女子高生と画家
高校最初の夏休みに期待していた予定がことごとく中止・延期になってしまい落ち込む花蓮。そんなときに伯母から知り合いの画家の絵のモデルにならないかと声をかけられる。
小遣い稼ぎのつもりで、気軽に引き受けた仕事は想像以上に地味でハード!
彼女の絵を描く画家・長峰も一癖ありそうな人物で……。
うっすら淡い夏の恋を目標にしました。
日中は狂ったように合唱する蝉の声。
それが体感温度と疲労感を煽った。
夏の厳しい暑さで、テレピン油やクリーナーが揮発し、室内に独特の匂いが立ち込める。
「夏休みが終わるまでに完成しそう……ですか?」
「どうかな……まるひと月なら何とかなるだろ。おい、動くな」
額や首筋を伝う汗を拭おうとすると、男の鋭い声で断念する。
(早まったかもなぁ……)
宮越花蓮は、夏休み直前の出来事を激しく後悔していた。
高校一年。初めての夏休み。やりたいことはたくさんあった。
入部した演劇部の合宿、アルバイト、クラス メイトに誘われた合コンだって参加したい――しかし、お嬢様育ちの生徒が多い女子校で原則アルバイトは禁止。部活の顧問が急性胃炎で緊急入院したことにより合宿は延期。
期待していた合コンはなぜか友人たちから除け者にされた。
自分たちよりも容姿に恵まれた友人を参加させたくない……女子特有の心理が働いたらしい。
夏休みの計画がすべてご破算になりそうだとわかった頃、母方の伯母が小遣い稼ぎの仕事を紹介してくれた。絵の制作期間は自宅から片道一時間半はかかる伯母の家に泊めてもらうことになる。
『花蓮、絵のモデルやってみない? あなた花帆似の美人だし、描き手も気に入ると思うのよね』
伯母の夫、義伯父の大学時代の先輩に画家になった息子がいて、不得意な人物画の練習台になってほしいということだった。
ちなみに花帆というのは、花蓮の母親である。
若い頃に女優業を生業にしていたが、世間に名前が浸透する前に脚本家の父親と結婚して早々と芸能界を引退し、主婦という役に満足している。一般人になったものの、ふたりの子持ちである母親の美貌は特段損なわれてはいない。だから、母親似の花蓮は、外見は折り紙つきだった。
『その人って大学生なの?』
『ううん。美大をちゃんと卒業してるから、元美大生よ! プロの画家として実力もあると思うんだけど……』
伯母の言葉の歯切れの悪さも気になったが、彼女の言葉が花蓮に決断させた。
『モデルになってくれたら、お小遣いと、この夏ウチにいる間はスイーツ何でも食べ放題にしてあげるから!』
――小遣いとスイーツを条件に、花蓮はやったこともない絵のモデルを務めることになった。しかし、伯母から話を聞いていた画家本人を紹介されたとき、花蓮は自分の引き受けた仕事が、前途多難であることを知った。
目の前で自分を描いている男に視線を移す。
Tシャツにデニムパンツというありふれた組み合わせだが、デニムに加えられたダメージは、洗いざらしの衣服に見られる摩擦と生地のほつれ……天然とはいえ、かなりの傷み方だ。
お洒落を通り越した着たきり雀であることがわかる。ボサボサ頭と無精髭も、自身の身なりには頓着しないと主張していた。ふたつの目だけがぎらついており、どこか異国の刑務所に投獄されていたのではないかと思うほど第一印象はひどかった。
画家は、伯母にモデルとして紹介された花蓮に対して文句をつけるわけでもなく「どうも、長峰です」と軽く会釈しただけで、翌々日から彼女の肖像画を描くことが決定された。
長峰蒼太。
それが画家の名前だった。
花蓮の伯母は、大手商社に勤める夫の親が建てた洋館で暮らしていた。
よく手入れが行き届いており、築三十年以上とは思えないほど綺麗な状態だ。
伯母の邸の庭に建てられた天窓のある物置小屋を、長峰がアトリエとして借りていた。
きちんと基礎工事をして建てられていたがエアコンが取り付けられていないため、日中の作品制作は猛暑のなかで行われている。
花蓮が座っているのは、イタリア製のダインイングチェアを模して造られた量産品と聞いていたものだが、背もたれに寄りかからずに背筋を伸ばし姿勢を維持するのは地味に疲れる。
そのうえ例年以上の暑さから、自分の汗に悩まされることになった。長峰はもとから無口なのか、作品に集中しているせいなのか、二人の間に会話はないに等しい。先程のように汗を拭おうとすると注意される。想像以上に心身とも疲れる仕事だったのだ。
「あの……そのキャンバス、思ったより小さい気がするんですが」
「これか?」
「はい」
頷くと首が上下するため、会話は口だけ動かすように心がけた。長峰の視線も基本キャンバスにあるが、モデルである花蓮の姿との間で行き来している。
「大きければいいってモンじゃない。コンクールに出展するわけでもないしな。完成しても運び出せなきゃ意味がないだろ」
「……出来上がったら、その絵はどうするんですか?」
花蓮は、キャンバスに裏面に視線を当てて尋ねた。
「馴染みの画廊に任せるか、ここで引き取ってもらうかだな。いきなり人物画を描けってモデルまで用意したのはお前の伯母さんなんだ」
花蓮の伯母は面倒見のいい姉御肌タイプで、何かにつけて人の世話を焼きたがる。時には相手にとって余計なお世話、と言われそうなものばかりだ。実際、今回の絵の件もひょっとしたら伯母がひとりで空回りしただけなのかもしれない。
「それじゃ、その絵……私がもらってもいいんですか?」
「お前、タダでこの絵をせしめる気か?」
ギロッと睨まれた気がして、花蓮は肩を竦める。しかし、これだけ汗だくになり、じっとして暑さに耐え忍んで絵の完成まで協力するのであれば、自分の肖像画をもらっても罰は当たらないはずだ――と思ったのだ。
蛇に睨まれた蛙のように、花蓮が大人しくなると長峰は再び描くことに集中する。彼はこの暑さが平気なのだろうか?
(暑い……画家のオジサンは怖いし、干からびちゃうよぉ……)
無言になると、暑さへの不快感ばかりが花蓮の精神を侵食していく。額からの汗が目に入ったのか、視界が揺らいだ気がした。
「長峰さん」
「……今度はなんだ?」
集中を妨げられ、止むを得ずキャンバスから視線を移した長峰は愕然とした。少女が不気味なほど真っ白な顔でこちら見ていることに気づいたからだ。
生気を失いかけた、青白い肌。
「気持ち悪い……」
「は? お、おいっ!」
傾ぐ視界のなかで長峰が慌てだしたときには、花蓮は意識を手放していた。
「熱中症だなんて……だからウチで描けばよかったのよ~! エアコンもついているし、私の目も届くから色んな意味で安全でしょう?」
一気にまくし立てたのは、花蓮の伯母であり、今回の肖像画制作をお膳立てした張本人・森下鞠絵だった。
リビングのエアコンは冷房モード全開に設定され、部屋全体に冷気が漂うほど冷えていた。
ソファーに横たえられている花蓮の額にはアイシングバッグが載せられ、首は冷却タオルが巻かれており、脇の下には濡れタオルが挟み込んである。
長峰は、倒れた花蓮を鞠絵の家に担ぎこみ、彼女にことの経緯を説明した。鞠絵は姪の容態を確認して水分補給と体温を下げるために素早く行動したところ、やっと花蓮の症状が回復しはじめたのである。
「試しに買っておいた経口補水液が、こんな風に役に立つなんて……水分補給くらいはさせてくれなきゃ困るわよ!」
「……」
この指摘に長峰は反論できなかった。
絵を描き始めて三日。扇風機はつけてはいたが、水分補給まで気が回らなかった。水を飲みたくても、休憩が欲しいと言い出せない気配が自分から漂っていたのかもしれない。
『お前は無言の威圧感が半端じゃない』と、学生時代からの親しい友人たちからはよく言われる。
年下で不慣れな花蓮にはこの状況はかなり堪えたにちがいない。
「蒼太くんは絵のことになると、まわりのことが見えなくなるんだから……」
この夏、両親が海外を旅行している間は鞠絵の家で世話になっている。短期間の滞在ではあるが、鞠絵は長峰青年の性格を把握しきっているようだ。耳の痛いこともはっきり言ってのける彼女だが、それは相手への思いやりがあってのことだった。
「ちゃんと相手を見てなきゃ、絵だって描けないわよ!」
「見てるよ。でなきゃ人物画なんて……」
「このコの本質まで描く自信がある?」
長峰は言葉に詰まった。
本質。外見は体裁だけを整えればいいが、内面に隠している人の性質を描き出すことは容易ではない。花蓮との初対面で、彼女を描いてみたいと思ったのは事実だ。
ソファーで休む花蓮を見下ろす格好で観察すれば、自然と彼女の魅力が伝わってくる。
透けるような白い肌に、茶色みがかった柔らかそうな長い髪。小さな顔にバランスよく配置されたパーツ。伏せた睫毛が思っていたより長い――目を開けていたほうがもっと印象的だが。
Sleeping beauty ―そんな言葉がぴったりだと長峰は思う。しかし、鞠絵に指摘されたように内面にある何かも描き出したい。それがまだ、掴めない。
「ん……」
花蓮が小さく唸ってうっすら目を開けた。天井をぼんやり眺めてから、現実に引き戻されたらしく、自分を覗き込む長峰たちに気づいた。
「大丈夫?」
「うん……私、なんでここに寝てるの?」
熱中症で意識を失くしたことを説明してやると、花蓮は納得した。
「花蓮も遠慮しないで水飲みたいとか言わないとダメよ! 蒼太くんが怖いから言い出しにくいのはわかるけど!」
「ちょ…鞠絵さん、俺のどこが怖いんだよ?」
意外な指摘に、長峰が鞠絵と花蓮を交互に見る。
「長峰さん、表情わかりにくいし……」
花蓮が遠慮がちに口を開く。
「表情?」
「髪ボサボサだし、ヒゲもじゃだから機嫌が良いのか怒ってるのかわからないし、声をかけるのも緊張する」
「ヒゲも……」
ヒゲもじゃという言葉はともかく、長峰は自分の風貌が、相手に不安を与えているとは夢にも思っていなかった。花蓮の外見や内面について語る以前に、自分のことさえわかっていなかったのだ。
「……別に怒っちゃいない。好きなときに水分を摂ればいい――っていうか、これからはこっちの部屋を借りて描くことにしたから、だいぶ楽になるはずだ」
長峰の言葉を聞いて、花蓮はホッとした様子だ。最初から鞠絵の言葉に従うべきだったのかもしれない。
「でも、ごめんなさい。絵描くの中断させちゃって……」
素直に詫びる花蓮に、長峰のほうがうしろめたさを感じた。謝るべきなのは、自分のほうだと。それなのに、彼女は自分の役目を全うする気でいる。
「今日はゆっくり休んだほうがいい。明日は体調を確認してからにしよう」
長峰はそう言って、ひとりアトリエへ戻った。その姿を視線だけで見送ると、花蓮は伯母に向き直った。
日が暮れかけた空は、夕陽を中心にオレンジ、紫の自然のグラデーションを作り出し、藍色の天蓋へ溶けていく。
天窓から、月明りが差し込むまでにはもう少し時間がかかる。照明をつけたアトリエに、麻張りのキャンバスがぼんやりと浮かび上がった。長峰は、描きかけのキャンバスを正面から睨む。三十号のキャンバスは、花蓮の指摘どおり、決して大きなものではなかった。しかし、少女の輪郭は途方もない奥行を見せ始めていた――途方もない広がりを。
『このコの本質まで描く自信がある?』
鞠絵の言葉が脳裏に過る。
「……描いてみせるさ」
長峰はキャンバスに向かって挑むように言い放った。