可愛いお目付け役
花蓮が熱中症で倒れた翌朝、寝坊して慌ててリビングに向かうと長峰の姿は見当たらなかった。
充電しておいたスマートフォンの時計を確認すれば十時三十五分と表示される――寝坊もいいところだ。
「伯母さん、長峰さんは?」
「ちょっと出てくるって言ったきり、戻ってこないの。花蓮の体調が良ければ、戻ってから絵を描きたいって言ってたわよ!」
ならば、早く朝食をとって準備しておかなければ――鞠絵が準備怠りなく朝食を配膳してくれた。目玉焼きにトースト。焼きたてのトーストの香ばしさに加え、メイプルシロップの甘い香りが漂ってくる。
「伯母さん……私、絵のモデル、クビになったりしないかな?」
「まさか! 花蓮がやめたいって言うならともかく、蒼太くんから辞めろなんて言うはずがないわ!」
花蓮は、伯母の言葉にホッと胸を撫で下ろした。
たとえアルバイト感覚の仕事でも、自分で引き受けたからには不本意な辞め方はしたくない。
それに、先程の長峰の態度から自分を気遣ってくれていることが伝わってきた。
思っていたより怖い人じゃないのかもしれない。花蓮は持ち前のポジティブ思考で、体力を回復しておきたかった。
伯母の勧めで消化がいいメニューを夕飯にとり、翌朝の食欲は体調を崩す以前通り、それ以上に回復しているようだった。
ミニサラダには花蓮の好きなフルーツトマトも添えてある。
赤、黄色、そして紫色まで!サラダから食べ始め、目玉焼き、トーストの順番に平らげていく。花蓮が自然と笑顔になっていく様を見て、鞠絵も満足そうに頷いた。
「食欲も申し分なさそうね」
「うん。体のほうはすっかり良くなった!」
「良かったぁ……熱中症だって侮れないのよ? 花帆も本当に心配してたわ」
伯母の言葉に花蓮がぎょっとする。
「お母さんに知らせたの?」
「当然でしょう! こっちは大事な娘さんを預かってるんだから。そういえば、さっきメールの着信が……」
鞠絵がスマートフォンでメールを確認している間に玄関のドアの開閉音が聞こえた。長峰にちがいないと思った花蓮は慌てて残りのトーストを口に運ぶ。残りのひとくちぶんを食べる直前に、リビングに入ってきた人物を見て目が点になった。危うく最後のひとかけを落としそうになる。
(だ、誰……?)
見知らぬ男が、リビングにいる。
クセのある黒髪だが短いせいか、まとまりがよく清潔感がある。尖ったシャープな顎。精悍な顔つきという表現がぴったりだが、目つきが鋭すぎる。
花蓮は、男の目に注目して数秒後、あっと声をあげた。
「な、長峰さん……?」
数日前から見ていた目。花蓮を睨むときの、キャンバスに集中するときの、そのままの目だった。
「なんだ?」
不機嫌そうに睨まれて、花蓮は一瞬たじろぐ。
「髭、剃ったんですか?」
「ああ、ヒゲもじゃだと怖いんだろう?」
そう言われて、昨日自分が長峰に言った言葉を思い出した。当人を前に外見が怖いと言ったも同然だ。
(少しは気にしてたんだ……)
絵のモデルである自分に対して気を遣ってくれたのだろうか……花蓮はまじまじと長峰の顔を見た。無精髭や顔の輪郭をぼかすほど邪魔だった長い癖毛が取り払われると、思っていたより若く見える。
「長峰さんって意外に若かったんですね。私、三十歳は越えてると思ったのに……」
「まだ二十六だ。もっとも女子高生にとってはオジサンなんだろ」
オジサンとまではいかないが、自分より十歳も年上なのだから、敬語を使うべき目上の相手だと思った。
何か気の利いたことを言えれば……と花蓮が思案している間に、玄関のインターフォンが鳴った。
今度は誰かしら、と鞠絵が玄関に出て行った。するとやけに明るい鞠絵の声が聞こえてきた。
「あら、早速来たわね! メールでは午後くらいに着くってあったから驚いたわよ~!」
「うん。急ぎの用事があったから…」
リビングに繋がる廊下から、足音とともに聞こえてきた声に花蓮はハッとした。
「は、蓮実!」
鞠絵の後からリビングに入ってきた少女に向かって、花蓮が叫んだ。彼女よりもいくつか幼い客人は、長峰と目が合うと、じつに落ち着き払って会釈をした。
「はじめまして。花蓮の妹の蓮実です」
「妹?」
花蓮と、蓮実と名乗った少女を見比べる。たしかにふたりはよく似ている。ちがうところと言えば、髪の色合いと長さくらいだろうか。
「蓮実!なんでアンタがここにいるの?」
「花蓮のお目付け役だって。さっき花帆からのメールで連絡あったの!」
蓮実よりも先に鞠絵が質問に答えた。代わりに蓮実が、自分が持っていた大きめのトートバッグを姉に差し出した。
「?」
「お姉ちゃんが、家に置いていった夏休みの宿題。絵のモデルを理由に宿題サボったりしないように見張ってなさいって、お母さんに言われたきた」
交通費を節約するつもりで、花蓮は絵のモデルをしている間は伯母の家で世話になる――という手筈だった。自宅に宿題を置いてくれば、しばらく取りに戻ることはできなかっただろう。忘れものを届ける者がいない限り。
「サボったりしないわよ! 偶々忘れただけだってば! 帰ってから宿題やればいいことでしょう?」
妹は小学六年生。四歳年下の妹を相手に必死で言い訳している花蓮。鞠絵と長峰は目を丸くして、そのやりとりを傍観する。
「お姉ちゃんは、毎年夏休みに宿題を無視した計画を立ててるから、そういう言葉に信憑性がないんだよ。お母さんは、お姉ちゃんがわざと宿題を放置したと思ってる――私もそう思う」
「なっ……」
淡々と自分が伯母に家に寄こされた正当な理由を説明する蓮実。説得力があって、花蓮は抗議の言葉がつづかない。
「絵のモデルをやってたから夏休みの宿題ができなかった、なんて言い訳したら長峰さんに失礼でしょう?」
「そ、それは……そうだけど……」
花蓮の語調は勢いを殺がれていく。
「お姉ちゃんが、長峰さんや鞠絵伯母さんに迷惑をかけないために私が監督しにきたんだからね!」
そこには有無を言わさない言葉の鋭さがあった。姉の抗議さえ受けつけない、そんな口調だ。しかし、そのアンバランスな光景はじつに滑稽だった。
プッ、と思わず吹き出してしまうと、もう堪えきれず長峰は声を立てて笑った。
(長峰さんって、こんな風に笑うんだ……)
姉妹は呆気にとられて、笑い出した画家の姿を眺めるしかなかった。
長峰がひとしきり笑い終えるのを待って、創作活動が再開された。
今度は母屋のエアコンが設置された部屋なので熱中症の心配はいらない。
「お騒がせしてすみませんでした」
「いや、面白いものが見られたよかった」
椅子に座った花蓮は居住まいを正す。部屋のドアも開け放ってあるため、蓮実はリビングに残って鞠絵に入れてもらったジュースを飲んでいる。ようやく落ち着いて絵を描く環境が整った。画家はイーゼルにかけたキャンバスに向かう。
「別に、絵のモデルをだしに宿題をサボろうとしたんじゃ……」
長峰はこのとき、花蓮という少女は嘘が下手だとわかった。顔に出やすい性質らしい。
「姉妹とも母親似か? 鞠絵さんから聞いたけど、お前は母親似なんだろう?」
蓮実も色白だし、姉と顔立ちがよく似ている。あと何年か経てば花蓮と同じくらい美人と言われるようになるだろう。
だが、花蓮は色素がやや薄い。花蓮の茶色みがかった髪に対して、蓮実は見事な黒髪。仏蘭西人形と日本人形のように対照的な魅力がある。
「似てるようで似てないところもあるな」
「あのコは……蓮実は頭のいいコだから、時々学校の友達と話してるような感覚になっちゃって――」
たしかに小学生とは思えない落ち着き方だ。聞けば、蓮実が去年書いた読書感想文が、コンクールで入選作品に選ばれたという。本を読むのが大好きで、そんなところも自分とは対照的だと花蓮は話した。
(普通の小学生が「信憑性」なんて使わないよな……っていうか意味がわかるのか?)
しかし、無邪気な姉には冷静な妹がいてバランスがとれているのかもしれない。
「絵は昼間に描くことにする。だから夜に宿題を片づけるんだな」
「うっ……」
時間無制限に椅子に座りつづけるより楽なはずなのに、花蓮の表情が曇った。どうやら勉強は苦手らしい。じっとしているのもつらいのかもしれない。
(コロコロ表情変えやがって……!)
椅子に座って、視線を一点に集中するだけの仕事だが、花蓮を観察していると彼女向きの作業ではないとわかる。熱中症で倒れる前は大人しかったが、緊張していたせいだろう。
リラックスしてきたせいか表情が柔らかく、よく変化する。どの表情をキャンバスに切り取るべきかを迷うところだ。
(自然で、「らしい」表情がいいってことだな)
少なくとも、目の前に座る彼女が自然体の花蓮だ。緊張に強張った顔を描いても仕方がない。
時間をかけて向き合うほど、新しい発見がある。その繰り返しに費やした時間が、自分さえも変えていくとは長峰は想像もつかなかった。
さらにニ、三日経つと、花蓮の言葉から敬語が消えた。
久々に雨が降った日は気温も下がり、猛暑から溜まるストレスも軽減された。結果会話が増える。
「私が暑さでバテたのって、普通だったんじゃないかな。長峰さん、アトリエのなかがあんなに暑いのに平気なの?」
「絵を描くのに海外を旅してきたから、暑いのには慣れてる。赤道付近の国なんかもっと暑いぞ」
「海外? 留学してたの?」
花蓮は、長峰に羨望の眼差しを向ける。
「お前が想像するような留学のイメージじゃない……たぶん」
美大を卒業後、アルバイトで旅費を稼ぎ、国内外問わず絵を描く旅に出る。自宅に戻るのは目をかけてくれる画廊に顔を出すときくらいだという。
「絵を描くのって、そんなにお金が必要になる?」
「旅費もかかるけど、絵の道具もわりと値が張るからな。絵が売れても大した金額にはならないし、どっちみち赤字だ」
「画家って大変なんだ……」
画家の仕事とは、もっと悠々自適なものだと想像していた。何者にも縛られることがない職業だと花蓮は思っていたが、実情は相当厳しいようだ。
「どんな仕事でも大変なのは同じだろ」
「え?」
長峰は絵筆を握る手を動かしながら、話しつづける。
「サラリーマンでも、主婦でも、それなりに仕事の難しさはある。社会的に評価されないのは画家も同じだ。成功者だけが賞賛される――どこも同じようなモンだろ?」
花蓮は返事に困った。高校生の彼女にとって、社会人が揉まれる荒波の厳しさを知るのは、まだ先の話だ。彼女の困惑を察した長峰は、まだ早かったか、と苦笑した。
「腹を括って、自分の行きたい道を進むしかないってことだ」
絵に集中しはじめたのか、長峰の口数は少なくなる。花蓮も押し黙り、彼に言われた言葉を自分のなかで反芻した。
(自分の行きたい道……私が、何になりたいかって、そういうことだよね?)
花蓮にはこれと言って将来の夢がない。学校の演劇部に入ったのも、熱心な入部勧誘を受けたからとか、たまたまクラスメイトが演劇部に入部したからとか、いつくかの要因が重なっただけに過ぎない。自分が率先して行動したわけではなかった。
(私がやりたいことって、なんだろう?)
腹を括る、そう覚悟して絵を描きつづける長峰のように情熱を傾けるものが自分にはない。
(どうしたら見つかるんだろう?)
絵を描くことに没頭する長峰を前に、花蓮は何度も自分自身に問いかけた。
一方、問い質す人物がもうひとり。
「鞠絵伯母さん、どうしてお姉ちゃんに絵のモデルを頼んだの?」
夕飯の下準備を手伝いながら、蓮実は隣で作業する鞠絵に尋ねた。辛うじてセミロングと言える髪は、ひとまとめに縛ると耳にかかるあたりが解れてしまう。鞠絵から借りた大人用のエプロンは少し大きめで左側の肩紐がずり落ちそうだ。
夕飯のメニューはトマトカレーだ。
換気扇はつけたものの、事前に煮詰めておいたトマトソースの匂いがキッチンに充満している。
「だって、花蓮が夏休み暇だって言うし、美人だからモデルとしても文句ないでしょう?あっ、蓮実も同じくらい可愛いけどアンタは小学生だからまだ早いと思って声をかけなかったのよ」
蓮実は、それが小学生の自分にも女のコに対する配慮の言葉だと理解できた。彼女が伯母を大好きな理由は、相手が子どもでも、ちゃんと姉妹を平等に扱ってくれるからだ。
「それだけ?」
妹から見て、花蓮は昔から同じ場所でじっとしていられる性分ではなかった。
子供の頃、店で髪を散髪してもらえるようになるまでは、自宅で髪を切ってもらっていた。花蓮は大人しくしていられず毎回母親をハラハラさせていたのを覚えている。
成長はしたものの、姉の落ち着きのなさは相変わらずだ。伯母もそのことをわかっているはずなのに……今回鞠絵が、姉にモデルの小遣い稼ぎの話を持ちかけたことを知って、蓮実は心底驚いた。
「花蓮も、もう高校生になったじゃない? そろそろ将来のこととか意識してもいい年頃だと思ってね」
蓮実がピーラーで皮を向いた人参を、鞠絵がテンポよく乱切りにしていく。
「花帆が言ってたけど、あのコは目的がないからフラフラして、まわりに流されやすいのが心配だって」
「…目的?」
「将来の夢とか……何でもいいのよ、夢中になって打ち込めるものなら」
姉が執着するもの――服の好みや食べ物は、ちょっとした拘りがあっても流行に沿うものが多い。たしかに、周囲に流されやすいというのは当たっている。
「蒼太くんは、逆に絵を描くことしか考えないような人。だけど、それだけでもダメだと思うの」
夢中になれるものがない花蓮と、夢中になりすぎて他のことが見えない長峰。
「正反対の人間と向き合うとね、人間って相手と自分とのちがいを見つけるものなの。嫌でも自分に足りないものを思い知らされるのよ」
やはり、適当な暇つぶしに姉を呼び寄せたわけではなかった――蓮実はようやく納得する。だが、すぐに新しい疑問が生まれた。
花蓮と長峰にとって、一番良い答えは何なのか、ということだ。