塩分濃度の高いキス
好きなのに、という言葉は涙まじりでもはっきりと長峰の耳に届いた。
言葉と同時に花蓮の目から、また涙が零れ出している。
自分のために泣く人間がいる。衝撃を受けた。家族以外にそんな人間がいるとは思っていなかったし、そんな女性の表情が……不謹慎でも綺麗に見えてしまった。
まだ大人としては幼い、けれど子供にしては成長しきった少女の魅力だった。
落雷のあった日と同じだ。
押さえつけてきた理性が、花蓮のひとことで瓦解した。
長峰は衝動に抗えずか細い腕を掴むと、力まかせに引き寄せる。
「長峰さ……」
汗ばむ肌から漂う甘い香りにくらりときた。自分を制御できない。
驚きの声を発する間も与えず、長峰は花蓮の唇に口づけていた。
顔が見えなくても、体の強張りから相手の混乱が嫌と言うほど伝わってくる。
(く、苦しい……息ができな――)
唇の代わりに解放した少女の腕は、置き場に困り、そのまま宙を彷徨った。逃げ場を探しているのか、長峰にしがみつきたいのか判断しがたく、捕まえるのさえもどかしくなって長峰が細身の体を両腕に閉じ込めてしまった。
「んぁっ…」
男の動作を荒々しく感じたのか、怯えた花蓮がのけ反る。
自分の胸を押し返す感触に、長峰も現実に引き戻された。華奢な体をとらえる両腕の力が緩み、簡単に二人の体は離れた。
お互いに身を引き、呆然と相手の顔を見る。花蓮の顔に驚きと動揺、そして警戒の入り混ざった表情を見て、長峰は自嘲した。
やはりこのままでは、傷つけてしまう。
血迷いかけているのは、自分のほうだと言い聞かせる。
「今の……キスは?」
長峰を見上げる彼女の頬はまだ紅潮している。興奮も冷めやらぬなか、確かめずにはいられないようだ。
「俺からの絵のモデルの報酬」
「報酬?」
ぽかんと口を開けた花蓮の表情は、いつものあどけなさを取り戻していた。
「好きにも色々ある。俺みたいに夢追っかけてる男を見たことがなかったんだよ、お前は。はじめて見たものに興味を持ったんだ。憧れに近い感情でな」
「ちがう!」
花蓮がまた怒声をあげた。自分の感情を否定されて興奮状態に陥っている。
「本当に好きなの!」
「子どもの『ごっこ遊び』には付き合えない」
長峰の言っていることが花蓮には理解できない。
「『ごっこ遊び』って、どういう意味?」
「恋愛ごっこだよ。お前が想像しているのは恋愛っぽいもので、一時の熱中にすぎない」
「ちがう、ちがうもん! 好きなの! まちがいないの!」
長峰自身も、彼女の言葉を否定しているうちにわけがわからなくなってきた。ひと夏の出会いに、これまでの絵画に傾けてきた情熱を曲げることはできない。
もはや意地になっていた。
「成長したけど、お前はまだ子どもだよ」
極論だった。花蓮を、そして長峰自身を納得させる理由には最適だ。花蓮の恋心が本物だとしても、長峰から見たらほんの子どもの憧れとしてかわせるだろう。
「夢中になりたいってのは、俺のことか?」
「それは……」
花蓮は即答できなかった。長峰は言葉に詰まる彼女の頭をぐりぐりと頭を掻きまわす。子供を言い聞かせるような、宥めるような動作だった。
「まず、お前は自分の生き方を決めろよ。夢中になるものを見つけるのが先決だろう」
「でも……」
どう反論していいか花蓮に取り付く島もなく、長峰は彼女の背を押しやってアトリエの出入り口へ誘導してしまった。
「大人になってから出直してこい」
そのひとことを花蓮に添えて、長峰は彼女をアトリエからぴしゃりと締め出してしまった。
ファーストキスは、涙や鼻水まで混ざり合って花蓮にとって妙にしょっぱい味に思えた。
戻ってきた花蓮の姿を見て、蓮実は姉への対応に困ったことだろう。
アトリエから戻ってきた花蓮は再び目に涙をためて赤面しているので、返り討ちにあったことは想像がついた。だが、失恋のショックで落ち込んでいるようには見えないので首を傾げる。
「お姉ちゃん、長峰さんに告白できたの?」
「うん……告白できた」
花蓮は当初の目的を思い出した。結果ではなく、後悔しないために自分の想いを告げようとアトリエに向かったのだ。
長峰から自分の気持ちが一時的なものだと言われて、頭に血が上ってしまった。その時点で自分は本当に子どもとして扱われたにちがいない。できるだけ長峰との会話を思い出して、唖然とした。
「好きって言えた。三回も言っちゃった」
最初の好き、は勇気と一緒に絞り出したのに、あとはがむしゃらになって発していた。まるで子供が駄々をこねるように。
「それで、長峰さんは何て答えたの?」
「私はまだ子どもだから、遊びにはつきあえないって」
花蓮の説明で蓮実は納得したようだ。
「頑張ったね」
「大人になったら出直してこいって……やんわり断られてるんだよね?」
「まぁ、そうかもしれないね……」
失恋――にしては、想像していたより気持ちが軽い。
蓮実が言ったように、気持ちを告げずに後悔するよりはずっとマシだ。
恥ずかしくて、ヤケになって、八つ当たりのように声を荒げてしまったけれど人生初の告白だった。
(黙って溜め込んでいるよりは、よかったのかもしれない……)
はたと自分の思考に待ったをかける。
フった相手にキスなんてするのだろうか。いや、報酬にキスという形はあり得るのだろうか。
そこまで考えて、花蓮はようやく重大な事実に気がついた。
「うわぁ~~~~っ! アレが初めてのキスだったぁ―――!」
呻くような花蓮の言葉に蓮実がぎょっとした。
「キスって……キスしたの? フラれたのに?」
頭を抱えてベッドの上で悶える花蓮。姉の姿を冷静に見守る蓮実。
姉妹の夏休みは、花蓮の告白騒動とともに幕を閉じた。




