2_大蛇
深夜。とある廃工場。
瓶の口から昇る炎が、薄暗い内部を赤く照らしている。瓶の中にオイルを満たして燃焼させる、いわば火炎瓶のようなものだ。
電気の通っていない場所における照明のつもりなのだろうが、普通の人間であればまず試す機会のない代物である。ましてや、真夜中にそのような場所で炎を囲んでいる者たちが普通である保証など、どこにも無い。
「言ってる意味がよくわからねえが」
男の大きな体躯を炎が照らす。露出した太い腕にはいくつもの傷跡が刻まれており、それが皮膚に彫り込まれた刺青を歪ませていた。到底、堅気には見えない。後ろで佇んでいる三人の男達も同様だろう。
「何度も言わせないで欲しいな。あるホテルの会場で祝賀会が開かれる。それを襲撃して、何人か痛めつけたらそのまま撤退。簡単でしょ。嫌なら他を当たるよ」
彼らに対峙するのは一人の少年。長い黒髪、黒い服装が闇に溶け込み、その顔だけが白く浮かび上がっている。
「あのな、俺らが気に入らねえのは」
刺青の男は言いながら詰め寄る。
「なんでお前に仕切られなきゃいけねえんだって事だ」
それを聞いて、長髪の少年は不敵に笑った。
「万が一ってことがあるからね」
少年の軽蔑した口調が、彼らを苛立たせていることは明らかだった。
「万が一って、お前、はは」
乾いた笑い声が闇に響く。
そして、血が一筋、少年の顔を流れた。その額には大きなナイフが突きつけられている。
「どういうのが万が一なんだ。教えてくれよ、なあ」
殺意を向けたまま、刺青の男が低い声で問う。鋭い眼差しの奥に残虐が揺らめく。
どこからか隙間風が吹いて、剣呑な雰囲気を冷たく撫でた。
「例えばの話だけど」
少年は握りしめた。刃が掌に食い込み、鮮血がこぼれ落ちる。
「くだらない正義感を振りかざしては、弱者を吊るし上げ愉悦に浸るだけの、英雄気取りの傍観者共が」
刃を押し返す。血液が、滲み出る怒りが、上向きのナイフを伝い、持ち手を濡らした。
「しゃしゃり出てこないとも限らない」
刺青の男が、困惑と恐怖に顔を歪めながら後ずさる。瓶が倒れ、炎が大蛇のように床を這う。後ろの男達は、とっさの出来事に対して動けずにいた。
「それに」
今や、血塗れのナイフは持ち主の喉元を貫かんと紅く光っている。
「君達がちゃんと仕事をするか、見てないとね」
少年が口を歪ませて笑った。
異を唱える者は、もはやいなかった。
「わかった、よくわかった。全部あんたの指示通りでいい。だからそいつを許してやってくれねえか」
奥から男が一人、両手を小さく上げながら前に出た。
だが少年は手に込めた力を緩めない。切っ先が食い込む首から、血が一粒浮き出た。
「ナメた真似をしたのは謝る。俺らにも一応、面子ってもんがあってな、知らねえ奴の下につけって言われて、無条件でいちいちそれを受け入れてちゃ、やっていけねえんだ。アンタもわかるだろ」
別の男が、倒れた瓶を踏みながら言った。
許しを請う時であっても、彼らの声に媚びはない。たとえ相手が格上であろうとも必要以上の弱みを見せないのが、彼らの闇の住人たる所以である。社会から追い出され行き場を失った者達は、なりふり構わず噛み付く意思を見せなければ、野良犬にすらなれないのだ。
金属音。ナイフが地面で小さく跳ねて、炎の中に落ちた。
刺青の男は膝から崩れ落ち、荒い呼吸をしながら、己の喉が無事であることを確かめる。
「まあいいよ。当日は後ろで待機してるから、何かあったら呼んで」
少年は掌の血を舐め取りながら言った。裂傷など気にも留めていない様子だった。
「もう一回言うけど、死人は出さなくていいからね。邪魔者がいれば別だけど」
言い終わると、少年は踵を返して歩き出した。
刺青の男が呼び止めた。
「何者なんだ、アンタ」
「名前は……ハイドラ」
少年は歩みを止めずに答えた。掌の出血は既に止まっていた。