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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。

 第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。


 中吉ちゃんの電話には、透馬に連れられ帰宅した後にかけ直した。

 コールが三つ鳴った直後、酷く聞き取りづらい音が耳に届く。何度も中吉ちゃんの名を呼んで、受け答えが出来るようになるまでかなりの時間を費やした。

「中吉ちゃん? どうしたの、もしかして中吉ちゃんにも何かあった?」

「お、おの、小野寺さ……っ」

 いつもなら滑舌が良すぎるほどの声色も、まるで子供のようにたどたどしくて、幾度となく鼻をすすり上げていた。

 中吉ちゃんは、泣いていたのだ。


   ***


 昨夜の足の怪我が、鈍く痛む。

「司書の小野寺杏さん。ですよねー?」

 しかし昨日の襲撃などおくびにも出さず粛々と仕事をしていた私は、静かに顔を上げる。図書館のカウンターに落ちてきたのは、甘えに浸った浮かれ声だった。

 見据えた先には、育ちの良さそうなお嬢さんが三人。

 栗色のセミロングを緩く巻いたナチュラルメイク。示し合わせたかのように似通った装いの彼女たちは、学部棟窓口の事務職の子達だった。

「お疲れ様です。どういったご用件でしょうか」

「何かー、小野寺さんが昨日、変質者の男に夜道を襲われたとか? そんな話を耳に挟んだものですからー……ねぇ?」

 控えめに見せながらもその声量は、周辺の耳に届くものだった。当然、カウンターに好奇の視線がちらほらと集まり出す。

 率先してぺらぺらと話し出した女のまどろっこしい喋り方には覚えがあった。以前から何かと私を目の敵にしている事務の女だ。以前透馬が図書館に顔を見せ始めた時も、真っ先に嫌みを吐きつけに来たことを思い出す。密かに事務子と命名した。

「あんな中傷もでちゃったことですし、ちょっと気を付けた方がいいですよ? あっ、勿論私たちは、あんなのデマだと思ってますけどー!」

 事務子に同調して、空々しいフォローを入れる事務子その二。

「ちょっと二人とも。やめようよ、人前でそんな話……」

 そして、他二人に比べてやや腰の低い、外見が抜きん出て優れているこの女性。

「すみません小野寺さん。お怪我をされたと伺ったものですから、私たち心配で」

「――怪我をしたのが顔ではなくて、落胆しましたか」

 冷静に返した言葉。

 唐突な返答の意味が汲み取れず、事務子二人はきょとんと呆気に取られている。

 しかしながら残る彼女の反応は、二人とは似て非なるものだった。

 昨夜、暴漢から透馬が耳にした言葉があった。

(さっき杏ちゃんに襲いかかってきた奴、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返してた)

(『僕のお姫様なんだ』『僕の姫乃ちゃんのためなんだ』――って)

 微かに聞き覚えのあるその名に反応するように、暴漢の言葉で小さな引っ掛かりがあることに気付いた。

(あんたみたいなストイックな人間も、別に嫌いな訳じゃない)

 つい最近、私のことをストイックと表現した人間が、もう一人いたことを。

「窓口業務兼経理担当、橋本(はしもと)姫乃(ひめの)さん」

 ようやく、辿り着いた。

「最近立て続けに起きている中傷騒ぎについて、お話をお聞かせ願えますか」

「え? あの……私が?」

「ちょっとちょっとぉ! その騒ぎと姫乃と何の関係があるってーのよっ?」

「え、なになに?」「あれ、学生窓口の『姫ちゃん』じゃん?」「何か、喧嘩っぽくない?」事務子の無駄に通りのいい声によって、司書仲間はもとより、遠巻きにこちらを見守っていた利用者たちからの視線も集まり始めていた。あのオサワリ親父も似たようなことを口走っていたな。

「姫ちゃん」か。ぴったりなあだ名だ。

「橋本姫乃さん。中傷事件の被害者のひとり、尾沢教授に執拗に事務作業を手伝わされていたようですね」

 決して感情を荒立たせることなく、言葉を紡ぐ。目の前の彼女の表情が、次第に強張りだすのが見て取れた。一回り小さな身長が、余計に弱々しさに拍車をかけて見える。

 それでも、この問題だけは決して、なあなあでは済ませはしない。

「経理担当だった貴女は、たびたび教授の領収書を受け取りにわざわざ五階の研究室まで取りに寄越されていたとか。尾沢教授の『沢』の字が、唯一、旧字の『澤』を使われていた領収印の陰影も、貴女なら記憶に残っていても不思議はないですね」

「何のことだか、分かりません……っ」

「学生窓口で勤務されている貴女であれば、生徒たちのゴシップを集めるのも容易いでしょう」

 咄嗟に言い返そうとする口を、私は突き刺すような視線で制止した。

「学校関係者のゴシップも。私の後輩と、親友だという貴女なら」

 中吉ちゃんのことだった。

 昨晩、涙声を震わせて電話してきた彼女との会話。中吉ちゃんは、しばらくの間「ごめんなさい」と謝罪の言葉を繰り返していた。まさか中吉ちゃんが犯人なんて言うんじゃ、と悪い想像までしてしまった。

(私……本当は、中傷を書かれた書籍を一冊、隠してたんです)

(隠してた?)

(本当は、早く報告しなくちゃと思ってました。でも、今まで言い出せなくて……っ)

 中吉ちゃんは見ていたのだ。自分の親友が、その本を直前まで不自然に抱えていた姿を。そして確認した中に書き込まれていた、乾き切っていない朱色の中傷文。

 その事実が信じられずに、人目に付く前にとその書籍を自分のロッカーに押し込んでしまっていたらしい。以前中吉ちゃんが足元に落下させた、えんじ色の表紙の書籍だ。

 ――『中央図書館勤務の小野寺杏は、往来で男と平然とまぐわう冷徹女である』――

 この際内容のことは置いておく。問題はターゲットが「再び」私だったという点だ。

 今までの中傷文は、毎回違う人物がターゲットにされていた。しかし私への中傷は合計で二回。

「今回のことは、私への私怨ですか」

 私の言葉に、目の前の彼女が静かに視線を上げた。

 先ほどまでの小動物のようなか弱さが一転、凛とした女の眼差しに変わる。

「自分が恨まれる覚えなんて、ひとつもないみたいな表情ですね」

 キラキラと美しい彼女の瞳。

 その中には確かに、冷たく彼女を見下ろす私の姿が映っている。

「小野寺さん……貴女は、人の気持ちを考えたことはありますか。貴女が傷つけた誰かが、心を痛めて苦しんでいるかもしれないということを、貴女は少しでも考えたことがありますか……ッ!」

 冷徹、か。

 確かに、その指摘も一理あるのかもしれない。他人からの視線に怯えることに疲れた中学時代。それ以降は、自分自身の思うままに進んできた自覚はある。省みようとも思わなかった人の気持ちもあっただろう。

 ただし、冷徹と形容するのは語弊があった。胸の奥でぐつぐつと煮えたぎる怒りは、いささかコントロールが出来兼ねる。

「橋本姫乃さん。貴女が私を気に食わないのは一向に構いません」

 人目が多い。公共の場。感情を曝け出すには最悪のシチュエーションだ。それでも。

「だからといって、それが罪もない書籍を傷めつける言い訳になるだなんて、本気で思っちゃいないですよね?」

 呪いを産み落とすような低い声色に、息を飲んだのは一体誰だったろう。

 職場である館内で私は初めて、噛みつくような憎しみを露わにする。これでまた、新規の噂が構内に沸き立つことだろう。それも構わなかった。

 初めて中傷を殴り書きにされた書籍を見たときから抑え込んでいた怒りが、いつも慎重な心のたがを外してしまう。

「あの低脳な文章は一体何? 他人を中傷することで、貴女は何が満たされました? 子供みたいな正義感ですか?」

「あの人たちはみんな人でなしじゃない! 家族や恋人をいとも容易く裏切った! 書かれて当然のことを」

「中傷文で散々人を傷つけた張本人が、それを言う資格はない!」

 容赦など出来るはずもなく、私は目の前の女を縛り付けるような視線で睨み付けた。踏み込んだ足の怪我が鈍く痛んだが、取るに足らないことだ。

「書かれて当然と思うなら、裏でこそこそ小細工するな! それならいっそ学生窓口の掲示板に、正々堂々どでかく載せな!!」

 最後の方はもう、腹の底から声を上げていた。

 昨夜の脚の傷が突っ張って、痛みがじくじくと脈を打つ。それが一層、私の憤りを増長した。

「かぁっこいい~……」緊迫した空気の中、ギャラリーのどこからかそんな呟きが届いた。それがまるで伝染するように、じわじわと賞賛の声が聞こえるようになる中、目の前の彼女の顔は真っ赤に染まり上がっていた。

 初めこそ、窓口業務で彼女を見知っているらしい学生からの声援じみた呼びかけがあったが、今はそれも潰えた。彼女を見知った両手の拳が、痛そうなくらいに固く握られている。

 再度口を開きかけた私だったが、その腕を後ろから引っ張る手に気付いた。

「小野寺さん。もう……これ以上はっ」

「中吉ちゃん」

 振り返った私に、中吉ちゃんは首を小さく振っていた。いつもは眩しいくらいに明るい、あの中吉ちゃんが。

 その懇願の眼差しに、次第に激情が溶かされていく。

「……貴女の行為は器物損壊です。警察に通報されたくなければ被害者一人一人に謝罪してください。私のことは、抜きにしてもいいです」

「器物、損壊?」

「当然でしょう?」

「それなら」

 ひとつ息を吐いた彼女は、俯いていた顔をゆっくりとこちらに向ける。瞬間、胸が嫌な音を立てた。

「貴女だって……壊しましたよね」

「は?」

「二年前に」

 端から見ればその表情は、健気で可憐な女の子そのもの。それでも、その瞳は笑っていた。

「貴女が二年前にしたことも、罪に問われるんじゃないですか?」

 二年前。そう言われてポーカーフェイスを貫くには、心の準備が足りなすぎた。

 動揺をよぎらせた私の表情を見留めるや否や、彼女は予行練習したかのように涙を滲ませた。加害者から、被害者の顔へ。

 そして私は――被害者から、加害者の立場へ。

「覚えていますよね? 二年前……貴女は五歳も年下の幼馴染みに手を出した」

 にわかに周囲がざわめきを取り戻す。

 野次馬の反応は単純なものだ。楽しめそうなゴシップを手にした瞬間、その正否を問わず話題の種にする。私が中学生だった頃から、嘆かわしい風習は少しも揺るぎない。

「女を使って、幼馴染みを慰めた。そうでしょう?」

「……そうだとしても、貴女には何の関係もないことです」

「認めるんですね」

 神経を逆撫でる言葉を、私は無視をした。

 同時に、目の前の女の口から、必要以上に熱く思い吐息が吐きだされる。

「彼女だったんです」

 意味を把握するよりも早く、一筋の涙が女の頬を伝った。

「薫君の……貴女が寝取った幼馴染みの。私、彼女だったんです……っ!」

 女の言葉と同時に耳を掠めたのは、周囲のざわめきではなかった。

 厳重に蓋をしてきたからだろうか。その記憶は色褪せることなく、鮮明に私に覆い被さってくる。

(受験が終わるまで、お互い会うのを我慢しようって約束したんだ)

(ちゃんと待ってるからって、自分も東京の仕事を探すつもりだからって……『あの人』も言ってくれたからさ)

(『あの人』の思いに応えるためにも、絶対東京の大学を合格しなくちゃな……!)

 話に出すとき、薫はいつも「あの人」と呼んでいた。

 薫の高校時代の約半分を費やされた相手。

 バスケと同じくらいに、大切に大切に想われていた相手。

 薫より年上で、背が小さくて肌が白くて笑顔がふんわり優しい、自慢の女の人。すごく可愛い人なんだと、何度も何度も聞かされ続けた。

 薫の「彼女」だった。この女が。

「うっそ~……修羅場?」「姫ちゃんの彼氏を寝取っただって」「それじゃ、落書きで書かれてたのも、マジだってこと?」辺りからぽつぽつと交わされる会話に、目の前の女は感極まった顔を崩さない。

 それでも真正面から眺めていれば、こちらへ視線で問いかけているのが辛うじてわかった。

 さぁ――どう出てくる?

「そうなの。貴女が」

 思ったよりも感情が乗らない口調になってしまった。ギャラリーの何人かが、怪訝に顔を潜めるのが視界の端に映る。

「私の名前、覚えてすらいなかったんですね」

「あいつは、貴女の名前を教えなかったから」

「っ、どこまで人を馬鹿にしたら気が済むんですか……っ!」

 悲痛な叫び声が、今度こそ館内に綺麗にこだました。

 一刻前までの空気とは裏腹に、今は完全に「姫ちゃん可哀想」な空気で充満している。

 ギャラリーはもとより、背後から感じる同僚や中吉ちゃんたちの表情にも、きっと軽蔑の色が浮かんでいることだろう。

 もはや書籍への中傷の話題は、私の人間性の話題に巧妙にすり替えられていた。人の情に訴えかけられた今、いくら論理的に話を戻そうとしても何もかも白々しい。女の口角が、一瞬微かに持ち上がった。

 四面楚歌か。

 私に与えられる酸素さえも制されているようだ。中学の時もこんな気分を味わったな、と私は思った。ああ、頭がズキズキと痛い。

「小野寺さーん。何か言い返しなよぉ~」

 聴衆のどこかかからか、妙に調子外れなヤジが飛んだ。

「年下もオッケーだったんだなー、小野寺さんって」「そんな相手に困ってんなら、俺たち全然お相手するのにぃ」道化のようにおどけた口調に感化された一部の男子学生が、嫌な笑い声をあげて後に続く。それに女子生徒たちもくすくすと嘲笑を漏らし始めた。

「っていうか俺、小野寺さんは孤高の処女かと思ってたのにさぁ」

「――ッ!」

 ウケ狙いのおふざけに悪意が加わる。

 子供の戯言とどうにか顔色を変えずにいた私だったが、最後の一際明瞭な発言に、ついにかっと頬が熱を帯びた。

「みんな、もうやめて」

 窘めたのは意外にも目の前の女だった。それでも大きな瞳は、隠しきれない歓喜が輝いている。

「私は……私はただ、小野寺さんにも、分かってほしかった」

 熱の籠もった台詞に、再び周囲は静寂に包まれる。

 今や館内はこの女の意のままに操られていた。それはここでの勤務に誇りを持っている自分にとって、酷く耐え難いことだ。

「小野寺さん。確かに人には人の価値観があります。だから何を言っても、貴女には理解できないかもしれないけれど」

「……」

「それでもっ、他人の彼氏をそそのかして、周りを目一杯傷付けて! それが悪いことだということくらい、貴女だって分かるでしょう!?」

 理解の乏しい貴女にも分かりやすいように、噛み砕いて説明してあげてるのよ。

 台詞のひとつひとつに辱めの呪いを乗せる女の器用さに、私は次第に意識が遠くなっていく。

 もはや周囲からの冷やかしさえ、何重もの膜が張られたようにおぼろげにしか届かなかった。やっぱり、人は嫌だ。本の方が好き。何十倍も、何百倍も。

 だって、人と人の間には両方からの感情があるから。変則的で図りにくくて扱いにくくて。持て余すほどの感情を抱えていても、届ける方法をどんなに真剣に考えても、交わらない想いは決して交わらない。

 たとえ、その身体を重ねても。

「仕方ないじゃない」

 気付けば、言葉がこぼれ落ちていた。

「好きだったの」

 子供のワガママのような、単純なひとつの答えを。

「……は?」

「薫のことが、好きだった。薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと。だから」

 いつもの自分には似合わない、小さく弱々しい言葉。

「薫に抱かれたいって……そう、思ったから」

 それでも、どういうわけか辺りに鈴が鳴るように確かに響き渡り、辺りは息を飲むような静寂に包まれた。

 情けない告白の言葉につられるように、目の奥がじんと熱くなってくる。かけなしのプライドを振り絞り、私はぐっと瞼に力を込めた。

 自分はこの女のように、涙を売り物にはしない。

「……な、によ。そんなの、何の言い訳にもならないじゃないっ!」

 辺りに生じかけた私への同情の空気。

 それをいち早く察した女は、被害者の色をより濃くして非難を続けた。それでも、それが私にとっては全部なのだ。他に言うことなんて何もない。

 ただ一瞬、口に出そうになったもうひとつの「言い訳」を、私は結局口に出すことをしなかった。

 それは、私と彼女との間には、何の意味もないことだ。

「私はっ、薫君の受験の邪魔にならないようにってずっとずっと会うことも我慢してた! 薫君が東京の大学に進むって聞いたときだって、向こうの就職先を真剣に探してた!」

 ぽろぽろと流れ出る涙の演出に、周囲の刺々しい視線が再びこちらに突き刺さる。

「それなのに……全部全部、貴女のせいで……!」

「お前も相変わらずだな、姫乃」

 クライマックスに差し掛かっていた悲劇のヒロインの台詞。それを躊躇なく断ち切ったのは、酷く冷たい呼び名だった。集っていた人混みがにわかに開かれる。

 人垣の向こうに現れた人物に、私は言葉を失った。

「この大学に勤めてたんだな。お前」

「……か、おる、く……」

 驚愕に目を見開く女に対して、薫はただただ冷静だった。それでも、その瞳の奥には変に揺らめく感情の渦が見える。

「文系棟の学生窓口に、可愛いお姉さんがいるって。そういや俺たち理系学部の中でも話題に出てたけど」

「薫君……わ、私……っ」

「こんな風に、会いたくなかったな」

 氷のような薫の視線が、女を容赦なく貫いた。それに怯む女を見遣ると、薫はほんの少しの間、無言のまま突っ立っている私の方に視線を向けた。

(薫のことが、好きだった)

(薫が貴女と出会うよりよりもずっと前から。子供の時から、ずっとずっと――)

 一刻前、抑制が利かずに口にしてしまった感情の吐露。

 言葉が喉奥で痺れるみたいに溶けて、頬に燃えるような熱が集まる。

 しかしながら薫はその瞳で何かしら私を宥めたのみで、再び女と対峙した。幼い頃には到底考えられない所作だ。

「浮気してただろ」

 至極低い声色が、辺りを沈黙に伏した。

「俺じゃなくて、姫乃、お前が。バイト先の奴と、浮気してただろ」

「そんなこと……!」

「下手な嘘はいい。お前らがバイト先の裏口でいちゃついてるとこ、見たんだよ」

 ぎりっと力が込められた拳に、女は肩を強ばらせた。

「その日の夜に俺は、お前と別れるってメールした。杏姉とのことは、その後のことだ」

「私はっ、別れるなんて絶対嫌だって言った!」

「話し合っても意味なんかねぇよ」

「ちょっと待ってよ薫君……!」

 ここにきて、彼女の表情が一気に歪んだ。

 彼女がいざというときのためにしたためていたのだろうシナリオは、唐突に幕引きを余儀なくされる。

 咄嗟に駆け寄ろうとした彼女を、薫はひらりと交わした。瞬間、彼女の瞳からぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「違うの! だって……仕方なかったの。私、薫君のことが大好きだから、受験で忙しいって分かってても会いたくて。このままじゃ薫君にワガママ言って、嫌われちゃうんじゃないかって、それが、本当に怖くて!」

「……」

「あのバイト先の人とは、別に意味はなかったの。ただ色々相談に乗ってくれてて。あの人、本当に優しかったの。薫君からのメールがなかなか返ってこないって私が言ったときも、返ってくるまで自分が付き合うよって言ってくれたり。だって私、本当に寂しくて、辛かったから……!」

 貴方が私を寂しくさせたから、私は他の人に埋めてもらっていたの。そういうことだろう。

 女心に納得するところがないわけでもない。彼女を気にかけない男が悪い。心の隙をついてくる男が悪いと。

 それでも私が女を見る瞳は、辺りを取り巻く白けた空気に何の支障もなく溶け込んだ。重く沈殿した空間の中で、女は一人必死に手足をバタつかせている。

「なら初めから俺に言えば良かったじゃねぇか。遠回しに杏姉に、こんなガキみたいな嫌がらせしなくてもよ」

「だって! 薫君、私の話なんて絶対に聞こうとしないじゃないっ! 二年前だって、結局何も言わないまま東京に行っちゃったし……!」

「挙げ句、何人も被害者を作り出して、目眩ましに使っていたってことか……?」

「か……薫、く」

「何でそんなになるんだよ」

 吐き捨てるような口調に、私ははっと目を見張った。二年前の記憶がまざまざと浮かび上がってくる。

 彼女だった人のことを絞り出すように語っていた横顔が、そこにあった。

「お前……そんな女じゃなかったじゃねぇか。なのに……何で……っ」

「……っ、だ、」

 だって。

 表情ではそう滲ませながら、女の口から続く言葉はついに事切れた。

 薫の震えるような苦しみを肌で感じたのだろう。ふたりにしか分からない後悔と愛憎の絆が、その狭間に色濃く繋がれている。

「――申し訳ありませんが、館内でのこれ以上の騒ぎは見過ごしかねます」

 その時だった。カウンター奥からこちらに近付いてくる靴音。振り返ろうとした私の肩に温かい手がそっと置かれ、離れていった。

「他の利用者様のご迷惑になります。フロアに留まらず、皆さんお席にお戻り下さい」

「主任」

「それから、橋本姫乃さん」

 はっきりと名指しされた女は、びくっと身体を震わせた。

「今回の件で事情を聞かせていただく必要があります。奥の会議室までご足労願えますか」

 眼鏡の向こうから注がれる視線は、私自身が知っている中で最も冷たく、鋭い。

 この問題が起き始めてから一ヶ月強。その間、司書の間で最も怒りを内に育てていたのは主任だった。

 集っていた野次馬たちが、後ろ髪を引かれるようにのろのろと辺りに霧散していく。その中央でステージを失った女は、絶望したように頭を垂れ、その場にじっと立ち尽くしていた。

「こちらにお越し下さい。必要な処置を検討しなければなりません」

 いつもと同じ遠慮のない主任の言い回しが、私の心を酷く穏やかにさせた。

 小さく息を吐いた私は、ずっと傍らに立っていた中吉ちゃんと互いに視線で労り合う。館内に巻き起こった激情の旋風。司書として、その爪痕を片付けなければならない。

 一向に動こうとしない女に見かねて、主任はその腕を軽く引いた。

「橋本さん。どうぞ、こちらへ」

「は、はな……離してよっ、離して」

「事情を聞かなければなりません。それとも、直接然るべきところでお話されますか?」

「は、はははは……あ、あは」

 辺りの空気が、ぴたりと止まる。

 唐突に投げ込まれた調子外れの笑い声。それは確認するまでもなく、女の口から漏れたものだ。

 不気味な声色に気付いた数名の生徒も、ちらほらとこちらに視線を向ける。何かを察した主任が、腕を掴む手を離した。

 女は何本もの泣き痕を頬に残しながら、不自然なまでに明るい笑みを見せた。

「は、ははは。然るべきところって、まさか警察? 私……私が? この、私が」

 視点の合わない淀んだ瞳を垣間見、背筋に冷たいものが走る。

 はっと我に返った私は、カウンターを咄嗟に飛び出した。

「主任、下がって!」

「やあああああああ!!」

 自身のこめかみに両手を擦りつけていたかと思うと、女は奇声を轟かせた。その場にしゃがみ込んでしばらく、床に手を付き、ふー、ふー……と長く荒い呼吸を繰り返す。

「え……なに、今の」「マジ? 姫ちゃん?」「やばくない?」先ほどまで集中していた好奇の視線も、奇怪な展開に萎縮しているようだった。

「私に一体、何をしようというの。アンタ達みたいなのが、この、私に、何をッ!」

「橋本さん、落ち着いて……!」

「アンタに言われたくないわよこの寝取り女っ! 私はっ! 私はただ寂しかっただけなのに! 寂しさを、誰かに分かってもらいたかった、それだけなのにぃ……!!」

「姫乃」

 床に額を擦りつけていた女が、のろのろと顔を上げる。虚ろな瞳に晒されても薫は顔色ひとつ変えなかった。逆にじっと見つめ返しながら、女に手を差し伸べる。

「立てよ。俺も、付いてってやるから」

「……か、お、る」

「俺も前に進む。だからお前も、前に進むんだ」

 編み目のように顔に張り付く女の髪の合間から、濁った瞳が大きく見開かれる。

 薫の言葉はいつも真っ直ぐでひたむきだ。だからこそ、彼女がゆっくりと立ち上がった姿に、私を含めた誰もが胸を撫で下ろした。

 ごく自然にポケットに差し込まれていた、か細い手。

 そこに微かに瞬いた――鋭い光を目にするまでは。

「薫……ッ!!」

 渾身の力で薫の背中を突き飛ばした。その後向かってくる女をかわそうとしたが、昨夜の怪我が鋭い痛みを放つ。

 銀の刃先が、迫ってくる。

 何かを叫んでいるらしい女の言葉もまるで耳に入ってこない。映画のコマ送りのように、やけに、ゆっくりと――。

「……?」

 いつの間にか視界を塞いでいた瞼の向こうが、時を止めたような静けさに満ちている。恐る恐る瞼を持ち上げた私は、飛び込んできた光景に言葉を失った。

「被害者ゴッコは終わりだよ。お姫サマ」

 赤い。血だ。

 朱色の線を引いていく鮮血が、目の前の手首を通って肘丈の袖口にじとりと溜まっていく。

 握られたカッターナイフが小刻みに震えだしたかと思うと、女はずるりと床に崩れ落ちた。嘘。まさか。

 刃先を、掴んで――?

「とう……ま……?」

「怪我を押してまた無茶してないかと思ったら……案の定じゃん。杏ちゃん」

 宥めるような柔らかな微笑み。散々胡散臭いと毛嫌いしていたその表情が、至極温かく思えた。

 取り上げたカッターの歯を丁寧にしまった透馬は、真っ赤に染まった右手に構うことなくポケットに手を入れる。そのままへたり込んだままの女の前にしゃがみ込み、取り出した何かを見せつけた。

 見覚えのあるそれは、透馬のスマートフォンだ。

「橋本姫乃、二十五歳M大事務員勤務三年目。気位の高い家庭に大切に大切に育てられた一人っ子。世間知らずのお姫様、か」

「な、なにをっ」

「全部、アンタの『お知り合い』が話してくれたことだよ。姫乃ちゃん」

 にっこり笑みを浮かべた透馬に、反抗的だった女の瞳は、何かを悟ったようにさっと勢いを失った。

 本当の笑みが透馬の口元を象る。嘲りの笑みが。

「昨日、夜道で杏ちゃんにキチガイ男を差し向けたのは、アンタだな」

 ひとまず女の狂気が去ったからか、辺りには再び動向を注視する視線が集まっていた。透馬の確信を持った指摘に、女は顔色を青くしながらも首を横に振る。

「し、知らない。何も、私は……」

「そりゃないでしょ。あの男もオイオイ泣いてたよ? 俺の大好きな姫ちゃんは自分しか頼れる男がいないんだって。だから自分が、姫ちゃんの願いを叶えてあげなくちゃいけないんだって」

「ち、ちが」

《――かたなかったんですよぉ。あの子ってばホント、ワガママで寂しん坊だから。今夜のあれだって、本当はやりすぎかなーって思いましたよ俺だって。でも、姫ちゃんが、あの人を上手に痛めつけることができたら、次のデートはサービスしてあげるって言うもんだからさぁ……》

 透馬の血が滲んだ手に握られていた、スマートフォン。それから唐突に流れ出たものは下卑た男の声だった。

 聞き間違えるはずもない、昨夜の暴漢の声そのものだ。

 思わず問いただすように透馬に視線を送る。それに気付いた透馬は、小さく肩を竦めた。

「今の携帯電話は録音も簡単にできてほんと便利だよね。ネジが緩んだみたいにペラペラ全部話してくれたよ、アンタの操り人形君。なんならネット拡散しようか。そのうち誰か、もっと悪い奴が有効活用してくれるかもしれないね」

「ひ……酷い、そんなの、あんまりじゃ……!」

「ふ。ちょっと品を作れば男なんて簡単に操れるなんて、自惚れないほうがいいよ」

 咄嗟に女が見せた同情を誘う表情を、透馬は笑顔で一蹴した。

「俺は本気だから」

 背後に立っているため透馬の表情を窺い知ることはできない。それでも、対峙する女の瞳に畏怖の色が滲んだことには気付いた。

 初めて聞いた。こんなに低くくぐもった透馬の声を。

「透馬。もう、十分だよ」

「杏ちゃん」

 ポケットから取り出したハンカチを、傷だらけの透馬の右手に巻き付ける。その際に微かに触れた手は、燃えるみたいに熱かった。

「早く……ちゃんと手当てを」

「大丈夫。見た目ほどじゃないよ」

「嘘吐くな、汗掻いてるじゃない! 中吉ちゃん、事務室から救急箱を……!」

「へえ。その男も、股開いて手懐けたんだ? 『アンアン』ちゃん」

「……」

 アンアン、ちゃん。

 耳に響いたその呼び名に、私は目を見開いた。

 十年以上前の記憶が蘇る。

「アンタの元クラスメートに聞いた。アンタ、中学の頃いじめに遭ってたんだって? そのときのあだ名が『アンアン』ちゃん。群がってくる男に選り好みせず股を開いて、アンアン楽しそうに喘いでたって」

「姫乃、お前、何デタラメを……!」

「ふふっ、薫君はまだ小学生だったから知らなかっただけよぉ。だってほら、小野寺さん、固まっちゃってるじゃない?」

 キャハハッとあどけない笑い声が、館内に場違いに響いた。女の指摘に、周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。

 生徒たち、同僚、薫……そして、隣にいる透馬まで。

「中学でそんなだもの。二年前のことだって不思議じゃないよね。大切な幼馴染みを身体で繋ぎとめようなんて最低じゃない。尻軽女。ほら、私は何も間違ったことなんて言ってな――」

「失礼致します! 先ほどご連絡いただきました警備の者ですが……!」

 ゲートを潜る警備員の登場で、その場は尻切れトンボのような幕引きを見せた。恐らく、カウンター裏にある非常ボタンを司書の誰かが押したんだろう。

 女は何かを喚き散らしながら最後まで抵抗を続けていた。透馬は自分が負った怪我について、女のせいだと公言することをしなかった。

 その後のことは、いつの間にか主任に引き連れられて事務室にいた私には、よくわからない。

「小野寺さんのせいではないことは……私も十分理解しているけれど」

 ひと気のない個室で、主任は毅然と話を切りだす。

 いつもは職場の鬼と称されている主任の、今まで聞いたことのない口調が、やけに耳に残って離れなかった。

「でも……このままじゃ、かなりまずいわ」

「……はい」

「脚の怪我もまだ完治していないようだし……小野寺さん」

 ひとまず一週間、自宅待機をしてもらえる?

 初めて気遣わしげに告げられた言葉が、私を納得と絶望に落とした。


   ***


 柔らかな光が、瞼の向こうに見えた気がした。

 夢の淵からそっと目を覚ました私は、自分の家とは異なる光景に一瞬上体を起こしかける。それでもここがどこなのかを思い出し、柔らかな毛布の中に再び身体を落ち着かせた。

 この場所に来るのは、本当に久しぶりだ。

 昨夜の事件後、大学からすぐにタクシーに乗り込んだ私は、自宅を経由して無意識にここを目指していた。タンスの奥から引ったくってきた古い鍵を扉に差し込み、軋んだ音とともに視界が開ける。

 拍子抜けするほどに何も変わらない空間が、私を出迎えてくれた。

 色とりどりのガラスが散りばめられた大窓の下には、人ひとり手足を伸ばすには十分なソファーがここの番を守ってくれていた。残る三面の壁には、扉以外には隙間もないほどの本棚が、寸分狂うことなくきっちりと収められている。

 棚の中には様々な表情を浮かべる書籍たちが静かに佇む。目一杯に深呼吸をすると、少しの埃と地に根を下ろす大木に似た薫りがした。

 町外れにある、平家建ての書籍館。おじいちゃんが私に遺してくれた、最高の贈り物。昔も今も、やっぱりここが一番安心する。

「今……何時だろ」

 携帯電話を探そうとした手を途中で止め、腕時計に視線を落とした。十時過ぎか。どうりで窓からの日差しが眩しいわけだ。

 タクシーを乗り回して必要最低限の生活用品は持ってきた。とりあえず、コーヒーでも煎れるかな。

 ぐしゃぐしゃになっている髪の毛を化粧ポーチの中に入っていたシュシュでまとめる。すると不意に、鞄の奥底に詰め込まれていた一冊の本と目があった。

 心酔している作家の小説。アイツと出会うきっかけになった、あの時の。 

「もう、貴方を読むこともないかもね」

 手に持った小説をそっとソファーの上に寝かせ、私はヤカンの火を止めてコーヒーを煎れた。

 さてと。今日はどうしよう。久しぶりにここの本を片っ端から読破していこうか。時間は有り余っている。

 ソファーに戻った私は、横座りに脚を投げ出して腰を下ろした。マーガリンもジャムも塗っていない食パンを、コーヒーに浸しながらもくもくと頬張る。瞬間、おじいちゃんが顔を真っ赤にして怒声を発しそうな格好だな、と可笑しくなった。

「ねぇおじいちゃん、」

 私ね。また、ひとりぼっちになっちゃったよ。

 虚空に吐き出した瞬間、目の奥がぐにゃりと緩んだことに気付く。

 咄嗟にきつく目を瞑り惨めな衝動をやり過ごした。別に誰も居ないんだ。エゴでもおいおいと無様に泣けばいいのに。こういうところが本当、可愛くない。

「さてと。それじゃひとまず、この辺りから読み潰しますか」

 覇気のない声を漏らして、本棚に並ぶ背表紙を指で撫でていく。

 ここの本は、いまだに全てを完読できていない。これを機に読み進めるのも悪くないだろう。そう思い本棚に手を伸ばした時、ふと感じた気配に書籍に引っかけたままの指先がぴたりと止まった。

 呼び鈴が鳴ったわけではない。それでもこの建物の周辺は人気も少ない分、微かな物の気配でもすぐさま肌に伝わる。

 誰?

 この場所を知っているのは、家族以外には薫だけだ。電源を切ったままの携帯電話をちらりと見遣る。せめて薫には一言メールを入れておけば良かった。

「杏ちゃん」

 外から、一際小さな呼び名が聞こえた。


「コーヒー、どうぞ」

「ありがとう」

 ソファーの端に腰を下ろした透馬は、テーブルに置かれたコーヒーカップに目を落としたままだった。こころなしか髪型が乱れ、こめかみは薄く汗が滲んでいた。

「携帯……電源、切ってた?」

 沈黙を破った言葉は、責める口調ではなかった。私はマグカップで両手を温めながら、小さく息を吐く。

「うん」

「みんな、心配してるから。奈緒ちゃんも、栄二さんも……薫君も」

「あの後に……薫と会ったの?」

「奈緒ちゃん通じでね。ここの場所は、薫君が教えてくれたんだ」

 予想以上に一大事になっていたらしい。耳にして第一に感じたものは、罪悪感よりも倦怠感だった。

 予め周りに言って回らなければ、一人になることも許されないのか。

「中学の時にね。ここの鍵を、クラスメートの男子に盗まれたことがあったの」

 マグカップをテーブルに載せ、私はソファーの上で膝を抱え込む。

「その頃はもう、私はクラスの女子からターゲットにされてた。それに男子が乗っかった。放課後の教室で鍵を必死に探す私に、その男子は笑いながら提案してきた」

(フリでいいからさ、気持ちよさそうにアンアン喘いでみてよ?)

 台詞を口にした瞬間、透馬の纏う空気がふっと変わったのに気付いていた。私は気付かない振りをして、出来るだけ淡々と話を続ける。

「その鍵は入院してるおじいちゃんから託されたものだった。おじいちゃんが動けない間、お前に任せたって。お父さんでも、お母さんでもなくて、私に託して」

「もう、いいよ」

「早くしなくちゃ、この鍵を池に投げ捨てるって言われて」

「杏ちゃん」

「わ、私は……!」

 続く言葉を遮るように、透馬の腕が強く回された。

「もういい。話したくないことは、話さなくても」

「……気になってたくせに」

「そりゃそうだけど」

 少し気まずげな口調。それでも、そっと頭を撫でる手のひらはどこか年上の余裕が感じられて、温もりの中で静かに瞳を閉じた。

「メッキが、剥がされちゃったね」

 でも私自身は、いつまで経っても冷たいままだ。

「……は?」

「一人でも生きていけるようにって思ってきたから。自分を馬鹿にする奴を跳ね退けて、見返して、羨望される側になって――ずっと、今まで」

 そっと身体を離される。髪も無造作に結われ、涙でべたべたになった化粧痕は隠しようもない。負け犬の情けない笑顔を透馬はどう思っただろう。

 私は所詮「特別」に値する女じゃない。さすがにもう、気付いてしまっただろうか。

「透馬」

「杏、ちゃん……?」

 涙で睫がすっかり重力に負けた瞳。

 それでも、透馬の困惑した視線と交わらせるには十分だった。すぐ手が届くところにあった服の袖を小さく、でも確実に悟らせるように引いてみせる。

 続く言葉は、驚くほどすんなりと、自分の口からこぼれ落ちた。

「慰めて、くれないの?」

 目の前の双眼が大きく見開かれる。薄茶色の瞳の中に映り込んだ自分の姿を見つけ、意味もなく笑みを浮かべた。

「なに……言って。らしくないよ」

「らしくない?」

「らしくないでしょ。だって杏ちゃんは、俺のこと」

 詰め寄る調子の透馬に、私は眉を下げる。こんな表情もきっと、ずっと長い間、誰にも見せたことはなかった。

「私らしくない私は、お役御免ってこと……?」

「だから、そうじゃなくて……、ッ!?」

 顔を伏せたまま、透馬の首根っこを強引にこちらに引き込む。

 油断していたらしい透馬は、咄嗟にソファーの背もたれに片手を付いた。

 影の落とされた驚愕の表情。それすらも素直に綺麗だと思った。

 透馬の背景にある天井板をぼんやりと見つめる。

「らしくないのは、アンタの方でしょ。透馬」

 見上げた先の奴の頬に、そっと手を添えた。

「据え膳が目の前にあるんだよ。予想よりも全然、美味しくないかもしれないけれど」

 苦しかった。息が詰まるほど。

 公衆の面前で二年前のことを暴露されたときも謂われない暴言を吐かれたときも、こんなに胸を抉られる思いはしなかった。それなのに、どうして。

「お願い」

 透馬に、聞かれてしまった。二年前のことだけじゃない。中学時代の屈辱も、何もかも。

 ただそれだけのことで――どうして、こんなに。

「好きだって、言ってくれたじゃない」

 顔の真横に付かれた奴の手が、確かに反応した。その事実が、私を何とか慰める。

「それとも、やっぱりあれは、ただのリップサービス……?」

「……っ」

「透馬」

 見上げた先から、喉を詰める音が聞こえた。

 背もたれに付いていた透馬の左手に手を添え、そっと自分の頬に持ってくる。伏し目で口を噤む私に徐々に近付いてくる透馬の影。

 心臓が、甘く締め付けられる。

 透馬。透馬。透馬。心の中で何度も呼びかける。そして初めて、ここへ来る途中も、ずっとずっとその名を呼び続けていたことに気付いた。

「杏、ちゃん……」

 唇に置かれる指先は、焦れったいくらいに微かに触れるだけだった。

 無意識に伸ばした両手を、透馬の首もとに差し込む。予想以上に柔らかい癖毛を指でそっと梳いた。百戦錬磨の瞳はこちらを見つめたまま、ゆらゆらと光を揺らしている。

「透馬……私……」

 縋り付くような言葉をこぼした瞬間、目尻から耳までを、熱くくすぐったい感触が辿っていく。目の前の瞳が、一際大きく揺れた。嫌いにならないで。嫌いになってほしくない。

 だって、私は――。

「駄目だ」

 低い返答。

 同時に目の前に広がっていた陰りが除かれ、眩しいくらいの窓の日差しが再び辺りを照らし出す。

 ソファーに横たえられたまま、私はしばらく呆然とする。

「駄目だよ。杏ちゃん」

「なん、で」

「正直……こんな流れで抱いてきた経験が、ないわけじゃない」

「それなら……!」

「それでも! それでも……杏ちゃんは、」

 向けられた視線に籠められた感情は、汲み取ることはできなかった。

「杏ちゃんだけは、抱けない」

 ――あんちゃんだけは だけない――

 息が詰まるような沈黙は、透馬が静かに閉じた扉の音に容赦なく切り裂かれた。

 私の、浅はかな心も。


   ***


 結局、本なんてまるで読む気になれなかった私は、その日の夜に自分の部屋に戻った。

 思い出したように携帯電話の電源を付けてみたのは、翌日の昼。予想はしていたが、尋常じゃないほどの不在着信数と未読メッセージ数が叩きつけられ、私はしばらくどうしたものかと途方にくれた。

「本当にごめん!」

 そして、本来要らない心配をかけて責められるはずの私に真っ先に告げられたのは、謝罪の言葉だった。

「あの後、杏姉の後輩に聞いた。俺のせいで、杏姉、仕事を謹慎になったって」

 メールに返信を入れた直後に鳴り響いた、薫からの着信。

 自室にいると知るや否や信じられないスピードで部屋のインターホンが鳴り、今現在、私と薫はテーブル越しに向き合っている。

「薫のせいじゃないよ」

 私は用意したホットミルクに口をつけ、同じ言葉を繰り返していた。

「あれはそもそも、話を切り出す場所を間違えた私の責任だから」

「俺が姫乃との仲を、ちゃんと話し合わないままにしてたから……杏姉を巻き込んだ」

 だから、本当にごめん。

 薫の実直な言葉に、視界にかかっていた投げやりな霧がゆっくりと溶けていく。

 いまだにこちらに向けられたままの黒髪のつむじを見つめながら、私はようやく息をついた。

「それでもね、薫のせいだけじゃないから。私も悪かった。一番悪いのはあの女だと思ってるけどね」

「っ、だけど!」

「いいからほら、顔上げなってば」

 ようやく持ち上げられた瞳は弱々しく、心なしか色も赤かった。

「……あの人とは、会えたのか……?」

 あの人。そう形容される人物は、一人しか思い至らなかった。

 書籍館の場所も薫に聞いたと言っていたな。妙な繋がりが出来てしまったものだ。

「うん。会えたよ」

 誘惑に失敗して二度と会えなくなったけどね、というのは、心の中で付け加える。

「その後は?」

 そしてこういう時に限って、こいつは本当に勘が鋭い。

「透馬さんと……ちゃんと話、したのかよ?」

 返答が出来なかった。口から出る全てが泣き言になってしまいそうだった。

「杏姉」

「っ、……ぅ」

 喉に引っかかる言葉の節々が情けなかった。後悔するって、分かっていたはずなのに。

「馬鹿なこと、言っちゃった。私」

「え?」

(杏ちゃんだけは、抱けない)

 私自身の滑稽さと愚かさを淀みなく指さした台詞が、頭から離れない。

 床に広げていた両手をかき集め、力一杯に拳を作る。それでも身体の内からこみ上げる震えは、どうしても抑え込むことが出来なかった。大きな滴が、堪えきれずに床へ落ちていく様を見た。

「っちょ、な、泣くなって……!」

「二年前から何も学習してないよ。私」

「え?」

「あの時も……ちゃんと言えばよかったのに……っ」

 今までの関係が壊れてしまうことが怖かった。だからいつも一定の距離を保って、余裕を崩されないように、傷付かないようにして生きてきた。

 本当は、手を伸ばしてほしくてたまらなかったくせに。

「本当はね。二年前のあの時……薫が彼女と別れた前なのか後なのかなんて、どうでも良かったんだ」

 見開かれた薫の瞳に、私は弱々しく笑みを返した。私だってそこまで馬鹿じゃない。考え及ばなかったのではなかった。

(浮気、された)

 短くその事実を告げられたとき、私は問いかけようとして止めたのだ。

 彼女と別れたの? と――。

 中途半端な想いの吐露の結果、薫の旅立ちを満足に見送ることも出来なかった。大切な幼馴染みを失って、自分の不甲斐なさが重くのしかかった。

 もうこんな思いはしたくない。あの時私は、確かにそう思ったはずなのに。

「どうしていつも、たった一言、伝えられないんだろう」

「杏、姉」

「もう駄目だよ。私……」

 きつく瞑ってもなお、瞼の裏から離れない人影。

「透馬に……幻滅されちゃった」

 自業自得だ。ずっとずっと、何よりも伝えたい想いがあったはずなのに。代わりに口から出た浅はかな誘いの言葉は、きっと透馬を傷付けた。

「とう、ま……っ」

「杏姉」

「――、え」

 ぐるり、と。大きく視界が一回りして、身体が床に横たえられる。

 目を白黒させる一方で、私は記憶の中の光景とシンクロするのを感じていた。顔の両脇に押さえつけられた両の手は、無意識に抵抗してもビクともしない。

「か、おる?」

 返事はなかった。ただ、真っ直ぐに見下ろされる視線はどう考えても冗談では済まないことだけは分かる。

 瞬間、肩が強ばった。

「薫、ちょ……どけて」

「透馬さんに、幻滅されたんだろ」

「!」

 改めて突きつけられた言葉に、思わず涙が滲むのを止められなかった。ぎり、と床に縫いつけられた両手に、更に力を込められる。

「薫……もう、これ以上、やめっ」

「透馬さんに幻滅されて、傷付いてんだろ。杏姉」

「っ、そう、言ってるでしょ……!」

「それって――杏姉はまだ、『諦め切れてない』ってことなんじゃねぇの?」

 はっと見開いた瞳から、細かな滴が睫を舞った。かち合った薫の瞳が、いつもの馬鹿正直な視線とは違うことに気付く。

「二年前とは、違うだろ」

 必死だった。薫もまた、二年前の幻影を見ている。

「二年前だったら……俺は何の考えもなしに杏姉の優しさに甘えてた。杏姉だって、何の抵抗なく俺のことを受け入れてくれた」

「!」

「でも……今はもうお互い、違うだろ?」

 震える声。答えを待つ薫が、肯定を望む一方で否定を夢見ていることを、私はすぐに理解した。

「うん」

 だって、幼馴染みだから。

「二年前とは……違うよね」

「ああ。違うよな」

「っ、私、ね……」

 透馬のことが、好きなんだ。

 ようやく外に吐き出した想い。薫は泣きそうな顔をして笑った。ぐにゃりと歪んだ、酷く情けない顔。

 私もきっと、同じような顔だっただろうと思う。


   ***


 その後、話を聞きつけた奈緒や薫のおばさんからの連絡を順に返していく作業に追われた。

 時計に目を向ける。あと一時間もしない内に仕事上がりの奈緒が来る予定になっている。きっとこっぴどく怒られるな。そう思ったら、何だか可笑しかった。

「……あ。何か、食べるもの」

 一昨日買い込んだものはジャンクフードばかりだ。ベッドをのろのろと降りた私は、適当に選別したジーパンとTシャツを纏って財布を手に取った。

 鏡に映った自分を鉢合わせする。なんだよ、と私は思った。意外に悪くない。

 さっと手櫛で髪を梳き、身なりを整える。指先で鍵をクルクル遊ばせながら、口もとに自然と笑みが浮かんでいることに気付く。

 いつもの自分が戻ってきている。謹慎中の身の上には変わりないはずなのに、先ほどまでの鬱々とした心地がまるで嘘のようだった。

 薫のお陰、だろうな。

 微かに瞬き始めた星空の狭間に幼馴染みの面影を見た。ありがとうも、ごめんねも、結局はっきりと告げないままだ。でも、薫にはきっとそれで良いのだろう。

(ほら。こう見えて俺も、もう立派な成人男性だし?)

(玉砕したらしたでさ、幼馴染み同士、居酒屋を梯子するのも悪くないじゃん! なっ?)

 慣れない慰めの言葉を残して、薫は帰っていった。扉前でぽんと頭に置かれた手の温もりは、ひとりきりの時間に明かりを灯してくれた。

「二年前とは違う、か」

 あの後も薫が、まるで勇気づける呪文のように繰り返した言葉を、私も口にした。

 例の騒ぎで謹慎を受けた私を、あてもなく捜し出してくれた。街の中心部からはかなり離れているおじいちゃんの書籍館まで、汗を滲ませて。そんな透馬に対する私の言動は、今振り返っても最悪なものばかりだ。それでも。

 今からでも、間に合うのだろうか。

 夜道を小走りに駆けていく。奈緒が来るまであと一時間。近所のスーパーへ歩みを進めた私は、ひとまず手当たり次第に食料たちをカゴに放り込んでいった。会計を済ませ手際よく袋に仕分けしていく最中、理由もなく背後を振り返る。

 そして、時が止まった。

「死にそうな声で電話してくるから来てみれば、昨日から何も口にしてないって……どこまで私を心配させれば気が済むんですか、もう!」

 本当に、無意識のことだった。若い女性の話声が耳に届く。

「はは……ごめん。気付いたら、約束の時間も過ぎちゃって」

「いつものメニューで良いですよね? あ、そこのヨーグルトも取ってください。朝食用の、どうせ切らしてるでしょ」

 カートを押す男と、カゴに食料品を入れていく女。違和感のまるでない、よくある日常風景。

「そこのドリンクも欲しいかも。ちょっと疲れてるし、折角アリサちゃんが来てくれたんだから」

「女の人にうつつを抜かすのも程々にしないと、私だってそういつまでも理解があるわけじゃないんですからね」

「ん……大丈夫。きっともう何もないから。ヤキモキさせてごめんね」

「いちいち気にしてたら、こっちも身が持ちませんから」

 顔を俯けながら先を行く彼女は、今日も小さなお団子を頭上に結って、身なりも綺麗に整えられていた。店内をよく通る、ソプラノの声。

 どうして。

 どうして、決して騒がしくもない二人の会話だけが、まるでチューニングを合わせたかのようにこの耳に届いてしまったのだろう。

 どうして、星の瞬くこんな時間帯に二人はスーパーで仲睦まじく買い物をしているのだろう。

 どうして、今この瞬間、私は振り返ってしまったのだろう。

 どうして――。

「え?」

 薄茶色の澄んだ瞳が、ぴたりと動きを止める。

 どうして――こんな時に限って、

 目が、合って。

「? どうかしましたか?」

 連れが不意に立ち止まったことに、彼女は怪訝な様子で声をかける。

「大丈夫ですか? もしかして具合が……、あ」

 隣に控える彼女と目が合う前に、私は顔を背けた。

 スーパーの出口から吐き出されるように飛び出す。乱暴な音を立てるビニール袋を投げ捨てそうになりながら、私は目の前に広がる夜道をひたすら駆け抜けた。

 先ほどまで心地良かった初夏の夜の空気が、今は見えない壁のように身体を前に進ませない。

「っ、ふ……」

 熱く溜まってきた吐息を出そうとして失敗した。喉の奥が不格好に痙攣したところに、感情の波がじわじわと上ってくる。

「っ、ぅ、く……っ」

 本当は、心のどこかで今も疑問に思っていた。前に喫茶店で語らっていた彼女の存在を。

 個人的な付き合いではないと言っていたけれど、どう考えてもそんな雰囲気ではなかったことも。

 せっかくの奴の好意を跳ね退ける可愛くない自分と、心から奴のことを気にかける献身的な彼女。

 なんだ。比べようもないじゃない。

「……っ」

 胸が、痛かった。

 思わず脚が絡みそうになって初めて、先日の怪我の痛みに気付く。そんなものまるで比較にならないくらいに、胸が痛い。

 じくじくと浸食していく痛みが広がって、身体全体まで行き着くと、そのまま末端まで動きを重く鈍らせる。自室に飛び込み、ようやく手放した買い物袋を玄関に置き去りにした。胸が、痛い。痛い痛い痛い。

 どうして、こんなに。

「好きに、なるとか……っ」

 冷たく暗い自室にぽつりと落とした言葉。直後、ぽろぽろと止めどなく零れ落ちてくる涙は、駆け付けた奈緒を迎え入れる時も止むことはない。

 混乱しながらも必死に背中をさすってくれる小さな手の温もりに、奴の大きな手を思う自分が惨めで仕方なかった。


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