2 待ち合わせ
2 待ち合わせ
喫茶店のオープンテラスで将人は白い椅子に座っている。黒いサマーセーターを着て白いスラックスの脚を組み、小説を読んでいた。吉川英治の『宮本武蔵』である。二二歳の割に小説は幅広く読むほうで、最近は吉川英治がお気に入りだ。『宮本武蔵』の前は『三国志』を読んでいた。
ここは市の中心部から離れているので、土曜日の昼過ぎでも客は少ない。通りを行き交う人から見れば優雅にコーヒーブレイクを楽しんでいるように映るだろう。
テーブルの上に置かれたカフェラテを飲み、唇に付いた泡を器用に舐めとる。左腕に着けたいかつい時計を見ると一三時五五分を指している。約束の時間まであと五分だ。
夏の終わりを迎えて秋のように過ごしやすい気候である。そのせいかこの通り沿いには喫茶店や料理店もオープンテラス形式が多く見られた。
「将人さ~ん」
聞き慣れた声がしたほうに目をやると、道の向こうから青いキャップを目深にかぶった少女が走ってくる。将人は立ち上がって出迎えると、一七歳が体を躍動させて近づいてきた。
「待ちました?」
黒のロングヘアをキャップに押し込んだ少女が、息を切らしながらにっこりと微笑む。将人は小説をテーブルの上に置くと立ち上がって出迎えた。
「いえ、今来たところですよ。深雪さん」
一時間前からここにいることなどおくびにも出さず微笑み返す。向かいの席を手で指してどうぞと深雪に着席を促した。
深雪は仁科財閥の三女である。姉は二人とも都心で生活していて、この街には深雪だけが残っていた。末娘ということもあり、夫妻は深雪に甘いようだ。
すぐにウェイターが注文を取りにくる。彼女はクリームソーダとショートケーキを、将人もカフェラテをもう一杯頼んだ。
「宏一は何してますか?」
将人は宏一をライバルだと思っている。深雪を巡る恋のライバルとしてだ。しかし当の宏一はこちらのことなどお構いなし。その情熱は常に歌に向かっており、深雪の存在もバンドメンバーとだけ感じているようである。出来の悪い妹のようなものだろうか。だがそれだけ深雪と心を通わせており、将人に焦りを生んでいるのも確かだ。デートが始まったばかりなのに、ここでもつい宏一のことを聞いてしまう。
ホワイトナイトは今夏のインディーズフェスに参加し、ナンバーワンバンドに輝いた。インディーズ界ではすでにその名が轟いている。これには宏一が逐一反論をしていた。ただ歌を伝えただけだ。そして歌が伝わった観衆が多かっただけなのだと。
「あいつは今新曲を考えてますよ」
新曲と聞いて将人は沸きたった。初めのうちこそ深雪に連れられて無理やり聞かされたせいで宏一に対して否定的だった。しかし程なくして宏一の歌声が観衆を次々と熱狂の渦に叩き込むさまを目の当たりにする。将人が勤め先で経理職から営業職へと左遷されて傷心していたときに、慰めを求めて深雪の曲を聞いた。そんなこともあってホワイトナイトの歌を改めて聴きなおし、いつしか嫌悪感がなくなり純粋にホワイトナイトの曲を好きになっていた。
「でも一週間考えているわりにまったく進んでないんですよ。スランプですかね?」
そうですかと彼は答えながら、デートが終わったらヤツのところに寄ってみようかと考えた。音楽のできない自分がとくにアドバイスすることなどないのだが、気分転換は必要だろう。とくに考えが煮詰まったら目先を変えなければ堂々巡りになる。それが左遷されたときに得た教訓だ。
「ところで、今日はどこに行きます?」
一七歳の瞳が輝いている。デートを楽しみにしてくれていたようだ。
「横浜で映画を観るなんていうのはどうですか? 大ホールでエリス・ハウザーの映画をやっているんですよ」
エリス・ハウザー――アメリカのビルボードランキングで今も一位を張り続けている伝説の歌手。五年前に彼女の自伝が映画化されている。今でも細々とリピート上映されているほどの名作だ。
深雪は「エリスみたいに歌えるようになりたい」と願っていた。その思いが彼女をホワイトナイトへと導いたのではないだろうか。
「いいですね。私、あの映画大好きなんですよ」
破顔して話す深雪を見ていて、将人はこの映画を選んでよかったなと思った。
ウェイターが再びやってきた。深雪に色紙を渡してこっそりサインしてくださいと願い出たのだ。どうやらインディーズファンらしい。彼女はペンを受け取ってすらすらっと走らせると、周りには黙っていてくださいねと言い添えて色紙を返した。ウェイターはいそいそと引き上げて、すぐに注文の品を持ってきてくれた。
「映画は一六時開始なので、もう少しここにいましょうか」
「そうですね」
ショートケーキにありついた深雪が待ち遠しかったように笑った。