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第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。

 第六章 追求、暴漢、記憶の蓋。


 半月ぶりに発生した中傷騒ぎは、瞬く間に大学中に知れ渡ることとなった。

 もともと話題の矢面に立たされることが多かった自分に、強力なゴシップネタがついたんだ。周囲の反応は面白いほど様変わりした。生徒からは嘲りの視線を遠慮なく浴びせられ、教授陣からはわざわざ私を指定してはくどい程のレファレンスを要求する。

 こんな状況を汲み取った主任は、早々に私を裏方の事務仕事に回すことを決めた。

(事務作業が済んだ後は、貴女が必要と思う作業に時間を使いなさい)

 司書仲間が腫れ物に触れるように事務室を出ていく中、主任から耳打ちされた言葉。その意図に気付かないほど私も鈍くはない。

 業務時間を使ってもいい。犯人の正体を、何としても暴きなさい――と。


「いやぁ~、まさか小野寺さんの方からお越しいただけるとはねぇ。美人司書さんはどこも引っ張りだこだろうに、恐縮ですわ。わっはっは!」

 気にしない。気にしない。背後ででっぷりとした腹を揺らすセクハラ親父に一度振り返り、社交辞令の愛想笑いを返す。

 事務作業を一心不乱に済ませた私は、「オサワリ」教授こと尾沢教授の研究室に足を踏み入れていた。にやにや楽しげに眺めているセクハラ親父の監視下のもと、あたりの書類を片っ端から洗う。

 中傷文の中で発見された、旧字の「澤」と新字の「沢」の使い間違い。そこから何とか、犯人特定の糸口を見いだすために。

「私の名前ねぇ。市役所で新字の『沢』に変える手続きをしてからは、わざわざ旧字を使った覚えはないけどねぇ」

「旧字が掲載されたままの、昔の資料を講義で使用した可能性は?」

「僕の研究材料は常に最新情報。過去の遺物に用はないんだよ。資料の墓場にお住まいの司書さんたちとは違ってね」

 誇らしげに反らされた顎に、唾を吐き付けたくなる。

「司書の方ももう少し大学の研究に協力した方がいい。事務職の子たちを見なさい。こちらが頼めばやれ資料だ、やれ領収書だとわざわざこの研究室まで足を運んでくれるというのに、君たちと言ったら……」

「図書館司書の職務は原則館内で行われます。館外への資料の運搬までは規定に御座いませんので」

「はっはっは! 窓口でニコニコしてるだけのお姫様とは格が違うってか?」

 汚い、下卑た笑い。パンパンに張っているその腹を蹴り飛ばしたくなる。

 それでも、かけなしの理性が中傷よりも酷い言葉を押し止め、私は話を戻した。

「印刷物も自署も、旧字の使用はないと?」

「ないね。大体、資料作成や手書きサインだって、昔から旧字を使う方が少なかった。画数が多くて面倒だからな。さっさと変更手続きをしときゃあ良かったよ」

 昔から、旧字を使うことがなかった?

 確かに先ほどから見られる印刷物は全て、5年以上前のものであっても新字の『沢』を使っているようだ。

 でも、それなら逆に、何故犯人は今回『澤』の字を使ったのだろう。

 例え5年以上前に教員名簿で新字に変わる前の『澤』を目にしたとしても、今の今までそのことを覚えているものだろうか。

「何でも構いません。他に何か、心当たりはありませんか」

「だから、ないと言って――……」

 色気のない話に早くも飽きたらしい教授は、ソファーに勢いよく腰を沈める。

 そして次の瞬間、眠気すら浮かんでいた彼の表情に、微かなひらめきが走るのが見て取れた。

「心当たり、おありなんですね?」

「うーん……そうだなぁ」

 勿体付けたように自らの顎を撫でる。その間、教授の視線は余裕しゃくしゃくに私の頭から足先までを撫で回していた。重そうな腰を上げ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

 気にしない。気にしない。繰り返し自分に言い募る。

「教えていただけませんか」

「まぁ、私自身謂われない誹謗中傷で迷惑しているからねぇ」

 謂われなくはないだろ。

「でもまぁ、火がないところに煙はたたないと言う」

「っ、ちょ」

「幼少から少々手癖が悪いとは言われていたがなぁ。いや、こりゃ失敬」

 不作法に伸ばされた手が、さっと腰に添えられた。咄嗟に間合いを取ったが、このセクハラ親父は悪びれる様子もなく再度近付いてくる。跳ね上がりそうな心臓を何とか沈めた。

 こんな展開だって、予想していなかったわけではない。

「大切な娘さんが来年大学入試だそうですね、尾沢教授」

 愛想笑いで一矢報いる。目の前の肉塊の動きがぴたりと止まった。

 効果は思いのほか大きく、欲深さが滲む丸い瞳はわなわなと見開かれる。もともと汗くさい奴の額には、脂汗が面白いように照り返り始めた。

「中傷の件、現時点では内々に処理され詳細が外部に漏れることはないでしょう。でもこれ以上の広がりを見せれば均衡もいつ破られるか。教授の評判や、ご家族への影響も懸念されるところです」

「き、君っ」

「ご協力いただけますよね?」

 確信を込めた視線を突き刺した。しばらく汚いうめき声を漏らしていた教授は、苦々しげに舌打ちを打った。

「はっ。可愛くない女だ。ったく」

 瞼にまで肉が乗った細目で恨みがましく睨まれる。それもこちらが物怖じしないことを見るや否や、不本意そうに顎をしゃくった。

「そこの下の棚戸だ。本の奥に古い箱がある。出してみろ」

「……失礼します」

 本棚の下にしゃがみ込んだ私は、そっと備え付けの引き戸を開け放つ。

 すると言われたとおり、レジュメで隠されていた奥から色のくすんだ箱が姿を現した。お菓子の缶だろうか。彩り豊かなその箱までようやく行き着き、私は両手で箱を抱える。

「……? んっ!」

 何だこれ。むちゃくちゃ重い。

 両手を今一度棚の奥に突っ込み、力一杯に後ろに重心をかける。まるで動かない。どんだけ重いものを詰め込んでるんだ。

「っ、はっ? ちょ……!」

「動かないかい? 可笑しいなぁ、もっと奥を持ち上げたらいい」

 背後から覆いかぶさるような体勢で白々しく指示する。そして先程よりも無遠慮に触れられた手のぬくもりに鳥肌が立った。

「どこを触って……っ、どいてください!」

「君自身は可愛くないがね。魅力的なお尻があったもんでついね。ぐははっ」

 ようやく察しが付き、問題の箱を見遣る。そして目についたものは、箱と棚の間に僅かにはみ出した接着剤の跡だった。

 こいつ、騙しやがったな……!

 このトラップにはまったのは、私が初めてではないだろう。同じ被害者を思って胸にひびが入りそうだったが、おぞましい感触が再び腰あたりに走り、私は声を荒げた。

「止めてくださいっ! 本気で問題にしますよ……!」

「はっ、身体を売る相手がひとり増えるだけじゃねぇか。今更純情ぶるなよカマトトが」

「!!」

 先日の中傷文の内容を示唆する発言に、一層の屈辱を抱いた。

 腰から尻をたどり、肉厚の醜い手が太股を美味しそうに撫で回す。自衛本能だろうか。身体が一気に熱く燃え上がる。触るな。気持ち悪い。呼吸がうまくできない。

「や……っ、とう」

「テメェ!!」

 突如、室内に凄まじい叫び声と騒音が轟いた。直後、痰が絡むような咳音が室内に響き渡る。

「な、なんだお前はっ!?」

「……! か、」

 薫。そう言いかけて、咄嗟に口を噤んだ。

 このセクハラ馬鹿に、名を知られたら後が面倒だ。

 戸棚から這い出た私は、繰り広げられていた光景にぎょっとする。バスケをやるための薫の手が、今は動きの鈍い教授をいとも簡単にしめ上げていた。

「てめぇ……きったねぇ手で杏姉に触りやがって」

「は、ははっ、なんだお前もこの女の見かけに騙されていた若造か? 残念だったなぁ小僧。青臭い幻想が壊れちまったなぁ……っ?」

「殺す」

「ひいいっ!」

「ちょ、やめなさい!」

 教授の胸ぐらを掴む薫の腕が、やすやすとその高さを上げる。更に捻り上げられた首に苦しそうにジタバタする教授の姿に、私は慌てて声を上げた。

「――今の教授の問題行動! ちゃんと写真は撮ってくれたよね、『田中君』!」

 咄嗟に口走った偽名だった。

「田中?」と首を傾げる薫の背中をぎゅっと抓り上げた。あんたも少しは空気を読むことを覚えなさい。

 何とか弾む呼吸を落ち着けた私は、いまだ酸素を求めて息を荒くする教授に向きなおる。

「この子には……万一の時のために私が頼んでいたんです。必要があれば、室内の様子を写真を撮っておいてほしい、と」

 瞬く間に適当な話をでっち上げた。

 ようやく状況に合点がいったらしい薫が、したり顔でズボンからスマホをちらつかせる。

「彼が撮ってくれた写真、どこに飛ばしてやりましょうね。尾沢教授?」

 まるで意見を伺うように首を傾げてみせる。人の血の気が引く瞬間を、私は初めて目の当たりにした。

「あー、やっぱあれだ杏姉。学内とか、家族とか?」

「小僧! わ、わわ、私を脅す気かっ!」

「そうね。あと娘さんのクラス全員のアドレスを調べて一斉送信しましょうか」

「た、頼むっ! 勘弁してくれ! そんなことをされたら私は、私はぁ……!」

「あんたに好き勝手もてあそばれた女の子たちもきっと、今のあんたと同じく助けを求めたでしょうにね」

 私の発言に、教授は大きく喘ぐように息を飲んだ。

 初めて己の愚考に気付いたのか、急速に冷えきった口調に絶望を見たのか、そんなことはどうでも良い。

 私は項垂れたままの教授の前にしゃがむと、そのネクタイを力任せに引っ張り上げた。自分でも驚くほどの力に、教授は息苦しそうにむせ返る。

「それで?」

 真っ直ぐに見据える。今度こそ、言い逃れは許さない。

「旧字の『澤』は――いったい何に使われているの?」


   ***


「んで。どうしてあんたがここにいるわけ、薫」

 加齢臭漂う研究室を後にし、私と薫はひとまず人気のない場所へ移動した。

 買い与えたコーラをぐいっと飲んだ薫は言葉を濁しつつも説明する。どうやら、私への中傷文の噂を聞いたらしい。

「心配しなくても、あの中傷文に薫の名前は載ってなかったよ」

「杏姉の心配をしたんだろ!? そんであの杏姉の後輩? あの人を捕まえて聞いたら、あのセクハラで有名なハゲ親父のところに行ったって聞いたから……!」

「うん。それは本当に、感謝してる」

 ありがとう。

 短く紡いだ言葉に、薫は一瞬きょとんとする。失礼な奴だ。

「俺の方こそ。大学で杏姉のこと待ち伏せしたりしなけりゃ、こんな風に……っ」

「くよくよしなさんな。人の噂も七十五日なんだから。こんなのすぐに収まる」

「気を付けろよ杏姉。さっきのセクハラ親父じゃねぇけど」

 薫が飲み終えたらしい缶をゴミ箱に放る。くるくる旋回した後、綺麗に中へと収められた。相変わらず綺麗な弧を描いて。

「中傷文の噂を持ってきた奴が言ってた。『俺の相手もしてくんねぇかなぁ』って。とりあえずそいつは殴っといたけど」

「そりゃ、噂持ってきた子も災難だったね」

「笑いごとじゃねぇから! 杏姉はただでさえ周りから目ぇ引いてんのに、勘違いした奴らから何されるかわからねぇだろ!?」

「人んちの玄関ホールでいきなり抱きついてきた奴の言う台詞じゃないよね」

「う」

 短くたじろいだ幼馴染みに思わず吹き出す。手元のホットココアが空になったのを確認し、私は行儀よくゴミ箱に捨てにいく。

 振り向いた表情は、きっといつもの私だった。

「女に生まれてこの方、そっちの危機管理はちゃんとしてるつもり。心配しなくて良いから」

「さっきは手ぇ出されてた!」

「うん。もうちょっと対策は練るよ。いざとなったら自分で自分を守らなきゃ」

「俺が守る!」

「四六時中は無理でしょ」

 間髪入れずに突きつけた正論に、薫は不服そうにする。

 実際問題そうなのだ。SPのように付きっきりでいることなんて出来やしない。それは誰を当てはめても同じこと。いざとなれば、自分で自分を守らねば。

 途端、自分の両手がさっとさらわれる。

 怪訝な表情を向けるも、勢いはすぐにしぼんだ。ベンチに腰をかけながらこちらを見上げる瞳は、感情に違わず真剣だった。

「簡単に手、塞がれてんじゃん」

「……今は二人きりで、油断してただけ」

「俺じゃなくても良い」

 突然低く響いた言葉に、私は目を見開いた。

「薫?」

「俺じゃなくても良いから。危なくなる前に、誰かを頼れ」

「!」

「頼むからさ」

 乞うように寄せられた眉。直情な薫はいつも容易く私を揺さぶる。厄介だ。本当に。

 さっき味わわされた屈辱だって、今も済んでのところで顔を歪めずにいられているのに。

「つーか、マジで俺に連絡しろよな。時間とか気にしなくて良いから……って、あれ。杏姉、俺の番号は……」

「消してない。ありがと」

「そ、か。ならいい。うん」

 見るからにほっとした様子の薫に、思わず泣き笑いになった。意外とぎりぎりのところにいたらしい自分に気付く。

 安易に「可愛くない」と言わしめる。そんな自分を、損得勘定抜きに気にかけてくれる数少ない身内の存在に心の底から感謝した。


   ***


「久しぶりの杏の手料理、美味しかったぁ~。ご馳走さまでした!」

 満面の笑みで食器を片付ける奈緒を眺め、ようやく私も一息つく。

 束の間の麗らかな休日。昨夜大人買いをした小説を一日かけて読み耽る予定は、子リスからの電話により延期となった。

 久しぶりにお客様用の湯のみを戸棚から取り出す。注がれた緑茶を嬉しそうに口にする奈緒に、私は早々に切り出す。「それで?」

「何かあったのかい奈緒さんや。電話で、話したいことがあるって言ってたけど」

「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれましたっ!」

 食後のお茶をテーブルに置くなり、そそくさと鞄を手に戻ってくる。その頭には犬耳、背後にはパタパタ横に揺れる犬のしっぽが見えた気がした。

「じゃじゃーんっ! これっ、見るべし!」

「な……にこれ。名刺? カード?」

 キラキラ輝きを詰め込んだ瞳を前に、咄嗟に仰け反る。

 細い指先に握られていたものは、一枚のカードだった。

「ただのカードじゃないんだよ! ここ! 見て見てっ!」

「『ごんざれす』?」

 印字された文字に目を瞬かせる私をよそに、奈緒は頬を桜色に染めて笑みを浮かべた。

「『カフェ・ごんざれす』のショップカード! デザインが採用されたのッ、ついに!」

「うそ。凄くないそれっ!」

 聞けば初めてあの店に行ったときに、手渡された初代ショップカード。白地に必要最低限の情報しか記載されていないデザインに、お絵描き馬鹿の奈緒は物足りなさを感じていたらしい。

「だからね、次にひとりで行ったときに栄二さんに言ってみたの。いくら何でもデザインが素っ気無さ過ぎませんかって」

 あの御方に、喧嘩を売ったと?

 口をあんぐり開けたままの私をよそに、奈緒はえっへんと子供みたいに胸を張る。

「そしたらね、言われたんだ。『それならば是非、貴女の思う最高のデザインをご教授いただけませんか』って!」

 指先に収まったカードに視線を落とすなり、その表情には内に秘められた自信が滲み出る。

「まぁそんなこと言われたらね! こっちも引っ込みがつかないっていうかね!」

「その……何ともなかった?」

「もちろんスパルタだったよー! 自分のお店のカードだもんね。軽く十個は没を食らったもん!」

「……怖い思いはしなかったかい」

「? ううん? 栄二さんを『栄ちゃん』って呼んでも良いですかって聞いたときは、さすがに血管浮き出てたけどね。ぷふっ」

「……」

 奈緒。ただ者じゃねぇよアンタ……!

 子リスが虎の懐ですやすや眠る。今まで見逃していた希少価値の高い光景を、次は是非ともこの目に焼き付けたいものだ。そう考え、ふと我に返った。

 ああでも、もうあの店には行かないかもしれないからな。

「おめでと、奈緒。すごく雰囲気が合ってるよ。奈緒のイラスト、やっぱり私好きだな」

「へへ。ありがとう、杏」

 照れながらも笑顔を見せる奈緒の頭をよしよしと撫でてやる。一新されたショップカードの彩り。親友が必死に紡ぎ上げた世界。

 淀みを募らせていた胸が、すうっと透いていく心地がした。


   ***


「小野寺さーんっ、もうお帰りですか!」

「今夜、宜しければ俺たちとカラオケでも……ど、どうですかっ?」

 今日は入荷した書籍のブッカー貼りと記録、整理の作業がしわ寄せで入り込み、すっかり定時を過ぎてしまった。

 にもかかわらずわざわざ待ちかまえていたらしい男子学生二、三人が、軽い口調に僅かな緊張を滲ませて私に声をかける。中傷文の内容にあやかろうとする下心が多分に含まれたお誘いが、あれから後を絶えずにいた。

 しかしながら、あの誹謗中傷が書かれてから二週間。こちらもそういつまでも若者の良いようにはされるまい。

「ごめんね。今日は気分じゃないの」

 ある程度の柔らかさを残して、口元に微笑を浮かべる。

 途端、浮ついた好奇の空気が大きくぐらつくのが分かった。まだまだ青いな、少年よ。

「気を悪くさせたかな?」

「え、あ、わ、い……いいえっ、いいえっ!」

「突然すみませんっした! 失礼します!」

 バタバタと不格好に退散する学生の背中を見送る。敗残兵が。二度と浅はかな計画を企てるな。

 周囲からの視線も、今では既に五分五分の割合で尊敬の念が戻りつつある。脅しが効を奏したのか、あれからオサワリ教授からの接触もない。

 日常を取り戻した私は、駅への道を進んでいた。ふと目にした紫色に染まる日暮れの空に、小さく溜め息を漏らす。

 あのデートから、もう二週間――か。

 いまだに隙あらば浮かんでくる胸のもやもやに顔をしかめる。さっさと解決しなければと思いながら、あれ以降一度も「カフェ・ごんざれす」に足を運んでいなかった。

(俺は杏ちゃんが――マジで好きだって、言ってんのに)

 何がマジだ。クソったれ。心の中で悪態をついたところで地下鉄の速度が落ちてきたことに気付き、私は荷物を肩に背負った。

 ふわふわと浮き世離れしていて、愛想が良くて、こちらの本音を容易く見透かされているような気分になる。一言で言えば、胡散臭い。私が一番かかわり合いを持ちたくないタイプだった。

「『だった』……か」

 自嘲じみた独り言がこぼれ落ちる。過去形。否定する理由はもうなかった。そうでもなければ、人混みにわざわざあのムカつく人影を探したりはしない。

 地下鉄駅から階段を上り終えると、既に辺りは夜に覆われていた。街灯や車の照明が賑わいを見せる上空では、星が朧気に瞬いている。

 日常を取り戻してすっきりしているはずの胸に、ぽっかりと空いている穴があった。

 職場での悪評を払拭した暁には、それも簡単に修復できると思っていた。それなのに――。

「……?」

 思考に飲まれる直前、私は不意に背後を振り返る。

 大きな通りを曲がれば、自宅マンションまで続く道は人通りも少ない。振り向いた先に人影はなく、木の葉が擦れる音が辺りに立ちこめている。細身のチノパンの端から覗かせた足首に、やけに冷たい夜風を感じた。

 嫌な、予感がする。

 大通りに引き返そうかと思ったが、どうにも後ろへ歩みを進めるのは具合が良くない気がする。考えた挙げ句、私は再びいつもの道のりを進み始めた。スニーカーを履いてくれば良かった。歩く度に音を鳴らす高めのヒールに眉を寄せる。

 いつもよりほんの少しだけ歩く早さを上げながら、自分の靴音とは違う気配がないか耳を必死にそばだてる。その最中、聞き流していた薫の忠告がふと頭をよぎった。

(気を付けろよ杏姉。さっきのセクハラ親父じゃねぇけど)

 背筋に、氷のように冷たいものが落ちてくる。まさか、音沙汰ないと思っていたオサワリ教授? それとも、あの噂に沸いた第三者か。

 不安が不安を呼び、混乱した足元が軽くもつれる。再度歩みを止めた膝は小さく震えていた。

「……ないない」

 考えすぎだ。振り返ってみる。ほら。やっぱり誰もいないじゃない。誰も、いな――。

「!!」

 息を大きく飲む。

 全身の毛穴が開き冷や汗が吹き出すのが分かった。頭に警告音のような耳鳴りが響いて、私は呼吸を忘れた。

 ひとブロック向こうの電柱の陰に、うごめく人影が見える。

「……あ」

 小声を漏らした私は、唐突に地面を踏み切り、全力疾走でその場を駆け出す。後ろの気配なんて構っている暇はなかった。

(俺じゃなくても良いから。危なくなる前に、誰かを頼れ)

 そんなこと言ったって。今この状況で、誰をどう呼べと言うの。

 途端、目と鼻の奥がつんと熱くなる。自分の身は自分で守る。そんなことを豪語していたのは自分のくせに。

「きゃ……ッ!」

 足元で嫌な音が弾け、途端にバランスを失う。

 済んでのところで迫りくる地面に手を付いたものの、両膝に鋭い痛みが走って顔を歪めた。

 ズボンが膝の辺りで擦り切れ、鮮やかな朱色がじくじくと滲み出ている。足先に転がる無惨に折れてしまったヒールの残骸は気に留める価値もないことだ。そんなことよりも――。

「……!!」

 じゃり、と丁寧に地面を踏みしめる音。

 セクハラ教授じゃない。黒のパーカーとジーンズに身を包んだ、細身の若い男。

 手元に小さな紙切れを持っているらしい。それと私を何度も往復させていた視線が、ぴたりと私を捉える。

 血の気の引く音が、聞こえた。

「小野寺、さん?」

「……っ、っっ!」

 必死に、目の前の男と距離をとろうとする。

 先ほど転倒した際にうまく動かなくなってしまった足を懸命に地面の擦りつけるも、まるで役に立ちそうにもなかった。

「はは、生意気そうな目だぁ。美人を鼻にかけてるって、一発で分かる」

 一歩。また一歩。粘着質な歩みで、男は確かに距離を詰めてくる。

 街灯の灯火が朧気に映し出したその瞳はどこか焦点が定まっていなかった。

 地面に付いた腕が戦慄いて、止まらない。

「こんなことになってごめんね。本当は僕も嫌なんだ。あんたみたいなストイックな人間も、別に嫌いな訳じゃない」

「あ、あ……っ、」

「でもねぇ、僕の姫からのお願い事だから」

 言い終わるや否や、男がおもむろにポケットに手を突っ込む。現れたものはありふれたライターだった。

 その蓋を弾いた男の手元に、ゆらゆらと微かな火が点る。

「あの子も本当困った子でね。わがままで大変なんだけど、僕しか頼る人がいないから。僕が願いを叶えてあげるしかないんだよねぇ」

 男は先ほどから手にしていた紙切れに火を移すと、小さな炎と呼べる大きさまで恭しく育て上げた。

 心底楽しそうな笑顔が不気味に浮かび上がる。心臓が、痛いくらいに胸を叩いた。

「すぐだからね。少し我慢すればいいから。ちょっと顔に焦げ目を残してもらうだけだから……ね?」

「……っ!」

 頭が可笑しい。何を言ってるんだ、この男は。

 いつの間にか濡れていた頬が、次第に温かく、そして熱くなる。

 危うげに揺らめく明かりが瞳ににじり寄ってくる。助けて。

 助けて。助けて。助けて。

 ……とう、ま……!

「ッ、う、いでででっ!!」

 恐怖に瞼を力一杯封じ込めた、次の瞬間。

 耳に届いたのは、街並みを揺るがすほどの男の呻き声。そして。

「暴れんな。もっと痛い目みたくなけりゃな」

 地を這うように低く男を諭す、胸を焦がすような声色だった。

「痛い痛い痛いっ!! だ、誰だっ、誰だぁっ!?」

「腰抜けが慣れないことするもんじゃねぇよ。ここに居合わせた奴がウチの店長だったら、間違いなく殺られてる」

「こ、このぉ……っ」

 壁に追いやられた男が、目を回したまま怒り任せに踊りかかる。その腕を慣れた手つきで筋違いにしならせると、男は面白いくらい簡単に地面に顔ごと倒された。

 圧巻のやりとりに、私はただただ目を見張る。

「……ま、」

 ぽつりと。

 忘れていた言葉が、口からこぼれ落ちる。明けた夜の露草から筋にならって、一粒の滴が落ちていくように。

 既に戦意を喪失しているらしい男になおも掴みかかる人影が、ゆっくりとこちらに振り返った。先ほどとは違う涙が、頬に新しい筋を作り出す。

「とう、まっ、透馬……っ!」

「杏ちゃん……!」

 殺気だった空気が、瞬く間に払拭される。必死の抵抗で髪も服も顔もぼろぼろになった私に、透馬の手が恐々と頭を撫で、ゆっくり身体ごと抱きしめた。

 甘ったるいミルクティーを思わせる薄茶色の髪の毛。真っ白なはずの手のひらが、今は血が沸くように真っ赤に染まっていて、酷く熱い。

 胸に張り巡らされた全ての緊張の糸が、丁寧に解けていくのがわかった。


   ***


 暴漢は知らない間に逃げ出していた。

 転倒した際に右足を挫いていた私は、透馬におぶさりながら「カフェ・ごんざれす」に運ばれた。

「杏ちゃん、そこに座ってて。今救急箱とってくる」

「……ん」

 吐息のような返答をし、早足で店裏に消えていく背中をぼうっと眺める。

 生まれて初めて、狂気に満ちた人間を見た。

 それは自分の考えの遙かに及ばない場所にあるのだと、今ならわかる。あんな淀んだ瞳に、たとえ何を訴えかけたところで無駄だった。

 恐怖が身を竦ませ、再び蘇りそうになる震えに慌てて身体を抱きしめる。呑まれそうになる思考に、何度も何度もかぶりを振った。

(……んちゃん。あーんちゃん)

 屈辱が蘇ってくる。気持ち悪い。

(早く言えって。言わなきゃコレ、この池に投げ込むぞ。いいのか?)

(ほら。言ってみろって)

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!

 近付くな。触るな。声変わり最中のガラガラ声が、逃げても逃げても耳にへばりつく。

 どうして、私が、こんな――……!

(――ンアンちゃん?)

「……気持ち悪い……っ」

「気持ち悪い?」

 いつの間にか戻って来ていた透馬が、はっと何か気付いたように手を打った。

「あ、もしかして吐きそう? この桶使う?」

「……違うよ。さっきの男のことが、気持ち悪いって言っただけ」

 呆れ半分に伝えながら、自分の口元にふっと笑みが戻ったことに気付く。

 胸を撫で下ろした様子の透馬が救急箱を置くと、包帯や消毒液などをせっせとテーブルに並べていく。まるで小さな病院かと思える品揃えに、私は目を点にした。

「昔は喧嘩っ早い知り合いの客層が多かったからさ。自然と救急道具が揃ってきちゃったんだ。最近はほとんど活躍してないけどね」

「昔?」

「うん。それはそうと、まずは杏ちゃんの手当でしょ。とりあえず一番酷いのは……脚か」

 向けられた視線に、私は無言で頷く。それなりの厚みがあったはずのチノパンが、今は膝元に見るも無惨な穴を開けている。当初は血で真っ赤に滲んでいた傷跡も、既に周囲が黒ずんできていた。出血を免れた箇所も、灰色に煤けている。

「滲みると思うけど、砂が残ると良くないから」

「ん。平気」

 床に腰を下ろした透馬は、無駄な動きひとつせず、黙々と治療を進めていた。挫いた右足を桶の水に浸からせ、消毒液を吹き付けた脱脂綿をそっと傷口に当てる。

 繊細な手つきに情を感じ、心の中に微かな温もりが灯るのを感じた。

「ひとまず膝は、これでいいかな」

「……」

「杏ちゃん?」

「ありがとう」

 こぼれ落ちた言葉に、薄茶色の瞳が大きく見開かれていた。

「助かったから。あのままだったら私、本当にどうなってたかわからない」

 あの男が取り出したライター。

 そこから生み出された炎が、熱を感じる近さまで寄せられた。

 透馬が現れたのがもう一瞬後だったとしたら。そんな考えが頭をよぎり、再び恐怖に胸がざわつく。

 無意識に胸を押さえつけていた右手に、冷たい感触が添えられた。いつもなら冷え性の私よりよっぽど、温もりに満ちているはずの透馬の手が。

「とう、ま……?」

「本当なら、ここで杏ちゃんのこと抱きしめたい。それで少しでも、杏ちゃんが安心できるなら」

「……!」

「出来るわけないよね。俺も、ほとんど同罪なんだからさ」

「え?」

 しばらく逡巡して、ようやくある記憶が蘇ってくる。

 思えば――透馬とこうして顔を合わせるのは、あのデートの時以来だった。

 途端、雨宿りの最中に交わされた「やりとり」がまざまざと思い返され、動揺に肩を強ばらせる。そんな私の反応に、透馬は寂しげに眉を下げた。

「償い、なんて。本当に勝手な自己満足なんだけど」

 先ほどまで桶水に浸かっていた右足に、そっと冷たい水がかけられる。

「俺がもっと早く通りかかっていたら、こんな怪我もしなくて済んだのに」

「っ、それは」

「杏ちゃんに辛い思いさせてばかりで。本当に……ごめ、」

「謝るなっ、この馬鹿!」

 腹の底から吹き出した叫びだった。

「私はっ、今っ、『ありがとう』って言ったの!」

「!」

「何か文句でもあるの!? あ!?」

「な、ないない! ない、です……けど」

「けど!?」

「ままま全く文句ないですッ!」

 首を高速で横に振る透馬に、私は大げさに鼻を鳴らした。それでもどこか懐疑心を滲ませた視線に気付き、私は長い溜め息を吐く。

「もう、いいから」

 精一杯の勇気を振り絞った。続けた言葉に震えが混じりそうで、そっと視線を逸らす。

「あの日のことは……許す。今日こうして助けられたから、言ってるわけじゃないよ」

 何か口を挟もうとしかけた透馬を、視線で制する。いいから。ちょっと黙って聞いておけ。

「確かにあの日以降しばらくは苛立ってた。でも実際、数日で怒りも冷めてたから。私自身、フェミニストのあんたに隙を見せ過ぎてたところもあるし」

 あの憎ったらしいキスマークも、三日と持たずに消え失せていたし、というのは心の中で付け加えた。

「杏、ちゃん」

「だからっ、そんなしょぼくれた顔してないでよ。馬鹿透馬」

 必死に言葉を紡いでいる自分が、私自身よくわからなかった。引きの態度に出ている奴に、調子が狂わされているのかもしれない。

「今まで通り、杏ちゃんに話しかけても……いい?」

 図られたような上目遣い。だから、そういう目はやめろって言うのに。

「うざったくない程度ならね」

「また、M大図書館に借りに行っても?」

「利用者の自由を奪うつもりはないよ」

「……っ」

「……? とう、」

 ま、と続ける前に、「はぁ~……っ」という笑い声にも泣き声にも聞こえる溜め息が奴の口からこぼれた。

 顔が伏せられていて、その表情を見ることが出来ない。

「嫌われたかと思ってたんだ」

「!」

「杏ちゃんに、嫌われたと思ってた。だから――、」

 すっげぇ……嬉しいよ。俺。

 告げられた直後、微かに上げられた顔。

 そこには紅潮した頬に加えて、緩みきった笑顔が浮かんでいた。いつも飄々としているこいつには似合わない、感情をそのまま乗せたような笑顔だった。

「……良かったね。大好きな『杏ちゃん』に嫌われずに済んで?」

 何と口にすればいいのかわからず、つい憎まれ口が出てしまう。

 透馬は一瞬目を丸くしたものの、次の瞬間には柔らかな眼差しを向けてきた。

「うん。大好きな杏ちゃんに嫌われなくて、本当に良かった」

「……っっ」

 畜生。墓穴を掘った。

 一言一言を大切に噛みしめるような奴の返答に、頬が燃えるように熱くなった。

 しかしながら一方で、こんなやりとりを予想していた自分にも気付いていた。

 こいつが出会ってから、ずっと抱いていた疑問を投げつけるために。

「どうして、私なの」

 独り言のような呟きは、夜遅くの店内に染み込んでいく。

「正直、出会ってこんな短期間で、ここまでご執心にされるのが腑に落ちない」

 敏いこいつのことだ。後腐れない夜の相手くらい容易に見分けることは出来るだろう。

「ただの気紛れじゃないの? それとも、前に何処かで会ったことがあるとか……」

「……うーん」

 痛いところを付かれた。そんな表情を浮かべて、透馬はしばらく口を閉ざした。

 時折右足にかけられる水の音が、店内に控えめに響く。

「幻滅されたくないから」

 小さく囁かれた言葉は、思いがけないものだった。

「出来ればこのまま、曖昧でも側に居れたらって思ってた。その中で少しずつでも、俺のことを好きになってもらえたらって……そう思ってた」

「それは、どういう……」

「気紛れなんかじゃない」

 凛とした空気。息をするのもはばかれる雰囲気に、胸がやけに緊張する。

 唇をぎゅっと噤んだ。

「俺が初めて杏ちゃんに逢ったのはね。二年前の――」

 ピリリリッ……ピリリリッ……。

 やけに耳に届く機械音が、張りつめた空気をあっさりと払拭した。

 私の着信だ。好機を遮った己の所有物に眉をしかめる。

「はは。出て。杏ちゃん」

「……ん」

 決まり悪くて顔を伏せながらそそくさとスマホを取り出す。

 先程の暴漢のこともあり一瞬画面を見ることをためらったが、表示された名前にどっと肩の力が抜けた。

「なんだ。中吉ちゃんか」

「中吉?」

「職場の後輩。でも何だろ。こんな遅くにかけてくるなんて」

「その後輩さ」

 唐突にスマホに伸ばした手とは反対の手を掴まれる。非難の視線を向けた私だったが、逼迫した透馬の様子にそれも削がれてしまう。そして、何よりも――。

「もしかして……名前は、『姫乃(ひめの)』?」

 確信的に質された、その名前は。

「違うけど……それ、一体誰の名前――」

(あの人のことは、もういい)

 次の瞬間、フラッシュバックした無感情な声色に、記憶の底をかき混ぜられたような感覚に陥った。

 何? 誰の声?

 頭がぐるぐる重く回って、意識が遠退きそうになる。

(姫乃……っ) 

 スマホから鳴る着信音は、いつの間にか潰えていた。


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