、効果覿面こうかてきめんだった。会話のやりとりは多少あったが、花蓮の集中力は昼食休憩まで持続した。
「その絵、見てもいい?」
彼女は初めて、自分の姿がどう描かれているのか興味を持ったようだ。断る理由もなかったので長峰は花蓮を手招きする。
「まだ描きかけだぞ? 実物とちがうとか文句言うなよ」
椅子から立ち上がった花蓮は初めて、描きかけのキャンバスを覗きにこみ、キャンバスのなかに自分を眺める。
陰影をつける段階ではないが、日差しを受けている花蓮自身の姿が切り取られ、キャンバスのなかに映し出されていた。その出来映えに、花蓮は興奮を隠せず声をあげる。
「凄い! 自分の絵なのに自分じゃないみたい! あっ、似てないって意味じゃないよ!」
慌てて花蓮は訂正し、絵のなかの自分に食い入る。
「こんな風に描いてもらうならメイクくらいしたのに!」
「写真じゃないから化粧なんて意味ないぞ。睫毛を盛っても絵には絶対描かないからな」
「どうして?」
見映えよく描いてほしいというのは女性ならば当然の心理だが、長峰は一向に解さない。
「絵よりも実物のほうが見劣りすると思われるぞ」
写真や動画と比較されることと同じだ。実物のほうがキレイだと思われるほうがいいに決まっている。
「上っ面だけ飾っても仕方ないんだよ。実物以上の出来を期待するな」
花蓮に言いながら長峰は高校時代の苦い経験を思い出した。美術部員同士で互いの肖像画を描くことになった。女子部員を実物に遜色なく描いたところ、わざと下手に描いたと苦情を言われたのだ。実物以上のものは描けないと言ったら、相手の女子が泣きだして自分が一方的に悪者扱いされた。
「前に女の人を描いたことがあるんでしょう?」
「高校のときにな」
不機嫌な顔になった長峰を見て、花蓮の勘が働いた。
「長峰さんが描く絵が上手だってわかるけど、女の人への説明は下手そうだね!」
「何を説明するんだよ?」
「絵で描ききれないものもあるってこと! 表情は描けても、その人らしさなんて全部説明できないでしょ?」
長峰は言葉に詰まった。花蓮の言うとおり、絵で表現できないものは確実に存在する。風景画も、肖像画も一側面を切り取ったに過ぎない。絵を見た者の想像を膨らませるヒントを与えるだけだ。
「それか、自分の見た目を受け入れたくない人もいるよね。自撮りして、気に入らないって何度も撮り直す友達も結構いる」
自分の肖像を眺めながら、花蓮はまた女性らしい意見を挙げてみる。相手が隠しているコンプレックス。長峰が描いたのがその女子生徒でなければ、結果はちがったかもしれない。
「お前、見た目ほどバカじゃなかったんだな」
明らかに花蓮はムッとした。
「長峰さんにはわからないよ。見た目が良くてもぼんやりしてるとか、天然とか、頭悪そうとか言われるのは結構辛いんだから!」
本気で怒っていないようだが、気分を害したのはたしかだ。女性は容姿に恵まれるに越したことはないと思っていたが、外見とのギャップにまで煩わされるのか――長峰には縁のない悩みだ。
「最初の印象よりもバカじゃないって言ってるんだぞ。ちゃんと褒めてるじゃないか」
「バカバカ言わないでよ! 全然褒められた気がしない!」
妙な言い争いを聞きつけて、蓮実が何事かとドアから覗き込んだ。
「楽しそうだね。お昼ご飯が冷めないうち早くダイニングに来てね」
「「全然楽しくない!」」
絶妙にハモったふたりの言葉に、蓮実が不可解そうに首を傾げた。
「息ぴったりじゃん」
ぼそりとつぶやいた蓮実が立ち去った後、イーゼルから離れた長峰は花蓮に視線を戻す。
「中身にケチをつけたがるのは、外見ではお前に敵わないヤツらの僻ひがみなんじゃないか。女ならではのやっかみもあるんだろう」
花蓮の記憶が正しければ、彼女の内面について貶けなしたのは同性がほとんどだった。長峰の言葉も一理ある。
「いちいち気にするな。まわりの目を気にしてたら、やりたいことが何もできなくなるぞ」
突然のデコピン攻撃に、花蓮は小さな悲鳴をあげて額を抑える。
「もう、なによ! 絵のモデルなんだから少しは労ってよね!」
視界に先を行く長峰の背中を捉え、少し遅れて花蓮は気づいた。
デコピンも含めて、さっきの言葉は彼なりの励ましだったことに。
翌朝、蓮実に伯母の家を引き上げるように姉妹たちの母親から連絡があった。
「蓮実、帰るって本当?」
姉妹に提供された部屋へ行くと、蓮実は伯母の家にやってきたときに担いできたのと同じカバンに荷物を詰め直している。
「一時的にね、明日登校日だから。学校へ持ってくものがないか確認したいし。あと、お母さんたちに中間報告してくる」
中間報告。それを聞いて、蓮実が伯母の家にやってきた本来の目的を思い出す。自分を監督するために、母が妹を寄こしたのだ。蓮実が伯母の家事の手伝いや、読書に耽っている姿を見かけるたびに、自分のお目付け役という意識が薄れていたが、当人は姉に気づかれずに監視の目を光らせていたようだ。
「中間報告って……どんな風に?」
遠慮がちに尋ねる花蓮に対して、蓮実は荷物をまとめる手を止めることなく答える。
「お姉ちゃんにしては、真面目にやってるよって。宿題はギリギリのところだけど、新学期までには何とか間に合うだろうって言っておくね」
「ギリギリって、そんな正直に言わなくてもいいじゃない!」
蓮実が苦笑した。花蓮は、長峰が絵を描き終わった夕方から必死で夏休みの宿題と戦っているが、順調に捗っているとは言えなかった。
「嘘つくのは簡単だけど、宿題が終わってるかどうかは家に帰ったらすぐにわかっちゃうんだよ?」
一時凌ぎの嘘は逆効果とばかりに妹は主張する。明日学校から帰って、明後日には戻ってくると言い残して蓮実は自宅に一時帰宅した。
「ちゃんと家に帰れたかな……」
「ここまで一人で来られたんだから大丈夫だろう。あのコは小学生でも、お前よりしっかりしてる」
昼食の休憩にはダイニングテーブルに着いていた長峰が、花蓮に向かって率直な意見を述べた。
蓮実の不在で家のなかが静かになるかと思いきや、花蓮と長峰の会話を聞いて鞠絵は取り越し苦労だったと安堵した。
「妹がいないからって宿題サボるなよ」
「それくらいわかってるよ!」
兄妹のような色気のない会話を聞きながら、ふたりはだいぶ打ち解けたと感心する。
この夏、二人がいなければ鞠絵はひとり寂しく過ごすはずだった。海外赴任の夫が十分な夏休みをとれず、就職したばかりの一人息子は実家に寄りつく気配もない。姪たちや長峰の滞在は鞠絵の心を和ませた。
「はいはい、二人ともそのくらいにしておきなさい!」
花蓮たちの他愛ない言い合いにテーブルにピラフを運んできた鞠絵が割って入る。
「蓮実も明後日には戻ってくるんだから、少しでも絵を描き進められるといいわね。あと、宿題もね!」
鞠絵に釘を刺されると長峰も肩身が狭い。長峰も、モデルである花蓮が夏休みの間に絵を仕上げなくてはならないからだ。花蓮の宿題と長峰の肖像画。どちらが早く終わらせるか、いい勝負だろう。
「ちょうどいいわ。私も食材を買い足しに行ってこようかしら」
蓮実も戻ってくるなら冷蔵庫の在庫では間に合わない。食費はかさむはずなのに、鞠絵は機嫌がよかった。
「消耗品も欲しいけど……重いし、かさばるのよねぇ」
鞠絵の言葉の端々に思惑を感じて、長峰の、つられて花蓮のスプーンを持つ手が止まった。
「でも、絵を描く時間を邪魔するなんてできないわよねぇ~。毎食美味しい料理を作ったとしても、見返りは期待しちゃいけないわよね~?」
自分の要求を他人に突きつけても憎まれないタイプの人間がいる。鞠絵はそんな人種のひとりだった。
「……鞠絵さんがお望みなら、俺は喜んで手を貸すよ」
「まっ、そう言ってもらえると助かるわぁ! もちろん花蓮も手伝ってくれるわよね?」
「うん……」
コクリと頷いた花蓮は、長峰を見遣り、彼でも逆らえないもがあることを知った。