3 迷い路
3 迷い路
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえる。あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。まだ楽譜はまっさらなままだ。
「開いてるよ」
宏一はギターをスタンドに立てかけると、キッチンまで出て入り口のドアが見える場所まで移動した。
ガチャッと扉が開く。
「宏一いるか?」
案の定将人だった。
「何か用か?」
彼が来る理由も予想はついている。
「深雪さんどうしているかなと思って」
やはりそうだ。二二歳の彼は仁科財閥の運営する会社に勤めており、仁科夫人の引き合わせで、インディーズロックバンドのホワイトナイトでベースを務める深雪と付き合っている。
「深雪のことなら俺よりお前のほうが詳しいだろ」
いや、あははと将人は左手を後頭部に当てて苦笑いする。
ここは安いボロマンションだ。デートでないときでも将人は彼女の部屋へ直接会いに行けばいいのだろうが、それができない二人を宏一は微笑ましいとも思う。
「そういえば深雪さんから聞いたんだが、来週ライブをやるそうだな」
五歳年下の彼女のことを「さん」付けで呼んでいることからも将人の誠実な人柄が見てとれる。
「ああ、らしいな」
将人は宏一があまり気乗りしていないことを意外に思った。どんな観衆の前でも怯まず歌い続けられるのが宏一の長所だ。いつでもどこでも歌えるようなイメージがある。そんな彼でも気分の乗らないときがあるのだろうか。
「自分たちのライブなのに浮かない顔をしているな」
「ん、ああ。ちょっとな」
以前にもこんな宏一を見たことを思い出した。あの時はその迷いを払うために放浪の旅に出ている。それを将人と深雪は仁科財閥の力を借りて一緒に探したことがあった。
「まさかまた旅に出るつもりじゃないだろうな」
それも悪くないと宏一は思う。だが今は形にならない新曲を作ることが先だ。この思いを引きずったままでは旅をしても得るものはないだろう。
「新曲ができなくてな」
一週間かかって少しも曲ができないことを素直に将人に打ち明けた。まったく取っかかりがなく、少しでもヒントが見つかればという思いがあるのだろうか。
そんな宏一の思いが分かっているのか、曲作りに関してはわからないがと前置きしたうえで将人は口を開いた。
「お前はなんのために歌ってきたんだ? 何が原因で歌いはじめたんだ?」
将人のその言葉に宏一は遠い過去を思い起こしていた。小学一年生のとき親のギターを持ち出しては空き地でリサイタルと称し、下手な歌に意気込んでいたあの頃だ。ただひたすらに行き交う大人たちに向かって歌い続け、いつか聞いてくれるだろうと信じていた。遠いあの日の思い。
宏一の内に熱いものがこみ上げてきた。書ける! そう感じた。
将人の顔を見てにやっと笑うと、宏一は彼の右肩に右手を置いた。
「ありがとよ」
将人に背を向けると右手を上げて合図した。すばやく居間に入ってギターを手にする。もう迷いはない。
その様子を見つめてギターを弾く音を聞いた将人は、ふっと微笑を浮かべると部屋を後にした。
ドアの閉まる音を耳にすると、
「あいつ、余計なことを」
ふと深雪のことを思い浮かべたが、宏一は気にせずそのまま新曲作りに没入していった。