3_コイントス
白く細長い通路に、非常灯が緑色の光を落としている。
そこに、白いコートに身を包んだ少年が壁を背にしゃがみこんでいる。その向かい側の壁に寄り掛かっているのは真っ赤なドレスの女性。他に人影は無い。
エリアルズは都心の一等地にある国内有数の高級ホテルだ。二人は、その一階に並ぶ会場をぐるりと囲うように設けられた通路にいる。
それぞれの会場は、ホテルの正面から見て左手に横向きに並んでおり、その裏手には非常口へと繋がる細長い通路がある。これは、火災等の発生時に、会場内の客がホテルの裏口から避難できるようにするためのものだ。その細長い通路に速やかに出られるよう、会場には入口とは逆側に、非常用の出口がそれぞれ設置されている。
この通路は非常口と会場、そしてホテルの正面ホールを繋いでいるだけのもので、普段は利用されることがほとんどない。そのため人通りは皆無であり、侵入者を見張りつつ襲撃に備えるにはうってつけの場所といえた。
『凶悪化する犯罪、蔓延する裏社会、誰がいつその命を奪われても不思議ではありません』
聞こえてくる演説は、霧崎警備保障の跡継ぎである霧崎蒼汰のものだろう。その声には熱がこもっている。
彼の思惑通り、警備は一切敷かれていなかった。おかげでコリィとイオの二人も、こうしてホテル裏の非常口から難なく侵入することができた。
ただし、不特定多数の者を招き入れるのではなく、提携企業や大手取引先の重役を始めとした招待客をもてなすという、従来通りの祝賀会となった。
これは、霧崎蒼汰が会場襲撃の企みに関わっている可能性から、邪魔が入るリスクを排除することは、本人にとって必ずしも悪い話にはならないだろうという、コリィの判断だった。
事実、依頼人である霧崎修司が、警備撤廃の条件として、部外者の招致について取り下げを求めたところ、彼は渋々ながらにそれを承諾した。これにより、客の中に悪意ある者が潜んでいるリスクを最小限に留めることができた。
『警察は誰の身も守ってはいない。彼らは凄惨な事件が起きた後にのこのこと現れて、やることはただの後処理。それが現実なのです』
ごもっとも、とコリィは呟いた。
霧崎蒼汰が本当に襲撃を企んでいるならば、当然別の手段を用意しているはずだ。もし彼が直接に関わっておらず、襲撃が第三者によって企てられているにしても、企業内部の情報はほぼ筒抜けであると考えていい。
「何事も無く終わってくれるといいんだけど」
コリィは声を漏らすように呟いた。
「嫌な予感しかしませんけどね」
イオが抑揚のない声で返す。
『法律、規律、秩序、そのような胡乱な物に守られているという錯覚に、今なお騙され続けている人々がたくさんいます』
演説が続く。
彼が何の目的で警備を取り払ったのか。本当に襲撃など起こるのか。例の手紙はどこで渡されたのか。
確証と呼べるものは何も無かった。だが、二人の表情に楽観は無い。この後起こる何かを見通しているかのように。
『隣りにいる人間が殺人鬼でない保証がありますか。その時、誰があなたの身を守ってくれますか』
霧崎蒼汰の口調が一層熱を帯び始めた時。
破壊音、そして悲鳴が通路にまで響き渡った。
会場内。
逃げ惑う人々。散乱する料理。壊されたドア。
そして、およそパーティにはふさわしくない、粗雑で無骨な格好をした男が四人、入り口を塞ぐように立っている。
「そうだよなあ、自分の身は自分で守らなきゃなぁ」
腕に刺青を入れた男が、あざけるような口調で言いながら拳銃の引き金を引いた。銃声が絶叫を貫く。
そして、闖入者から逃げようと背を向けて走っていた女性が一人、うつ伏せに倒れた。その脚から血が滲み、絨毯を赤く染める。
「あと二、三人捕まえるぞ。当分歩けない程度に痛めつける。女は顔だ」
別の男が倒れた女性に近づく。その手には黒い手袋がはめられている。何の変哲もない手袋に見えるが、正体は高圧電流を発するスタングローブだ。
男が女性の首を掴むと、その全身が一度だけ大きく跳ねた。そして男は女性の顔を覗き込むように引き起こしたが、女性はうめき声を上げるだけで、もはや何の抵抗も無かった。
「悪く思うなよ。こっちも仕事なんでな」
涙で化粧が崩れたその顔を、近くのテーブルに叩きつけようと、男は腕に力を込める。
鈍い音がした。
男は昏倒し、仰向けに倒れた。
飛来した何かが男の額を打ち付けたのだ。それは小さく輝きながら、くるくると舞うように頭上へと跳ね返った。
シャンデリアに照らされて煌めくのは一枚の硬貨。そして、持ち主の元へと帰るように掌に収まった。
「正面から堂々と入ってくるとは」
そこに立つのは、白の少年。
「それにしたってやりすぎでしょう。顔は女性の命ですよ」
コリィは歩きながら続ける。そして、倒れた女性を庇うように立ち、闖入者達と対峙した。
「ヒーローごっこならやめとけ、餓鬼」
男達の冷たく鋭い視線がコリィを捕らえていた。彼らがただの暴漢ではないことは明らかだ。恐らくは相当な場数を踏んでいる。
「こっちも仕事なんでね」
平然と言い返しながら、コリィは左手に握った硬貨を、袖の中から静かに弾いた。
硬貨はまたしても相手の頭部を捉え、高い音を響かせながら宙を舞った。
倒れる仲間を尻目に、残された二人は動揺を露わに身構える。
たかが硬貨一枚、どれだけ力を込めてぶつけたところで、人を気絶させることなどできるはずがなかった。
コリィは高く飛び上がり、空中の硬貨を掴み取りつつ、もう一人の男の顔に飛び蹴りを叩き込む。大きくのけぞりながら壁に叩きつけられ、男は動かなくなった。
着地すると同時に、コリィは体を沈めるように低く構える。その姿は、護身術や近接格闘術によるものではなかった。
「ただの餓鬼かと思ったが、てめえも同業か」
今や残っているのは刺青の男一人のみ。
「全然違う。うちは便利屋」
構えたままコリィは答える。
「そうかい。そりゃ失礼」
刺青の男が拳銃をゆっくりと構える。銃口の先にいるのは少年ではない。その後ろで倒れている女性だ。
射線に割り込むように、じりじりと移動するコリィ。
敵の意図は明らかだった。女性を囮に少年の動きを封じようというのだ。あまりにも露骨で稚拙な発想に思えるが、だからこそ有効な手段といえた。
そしてその思惑通り、少年は銃口を向けられたまま動けずにいる。すぐ背後には意識を失った女性。
さらに、気絶していた他の三人が、荒い息を吐きながらよろよろと起き上がる。そして少年を囲うように回り込んだ。
「こりゃまいったな。イオにも手伝ってもらえばよかった」
コリィは未だにその場から動けずにいた。その周囲を、報復に燃える男達がにじり寄る。正面には拳銃を構えた刺青の男。
不意打ちのコイントスは既に見せてしまった。恐らく次は通用しない。
男達にとっては絶対有利な状況に思えるが、それでも彼らが油断を見せることは一切無かった。どんな場合においても最悪を想定できること、それが殺しにおける絶対条件だからだ。
刺青の男は無感動に引き金を引いた。