五月雨と煙草の匂い
足元に転がる海藻の塊を見下ろして、笠置透は煙草に火をつけた。
黒く癖のある髪に、黒く鋭い瞳。身長はあまり高くない。160センチ半ばから後半くらいだ。
夜の海岸には他に人影はなく、波の音だけが響いている。
明かりもほとんどなく、星がよく見えた。
海藻の塊は、少し前まで海を動き回っていた。
サーファーや海水浴客を海に引きずり込み、溺れさせていた妖怪だ。
透は、そんな妖怪を祓う仕事を長年やっている。
ゴールデンウィークより前に退治を依頼されていたけれど、4月末にあった仕事の影響で、今日――5月1日金曜日になってしまった。
夕方前に家を出て、今は夜の8時過ぎ。
携帯電話を見ると、何件もの着信が入っていた。
それは幼なじみの家からだった。
他にメールが一件だけ入っていた。それは幼馴染本人からで、今、透の家にいる、という内容だった。
仕方なく透は幼なじみの家に電話をかけた。
電話に出たのは、嫌なことに彼の父親だった。
「夜分遅くに失礼します。おじ様、お久しぶりです。笠置です。
緋月でしたら、うちにおります。
申し訳ございません。仕事で家を離れておりまして、気づくのが遅くなりました」
その後、延々と小言が続いた。
幼なじみ――甲斐緋月の父親は非常に束縛感が強く、帰りが遅くなれば烈火のごとく怒る。
ましてや今、緋月と父親は進路のことで冷戦状態だ。
緋月は今、高校3年生である。
とりあえず、本人の行きたい大学を受けることをしぶしぶ受け入れさせることはできたが、快くは思っていない。
そして、その説得に透が巻き込まれた。
結果、透は彼の父親に快く思われていない。
思い通りに動いていた人形が、思い通りに動かなくなったことを恨まれている。
正直恨まれても困る。緋月は一人の人間だ。
いくら古い神社の跡取りであろうと、彼には彼の人生を選ぶ権利くらいあるだろうに。
なのに彼の父親はことごとくそれを奪おうとする。
そのやり口がなかなか汚く、周囲を巻き込んでくる。
行き場を失った緋月は、結局うちへと行き着いた。
難癖ともとれる説教のあと、のんびりとした声が聞こえた。
『それくらいにして。透君に言っても仕方ないでしょう』
すると、父親は押し黙ってしまった。
この父親は妻にめっぽう弱い。
心底惚れているらしく、妻の言うことには基本逆らわない。
妻は妻で、神社の将来に関わるようなことには決して口出しをしない。
緋月の進路問題も、母親が一言いえばおさまりはするだろうが、決して口出しはしなかった。
それでは根本的な解決にはならない。
そう思っているらしい。
『あ、透君? 泊まりたいっていってるなら泊めちゃっていいから。連休中くらいいいわよ』
という母親の言葉と、何やら文句を言う声が聞こえる。
『はいはい。文句なら私が聞くから。透君、じゃあよろしくね』
そう言って、電話は切れてしまった。
とりあえず緋月に電話をかける。
ワンコールででた緋月に、家に電話をかけたことと、母親から連休中泊まっていいという許可を得たことを伝えると、安堵した声が聞こえた。
『……すみません。ありがとうございます』
「家につくのは11時を過ぎるだろうから、先に寝てろ」
『いいえ、待ってますよ』
「ひづ……」
いいから先に寝ろ。という言葉を言う前に、電話は切れてしまった。
しばらく携帯電話を見つめた後、透はジーパンのポケットにそれをしまった。
吸殻を携帯灰皿にすて、もう一本煙草を取り出す。
それに火をつけて、透は白煙を吐き出した。
このところ本数が増えたように思う。
時間があると吸ってしまう。よくないと思っても、お金に困っているわけでもないので、カートンで煙草を買ってしまう。
それが緋月にばれたら何を言われるだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、退治した海藻の塊をそのままにして、海岸を後にした。
波が押し寄せ、引く間に妖怪であった塊は海の中に消えて行った。
透が家についたのは、12時近くだった。
途中から雨が降り、風も出たため高速道路は速度制限がかかり思ったより時間がかかってしまった。
日をまたごうという時間なのに、家に灯りが点いていた。
緋月が起きているのだろう。
寝ていていいと言ったのに。
できれば寝ていてほしかった。
透が家に入ると、ぱたぱたという足音が聞こえた。
黒いサラサラの髪に、ノンフレームの眼鏡をかけたジャージ姿の緋月が、笑顔で透を出迎えた。
「お帰りなさい」
彼の足もとには、大きな三毛猫が寄り添っていた。
「寝ていていいと言ったのに」
言いながら、靴を脱ぐ。
「これくらいの時間なら、普通に起きてますよ。ご飯、ちゃんと食べました?」
その問いに何も答えずにいると、緋月は口をとがらせた。
「だめですよ、ちゃんと食べないと。
ていうか、煙草の匂いがすごくしますよ? 吸いすぎじゃないですか?」
「風呂入る」
煙草の件はばれるとまずいと思い、透はそそくさと浴室へと向かった。
*****************
明日から5連休だ。
緋月がここにずっと泊まるとなると正直気が重かった。
まるで母親のように自分の世話を焼く彼の将来は、正直不安に思う。
自分にばかりかまってないで、彼女位作ればいいのにと思うこともある。
けれど、心のどこかで緋月に依存しているのも事実だった。
ひとりならろくに食事など食べないし、それこそお菓子だけ食べてしまうように思う。
年の離れた姉にばれればかなりの勢いで怒られるが、正直食べることにあまり興味はない。
怒られても食べないものは食べないし、どうにもならないものはどうにもならない。
それでも夕食だけは食べる努力をしているのだから、上出来ではないだろうかと思う。
風呂から出ると、醤油と出汁の香りが漂ってきた。
たぶん、うどんかそばでも作ったのだろう。
ジャージを着て頭にタオルをかぶりリビングのほうへ向かうと、エプロン姿の緋月がキッチンに立っていた。
「かけうどんですけど。ちゃんと食べてくださいね」
はかったかのように、うどんとネギが入ったどんぶりが食卓に用意される。
あまり食欲はないが、出されたものはきちんと食べる性分なので透は食卓に着いた。
手を合わせいただきますと言う透の横に、緋月は腰かけた。
室内にいるというのに、雨の音が大きく聞こえる。
「すごい雨ですね。明日の午前中いっぱいまで降るらしいですよ」
「そう」
テレビも見なければラジオも聞かないので、透はその情報を初めて知った。
「連休中、予定はありますか?」
「明日以外は、全部仕事」
「え、そうなんですか?」
心なしか、緋月の声のトーンが下がったように思う。
「働きすぎじゃないですか? その、家を空けている時間が多いように思うんですが」
その言葉に、透は何も答えない。
黙ってうどんをすすった。
「……透さん?」
「何」
「大丈夫ですか、身体」
「ああ」
出されたものを食べ終わり、透は箸を置いて手を合わせた。
片づけようと立ち上がろうとすると、緋月に制止された。
「僕片づけますから、透さんは休んでてください。飲み物、何か欲しいですか?」
「ソーダ」
「わかりました。用意しますね」
まるで夫婦のようだと頭の片隅で思いながら、透はリビングのソファーに移動した。
テレビと、オーディオ。
ソファーにテーブルが置かれただけの、物の少ないリビング。
ソファーの一つには、大きな三毛猫が丸くなって寝ていた。
猫を起こさないように、透はテーブルの横に寝転がった。
そして、そのまま目を閉じる。
煙草を吸いたいが、未成年の前で吸うわけにいかない。
専用の部屋はあるが、そこまで移動するのは正直億劫だったし、入ったらしばらく出てこない自信しかなかった。
そうなったら緋月に何を言われるかわからない。
「透さん。カップ、ここに置いておきますね」
フクロウの絵が描かれたマグカップが、テーブルに置かれる。
ゆっくりと体を起こし、ソーダを飲み込む。
ふっとキッチンに目をやると、食器を片づける緋月の背中があった。
連休中、彼はずっとここにいるつもりだろう。
5日もあるのに、ずっとここにいるのだろうか。
「緋月」
「はい」
「いつまでいる」
「それって、連休中はって事ですよね」
「ああ」
「ずっといたら駄目ですか?」
想像通りの応えに、透は黙り込んだ。
駄目ではないけれど、本当にいいのかとも思う。
高校生が、男の一人暮らしの家に入り浸るのは健康的なこととは思えない。
しかも勉強をせずなぜか家事をやっている。
推薦狙いで成績を下げなければ大丈夫だと本人は語っていたが、受験に落ちたら正直責任を感じてしまう。
透が何も応えずにいると、不意に後ろから首に腕が回された。
石鹸と、シャンプーの匂いが微かに漂う。
自分の後ろで膝立ちになり抱き着いてきた緋月は、透の耳元で言った。
「僕がいたら、迷惑ですか?」
「いや、そうじゃない」
そのあとなんと応えていいかわからず、しばらく悩んだ後、透は緋月の手に触れた。
「ここにいて、大丈夫、だから」
「……すみません。ここ出たら。本当に行くところなくなっちゃうんで」
回された腕に、力がこもる。
まだ彼が10代の内は、受け入れようと思う。
依存し依存される関係をもうしばらく続けよう。
どうせ長くは続かないだろう。
緋月がほかの誰かを見つけるまでの、通過点。
雨の音しか聞こえない部屋で、しばらくの間、透は緋月に抱きしめられていた。