君は妖精になってしまった
自傷表現、薬物乱用表現がありますので、ご注意ください。
あたしはねえ、弥生の愛があれば生きていけるんだよ。
それ以外に何もいらないの。それだけあれば生きていけるの。
君はそう言って無邪気に笑う。
嘘を吐くなよ。僕の愛のほかに色々とろくでもないものがなければ生きていけないくせに。
ともかく、君を愛してる。
君の笑顔を誰よりも近くで永遠に見ていたいと思う。
「ねえ起きて!起きてってばあ!」
体を揺さぶれて無理やり起こされる早朝の恒例行事。
不本意にも瞼を開く。
「おっはよー!弥生!」
君は朝からハイテンションだ。
華奢で小さな体。大きくて丸い目。短くて細い眉。小さな鼻。小さくてぽってりした唇。短い髪。君の名前は、羽衣。
僕に向けられた満面の笑みを浮かべた羽衣の顔。理不尽な笑顔。
僕は半分だけ目覚めると、まだ半分はまどろんだままで枕もとの目覚まし時計を手に取る。
眠い目をこらしてデジタル時計の文字盤を確認する。
「なんだよ……。まだ朝じゃないじゃないか」
僕は寝起きの掠れた声で不機嫌そうに言う。
「うっそだあ!もう朝だよ」
羽衣が僕のそれを圧倒する不機嫌さで言い返してくる。
「見ろよ」
「『5:50』と表示された目覚まし時計を羽衣の顔の前に突きつける。
「朝じゃん」
「僕の中じゃ朝じゃないの。6時29分までは早朝、6時半からが朝」
「ぷうー!何、その滅茶苦茶な理論!早朝と朝とじゃどう違うのさあ!」
羽衣がぶりっ子口調、ぶりっ子声、ぶりっ子仕草のトリプルコンボを決めながら言う。
わざとらしいほどのぶりっ子キャラが羽衣自身が作った羽衣のキャラクター設定だ。
羽衣が今日も平常運転なので、僕は再度眠りに就こうとする。
「え?え?寝ちゃうの?嘘でしょおー!」
羽衣を無視して睡眠の国へと戻ろうとする僕。
「寝かさない!寝かさないんだからあ!」
叫ぶ羽衣。
「朝っぱらからでかい声出すなよ。近所迷惑だろ」
「自分がうるさがってるだけでしょ!もういいもん。弥生がどうしても寝るってんならあたしも寝るもん!」
羽衣が小さな体を無理やり僕の布団に押し込んでくる。これもいつものこと。
けたたましい会話(といってもほとんど羽衣が一人で喋ってるだけだが)はもはや睡眠の国へのチケットだ。
僕たち二人はまんまと眠りに落ちていった。
目を覚ましてバイトに行く。
昼休み中に羽衣からのTEL。TEL攻撃もまたいつものこと。
僕は同僚たちから離れたところで電話に出る。
「弥生い!お話しようよお!」
僕の応対もいつもどおり。いつもどおり軽いノリでかわす、ようなふりをしているが本当は毎回真剣だ。真剣に、寂しがって電話をかけてきた羽衣を元気付ける。いつもどおり、不服そうな様子を装って。
「バカ羽衣!仕事中にかけて来んな!いい加減その非常識さを治せ!」
「やだね!」
「おいこらふざけんな」
「だってえ、どうしても弥生の声が聞きたかったんだもん!てへっ!」
またしてもぶりっ子。
「『てへっ!』はやめろ。もうすぐ昼休み終わっちゃうから、もう切るぞ」
「えー?やだやだやだあ!そんなすぐ切ることないじゃん!お話しようよお!」
「できるわけないだろ!ヒキニートの感覚で物事を考えるな!」
「ヒキニートじゃないもん!かわいい居候さんだもん!」
「うるせえクソニート!」
「ねええーお話しようよお。羽衣、寂しいよ。心細いよ。不安だよ」
羽衣の泣きそうな声。また精神的に不安定になっているらしい。助けてやりたいが、でも……。
「ごめん。今は無理。仕事中だから」
申し訳ない気持ちで「……ごめん」という台詞。
「そんなあ!相手してよ弥生!後でじゃ駄目!今、相手して!」
「……ごめん。僕がちゃんと働かないと、僕だって羽衣だって食べていけないだろ?」
「嫌!嫌!嫌!今お話してくれなきゃ嫌!そうじゃないと羽衣、心細さで死んじゃう!死んじゃうよ!弥生は羽衣が死んでもいいの?」
「ごめん。無理なんだ」
そう言って一方的に通話を切り、業務に戻る。
罪悪感はあるが、僕には僕の生活がある。やるべきことがある。日常のすべてを羽衣に捧げることはできない。
僕は仕事に戻る。
「お、また彼女から電話?愛されてるねえ」
同僚にからかわれるのもいつものこと。
「お熱いねえ。ラブラブじゃん」
そんな呑気なもんじゃない。
「いや…その…」
「照れなくっていいって!末永くお幸せに!」
そんな呑気なもんじゃないんだ。
僕は羽衣と「末永くお幸せに」暮らせる自信を持てずにいるというのに。
少しも経たないうちに今度はメール。
『寂しいけど、声が聞けてうれしかったです。いい子で待ってます。 羽衣』
人が働いてる最中に電話かけてきておいて何が『いい子で待ってます。』だ。何が『いい子』だ。
おまけに帰ったら帰ったで、「会いたかったよおー!弥生」とかなんとか言って振り回しやがるんだ。この予想は絶対当たる。
でも、僕は憂鬱ではなかった。
「弥生おかえりいー!おかえりおかえりおかえりー!」
僕が「ただいま」と言うよりも早く、羽衣が「おかえり」を連呼しながら抱きついてくる。
「おかえり」の「り」の発音がおかしい。呂律が回っていない感じだ。
「羽衣、お前またクスリやったろ!?」
「うん、そうらよおー。弥生もやるう?」
「やらないよ。それよりお前も大概にしとけよ。いい加減クスリなんかやめろっての」
「えー?いいりゃんいいりゃん、られにも迷惑かけてないしさあー」
「いいわけないだろ。お前の面倒見るの誰だと思ってるんだよ。僕だよ、僕」
「何?あたしが迷惑なの?あたしのめんろうみたくないの?」
何気なく言った言葉が羽衣の心を抉ってしまう。
「いや、そうじゃなくて……」
「そうなんら?ねえそうなんらよね?」
「違うって……」
僕は焦る。このままじゃまた羽衣が……。
「何よ!あたしのめんろうみたくないんならあたしのこと捨てればいいりゃない!クスリやるような社会のゴミとは一緒にいたくないんれしょう?りゃあ、れていけよ!この部屋から、れていけよ!」
羽衣がヒステリーを起こす。
普段から感情の起伏が激しい羽衣が、クスリと寂しさのせいで情緒不安定の域に達しているのだ。
手首に新しい傷跡。
「出て行かないよ。僕が出て行ったら、羽衣、一人ぼっちになっちゃうだろ。羽衣がひとりぼっちで寂しい思いするだなんて僕には耐えられない」
僕は羽衣を優しく宥める。甘やかすのは羽衣のためにならないかもしれないが、僕にはこうすることしかできない。
「ほんと?ほんとに?ほんとにれていかない?」
「ほんとだよ」
僕がそう言うと羽衣は
「よかった……よかったあ!」
と言って僕の体を強く抱きしめてきた。
羽衣が愛しいと思った。そして、これからも僕は羽衣を助けてあげられないし、羽衣を愛する自分を助けてあげられないな、と思った。
「おっはよー!おはよーおはよーおはよー!」
いつもどおりの、騒がしいぶりっ子声で渋々目を覚ます、そんな早朝。
「おはよ……」
「何だよ君ぃ、元気ないねえ!」
羽衣が唇を尖らせて言う。
「朝から無駄に元気な羽衣のほうがおかしいんだよ。朝っぱらからうるさいよ」
掠れた眠そうな声で返答。
「ぷー!だ!どうせあたしはうるさいですよーだ」
「今日は僕の貴重なオフ日なんだぞ。こんなときぐらいゆっくり寝かせてくれよ」
僕はそう言っている傍から意図していないのにとろとろと眠りに落ちかける。
「今日も寝ちゃうのー?だったらあたしも寝るう」
羽衣が布団に小さな体を押し込んでくる。いつもどおりに。
僕たちは怠惰な下等生物のように二匹仲良く眠った。
僕たちが次に起きたのは夕方だった。
僕のオフ日にはよくあること。
睡眠を摂りすぎて逆に朦朧とする意識の中で、僕は夕日が透けてうっすらと赤く染まっているカーテンを開ける。
「わあ!」
羽衣が感嘆して声を上げる。
「弥生!見て見て見て!夕日がすっごく綺麗!」
「見てるよ、ちゃんと。とても綺麗だ」
「でしょ!でしょ!……ああ、あたしもあの赤い空を飛べたらいいな。ねえ、空を飛ぶのってどんな気分なんだろ。すっごく気持ちよさそうだよね!あたしも飛びたい!鳥とか蝶とか天使とか、妖精とかになって空を飛びたい!」
「そうだな。僕もそう思うよ」
嘘。僕は空なんか飛べなくても構わない。羽衣と一緒にこの部屋で小さな生活を続けて行ければいい。ずっと、ずっと、羽衣と二人で。
羽衣がこの小さな小さな部屋に閉じこもってしまう前は、僕たちはよく二人で海に沈む夕日を見に行ったもので、僕は正直、夕日にはあまり興味がなかったけれど、夕日を見ている羽衣の横顔が好きだった。
だから、僕は夕日を見るたびに、あの頃の羽衣を思い出して胸が締め付けられるけれど、そのことを羽衣には秘密にしている。羽衣の瞳に映る夕日が霞んでしまわないように。
「ねえ、起きて……起きて……」
早朝から羽衣の声。それはいつものことだけど、今日の声はぶりっ子してないし、なんだか神妙な感じだ。
「なんだ?」
なぜか今日ははっきりと目が覚めた。
「あのね、あたし弥生に言わなきゃいけないの。らいりなこと」
「大事なこと」というのを正しく発音できていない。まずい。羽衣はラリってる。
「おい、羽衣!クスリなんかやるなよ!もうやめろよ!見てらんないんだよ!」
僕は感情を爆発させて叫ぶ。
「らいりなこと言わなきゃいけない、って言ったれしょ。ちゃんと聞いて」
羽衣は、大事なことを言わなければいけない、と繰り返す。なんだろう……、大事なことって……。
「ちゃんと……ちゃんと聞くから……。だからもうクスリなんかやめようぜ?な?」
羽衣が心配だ。羽衣のことを愛してる。
「うん。もうクスリはやらないよ。やる必要がなくなったから」
やる必要がなくなった?それは嬉しいけれど、どうして必要がなくなったんだろう。
「あのね、あたしね、妖精になったんら。今日からあたしは妖精なの。昨日、夜中にね、精霊さんが現れてそう言ったの。ずっと昔、あたしは妖精らったんらって。れも、るっとそのことを忘れて生きてたんらって。れも、今日からまた妖精にもろらなくちゃいけないんらって」
意味がわからなかった。妖精に戻る?精霊さん?まったくもって意味がわからない。
「おい……、どういうことだよ……それ…」
「言ったとおりの意味らよ。あたし今日から妖精なの」
ああ、そうかラリってるんだ。ラリっておかしな妄想にとりつかれてるだけなんだ。
「そうか。妖精になったのか。でも、大丈夫だよ。すぐもとに戻るし、僕が傍にいるから」
「らめ。もうもとにはもろれないの。あたしはこれからるっと妖精として生きていかなきゃいけないの」
なんだよ、それ。もうこれまでの生活は終わりだとでも言うのかよ。縁起でもない妄想にとりつかれてやがる。
「ほら見て。綺麗な羽。精霊さんがくれたの。素敵れしょ?」
そう言って、羽衣は僕に背中を見せる。
「羽なんかない、羽なんかないじゃないか!羽衣!」
「あるの!見えなくてもちゃんとあるの!」
「羽なんか……羽なんかどこにも見当たらないよ……」
「れもあるんらもん」
「羽衣……」
僕は膝から崩れ落ちる。
「ごめんね。悲しいけろ、あたし、もう行かなくちゃいけないんら」
「行く……?行くってどこへ?」
僕は、寝起き特有の掠れ声とは比べ物にならないほど掠れた声で、かろうじて聞き取れる声で言葉を漏らす。
「あたしがもと居た妖精の国。帰らなくちゃ」
わけがわからない。
「帰るだなんて馬鹿言うなよ。羽衣の居場所はここだろ?」
「いままれは、そうらと思ってた。れも違ったの。本当は違ったの。らから、本当の居場所に帰らなくちゃ」
大丈夫。羽衣はクスリのせいで一時的に頭が変になっているだけだ。直にもとの羽衣に戻る。直に……。
「ああ、あたし行かなくちゃ。弥生とサヨナラしなくちゃ」
そう言って、羽衣はベランダへと続くガラス戸を開けた。
「おい!何をする気だ!」
「決まってるれしょ。飛ぶんらよ。飛んれ帰るんらよ」
馬鹿なことを言わないでくれ!
「飛べるわけないだろ!やめろ!やめるんだ!」
「飛べるよ。妖精らもん」
羽衣はよろけながらベランダに踊り出ると、危なっかしい、しかし体重を感じさせない動きで落下防止用の柵を越えようとする。
「やめろ!お願いだからやめてくれ!」
僕は慌ててベランダに出るが、羽衣は既に柵の向こう側だ。
「飛べるよ。妖精らもん」
「羽衣……」
「それにね」
「それにね、もうらめなんら、あたし。もう無理。もう限界。もう……、もう生きていけないよ」
僕は羽衣の手首に視線をやる。
また傷跡が増えている。自分で傷つけた跡。それも、幾度も幾度も……。
そうか。羽衣が妖精になったのはクスリのせいだけじゃない。羽衣はもう人間として生きていけないんだ。こんな世界で生き続けることに耐えられないんだ。
「さよなら、弥生」
羽衣が笑顔で僕に手を振る。とても晴れやかな笑顔で。
「羽衣、ずっと愛してる」
僕の言葉を聞き遂げると、羽衣はゆらりとベランダから離れて、ゆっくりと落下していった。
空を飛んでいるみたいだった。
それが、僕と羽衣との生活の最期だった。
それから、数ヶ月が経ったある日、僕は付き合いでたまたま行った美術館で妖精を象った像を見つけた。
華奢で小さな体。大きくて丸い目。短くて細い眉。小さな鼻。小さくてぽってりした唇。
妖精は台座の上で今にも飛び立ちそうにしていた。
空に向かって伸ばされた両手、大きな4枚の羽。
「『名もなき僕の妖精』って言うんだってよ、この像のタイトル」
一緒に来ていた男が隣で言う。
違う。「名もなき僕の妖精」というのも素敵だとは思うけれど、違う。
だって、この妖精にはちゃんと名前がある。
この妖精は、この妖精の名前は、羽衣。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
感謝、感謝、感謝です。