金魚姫は熊騎士の愛に溺れる
家族や周りから虐げられた女性が幸せを見つけるまでの、
すれ違いと勘違いのお話です。合作です!
感想・アドバイス等ございましたら何でもお気軽にどうぞ!
10.20 ご指摘していただいた誤字・脱字の修正を行いました。
10.22 ご指摘して頂いた誤字脱字、表現の変更を行いました。
2018.9.2 ご指摘頂いた箇所の修正を行いました。
白い布に真紅の糸を泳がせるようにして、薔薇を咲かせていく。
ぱちん、と糸を切るはさみの音が響いた。
「よし。いい出来だわ」
私は先ほどまで縫っていたお手製のハンカチーフを机に広げる。
こだわり抜いたサテンの生地に柔らかい糸で縫ったそれは、自分でも満足のいく出来栄えだった。
子爵の別邸にしてはそれなりに広いこの屋敷には、私を含め3人しかいない。
そんな静かな環境で裁縫を行うのが何よりの趣味なのだ。
「お嬢様」
出来上がったハンカチーフをどうしようか、と悩んでいると控えめに扉をノックする音とじいやの静かな声がくぐもって私の耳に届く。
「どうしたの、入って」
白髪を綺麗に後ろに流し、口許の髭が特徴的な私の執事。本名はセバスチャンだけど、私が幼い頃からおじいちゃんだったので『じいや』と呼んでいる。
じいやは日中あまり私の部屋にやって来ない。理由は裁縫の邪魔にならないようにするためだ。それでもじいやが訪れるということは、何か急用だろう。
じいやは片手に誰かからの手紙を持っている。私の表情を丁寧に観察するように注意深くこちらを見ていた。
普段の彼らしくないその態度に背中に嫌な汗が流れる。
「じいや、何か用があったのでしょう」
「はい……先程、ルハインツ様より書簡が届きました。お嬢様の結婚が決まったと」
私を別邸に追いやっておいて今更何の用だと言いたいところだけど、どうやらお父様達は今も私の事などどうでもいいらしい。貴族の娘にとって大事な婚約の話を直接せず、相談すらなく、挙句の果てには手紙で終わらせるなど。貴族の娘には親が決めた結婚相手をどうこうする権利は無いけれど、親は娘に婚約について事前に相談しておく義務がある。
人魚姫から生まれた醜い金魚姫と呼ばれる私には、それすら価値が無いと言いたいのだろう。現にお父様は手紙でこう書いていたらしい。
『先方に失礼がないように』
言い換えれば“お前にはこの件についてどうこう言える権利は無いから黙って嫁げ”という事だ。
「じいやとローリエも一緒に来てくれる?」
本当は嫁ぐ側の使用人を連れて行く事はあまり良くないとされる。駄目元で聞いてみると、じいやからは意外な言葉が出た。
「相手のお方は勿論問題ないとおっしゃっております。シャンデル家別邸から何か持って行きたい物があれば、気兼ねなく持ってくるようにと」
随分変わった人だ。たかが子爵令嬢(しかも訳あり)を貰い受けるだけでも変なのに。社交界に片手で数えるくらいしか参加していない私を欲しがるなんて、どうやらその御仁は普通の男性と感覚が違うらしい。
本来、妻側が用意しなくてはならない引っ越し用の馬車の手配も向こうが済ませてくれ、申し訳程度の持参金も嫌な顔せず受け取ったのだとか。
そんな美味しい話に貧乏貴族の私が乗れるはずがない。これはきっと裏で何かあるか、子爵家の借金返済の為に私が売られたのだろう。
私の事を娘だとも思っていない家族ならやりそうなことだ。
それもこれも、類まれなる美貌を持つお母様から生まれたはずの私が持たなかった容姿のせいだ。この世で最も美しいとされる伝説上の生き物である人魚姫、と称されるほど美人だったお母様は、自分とは似ても似つかない私よりも金髪碧眼の絵に描いたような美少女だったお姉様を大切にした。
お父様も、2人のお兄様も私を相手にせず、お母様とお姉様のように私をいない者として扱った。やがてこの顔を見るのも、お母様とは全く異なる栗の毛色を見るのも嫌になったらしく、私の世話を使用人に押し付け、今のこの別邸へと住まわせた。
成人を間近にした私は社交界に出る為、準備を整えてくれるよう手紙を送った。
貴族の家庭では初めて社交界に出る娘をいかに美しく着飾ろうと、親は腕の良い職人達を集め、ふさわしいドレスを見繕わせる。夜の華やかな場に飛び立つ蝶が美しければ美しいほど、殿方が惹かれてくるから。それは親から成人する子へ、最後の愛情の形であり一種の通過儀礼なのだ。
でも、彼らは私の手紙など無かったように振る舞ったのだ。よく考えてみれば、じいやが定期的に私の成長を記した手紙を送っても何の音沙汰も無かったような人達なのである。返事が来ると思う方がおかしい。準備くらいはしてくれるかもしれない、なんて思っていた自分を恥じた。
だが、初めて参加する舞踏会へ出席の旨をすでに伝えていた私は、自分でドレスを縫う事にしたのだ。毎月送られてくる私の養育費だけでは、社交界デビューに着飾るドレスを買うことは出来ない。それならば自分で作ってしまった方が安くつく、とじいや監修の元で完成させた。
夜の宴はずっと日陰で生きてきた私にはひどく眩しく、縁のない場所だと悟る。
久方ぶりに会ったお姉様は幼い頃からの美貌にますます磨きをかけ、年を取ったお母様の美しさも衰えることは無かった。人はそんな私とお母様たちを見てこう言った。
『美しい人魚姫から生まれた醜い金魚姫』
ご丁寧にも人々はお母様の耳に入るように言う。その結果、私はますます毛嫌いされ、舞踏会に顔を出すな、別邸にずっといろ、と言われたのだ。私としても舞踏会に出なくて済むのならこれほど幸せなことは無い、とずっと裁縫に取りかかっていた。
そうして世間から隔離された状態で過ごすのち、気付けば結婚適齢期が過ぎていた。いわゆる『嫁き遅れ』である。
「それで、いつ出発なの?」
夫となるその人がいる場所へ向かわなくては、と暦を見ながらじいやに問う。
するとまたしても予想外の返答がきた。
「明日でございます」
「明日? 冗談でしょう?」
あまりにも急すぎる。
しかし、じいやは首を横に振った。
「明日の正午、こちらに馬車を向かわせてくださるようでございます」
「そう」
何はともあれ、私には拒否権なんてものは端からない。
私は椅子から立ち上がると、先程縫っていたハンカチーフを片手にじいやの前へ進み出た。
「持って行く物は私の裁縫道具、服、今まで作ったものだけで良いわ」
「そ、それだけでよろしいのですか?」
「ええ」
だって、じいやもローリエもついて来てくれるのでしょう? だったらそれ以外、必要なものはないわ。そう答える代わりにじいやの胸ポケットにハンカチーフを入れると、私は荷造りする為、部屋を出て行った。
もともと持って行こうとする物が少なかったのもあり、荷造りは私とじいや、ローリエの3人で取りかかって午前中には終えた。尤も、ローリエが不器用過ぎて荷造りというより、荷解きとなってしまったので、実質的には私とじいやの2人。
幼い頃から住んでいたこの屋敷も明日で離れるのだ、と思っても寂しさというのは無かった。あまりにも淡白な自分の気持ちに苦笑いしつつ、寝台に寝そべり蝋燭の火を消そうとする。
「お嬢様、夜分遅くに申し訳ありません~」
この気の抜けるような話し方はローリエしかいない。
「入って」
私がそう言うと、そっと扉を開けローリエが入って来た。赤茶色の髪にブラウンの瞳。そばかすが印象的な彼女は、じいやと共に昔から私と過ごしている。
「お嬢様、いよいよ明日ですね~」
何がとは言わなかったのは、彼女なりの気遣いなのだろうか。
「お嬢様とこの屋敷で眠るのは今日で最後です~。だから今晩だけは、昔みたいに一緒に眠りませんか~?」
「どうせ断っても無理矢理寝ようとするでしょ」
ネグリジェ姿に、手には枕と私が縫ったクマのぬいぐるみを持って部屋にやって来たのだから、追い返しても意味がないだろう。
私も本当はちょっとだけひと肌が恋しくなっていたことは、ローリエには言わない。
「ローリエの荷造りは終わったの?」
私の隣に寝そべるとローリエはクマのぬいぐるみを顔の前に持って来て、返事する。
「セバス様に“私がやっておくからもう触るな”って言われちゃいました~」
「……そう」
「料理も洗濯もお裁縫も出来なかった私に、お嬢様は怒らずに私が何を出来るか一緒に考えてくれましたよね~」
ローリエは勝手に話し出す。遠い思い出に話しかけるようにして、ぽつりぽつりと言葉を選びながら私に話した。
「お屋敷にいた頃、私は何にも出来なくて~メイド長や他のメイドから怒られてばかりで~。“間抜けなローリエ”って呼ばれるようになって~。でも、セバス様やお嬢様は私を笑ったり失望したりすることなく、傍にいてくれました~」
真っ直ぐな彼女の瞳が少しむずがゆい。
「私、お嬢様のメイドで良かったです~。私が私らしくいられるのはお嬢様のお陰です~」
「それを言うなら私も。貴女とじいやがいるから家族から無視されても私は私でいられた」
それに貴女達は他の人みたいに私の容姿で蔑んだりはしない。
ローリエは私の言葉に満足そうに微笑むと、クマのぬいぐるみを抱き寄せ、眠りにつく。私もいつの間にか眠っていたらしく、翌日ローリエに揺り起こされた。
じいやの言った通り、私が嫁ぐ相手の御仁が馬車を手配してくれていた。御者もいる貸し馬車で迎えにやるのにどのくらいの費用がかかったのだろう、と考えながら乗り込む。
私が結婚する相手は帝都にいるらしい。そして、これから私は育ったこのユークロアの地から出て行く。
寂しいとかそういった感情は最後まで実感できないまま、私は屋敷を見やる。
これでやっと私は『子爵家』を捨てられるのだ。その安堵の方が大きかった。
◆ ◇
「そういえば、私が結婚する相手ってどなたかしら」
「ええ!? お嬢様、今頃ですか~? 帝国軍の上級大将ミザール・フィーリア様ですよ!」
郊外ユークロアから馬車で3日ほど。途中の宿もその人が用意してくれた。
変わり者だけど悪い人ではないのだろう、多分。
ミザール・フィーリアなるその方の屋敷は帝都近くにある静かな場所だった。シャンデル子爵の別邸よりも遥かに大きいミザール邸に、私だけでなくローリエも驚いている。
ふと扉の前で私を待っている大男と目が合った。
グレーの短髪に特徴的な青い瞳、何もしていないのにこちらが恐ろしく感じるのは彼の顔立ちと体格のせいか、それとも彼の放つ威圧感だろうか。いや、どちらもだろう。
まるで私を狩ろうと言わんばかりの鋭い眼光。親の仇だと思われていそうなくらいだ。
身長はかなり高く、体格もとても良い。まるで熊みたいな執事がいるなんて、フィーリア家は変わっているなぁ、と思っていると、じいやがトンデモ発言をした。
「こちらがお嬢様の旦那様であらせられます、ミザール様でございます」
この人が!? という言葉を既に飲みこみ、私は貴族式の挨拶をする。
「はじめまして、旦那様。リナリアと申します」
少し腰をかがめ、スカートの裾をちょこと摘み膝を曲げて軽く一礼をする。
ミザール様は表情を変えることなく、しかもぶっきらぼうに答えた。
「俺はミザール。貴女の夫となる者だ」
それだけ伝えるとついて来い、と背を向け中へ入って行く。
じいや達に荷物を任せると私は慌てて彼の後を追う。
「あ、あの……」
「なんだ」
彼は振り向くことなく、大股で歩いて行く。追いつけなくて少し小走りになりながら、初めてフィーリア邸に入った時に感じた違和感を伝える。
「このお屋敷には私が連れてきた使用人以外に誰かいらっしゃるのですか? 随分と人気が少ないようですが……」
ようやく私の方を振り返ったミザール様は、全く変化のない無表情で答えた。
「いない」
「で、ではここにはお1人で……?」
確かミザール・フィーリアというこの方は、商家出身の軍人だ。帝国軍には庶民と異なり、剣術を習う余裕がある貴族の子息が多い。帝国軍の中でも珍しい貴族ではない出ではあるが、それでも実家は大金持ちの商家。そんな御曹司が使用人を雇いもせず、こんな広いお屋敷をたった1人で住んでいたとは考えられなかった。掃除も洗濯も料理も全て自分ひとりでやって来たのだろうか。
いつの間にかミザール様と並んで歩いて辿り着いたのは、これまた広い一室だった。
私が住んでいた屋敷の自室よりも倍以上ある。
「ここが貴女の部屋だ。夕食まで時間があるから好きにすると良い」
そう言って私のお礼も聞かず、ミザール様は大股で去って行く。
「お嬢様~、荷物はここで良いんですか~?」
後からやってきたローリエとじいやは、私が馬車に置いてきた荷物を運んで来てくれた。
「ありがとう、そこに置いておいて」
「お嬢様、私は夕食の準備に取り掛かって参ります。荷解きはローリエ、頼んだぞ」
「はい、お任せください~!」
いまいち信用してなさそうな視線をローリエに注ぎながら、じいやは厨房へと向かう。
荷解きの前に私の着替えを手伝ってくれていたローリエは、まるで悪戯っこのような視線を私に向ける。
「お嬢様、旦那様の印象はどうでした~?」
「あの人は私の事を好いてはいないわ」
着替えを終え、ローリエをじいやの元へ手伝わせに行かせると私は部屋で荷解きを始めていた。今まで使っていた裁縫道具を新しい執務机に置く。前に使っていたものと異なり、縦にも横にも大きいので布を広げて刺繍がしやすそうだ。
そう考えていると裁縫がしたくなって荷解きを終えると、私は早速取りかかる。
帝都に近いのにフィーリア邸はユークロアの地のように静かだ。
気が付けば裁縫に没頭していて、ローリエが夕食に呼びに来なかったら日が暮れるまで延々と縫っていただろう。
ローリエが案内してくれたのは、一階にある食堂だった。
中に入ると既にミザール様が座っていて、彼が座っている場所とその目の前に同じ料理が並べられている。私が座るべき場所に行くとミザール様は無表情のまま、こちらに視線を向けた。
「お、遅くなって申し訳ありません……」
私が一礼するとミザール様が座るように促し、席についたのを確認すると食事に手を付け始めた。
夕食のメニューは、牛肉の燻製、スモークチーズ、香り高いワインと冷製のホタテのスープと固いけど麦の風味のあるパンだった。テーブルの真ん中には大きな金の器にこれでもか、と赤や黄色など色鮮やかな果物が盛りつけられている。
牛肉の燻製は、無難にチップにクルミを使用しているらしく、それが却って素材の味を充分に引き立たせる。ホタテのスープはホタテのうま味がぎゅっと濃厚にスープに出ていて、麦の香りのするパンと相性抜群だ。
夕食は凄く美味しい。会話もなく黙々と食べていると、ミザール様がふとパンを千切る手を止め、私に話しかけた。
「……美味しいか?」
「は、はい」
私がそう答えると無表情のままじっと見つめてくる。私は嫁いできたばかりの身、夫であるミザール様の事をよく知る機会でもあるのに、夕食に夢中になって無言になってしまった。おそらく、それで気を悪くしてしまったのだろう。
私は慌ててミザール様に質問を投げかけた。
「あ、あの。帝都は初めてで……その、どういう場所ですか」
何が有名だとかそういうのを聞いたつもりだったが、ミザール様は私に視線をやることもなく、黙々とパンを口に運びながら答えた。
「皇帝殿下、そしてそのご家族が住んでいるところだ」
そういう事を聞きたかったわけではないのだけど……と内心苦笑しつつ、話題を変える。
「……では、旦那様について教えて頂けませんか?」
「俺の何を?」
そう切りかえされると困る。何でも、と答えると彼はぶっきらぼうに返答する。
「軍で上級大将を務めている。ちなみに、俺はいつも朝早く出て行くが見送りはいい」
ミザール様はそれだけ言うと、私ともう話をしたくないという風に立ち上がり、食堂を出て行った。
夕食の後、じいやが気を利かせてくれたようですぐにお風呂の用意をしてくれていた。温かいお湯に体を沈めると自然とため息が出る。やはりお風呂は気持ちが良い。嫌な事も洗い流してくれるようだ。
体についた泡を洗い流していく。今日、これから起こるであろう初夜について考える。
ミザール様は私をどう思っているのだろうか。彼のあの表情からは到底何を考えているのか想像も出来ない。それに私はミザール様の事をほとんど知らない。知っている事と言えば、軍の偉い方で年が私より二回りも上だということ。お互い何も知らないのに初夜を迎えるのが少し怖い。でも、そうは言っていられない。私はもうフィーリア家に嫁いだ身。夫であるミザール様の意思に背くことは出来ないのだ。
お風呂で考え事をしていると思っていた以上に長く入ってしまったようだ。指がしわしわになっているのを見て、拭きものを持ってきてくれたローリエが『旦那様の顔のしわみたいですね』と暴言を吐いた。
寝台に入っても妙に緊張して、鼓膜にまで心臓の早鐘の音がする。
蝋燭はもう元の半分にまで溶け、窓から見える月は静かに輝いていた。
「お嬢様、朝ごはんの用意が出来ましたよ~」
「……ローリエ?」
重い瞼をこすりながら窓から差し込む陽の光にようやく頭が覚醒する。
寝台を見ると乱れているところはなく、それどころか昨晩ミザール様がやって来ていないことを示していた。
青い顔になりながら私はローリエに問う。
「旦那様は?」
「朝早くに仕事場へ向かわれました」
「そう……」
私はもう1度、体を寝台に沈めると枕を抱き寄せ事実を目の当たりにした。
「初夜が無かった……やっぱり私は嫌われているのだわ」
だからあんなに無表情で、夕食の時も私を避けるかのようにしていたのだろう。
朝から石のような気持ちになりながら食事を済ませる。朝はスコーンに木苺のジャムとクロテッドクリームが載せられ、たっぷりのミルクが入った紅茶だった。昨日の夕食も今日の朝食も美味しいのだが、どこか違う美味しさに舌が違和感を覚える。
どちらも美味しいのは確かだ。でも、その味が違う。
でも、朝食を終えいつものように裁縫をしている時は、そんな違和感も初夜が無かったことも、ミザール様についても気にすることなく過ごすことが出来た。
◆ ◇
あれから1度もミザール様と夜を共にしないまま、数日が過ぎた。朝早く出掛けていくミザール様と日中ずっと裁縫をしている私との間にはほとんど会話がなく、顔を合わせる夕食の時間もお互い黙々と食事をするだけ。
そんなある日、無言の夕食を終えた後、部屋に籠って裁縫をしているとミザール様が部屋にやって来た。彼が私の部屋を訪れたのは初めてのことだ。
「リナリア、来月にレンスキー公爵の生誕を祝った舞踏会を行うそうだ。俺と貴女で参加することが決まった」
舞踏会。久しく行っていかなかったので乗り気ではないが、仕方がないだろう。レンスキー公爵といえば、現王妃の実家だ。帝国軍所属のミザール様にとっては、無視できない存在だ。ミザール様でなくても、それくらい権力のある貴族から招待状が来れば断ることは出来ない。
もしかしたらシャンデル子爵の人達も来る可能性もある。
「貴女は自分でドレスを縫うのか」
ふと机に広げられた私の裁縫道具を見て彼は呟いた。
いくらこの人が変わっていたとしても、さすがに貴族の女性が自分でドレスを縫うなど許されないだろう、と気まずい笑顔を浮かべながら頷く。
「はい」
「そうか」
それだけ言うと呆気なくミザール様は部屋を出て行った。戻ってくる気配も無いので、やはり今日も夜伽はないらしい。
それよりも、だ。舞踏会に行くにはドレスが必要になる。ミザール様に言えばさすがに買ってくれるだろうけど、今は自分で作りたい。幸いにも舞踏会まで1ヶ月ある。1ヶ月もあれば豪華なものを縫えるだろう。
せっかく帝都に来たのだ、帝都にしかない貴重な材料を探しに行きたい。
貴族の女性が裁縫をすることは教育として施されても、その技術を使うということは“その家の貴族女性が縫物をしなければならないほど生活が困窮している”という印象を与えるのでタブーとされている。
ミザール様はきっと良い顔しないだろう。どうしても見てみたい、という気持ちとあまりしてはいけないことをしている、という気持ちに板挟みされる。
悩みに悩んだ挙句、勇気を振り絞ってミザール様に直談判した。
「舞踏会のドレスを縫う為の材料探しに街へ? 駄目だ、却下だ」
答えは否。無表情がさらに無表情に、加えてどこか怒っているような雰囲気を醸し出していたので、ますます嫌われてしまった。
ならば仕方がない。子爵別邸から持って来た材料で何とかしようと部屋に戻り、布と糸を見ながらデザインを考えていると、ローリエが興奮した面持ちで部屋に来る。
「お嬢様、見てください! こんなに高価で綺麗な布と糸がたくさん!」
ローリエの両手でもいっぱいになるほどたくさんの上質な布と糸が抱えられていた。
どれも美しく異国でしか手に入らない伝統的な織り方で織った貴重な布まである。
「どこにあったの?」
こんな貴重なもの、貧乏貴族である私には到底手が届かない。
「旦那様の書斎を掃除していたらたまたま執務机にあったんです~」
「勝手に持って来たの?」
どうやら掃除中のローリエに、この大量の高価な布を私に持って行くようにミザール様が言ったらしい。よく分からないけれど、これほど上質なもので裁縫が出来るなんてめったにない事なので有難く使わせてもらうことにした。
滅多に手に入らない貴重な布を使ってのドレス作りはいつも以上に楽しい。張り切りながら裁縫をしていると、じいやが神妙な面持ちで部屋にやって来た。
「お嬢様、今回の舞踏会にはヨルク坊ちゃまもお越しになるそうです」
「お兄様も?」
ヨルクというのは私の兄でシャンデル子爵の次男坊である。じいやがわざわざそれを伝えに来てくれたということは、やはり私と兄達との仲を察しての行動だろう。
「そういえば、ヨルク様って最近王国軍の中尉に昇進したそうですね~。元帥様直々のご指名だったそうですよ~」
ローリエが教えてくれた情報に私は怪訝な顔をしたと思う。
何だってヨルクお兄様は、剣も魔法も素人で得意な事と言えば賭け事(特にチェス)くらいだ。そんな人が軍の中尉になるなど複雑な事情が絡み合っていそうだ。
だとしても私にはもう関係のないこと。黙々とドレス作りを再開した。
そうして食事の時以外はずっと裁縫に時間を掛けて、舞踏会までにドレスが縫いあがった。
完成したドレスを見てじいやもローリエも褒めてくれる。2人に褒められ、誇らしい気持ちで今日の舞踏会に間に合うように準備を済ませ、ミザール様の元へ行く。
出発の準備が出来た、と広間にいた私を呼び寄せると屋敷の前で待機していた馬車にエスコートしてくれる。私のドレスを見ても何も言わないし、表情も変わらない。
特段何か声を掛けて欲しいとかそういった欲求はないけれど、じいやとローリエの反応が大きかった分、少しだけ悔しい気持ちが心に巣食う。
馬車に揺られている間も会話はない。分かりきった事だが、どうも肩が凝る。
ミザール様は本当に何を考えているのだろう。
視線も合わすことなく、揺られること数十分。舞踏会会場に到着した。
私はミザール様の後ろについて彼とともにあいさつ回りを行う。やはりみな、ミザール様が社交界ではある意味知られている“金魚姫”の私を娶った事に驚いていた。
そのあいさつ回りが終わると、ミザール様と壁際で踊っている人々を見やる。ミザール様の風貌からなのか、彼のもとへ誰も近付いて来ようとしない中、1人この会場の誰よりも目立つ人がやって来た。
「やあ、ミザール。奥方も連れて来たんだね」
「殿下」
話しかけてきたのはその容姿だけでなく、人より遥かに違う雰囲気を纏う王太子殿下だった。私は一歩後ろに下がって軽く会釈する。
「ご紹介します、我が妻のリナリアです」
ミザール様の紹介に合わせて、顔を伏せたまま貴族式の挨拶をした。ドレスの裾を少しだけ持って、軽く膝を曲げる。
「はじめまして、王太子殿下。お初にお目に掛かります、ミザール様の妻、リナリア・フィーリアと申します」
「顔を上げてもらえるかい、フィーリア夫人」
夫人と呼ばれたのが少しむずがゆい。言われた通り、顔を上げると殿下の切れ長の瞳が私を映していた。
「リナリア、私は殿下と少し話がある。レンスキー公爵邸は庭園が豪奢だから見てくると良い」
「分かりました」
ミザール様も殿下と仕事の話や、その他にも色々と話すことがあるだろう。邪魔にならないように私はそそくさと場を去った。
ミザール様に言われた通り、レンスキー公爵邸の庭園は手入れが行き届いていて美しい。特に夜に訪れることを意識されているのか、暗闇でも映えるような色合いの緑が植えられていた。
広い庭園を見て回ったあと、東屋で休んでいるとスッと飲み物を手渡される。給仕の人が気を使ってくれたのだろうか、お礼を言おうと顔を上げるとどこかで見た事のあるような顔がこちらを満面の笑みで見つめている。
白金色の髪を襟足だけ伸ばし、薄いグリーンの瞳にはモノクルを掛けていた。
「貴女はシャンデル子爵家のリナリア嬢だよね。僕はラスカー・チェレンコフ。昔、1度だけ君に会ったことあるけど覚えているかな?」
名前で記憶が呼び起される。昔、社交界デビューを果たした舞踏会で1度だけ会っているのだ。その時に、姉を口説こうとしていたのを覚えている。今回も妹である私を使って姉を口説こうとしているのだろうか。あいにく姉は随分前に結婚しているのだけど。
「この前は貴女のお父様に良い取引をしてもらってね。その時、たまたま実家に帰っていたらしい貴女のお姉さんにも会ったよ。貴女にも会いたかったけど、ミザール君の元に嫁ぐからって言われちゃってさ~」
ラスカー様はそう言いながら私の肩を抱き寄せたり、腰に手を回そうとしたりしてくる。
何とも馴れ馴れしい人だ。
「失礼な事を申し上げますが、あまり殿方が既婚女性の身に触れることはなさらない方が良いのではないでしょうか?」
「僕は人恋しい方でさ。いつでもぬくもりを求めてしまうんだよね。そろそろ身を固めたいと思っているんだけど、なかなか相手が決まらなくって……貴女のような女性と巡り合わなかったからかなぁ」
「では動物を飼えばよろしいのでは? 子猫などいかがでしょう。昔、飼っていた事がありましたが、とても可愛らしいのですよ。ふわふわで温かいですし、温もりが恋しくなることもないでしょう」
「リナリア嬢は僕が思っている以上に手ごわいらしい」
そう答えると彼は大げさに天を仰ぐ。
「それより、貴女の裁縫の腕前は社交界でも評判だって知ってた? 貴女に依頼をしたいというご婦人がいるんだけど、どうだい、依頼を受けてみない?」
私の趣味が社交界でも評判になるのはうさんくさい。下手ではないだろうけど、彼女達は一流の職人に仕立ててもらっているのだから目は肥えているはずだ。
でも、もしそうだとしたらどれだけ嬉しい事だろう。
「僕の知り合いにとある貴族の夫人がいてね。仮面舞踏会で着て行く魅惑的なドレスを君に縫って欲しい、ってさ」
「仮面舞踏会、ですか」
仮面舞踏会は独身貴族男性や騎士と既に既婚者である貴族の夫人の密会場所になっている、いわゆる『浮気場所』なのだ。参加する人はみな仮面をつけて、お互いの素性を偽り、ダンスを楽しむ。そしてそこで気が合った人をそのまま夜伽に誘い、そこで仮面を外すのだ。
だからこそ、ラスカー様は『誰が』私に依頼をしているのかを伏せているのだろう。そのような催しはあるとはいえ、浮気自体許されることではない。
その依頼主との取引の仲介は全てラスカー様が行うらしい。ところどころ怪しい部分はあるものの、単純に裁縫の腕を認めてもらえたのは嬉しかった。私は承諾すると、ラスカー様が満面の笑みで私の肩を抱き寄せる。
「……元帥。こんな所で何をやっているのです」
そこへ、低く相手を威嚇するような棘がある声音でミザール様がやって来た。
「やあ、ミザール君じゃないか」
ラスカー様の挨拶も無視し、ミザール様は会場内を指差す。
「あちらで殿下がお呼びです」
「そっか。ありがとう、またねリナリア嬢」
ミザール様の威圧も意に介すことなく、ラスカー様は上機嫌で去って行った。
去り際に私の名前を呼んだラスカー様に、ミザール様の眉がぴくりと動いたかと思うと、彼の無表情はまるで彫刻のように変化することがない。
残された私は、おそるおそるミザール様の方を見る。暫く、無表情のまま見つめられるが、我々も踊るか、という誘いで会場に戻った。
レンスキー公爵お抱えの楽団の演奏に合わせて、私達は踊る。
ダンスはほとんどしないけど、意外にもミザール様が上手で、彼のリードのおかげで久しぶりでもあまりミスすることなく踊ることが出来た。
私の腰を支える手や腕は私なんかより遥かに大きくて、軍人なのだと改めて実感する。私の何倍も大きい彼の体に包まれていると、どこか安心する自分がいた。
いつもの無表情だけど手つきは優しい。それから2曲ほど踊り、また壁際で休憩しているとラスカー様が私を見つけ、手を振る。それを見たミザール様は不機嫌そうに私の手を強く掴んだ。
「え、どちらへ?」
「もう帰るぞ」
荒々しいエスコートに私はまた何かしてしまったのか、と彼を怒らせた原因を探る。
帰りの馬車でも会話は一切なく、私も何に対して怒ったのか考えたけど、結局分からなかった。
屋敷に到着するとミザール様に軽くお礼を言って、おやすみなさいとだけ告げ、部屋へ戻る。きっと怒った相手とそれ以上いてもつまらないだろう、という私なりの配慮だ。
部屋に戻りコルセットを外すと今まで入れていた力が風船のように出て行く。
着替えを済ませ、大きくため息をつくと気持ちがほっとした。
外は雨。舞踏会に行っている間は降らずにいたのが不思議なくらい、激しい。ガラスを叩く雨音に耳を澄ませながら読書をしようとすると、扉越しにローリエが私を呼ぶ。
「お嬢様」
「何?」
入って来たローリエは口許に何かの食べかすをつけながら、手にはクッキーの入った瓶を持っていた。
「どうしたの?」
「これ、旦那様がお嬢様に、と。それと伝言で『今日はすまなかった』っておっしゃっていましたが、お嬢様何かあったんですか~?」
「いいえ。クッキーもらうわね」
瓶に入っていたのは、芸術品のように美しいステンドグラスクッキーだった。1つ手に取り、口に入れるとクッキー生地のバターの風味とステンドグラスに見立てた飴の甘さが絡んで、口の中でとろけていった。
「お嬢様、旦那様ってお料理上手ですね~。これ旦那様がお作りになったんですよ~」
ローリエの言う通り、クッキーは本当に美味しい。
クッキーをかじったまま動かない私に、ローリエは顔を覗き込むようにして頬をつつく。
「お嬢様~?」
「この味、初めて食べた気がしないの。前にも食べたような……」
「そうなんですか? そんなことよりお嬢様、残りのクッキー全部貰っても良いですか~?」
いつものように食欲旺盛なローリエに苦笑しつつ、最後に1枚だけ貰って残りをローリエに渡すと彼女は本当に美味しそうに平らげた。
私は最後のクッキーを口に放り込むと、飴玉を溶かすように味わって食べた。
◆ ◇
クッキーのお礼に仕事しているミザール様へ、昼食を作ろうとしているとじいやとローリエも手伝ってくれた。もっとも、ローリエの場合は手伝おうと食材を切るのをお願いすればまな板ごと切ってしまったり、ましてや包丁まで折ってしまったりと、厨房が危機に陥るので味見係に徹してもらっている。食べることが好きなローリエには適材適所と言えるだろう。
本当は皿洗いをお願いしていたけど、お皿も割ってしまうので消去法である。
ミザール様はその体格からして結構な食事量である。その為、お弁当という限られたスペースにいかに腹持ちがする料理を詰め込むか、じいやと共にレシピを考える。よく食べるローリエのアドバイスもあり、東の国発祥料理オムライスを作ることになった。
東の国で収穫されるコメと呼ばれる穀物を鍋で炊き、卵でそれを包むというもの。コメにはお肉や野菜など好きな素材をふんだんに入れることで、味を変えることが出来るらしい。
コメをドーム状に成形し、それを卵で包むのはそれなりに難しかったが、何とか完成しソースを掛ける。時計を見るともうお昼時だ。フィーリア邸から王宮まではそこまで時間は掛からないが、出来立てのものを食べてもらいたい。私はお弁当箱を手に、じいやを連れ、王宮へと向かった。
丹精込めたお弁当をミザール様に届けたい、とじいやが王宮の人に掛け合ってくれ、私達は彼が仕事をしているという王宮の武人宮へと案内してもらった。
王宮には幾つか建物が分かれており、用途別で住み分けられているらしい。王妃様が住んでいるのは、皇帝陛下のいる本宮に隣接する貴人宮で、その反対側にあるのが王国軍の人々がいる武人宮である。
武人宮はその名前の通り、英雄と呼ばれた騎士や軍人の肖像画が廊下に飾られており、壁にも貴重な剣や弓、見た事のない武器までも並んでいる。
長い廊下の突き当たり、剣とドラゴンの紋章が扉に刻まれた部屋がミザール様が仕事をしている執務室。ここまで案内してくれた王宮の使用人が扉をノックし、私が来たことを伝えると一礼してそのまま去って行った。
ミザール様の仕事の邪魔をするわけだが、怒られたり嫌われたりしないだろうか。もう既に嫌われているとは思うのだが、とはいえこれ以上嫌われるのは出来れば避けたい。それにお弁当を受け取ってもらえなかったらどうしようという恐怖が今更ながらに湧き出てくる。
そんな葛藤を知らずにミザール様が相変わらずの仏頂面で私を見下ろしていた。
「あ、旦那様……」
「なんだ」
眉をひそめ、明らかにご機嫌斜めだということを表現するミザール様。
やっぱり日中、仕事を中断してまで嫌いな妻に会いたくはないだろう。お弁当だけ渡してさっさと帰った方が良い。
「これ、お弁当です……良かったら……」
ミザール様はお弁当を無言で受け取ると、ちらりと後ろを見た。おそらく部下の人だろう、ミザール様に軽く頷きかける。
「早く帰りなさい」
「えっ」
「セバスチャン、帰りの馬車はあるのか」
「はい、旦那様」
ミザール様は私の返答など初めから聞く気もないようで、後ろに控えていたじいやにそう聞くと執務室の扉を閉めてしまった。
「……やっぱり嫌われているんだわ」
よく考えてみればそうだ。好いていない相手に仕事場までお弁当を持ってこられて、その様子を部下に見られて……。クッキーを貰ったからといって浮かれていた自分が恥ずかしかった。
行きは辺りを見渡しながら歩いていた武人宮も帰りはずっと廊下に敷かれた赤い絨毯だけを見て帰った。
屋敷に戻っても裁縫する気分にはなれず、庭園をふらりと歩いていると白い色や淡い黄色、艶やかなピンク色に咲き始めた小さな姫金魚草がたくさん植えられていたのに気付く。
「これ、私が好きな花だわ。ここにもあったのね」
まだ咲き始めの姫金魚草に触れると昔を思い出す。
私がユークロアの子爵家別邸に移されて間もない頃、家族から愛されず疎まれていることに落ち込んでいた私を励まそうとローリエが庭に植えてくれたのだ。
毎日私とローリエで世話をしてたくさんの花を咲かせたときは2人で喜んだのを覚えている。
その日の夜になってもミザール様は帰って来なかった。やっぱり昼間のことで怒らせてしまったのかもしれない。こうして今日も“初夜”がないまま日々は過ぎ去って行く。親も、きょうだいからも、見捨てられた私は『普通』を夢見ない方が良いのかもしれない。
醜い感情は泥のように私の意識にまとわりついて、やがて沈めていった。
◆ ◇
いつも仕事が終わるのは夕食に間に合うくらいなのだが、今日は悲しいことに切り上げようとしたところへ帝国軍元帥ラスカー・チェレンコフがやって来て、『ミザール君、これもお願い』と言って仕事を追加して来たのだ。おかげで帰る頃には月が夜道を照らす頃だった。
リナリアが連れてきた執事のセバスチャンは自分の帰りを律儀にも待っていてくれ、扉を開けた瞬間、お風呂と食事の準備が出来ていると知らせてくれる。
しかし、ミザールはそのどちらでもなく真っ先にリナリアの部屋へと向かった。
リナリアの自室には必要最低限のものと裁縫道具、作りかけのドレスしかなく、一般的な貴族の女性のような宝石や貴重な調度品が一切ない。
内装にも彼女の人となりが出ているようでミザールはふっと微笑む。
寝台に腰かけると静かな寝息を立てて夢の中にいるリナリアが寝返りを打つ。
社交界では“金魚姫”と母と姉の美貌から皮肉られた渾名を付けられている彼女だが、寝顔も普段のように愛らしくとてもあどけない。
彼女の栗色の柔らかい毛を撫でながらミザールは独り言を呟く。
「今日、貴女が持ってきてくれたお弁当、とても美味しかった」
自分でも少し無愛想な態度になってしまったとは思うが、可愛い妻であるリナリアを部下に見られたくなかったのと、緊張しながらお弁当を渡そうとしてくるリナリアが愛らしくてついああいう態度を取ってしまったのだ。
勿論、あの後部下にはからかわれたのだが。
「おやすみ」
ミザールはそう告げると、彼女の前髪を掻き上げ額にキスをする。
こうして毎日仕事終わりに、或いは就寝前に眠っている彼女を見守るのがミザールにとって何よりも心が安らぐ時間なのだ。
◆ ◇
翌日、ミザール様は珍しく仕事がお休みらしい。でもどこへ出掛けるというわけでもなく、むしろ朝食、昼食時も会話はないし、彼はずっと書斎に引きこもっていた。
私はというと、裁縫の休憩がてらに庭に植えてある姫金魚草の世話に勤しんでいた。
咲きかけだった姫金魚草の蕾も今は徐々に花開いている。私がそっと顔を近づけた時だった。
「――雨?」
ぽつりぽつり、と降って来たかと思えば桶に溜まった水をそのままひっくり返すかのような激しいものへと変貌する。雲と雲の間で光が走り、鈍い大きな音が鳴り響く。雷だ。
「……ッ!」
雷は閃光のあと、大きく音を立てる。
怖い、怖い、怖い。
音に心臓が脈打ち、汗が流れて呼吸が荒くなっていく。だんだんと何も考えられなくなって、ただそこから離れたいのに足が動かないことだけは分かった。
『リナリア! お前というやつは!』
『どうして何も出来ないんだ!』
『容姿も学力もないお前などシャンデル一族にいらぬ!』
「お父様……」
幼い私が泣きながら激昂するお父様に謝っている光景が脳裏に浮かぶ。
目の前には“婚約を破棄する”内容の手紙が散らばっていた。
「おい! 何やっているんだ!」
その時、ミザール様の声が雨音の隙間から聞こえてくる。
震える私を軽々と抱き上げるとそのまま屋敷の中へと入れてくれた。
青い顔をしたローリエに拭きものを持ってこさせ、温かい飲み物も入れてくれる。
髪から滴る水は乾き、ホットミルクを一口飲むと体の震えが緩やかに止まっていく。
「どうして中に入らなかったんだ」
ようやく顔を上げてミザール様を見ると、どこか私を心配そうに見つめていた。
答えを探している私を急かす訳でもなく落ち着くのを待ってくれている。
ミザール様の態度にこの人なら話せる、と思った私は言葉を選びながら理由を話した。
「幼い頃、私はよくお父様に叱られてばかりで。いつも大声で怒鳴られていたんです。ある日、私をお父様が呼びつけて、持っていた手紙を床にばらまくと『容姿も学力も何もないお前など子爵家にいらない』と言って、別邸に私を移したんです。見捨てられたくない思いで、とにかく泣いて謝って……それからというもの、大きな音を聞くとその時を思い出すから怖いんです」
幼い私はその手紙に書かれている内容が分からず、ただただ泣いて謝ることを繰り返していた。今ではお父様は何かにつけて私を怒鳴り散らし、お母様が不倫していたせいで溜まったストレスのはけ口にしていたのだろうと思う。
美貌で市井の出から成り上がったお母様に惚れているお父様は、彼女に強く言うことが出来ないのだ。
ミザール様にトラウマを話していると、一旦落ち着いたはずの稲妻がもう1度走る。
雷が落ちるのに備えて目を瞑り、耳を塞いでいるとふわっとミザール様の香水が私を包む。
「こうすれば聞こえないだろう」
そう言ってミザール様の心臓の音を聞かせるように、私をぎゅっと抱きしめた。
落ちたはずの雷の音は力強く鼓動するミザール様の音と、小さな動物の心の音のように脈打つ私の音に掻き消される。
「なんだ、もう雨は過ぎ去ったか」
ミザール様の言う通り夕立はもう過ぎ去り、空は晴れ渡っていた。先程の天気とは打って変わって憎いほどに爽やかな晴天だった。
「今日は嵐が近いから今晩あたりにまた来るかもしれないな」
その言葉に私の身体が強張るのを感じたのか、髪に吐息がかかる。
「大丈夫だ、貴女を1人にはしないよ」
いつもは仏頂面だったミザール様がはっきりと分かるようにふっと笑った。
夕立のせいで体が冷えてしまったのでお風呂に入るよう、ミザール様に言われたが私は一瞬だけ彼が見せた優しい微笑みに意識が奪われていた。だからどうやってお風呂に入ったのか、いつの間に夕食をとっていたのかなんて覚えていない。
気がつくと私は、ミザール様に抱きしめられたままの格好で一緒に寝台に寝そべっていた。
「あの、旦那様……」
彼が言っていた通り、嵐が近づいているようで昼間の夕立のような激しい雷雨に加え、強風も吹き荒れていた。証拠に庭の木々はなぎ倒されるのではないかと思うくらい風に吹かれ、窓は悲鳴を上げている。
「怖いか?」
「い、いえ……」
今は怖いというより困惑だ。さっきから心臓の音がうるさい。
緊張をほどこうと目の前のミザール様を見る。今年で齢40と少しという彼は年齢を感じさせないくらい力強い腕と、逞しい胸板をしている。隆起した喉仏はミザール様が話すのに合わせて上下していた。見れば見るほどミザール様が“男性”だという事を再認識させられる。
「貴女が怖くなくなるまでずっとここにいよう。だから安心して眠りなさい」
心臓はまだうるさかったけど、ミザール様の温もりを直接肌に感じながら私は初めて安堵しながら眠りについた。私じゃない、誰かのぬくもりがここまで安心できるものだとは。じいやとローリエとはまた違う心地よさだった。
嵐がようやく過ぎ去った頃、動物達の声で目覚める。
ミザール様の姿は案の定見当たらず、部屋には私だけだった。でも、昨日のことは夢じゃない。彼がいたシーツに触れてみればまだ温もりが残っているような、そんな気がした。
◆ ◇
「あれ? ミザール将軍、目が赤いですね?」
「昨日、よく眠れなかったからな……」
同じ時間帯に執務室へ向かうと、先に来ていたらしい部下がミザールの顔を覗き込みながら不思議そうに言った。体がなまらないように私生活に気を使っているミザールの寝不足が珍しいのだろう。
「昨日は雷が凄かったですもんね~、あ。もしかして将軍、雷が苦手とか?」
からかうような部下の声音にミザールは欠伸を噛み殺しながら首を振る。
「妻が、苦手なんだ」
「夫人が苦手だからって何で将軍が寝不足なんですか?」
「少し黙っててくれ」
「天下の熊騎士様も苦手なことってあるんですねぇ~」
寝不足の頭に響くから1人にしてくれ。そう告げると部下は何かを察したかのような顔つきになって、薬と水持って来ますね、と部屋を出て行った。
1人になった部屋で大きく欠伸をする。
「あんな状況で理性を保った俺自身を褒めたい……」
慌てて戻ってきた部下にどうやら独り言は聞かれていたらしい。
◆ ◇
昨晩のことを考えながら朝食を摂るが、どうもふわふわしていて何事もおぼつかなかった。小説でしか読んだことはないが、もしやこの気持ちが恋なのでは……? と思っていたが、気付けばいつもの寝台に寝ていて心配そうにのぞくじいやとローリエがいた。
じいや達いわく、朝食後に倒れてしまった私はひどい熱を出していたのだという。
「お医者様に診てもらいましたところ、風邪だそうです。昨日、雨に打たれてしまったからでしょう。治るまで大事になさってください」
処方された薬を飲めば熱は下がるので今はゆっくり休んでください、とじいやは告げて部屋を出て行った。
じいやの言う通り、今日は1日寝ておこう。風邪は嫌いだ、病気はきらい。
休もうと目を閉じてもミザール様の顔が思い浮かぶ。昨日あんなことがあったからだろうか、それとも風邪でひと肌が恋しくなっているからだろうか。
「子猫飼うの、お願いしてみようかな……」
「おい! 大丈夫か!?」
熱のせいでミザール様の声が聞こえる。幻聴なのに手を握られている感覚もある。
あり得ない、他人が私を見るなんて。
そう思ったのだが、どうやらこれも現実らしい。
「ミザール様……お仕事は?」
「そんなことより貴女の方が大事だろ!」
真っ直ぐに吐かれた言葉はナイフのように私の心に突き刺さる。でもそれが痛いわけではなく、むしろ温かいものだった。真剣に私の顔を覗き込むミザール様の額には汗の玉が輝いていて、王宮から屋敷までもしかしたら走ったのかもしれない。
何かより私を大切にしてくれていることが触れた肌で伝わってくる。
その優しさに、温かさに、知らなかった気持ちがどっと溢れてきた。
「どうした? どこか痛いのか、苦しいのか? 何で泣いているんだ?」
「泣いている? 私が……?」
ああ、とミザール様が私の頬に触れる。彼の太い指に雫が乗っていて、確かに私は泣いていた。
ずっと、ずっと誰かに言って欲しかったんだ。あなたが大事だ、と。大切な1人の人間として誰かに見て欲しかったんだ。
今まで見て見ぬ振りをしていた自分の気持ちに気付いた途端、堰を切って溢れ出る涙に、子どものように泣きじゃくる。そんな私に戸惑いながらもミザール様は泣きやむまであやしてくれた。ずっと握られた手が本当に温かかった。
◆ ◇
「全く……チェレンコフという男は、腕は立たないが悪知恵は働くようだな」
ミザールがいつも仕事場として使っている執務室に来客がいた。
ロクルス帝国軍務大臣、モンブロワ卿は眉を顰めながら頭を抱える。
2人の話題は王国軍元帥、ラスカー・チェレンコフだ。
「軍の予算の出費を詳細に調べ上げたところ、不透明な支出があるのは間違いありません」
「それがチェレコンフの横領分、というわけか」
「しかし、確固たる証拠がまだ無く……」
「逮捕まで踏み切るのは難しいんだな」
ミザールの上司であるラスカーは、剣術や体術の心得など無いし、戦場に出たこともない。そもそも、チェレンコフ公爵家というのが過去に王妃を輩出、歴代一族から側室を出しているので権力が大きい。そのせいで軍務大臣はおろか、皇帝もあまり下手に動くことが出来ないのである。
「あいつを逮捕できる“きっかけ”があれば、余罪という形で彼の罪を暴くことが出来るのだが……事件が起きるのを待つか、こちらから起こすしかあるまい」
軍務大臣の言葉にミザールも深く頷く。その時だった。部下が扉をノックし、ちょうど噂をしていたラスカーが訪問しに来たことを告げた。
軍務大臣に目配せをすると、大臣は元帥と入れ替わるようにして部屋を出て行った。
小声で話していたから彼には何の話かどうか知られてはいないだろうが、タミングが良すぎる。
「元帥、どうなさったのです」
「午後に騎士見習いの訓練あったけど、ミザール君に任せるね」
何の用かと思えばいつもの押し付けだ。
「それは元帥の任務では……」
「えー、だって地味じゃないか。あ、それとリナリア嬢に仮面舞踏会の件はどうなったか聞いておいてくれない? それじゃあね」
ミザールの追及も無視し、ラスカーは逃げるように部屋を出て行った。
「仮面舞踏会……? 彼女が?」
貴族出身でない自分でも分かる仮面舞踏会の意味。ラスカーの言葉にミザールはだんだんと顔が青ざめていくのが分かった。
「嘘だ……」
ミザールは強く扉を開けると驚く部下の制止もきかず、ラスカーが去って行った方へ向かった。
◆ ◇
ラスカー様に依頼された仮面舞踏会のドレスを縫い上げていると、ローリエの焦燥が混じった声が聞こえてきた。どうやら誰かが扉の向こうでいるらしい。どうしたの、と声を掛けるとローリエはくぐもった声で答える。
「お嬢様、チェレンコフ様がお越しです……あ、まだ入らないでくださいませ!」
ローリエが止めるのも意に介さず、ノックもなしにラスカー様が部屋に入って来た。部屋の主でもある私の許可もなしに入るなんてどれだけ無遠慮なのだろう。
彼の無礼さに驚いているとローリエが申し訳なさそうにしていた。
「依頼していたドレスはどうかな?」
私は縫っている途中のドレスを掲げて見せた。赤を基調とし、胸元を大きく開いて妖艶さを演出している。同時に小さな宝石を縫いつけることで、胸元に視線がいくようなデザインにしている。ドレスの裾も舞踏会に使われるものよりはやや短く、足首が見えるほど。仮面舞踏会を意識したものに仕上げるつもりだ。
「もうすぐ完成します」
「やっぱり綺麗だね。ところで、リナリア嬢はいつも1人でこんなことをしているの?」
ラスカー様の『こんなこと』に少しだけムッとなる。
何だか馬鹿にされたような言い方だった。
「お節介かもしれないけど、お裁縫ばかりしているとミザール君に愛想つかされちゃうよ」
「どういう意味です?」
「彼はいつも帰って来るのが遅いだろう? それって何故か知ってる?」
ミザール様は仕事で帰って来るのが遅いのだ。それ以外に何の理由があるというのだろう。
私が首を傾げていると、ラスカー様は実に楽しそうに目を細める。
「他に愛人がいるって噂なんだって!」
「噂は噂です」
確かに私はミザール様のことをよく知らない。でも、何の証拠もないのに疑う事だけはしたくなかった。
「お相手は君が依頼を受けている依頼主、っていう噂だよ」
そんなわけ、あるはずがない。そう言い切りたいけど、心のどこかでもしそうだったとしたらどうしよう? なんて弱い自分がいるのも事実だった。
もし、本当に依頼主とミザール様が逢引きをする仲だったら?
私が今、縫い上げているのは何なのか。ミザール様は私が作ったドレスを着た別の女性と閨を共にするのか。
「どうせ君も望まない結婚だったんだろう? 僕と楽しいことして、寂しさを忘れよう!」
そう言ってラスカー様は私の肩に手を置く。
「結構です、旦那様はそんな人じゃありません」
雷が怖いと言った私に一晩中付き添ってくれたり、風邪を引いた私を看病するために仕事を放りだして来たり。そんな優しい人が愛人を持つなんて信じたくないし、信じられない。自分にそう言い聞かせる。
揺れ動く私の心を楽しむかのようにラスカー様は部屋を出て行った。
もし、ラスカー様の言う事が本当だったとしたら。
私はどうする? ミザール様を責める? 依頼を断る?
「違う……噂は噂、旦那様はそんなことしない」
じゃあ、何故私は泣きそうなくらい胸が痛いのだろうか。
部屋でうずくまっていると、ラスカー様と入れ違いになるようにミザール様が部屋にやって来た。いつもと違い荒々しい彼の雰囲気に私は怖気づく。
「今のは何だ?」
きっと屋敷の中でラスカー様と擦れ違ったのだろう。もしかして、ラスカー様と逢引きをしていると勘違いしているのかもしれない。本当のことを言おうとしても、女性が労働に服していると知ればミザール様は良い顔をしないだろう。どう伝えようと考えていると、ミザール様の視線がドレスに注がれていた。
「それは何だ、どうしてそんな胸元の開いたドレスを作っている? もしかして、仮面舞踏会に参加するのか?」
ミザール様は虚空を見つめるようにドレスを眺めていた。全身の力が抜けきったような表情で。
「あ、それは……」
言葉が出ない。本当の事を言えば良いのに、ミザール様に拒絶されるのが怖くて口が動かなかった。黙っていればいるほど事態は悪化することくらい分かるはずなのに。
「俺が嫌いならそう言えばいい。だが、それを着て貴女が参加するのだけは許さない」
「違います!」
ようやく出た言葉は、ミザール様には届かなかった。
初めて見た彼の泣きそうで、苦しそうな表情に私の胸は締め付けられるようだった。
依頼主に渡すためのドレスを縫っていると言えば彼を傷付けることは無かったはずだ。
傷つけてしまった自分が嫌だ。でももっと嫌なのはミザール様を信じ切れず、真実を伝えるのを躊躇した自分だった。
その日の夕食の時も、ミザール様は現れなかった。
真実を告げて謝る機会は訪れないまま、数日が過ぎる。
◆ ◇
今日こそは誤解を解こう、と決心したのはミザール様が3日ほどの遠征に出掛ける日だった。
これを逃せばもう謝る機会が訪れない予感がして、勇気を出してみたものの――。
いざ彼を目にすると体が動かない自分が情けなかった。遠征に出掛ける朝も窓から見守るだけで真相を告げることは出来なかった。
暗く沈んだ気持ちのまま、庭の姫金魚草の世話に取りかかろうとすると、蕾だったものは次々と花を咲かせていた。小さく愛らしいのに生命力を感じさせられるその花に癒されていると、1本だけ枯れかけているものを見つけた。
他の花は瑞々しく咲いているのに、茶色く変色したその1本はまるで今の私を見ているように感じる。
水が足りないのか、栄養が足りないのか、考えているところへローリエが手紙を持って来てくれた。
封をあけ、書かれている内容を読む。
『仮面舞踏会のドレスの完成を聞きました。試しに着てみたいので今日、フォロクの東塔まで来てくださいませんか。そこで馬車を待たせてあります』
差出人の名前は書かれていないが、内容で誰が出したかすぐに分かる。
だが今までラスカー様を仲介していたのに急に向こうから直接接触してくるのは違和感があるが、これはチャンスだ。ミザール様の噂を確かめることが出来るかもしれない。
依頼主に会って直接聞こう。ミザール様が信じられないのなら信じられるようにすればいい。
私は完成したばかりの妖艶なドレスを綺麗に折りたたみ、鞄の中に入れるとローリエを伴って指定の場所へと向かった。きっとじいやに知られれば止められる気がするからだ。
いくら相手が私より格上だったとしても、差出人の名前を書かず指定日に手紙を送ってくるような人は非常識である。じいやはそんな常識を持たぬような相手に会わなくてよろしいです、なんて言うだろう。
帝都フォロクには東西南北を象徴するように物見の塔がある。戦争の時、どこからでも敵を発見できるようにという昔の皇帝陛下が造ったらしい。
「馬車なんてどこにあるんですか~?」
ローリエの言う通り、指定の場所に来ても馬車なんてものは見当たらない。それどころか人気すらないのだ。帝都フォロクは様々な人々で賑わいを見せているが、この東の塔付近にはその宴のような賑やかさなんてない。近くにある森からは不気味な動物の声が響く。
「やっぱり戻りましょうか」
きびすを返そうとした途端、ローリエの悲鳴が背後から聞こえた。
「きゃあ! お嬢様、お逃げくだ――っ!」
「ローリエ!」
振り返るとローリエは顔を隠した2人組に羽交い絞めにされ、片方の覆面にハンカチーフで鼻と口を押えられていた。
「だ、誰!?」
ローリエの元へ行こうとするが私も誰かに羽交い絞めにされてしまった。
怪力を誇るローリエでさえ、覆面の2人組を振りほどくことが出来ず、虚ろな視線を彷徨わせている。おそらくあのハンカチーフには、薬品を染みこませているのだろう。
「ローリエ、ローリエ!」
意識を失いつつある彼女の名を必死に叫ぶも届かず、私もつんとした臭いがするハンカチーフで顔を押さえられる。嗅ぐものか、と懸命に息を止めるがその努力も続かず、息を吸い込んでしまった。
即効性なのか、薬品を嗅いだ瞬間に強烈な眠気が私を襲う。
朦朧とする意識の中で私は目の前に倒れるローリエの名をずっと呼び続けた。
体の芯まで来るような冷たさに思わず身震いする。ゆっくりと目を開けると、薄暗い部屋にいるらしく、床は石畳で出来ているために冷たいのだと分かる。
手を動かそうとするが思うようにいかない。ふと足元に視線をやると縄で拘束されていて、どうやら私は誘拐されたらしかった。
自分の置かれた状況を確認しようと狭い部屋に置かれた全身鏡で確認する。
ご丁寧にも犯人は私が作った仮面舞踏会のドレスを着せて拘束しているらしい。口には猿轡、両手両足は縄で縛られていて、自力で脱出するのは難しそうだ。
唯一、部屋にある窓の外を見るとさきほどまで私達がいた帝都フォロクの東の塔付近の景色が見えた。
どうやらあの手紙は私を誘拐する為の罠だったらしい。
そしてここは東の塔の内部。外には兵士達が警護している。
軍の人間しか入れない物見の塔。こんなことが出来るのはあの人しかいない。
「やあ、リナリア嬢。お目覚めかい」
案の定、犯人が私の様子を見に来た。声を出せないので精一杯彼を睨む。
「あはは、僕が何故、君をこんな目に遭わせたか知りたそうだね? いいよ、教えてあげるよ」
帝国軍元帥、ラスカー・チェレンコフはどうして私を手紙で誘い出し、ここに監禁しているのか有難いことに聞きたい事を全て語ってくれた。
「僕は生まれてからずっと自分の思い通りになって来たんだ。金も地位も権力も生まれながら持っている僕は選ばれし者だからね、仕事も女性も好きにし放題。でもね、どんな女性も僕になびいたのに君だけは違った」
ラスカー様は窓の下で座り込んでいる私に近づき、そっと頬を撫でた。ミザール様以外の男性にそこまで触れられたのは初めてで、全身に鳥肌が立つ。
「手に入らない君を手に入れるにはこうすればいい。ミザール君を失脚させて代わりに君のお兄さんを上級大将にすげ替える。ミザール君は、元帥へのクーデターを企てた犯人として処刑、あるいは左遷。ついでに君と離婚させるんだ。そして僕は君と結婚する」
そうすれば君は僕のものになるだろう? とラスカー様は当たり前のように告げた。
「夫に裏切られ、適齢期を過ぎた君を娶る僕はみなが羨む伴侶として映るだろうね」
ようやくそこでローリエが言っていたヨルクお兄様の昇進に納得がいく。
この事件、シャンデル子爵家も絡んでいるのだろう。
「ミザール君はもともと邪魔だと思っていたんだよね。何か僕の言う事聞いてくれないし、勝手な事するし。だから言う事を聞いてくれる君のお兄さんを上級大将にする代わりに、君をくださいって君のお父さんに直談判しに行ったんだ。そしたらお父さん、何て言ったと思う?」
ラスカー様は歯を食いしばりながら笑う。面白くて仕方がない、というように。
「息子が上級大将になった暁には、娘をどうとしてもらって構わない、だって。君からすればはた迷惑な話だよねぇ? 相談も無しに結婚させられた挙句、離婚まで決められちゃって……。君のお父さんは君を娘だと思っていないみたいだよ」
そんなことくらい分かっている、貴方に言われなくても理解している。
言い返したいけど駄目だった。口を封じられているせいではなく。
「それと、ミザール君は遠征に行っているから助けは来ないよ。残念だったね、呪うなら実の娘の誘拐を手伝ったシャンデル子爵家を呪うんだね」
ラスカー様は立ち上がり、出口の方へと歩いて行く。
「どうせミザール君との結婚も、君が売られたんだろう? ミザール君にも愛されていないんだったらここで僕に愛されるのが君の幸せってもんだよ」
そう言い、彼は出て行った。再び静寂が訪れる。
1人になった部屋で考える。
本当にミザール様が助けに来てくれなかったらどうしよう、とかこのままラスカー様の好きなようにさせられるのだろうか、とか嫌な考えばかり浮かんでは無理矢理消し去って行く。
誰かに愛されたかった、見て欲しかった。
ずっとそんなことを願い続けて生きてきた私には、ミザール様の温かさは心地よくて知らないものだった。
じいやもローリエも私を愛してくれている。けれど、彼らと私の間には『壁』がどうしてもあるのだ。
対等に愛されて、認められ、受け入れて欲しかった私にはこうした結末はふさわしいのかもしれない。だって何も持っていない私が何かを望むことなど、勝手すぎる。
『人魚姫から生まれた金魚姫のあなたは、誰からも愛されずに1人で死ぬのよ』
かつて姉が私に言った言葉。美しい姉は地位も財力もある格上の貴族のもとへ嫁いでいった。社交界の華として注目されるほどの美貌を持っていたから。
私には何もない。シャンデル子爵の名などただ長く続いているだけで、財力だって地位だって、権力だってないのだ。姉が持つ美貌も。
ミザール様はどうして私を娶ったのか。何もない私は何も彼に与えられない。
それなのに私はミザール様から貰ってばかりだ。知らなかった気持ち、知らなかったこと。
今は無性にミザール様に会いたい。
「私……旦那様が好きなんだ……」
◆ ◇
塔には時計がないので、窓から差し込む光で朝が来たのだと知る。
ラスカー様が私を監禁している部屋に入ると、私に来客だと告げた。
「あら、こんな所にやっていたのですか、チェレンコフ公爵」
細部までしっかりと意匠が施されたドレスに身を包み、豪奢な装飾品に身を包んだ四十路過ぎの女性が私を見下ろす。はっきりとそのブルーの瞳には、私への侮蔑の色が浮かんでいて、既視感を遡ってようやく、彼女が私のお母様だと言う事に気が付いた。
隣に立っているのは次男のヨルクお兄様だ。
昔から私に興味がなく、どうでもいい存在として認識していたヨルクお兄様は、縛られて動かない私を見ても表情1つ動かさなかった。
「チェレンコフ元帥、計画は順調でしょうか?」
「勿論さ、ミザール君は今頃遠征にでも行っているだろうよ。彼の屋敷には僕を失脚させようとする文書があるはず。僕の部下によって、ね」
にやりと不敵に笑うラスカー様。
会話からしておそらく、ミザール様を屋敷から離すことが一番の目的らしい。私やじいや達はどうとでも出来るけど、ラスカー様は私に用があったからこうした回りくどいやり方を取ったのだろう。
ラスカー様の思い通りにいかない私を手元に置きやすくするために、仮面舞踏会の件をでっち上げたのだろう。依頼人なんて最初からいなかったのだ。わざわざフィーリア邸に出向いたのは、ミザール様と鉢合わせをするのを狙っていたのだろう。全ては私とミザール様の関係を絶ちやすくするために。
彼らは計画を完璧に遂行していると思っている。はた目にはそう見えるだろう。
だけど、唯一彼らが予期していない誤算があった。
「ふふっ」
「何がおかしいの、リナリア。気味が悪いわ、そんな容姿をしてこのあたしを見るな!!」
思わず笑みがこぼれた私を不気味がってお母様が綺麗な靴で私を蹴る。
蹴られた反動であおむけに倒れ込んでしまう。
「シャンデル夫人、リナリア嬢は僕のだからね、あまり乱暴に扱わないでおくれよ」
「誰が誰のだって?」
「……君はッ!!」
低くてその場にいる人々を委縮させるような迫力のある声が響き渡る。声の持ち主は相当怒っているらしい。足音が随分と乱暴だ。
「ミ、ミザール君……どうして、君は遠征に行っていたんじゃ……」
「遠征よりも大切な仕事が入りましてね、元帥」
「モ、モンブロワ卿まで……!」
あからさまに怒っているミザール様の後ろには、白と黒が入り混じった髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けたこれまたミザール様と並ぶほどの屈強な老齢の男性が立っていた。
ラスカー様は彼のことをモンブロワ卿、と呼んでいたからおそらくロクルス帝国の軍務大臣のモンブロワ様なのだろう。
予想外の人物の登場にラスカー様だけでなく、子爵家の2人も青ざめている。
「先ほどは良いことを聞きました、元帥。俺の家で何をしようって?」
「全く小賢しい小僧だ。悪知恵ばかり働くから逮捕するまで時間が掛かったわ。間抜けな奴め、ミザールの家に捏造書簡と一緒にお前の横領した証拠も入っておったわ。軍資金の横領罪で逮捕させてもらうぞ」
ミザール様とモンブロワ様はじりじりとラスカー様を追い詰めていく。
その様子はまるで大型の肉食獣に狙われた小動物のようだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 子爵家もこの件に加担しているんだぞ! だって僕に賄賂を渡してヨルク君を中尉に任命させろって!」
「余罪の自白、感謝します、元帥」
そう言うとラスカー様を組みしいて、後ろに控えていた兵士の方へやる。
「モンブロワ卿、フィーリア卿、あたくし達は別に何もしておりませんわ! 直接手を下したわけじゃありませんのよ!」
お母様の言い訳にヨルクお兄様もそうだそうだ、と賛同する。
しかし、ミザール様はお母様の話を聞かず真っ先に私を解放しに来てくれた。
「大丈夫か、怪我は?」
「無いです……」
優しく立つのを手伝ってくれるミザール様。ラスカー様に体を触れられた時のような嫌悪感はなく、むしろ安心感があった。でもミザール様の体はここに来るまでの困難を表しているようで、切り傷だったり打ち身があったり、痛々しかった。
「シャンデル夫人、ヨルク殿、貴方達2人は元帥の計画に助力した、また不正な金銭のやり取りがあった疑いで逮捕させていただきます」
「賄賂なんて貴族の世界では当たり前よ!」
開き直ったお母様にミザール様はドスのきいた声で反論する。
「軍の世界では違います、全ては実力。元帥は相当な権力と圧力で今の地位になったイレギュラーだが……ヨルク・シャンデル殿。貴殿には従軍の経験もなければ、剣の心得もない。そういった人が軍の中尉などという分隊の司令官を務めるには危険すぎる」
目の前でヨルクお兄様のことを言われたせいか、お母様が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「あたくし達はその子の家族なのよ! ヨルクは貴方の義理の兄にあたるわ、それなのに何よ、その言いぐさは!」
「貴方達が家族を名乗らないでください」
「何?」
「この日を持ってリナリアは完全に俺の家族だ。もう貴方達とは縁を切る。今までずっと我慢してきたが、実の娘を誘拐する親など関わりたくないからな。これから先、彼女にどういった危険があるか分からない」
そっと優しく、けれど力強く私を抱き寄せ、ミザール様は2人に向かって高らかに言う。
「この言葉がどういう事を意味するか、分からないはずもないだろう。いいか、彼女に手を出せば……分かっているな?」
「……無礼な奴ッ!」
扇子を忌々しそうに広げては閉じ、を繰り返しながらお母様は塔から出て行こうとするが、ヨルクお兄様と共に兵士に捕まっていた。
そんな光景を背に、ミザール様はしゃがんで顔を覗き込んでくる。
いつも仏頂面で何を考えているか分からないミザール様が、ボロボロの身体で私を抱きしめた。
「旦那様、体中怪我をしていますね」
私がそっと彼の大きな背中に手を回すと驚いたのだろう、びくりと跳ねる。ミザール様の巨木のような背中には私の手は回らず、抱きしめ返すというより掴まっているように見えるだろう。
「貴女を失うより怖いものなんてない」
そんな言葉を掛けてもらえるなんて昔の私は思いもしないだろう。
「旦那様が助けに来てくださるなんて思いませんでした」
「来ないわけがないだろう、どうしてそう思うんだ」
「遠征中だからいないと思って……それに」
少しだけ体が離れる。私の額とミザール様の額が触れ合う。
「それに?」
「嫌われていると思っていましたから。愛されているとは確信が持てなくて……ただ貴方が優しいだけなのだと」
「俺は初めて貴方を見た時から貴方を愛していたよ。世界で1番美しく愛おしい俺の妻だ」
私は大粒の涙を零した。ミザール様の口からずっと聞きたかった言葉が聞けた。こんな私でもこの人は愛してくれているんだ、と。それがどれだけ幸せなことだろうか。家族でさえ愛してもらえなかった私を、泥沼の底に沈み切っていた私をすくい上げてくれた彼が愛おしい。
「私も愛しています、ミザール様」
返事をするかのようにミザール様は強く私を抱きしめた。
◆ ◇
「今日のお弁当はいつも以上に頑張りましたよ」
日課となったミザール様の見送り時にいつもお弁当を手渡している。
今日は豪勢に、ミザール様のお母様がプレゼントしてくれた東の国の『重箱』と呼ばれるお弁当箱にたくさん料理を詰めたのだ。
「いつも美味しいが、このお弁当やけに大きいな」
「だって今日はミザール様の昇任式じゃないですか」
そう、今日は上級大将から元帥に昇格したミザール様の昇任式がある。
あれからラスカー・チェレンコフ様は軍務大臣モンブロワ卿による尋問で、私を誘拐した罪、そしてシャンデル子爵家から賄賂を受け取っていた罪、軍資金の横領、売春などすべての罪を認めた。賄賂罪では、私の実家であるシャンデル子爵が絡んでいたが、私の名誉が傷付けられないように、とモンブロワ様が賄賂罪のみ、公の裁判で行わず秘密裏に処理してくださった。
たくさんの罪を犯したラスカー様は無期懲役の刑で牢に入れられている。
そして、お母様とヨルクお兄様だが、ヨルクお兄様はもちろん中尉を辞任、お母様は誘拐罪と賄賂罪の首謀者として流刑になった。だからお母様が大好きだった貴族の夫人のお茶会や仮面舞踏会などにはもう参加出来ない。お父様との夫婦関係は持続しているが、お母様はまた市井の身に戻り遠い島で過酷な労働を強いられているだろう。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「早く帰ってくる」
ミザール様の顔が近づいたと思った瞬間、頬に柔らかく温かい感触があった。
扉が閉まった瞬間、後ろで見ていたローリエが固まる私を見てからかう。
「お嬢様と旦那様は仲良しですね~」
「でも、まだ彼の考えている事は分からないわ……」
頬に触れるとはっきりと熱を持っていることが分かるほど、私は熟れていた。
相変わらずミザール様はよく分からない。無表情で言葉少なだし、初めより笑う事は多くなっても語る事はない。だけど、そんな彼で良かったと心から思う。
人魚姫から生まれた醜い金魚姫は、世界で1番幸せな妻になったのだから。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!!
登場人物が多かったのでまとめ↓
◆リナリア・フィーリア
市井から美貌で成り上がった『人魚姫』の母親と、その美しさを受け継いだ兄2人、姉を持つ。
リナリアのみ、父親似。そのせいで美しさに囚われた母から虐げられる日々。
父親も、きょうだいもリナリアを放置し、結果育児放棄で別邸に移され、じいやに育てられる。
基本的に人と会話をすること、意思表示が苦手で口数はわりと少なめ。
裁縫がかなり得意。腕前はかなりのもの。
◇ミザール・フィーリア
リナリアより二回り年上の旦那様。軍の上級大将をしており、その強さと見た目から
『熊騎士』『碧眼の覇王』と呼ばれるが、リナリアはそこまで強い事は知らない。
ぶっきらぼうで不器用でリナリアを大事にするが故に誤解を生んでしまう。
部下から厚い信頼を持たれている。
◆ラスカー・チェレンコフ
由緒正しいチェレンコフ公爵家。帝国でも指折りの力を持った貴族で
昔から甘やかされてきた。欲しいものは何でも手に入れたいタイプ。
子供と動物に嫌われる。
◇セバスチャン(じいや)
リナリアの執事で育ての親。優しく、時には厳しくリナリアに接してきた。
物腰柔らかでリナリアのことをいつも思ってくれている。
◆ローリエ
リナリアのメイド。彼女と年が近いこともあり、姉のような存在でもある。
すさまじい怪力の持ち主で街で開催される『腕相撲大会』の優勝者で、
その記録は破られていないらしい。