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第二章 再会、司書、幼馴染み。

 第二章 再会、司書、幼馴染み。


 恋愛経験が多いとか少ないとか、その比較に一体何の意味があるのだろう。

 今日更衣室で同僚たちが話し込んでいた話題を思い、私は溜め息を吐いた。

 帰宅ラッシュが収まった地下鉄は、本を読むには十分なスペースがある。でも今日はダメだ。何だかとても疲れてる。

 再び瞼を開いたときには、既に電車は自宅の最寄り駅に到着していた。直結デパートで食材を購入がてら、私は缶チューハイを一本追加した。今夜は少しくらい良いだろう。

 明日は奈緒と交わした、気の進まない「約束」があるのだから。

「うわ。雨?」

 デパートを出てみると、一帯は霧のような小雨が立ちこめていた。

 頭が何となく冴えないのはこのせいだったか、と納得する。昔から低気圧に弱いのだ。

 鞄から運良く見つけだした折りたたみ傘を広げ、家路を急いだ。

 さっさと帰宅して、シャワーを浴びよう。そしてご飯を作って、頭痛薬を飲んで、パックをして、奈緒に明日の時間のメールを――。

(杏ちゃんはさ)

(自分が美人だってこと、よーく分かってるタイプだよね)

 咄嗟に背後を振り返る。空耳だ。ああ嫌だ。

 ムカつくほどに整った顔立ちと、精巧な演技力。あのスペックを併せ持てばなるほど、幾多の女の子を虜にしてきた奴の経歴も納得できる。

 ……それが何をもって私に矛先を向けたのかは、全く理解できないが。

(ええっ、小野寺先輩、誰ともお付き合いされたことがないんですかぁ!?)

 関係ねーだろ。

 先ほど更衣室で口にしかけた言葉は、済んでのところで飲み込んだ。余裕のない返答はあまりに大人げない。

 少々抜けてて空気が読めないとはいえ、中吉(なかよし)ちゃんは可愛い我が後輩だ。

中吉美貴(みき)です! 皆さんとナカヨシになれるように頑張りますっ! なんちゃって!」という自己紹介で周囲を固まらせたのは記憶に新しい。

 あのくらい明け透けなければ、自分も少しは女としての幸せを手に入れることが出来るのかもしれない。

「ま。無い物ねだりかな」

 さめざめと道路を湿らせていく雨雲を見上げる。マンションの角を曲がり、マンションの鍵を手にしたときだった。

杏姉(あんねえ)!」

 あん、ねえ。

 空耳じゃなくちゃいけない声が、住宅街一帯にこだました。

 手から滑り落ちた鍵が、地面に小さく弾ける。

(かおる)……?」

「はは。……久しぶり。杏姉」

 二年前の出来事が嘘みたいに、生意気そうに笑う薫がいた。


 私の五つ年下の宮古(みやこ)(かおる)は、実家が隣の幼馴染だ。

 母親が友人同士だったこともあり、幼い頃からまるで姉弟のように育った。

 特に薫のおばさんは私のことを可愛がってくれ、今でも私のひとり暮らし心配し、気をまわしてくれている。

 でも――薫とは。

(今年の春から、こっちの大学に編入してきたんだ。そしたら母さんから、杏姉がひとり暮らしをしてるって聞いてさ。待ち伏せっつーか)

(元気にしてんのかな、とか思ってさ)

「……まったく、小癪な」

 この二年間、ひとつの連絡すら寄越さなかったくせに。

 網戸も開け放った窓先は、夜風が髪を撫でて少し肌寒い。

 身体を壁にもたれかけたまま白い月を眺め、手にしていた缶チューハイをゆっくりと口に運んだ。口の中で小さく弾ける炭酸に静かに耳を傾ける。

 あれから、もう二年。

 薫は後悔しただろうか。私と同じように。

 カツン、と缶が歯に当たり、チューハイが空になっていることに気付く。空き缶をゆらゆら危うげに揺らした後、腕を一杯に伸ばした。

「負けてやるものか」

 化粧落とさなくては。明日も朝早い。

「負けん!」余計にもう一つ叫んで、私は室内に戻った。


   ***


「うっわああ~。実際来てみると本当に可愛いっ、カントリーチックなお店だぁ!」

 やはり、奈緒の好みど真ん中だったらしい。

 先日の飲み会で軽く交わしていた「今度連れていく」の約束を、酔っ払い子リスは意外にも忘れていなかった。

 しかしながら、もはや「誠実」の一言で済まない人物だと判明した栄二さんと種蒔き馬鹿男のふたり。どう考えても、大切な親友にお薦めする物件ではない。

 一応店の名誉を考えて詳細は伏せつつも、彼氏候補は他をあたった方が良い旨を電話で力説した。しかしながら結局、一度火のついたちびっ子の好奇心が止まることはなかった。

(あれから気になって「ごんざれす」でネット検索してみたのね。そしたらも~っ、外観やらメニューやら装飾やら、何から何まで本当に可愛かったんだもん! ぶっちゃけ男のことなんてどうでもいいからさ。一回連れてってよ、杏! ねっ?)

 電話口でそうぶっちゃけられた私に、約束を放棄する術はもはやなかった。

 先日の飲みでは何かに憑かれたような目をしていた奈緒も、今は瞳をきらきら輝かせて頬を紅潮させている。

 そんな危なっかしい友人に対して私は、店先に至るまで口が酸っぱくなるほど同じ忠告をした。

 一。店内では他のお客さんのご迷惑になるので大声を上げないこと。

 二。口の中に物を入れているときにお喋りをしないこと。

 三。関透馬という爽やかイケメン店員(と言っておく)には関わりを持たないこと。

 四。栄二さんという店長との会話は(何が引き金になるのか未知数なので)世間話程度に留めること。

「特に三は必ず守ってよ? 私はあんたを、馬鹿男の毒牙にかけさせるために連れてきたわけじゃないんだからね!」

「ねぇねぇ杏! ここにお店と同じデザインの犬小屋がある! もしかしてワンちゃんもOKのカフェなのっ?」

「それは知らないけど、店の看板ワンちゃんならいるよ。っていうか人の話を聞きなさい」

「いらっしゃいませ。今日は友達も一緒だね、杏ちゃん」

「……」

 出た。

 覚えのありすぎる物腰柔らかな声色に、私はひくりと口角をひきつらせる。

 案の定、目の前にいる奈緒が「わあお」と満更でもない反応を示していて、心地良いお天道さんの真下なのに頭が痛くなる。だから人の話を聞けって言ってんだろうがおい!

「へええ。確かに爽やかイケメン店員さんですねー! はじめまして、杏の友達の鈴枝奈緒です」

「はは。爽やかイケメン店員の関透馬です。杏ちゃんとは純粋なお友達の関係です」

「は?」

 誰が友達だ。言葉より雄弁に語っていたらしい視線に、透馬は白々しく首を傾げる。

 やはりこのまま店に入らず、速やかに立ち去るとしよう。決意を固めかけた、その時。

《友達になりませんか》

《セフレじゃない。純粋な。友達に》

 いつの間にか取り出していたらしい奴の携帯電話から、身に覚えのあり過ぎる台詞が再生された。勝ち誇ったような声色も、その内容も。

 ぽかんと呆気に取られる奈緒を尻目に、私は思わず目を剥く。

「ちょ、今のは……っ!」

「ほら。確かに、杏ちゃんから言ってくれたよね? 友達になろうって」

 同意を求めてくるつぶらな瞳。

 だがその中に、からかいの色が滲んでいることに私は気付いていた。

 奴の携帯電話から思いがけず流れ出た音声は、紛れもなく私の声。わざわざひと気のない場面で投げつけてやった台詞をコイツ、いつの間に録音してやがった……!

「楽しそうな事柄は、何でも記録しときたがる性分なんです」

 口をパクパクさせたまま言葉を失う私に、奴は極上の笑顔を向けてきた。

「ようこそ。『カフェ・ごんざれす』へ」

 紳士的な先導に跳ねるように付いていく奈緒の背中を、私はぼんやり見送る。

 前途多難の文字をはっきりと目にした気がした。


「……」

「……黙りこむなって。奈緒さんや」

「だって! その幼馴染み、東京の大学に行ったんじゃなかったの!? まだ二年しか経ってないよね! こっちの大学に編入って……何それどうして!?」

 予想しえた奈緒の反応にどこか安堵しながら、きたばかりのオレンジティーで両手を温めた。カップの底から顔を見せたオレンジを、スプーンで軽くつつく。

「まったくね。そんで編入先は、私が勤務してるM大だって。薫のおばさんから電話で聞いた」

「はー!? ますます不自然なんですけど! 幼馴染みだからって勝手し過ぎ! 大体、今まで杏に何のフォローもしなかったくせに……っ」

 小声でも語気を荒げて不満を露わにする。私以上に眉をしかめる奈緒を見て、あの時と同じだなと思った。

 薫に無様に失恋した――二年前のあの時と。

「ありがとう、奈緒。でももう平気。さすがに昨日はいろいろ考えちゃったけどさ」

 昨日突然再会した薫を思い返す。

 以前と比べると、幾分か大人びた面影。髪は信条を曲げずに黒のままだったが、全体的に少し長めになっていた。体躯を見る限り、バスケは続けているんだろう。

「杏……ほんとに、平気?」

「うん。ほんとに平気」

 紅茶に口を付けながら告げた言葉に、奈緒はようやく背もたれに身体を預けた。

 いまだ口の中でぶつくさ文句は続いているようだったが、香り漂うチョコラテの甘味にそれも吹き飛んでしまったらしい。

 奈緒の花のような笑顔は、昔と何も変わらない。

 私は……何か、変わっただろうか。

「失礼します。こちらも、宜しければお召し上がり下さい」

 店内に入ると同時に装着された、よそ行き仕様の丁寧語。

 我に返るとテーブルには数枚のクッキーが置かれていた。薄い湯気をまとった姿は、焼きたてとすぐにわかる。

「わー! いいんですか? ありがとうございますっ、美味しそう!」

 能天気に拍手を奏でる奈緒と同意見ではある。しっとりと艶が出た表面が、とても食欲をそそる。

 それでも、奈緒が一枚目にかぶりついている横で、私はじっと奴の真意を探った。奴は笑みを刻む。こんな反応を返されることは分かっていた、とでも言うように。

「開店直後でお客さんが少ない時間帯だけの、特別サービスですよ」

「は?」

「栄二さん考案。また来てくれますようにって願いが込められてるだけです。安心してくださいね」

 あの、栄二さんの願掛けか。

 何かとてつもない魔力が秘められている気がする。

「杏も食べなって! 美味しいよ~、ほっぺた落ちちゃうくらい!」

 だってほら。早速その魔力に憑かれて目を輝かせているアホの子が、すぐ隣にいるもの。

「こんなに美味しいもの食べたら、あのクソ馬鹿幼馴染みの事なんて綺麗に忘れちゃうって! 杏、はい。あーん」

「っ、ちょっと奈」

 緒。と言いかけ、口はそのまま温もり豊かなクッキーに塞がれる。

 舌に置くと同時にじわりと広がる甘い温もりが、強ばった肩を静かに下ろしていった。

 確かに美味しい。それでも、奈緒の発言のお陰で、本来の味をじっくり堪能することができなかった気がする。

「ねっ? 美味しかったでしょ?」

 無邪気に尋ねる小動物に、ひとまず頷いておく。何となく……視線が上げにくいんですが。

「幼馴染み……ね」

「ッ!」

 小さく、でもはっきりと紡がれたそれは、間違いなく「素」の奴が呟いたものだった。

 奈緒に忠告事項の追加をしなければならぬ。

 五。コイツの前で、私に関する情報は一切流してはならない!!

「それじゃあまた。栄二さんにはお喜びだったとお伝えしておきますね」

「っ、え」

「どうぞごゆっくり」

 会釈する奴の頭のつむじを、私は無言で眺めていた。

 笑顔のまま引き返していった奴は、次の皿を持ち別の卓へとせわしなく動き回っている。抜かりない接客対応は、栄二さんの指導の賜物か。

「何よ奈緒。その視線」

「むふ?」

 にやけた笑顔を隠せてない。

 頬袋を膨らませながら何か言いたげにこちらを見る奈緒のおでこを、私は窘めるように指で突いた。

「むふふ。透馬くん、男前だねぇ」

「奈緒……あんたはもっと見る目があるかと思っていたよ」

「お店に入るときに言ってたんだ。杏が、少し元気ないみたいだって」

「え?」

「さすがウェイターさん。すごい千里眼だね~」

 暢気にチョコラテをすする友人の言葉に、視線をゆっくりと上げる。その先には男性客と談笑している奴の姿。

 まあ、見てくれは本当、整ってるんだよね。無意識に心の中で独りごちる。

 奴の細やかな気遣いで絆される女性も少なくはないだろう。私も今だけは珍しく、そんな気遣いが心に沁みた。

「……ん?」

 何気なく奴のことを眺めていた私は、思わず目を瞬かせた。奴と語らう男性客が鞄から取り出した一冊の本。

 それを目にした奴の顔色が、僅かながらも確かに変化したのだ。


「奴はああ見えて本に並みならないこだわりがあるんですよ」

 程なくして厨房から顔を出した栄二さんはそう語った。

 今日は例の夜とは違い、ホワイトバージョンの栄二さんの口調に胸を撫で下ろす。しかし、その回答はにわかには信じがたかった。

「奴には本よりも、女の尻を追いかけてるイメージなんですが……」

 奴が厨房に消えていることを素早く確認した後にそう口にした私に、栄二さんは小さく吹き出した。

「一応、店内の黒板にも書き出しているんですよ。あいつの個人的なお尋ね書籍」

 支柱に吊された黒板を覗くと、確かに様々な広告に紛れて手書きの紙が貼られていた。

《以下の書籍をお譲りいただけるお客様は、店内スタッフまで》と始まり、下には出版年ジャンル共に様々な書籍情報が記されている。

 そして、最後の書籍の記載のみが特に強調するようにラインマーカーで引かれ、横に赤字加え書きがされていた。

《上の書籍、言い値で買い取りいたします! 関》

「おおかた、先ほど話していたお客さんの書籍が、奴の探し続けているそれに似ていたんでしょう。あいつ、余程この書籍を手に入れたがっていますから」

「へぇ」

 本に執着するなんて。

 その割には最初書店で手に入れたあのサイン入り新刊はやけにあっさり手放したようだけど、確かに筋がね入りのようだ。

 今一度黒板を振り返った私は、ラインマーカーで示された書籍情報を人差し指でゆっくりとなぞる。書籍名、出版年度、出版社、大まかな内容を頭の中に刻み込んだ。学術書中心のうちの大学図書館にはたぶん無い。あるとすれば市民図書館……古書店かはたまたネットか――。

「小野寺さん?」

「あーあ。ダメですよ?、栄二さん」

 怪訝そうな栄二さんと楽しげな奈緒の声がする。

「本へのこだわりなんて言っちゃあ。負けず嫌いなんだから。杏チャンは」

 さすが十年来の友人。口角に静かに浮かび上がった微笑。

 全く、奈緒の言う通りだった。


   ***


「小野寺さーん。お昼行きませんか……って、ありゃ。もしかして、レファレンス中でした?」

 蔵書検索ホームページを洗い出す手がぴたりと止まる。

 一瞬パソコン画面を隠そうとして、やめた。これも立派な蔵書検索依頼――つまりレファレンスだ。勤務時間内でも問題はない。

「うん。もう少しで終わるから、先に行っててもらえるかな」

「わっかりましたー!」

 敬礼付きの返答を残し、後輩の中吉ちゃんがスキップするように事務室を後にする。その背中を見送った後、私は腕を目一杯に伸ばして脱力した。

 奴が血眼になって探しているという書籍探索――個人的に言い表すと「お姫様探し」――は、意外にも困難を極めていた。

 職場の大学図書館に無いことは想定の範囲内だった。

 続いてネットからお姫様の正確な書籍名および著者名を洗い出し、書籍のデータベースの要であるISBNを書き留める。近隣の市営図書館や学校図書館、ネットで検索できる古本屋の蔵書までも確認してみたが、いずれも結果は芳しくなかった。

 周囲に人気がないのをいいことに大きく舌打ちをする。

「絶版っていうのは、どうやら本当か……」

 調べていくうちに知り得た情報。歴史ある図書館をしらみつぶしに探してみたが、お姫様は相当に隠れん坊がお好きらしい。

 奴はこの本に、どんな思い入れがあるというんだろう。

 小説でも実用書でも参考図書でもない。作者の歴史見聞がまとめられた二十年も昔の書籍だ。もしや、私のレファレンス能力を試すための罠だったりして。

「なんて、自意識過剰か」

「小野寺さんーっ! 大変! 大変ですよ~!」

「ッ!」

 先ほど出ていったはずの中吉ちゃんが、唐突に再び作業室に飛び込んでくる。

 再度舌打ちを響かせようと思った矢先、心臓が大きく飛び跳ねた。

 やばいな。最近の自分はやけに隙が多い気がする。例のカフェで変に油断が生まれているのだろうか。

「どうしましょう小野寺さんっ! 大変なお客様が来ちゃいました!」

 あー。心の中で疲弊の声を上げる。

 恐らく、いつものクレーマーおばさんか構っておじさんだな。状況を飲み込んだ私は、慌てふためく後輩を笑顔で宥めた。

「あのお客さんはしつこいし時間もかかるしで手強いからね。任せて」

「は、はいっ!」

「ご健闘を!」

 叫ぶように口にした中吉ちゃんに苦笑しながら、私は窓口に歩を進める。

 急ごう。処置が遅れるのは色々と面倒だ。

 息を整え背筋を伸ばし、窓口前に立つ人影に声をかけようとしたが――。

「よ。昼メシ、まだだよな?」

 その人影の正体は、ここ数日間姿を目にすることはなかった人物で。

「あー……ほらっ! 昼の弁当、どうせ同じ大学なんだからって、母さんが二人分作っちまったんだ。杏姉にも渡すようにって」

「……」

「杏姉の好物。出汁巻き卵も入れてあるって。だからさ」

 昼、一緒に食べねぇ?

 尻すぼみに告げられた幼馴染みからのお誘い。

 そして何より周囲から注がれる驚愕と好奇の視線に、私は今度こそ盛大に舌打ちをかましたくなった。


「昼前から張り込んでたんだよ。杏姉の後輩? みてーな子に呼び止められるまでずっと」

「なのに杏姉、なかなか出てこないんだもんよー」ぼやきながら手元のおにぎりを頬張る薫が横にいる。

 こやつの話を総合すると、二限目開始時間あたりからずっと図書館の入り口横に座り込み、私のことを待ち伏せしていたらしい。

 中吉ちゃん、頼むから天然の尾ひれを付けた噂話を拡散させてくれるなよ。無駄な願いと知りつつも願わずにはいれなかった。

 人目を憚って決めた場所は学部棟の外れ。ベンチの周りには人っ子ひとりおらず、安堵の息をつく。

 そんな私をよそに、このバスケ馬鹿は何とも暢気なものだ。いつの間にかお弁当の半分以上が消費されている。

 こめかみに痛みを覚えながら、私は手渡されていたお弁当のふたを開けた。途端、時が逆流したかのような錯覚に呑まれる。

 薫のおばさんに作ってもらったお弁当の彩りは、昔とちっとも変わっていなかった。いつもの定位置につめられていた出汁巻き卵をそっと頬張る。味も食感も学生の時に戻ったみたいで、思わず頬が緩んでしまう。

 きっと、二年ぶりに帰ってきた息子のために腕によりをかけたんだろう。おばさんらしい喜びの表し方だ。

「うまい、か?」

「……!」

 そしてようやく私は、お弁当箱の中でこちらを窺っているりんごのウサギに気付いた。

 先端が小さく欠け、左右の大きさが違っている耳。その不格好なウサギには覚えがあった。

 例えば、誰かさんと喧嘩した翌日。

 例えば、誰かさんの前で泣いた翌日。

『ごめんな』『元気出せ』まるで誰かさんが口にできない言葉を代弁するように、いつもちょこんとこちらを見上げていたのを思い出す。

「……ん。美味しい」

「! そ……そっか。美味いよな。うん」

「りんごはイマイチだけどね」

「ん、なッ!」

 悟られたことを、悟られたらしい。

 勢いよく振り向いた薫は、大きな瞳をさらに丸め頬は真っ赤に染まっていた。

 それでも、言い返したい反論を無理やり抑え込んでいるらしい。似合わないことを。

 悔しそうに髪の毛をくしゃりと押さえつける横顔も、口をへの字にして押し黙る仕草も。そんな幼馴染みとの時間は、本当に久しぶりだった。

「……ふふ」

 肩の揺れを押さえきれず、気付いたら私はくすくすと笑っていた。

 笑いながら、目尻に浮かんだものを指のひらに隠す。

「何だよっ! なに笑ってんだよ杏姉……!」

「だって誰かさんがやけに腰が低いんだもん。気持ちわる」

「気持ち悪いだあっ!? どういう意味だコラ!」

 嬉し涙だった。

 薫もまた、後悔して苦しんできた。

 そして何より、またこうして会いに来てくれた。それを伝えにきたのだと知って。

「にしてもよー。杏姉が本好きなのは知ってたけど、まさか図書館のおねーさんになってるとはなぁ」

 すっかり調子を取り戻したらしい薫に、「おねーさんじゃなくて司書」と短く訂正する。「秘書?」「司書」馬鹿なところも相変わらずだ。

「杏姉は昔から本ばっかだったもんな」

「おじいちゃんがいたからだよ。よく連れていってもらったから。おじいちゃん秘蔵の書籍館」

「あー。町の外れにあるやつな」

 殊勝にも覚えていたらしい。

 とはいえ当時小学校低学年だった薫は、私が夢中で本を読み耽ている傍らで、早々に寝息を立てているのが常だったが。

「じーさんもよく本の為に別荘なんて買ったよな。あそこは結局どうなったんだっけ?」

「亡くなったおじいちゃん名義のまま。将来的に私が継ぐよ。社会人になってそこそこだし、いい頃合いかもね」

「ははっ、さすが。本の虫の孫」

 からかいを含んだ笑い声をあげる。

 おじいちゃんのような年輩者にも物怖じしない様子の薫の横で、私はふと、遠い日のある記憶に焦点がぴたりと重なるのを感じた。

 そうだ。

 まだおじいちゃんが生きていた頃、知り合いの人からやけに難解な書籍探しを何度か依頼されているのを見たことがある。まだ今みたいに、ネットも管理システムも構築されてない時代だ。

 おじいちゃんは依頼された書籍を、どうやって見つけてたんだっけ――?

「また、見に来いよ」

「は?」

「だーからっ、ほら! バスケの試合ッ!」

 こちらが考え事に沈みかけていたとはいえ、薫の話が唐突に飛ぶのも相変わらずだ。それでも表情に若干の照れが含まれているのは、二年の歳月のためだろうか。

「こっちのバスケ部入ったんだ。すでにレギュラー候補。当たり前だけどな」

「候補で胸を張るな。バスケ馬鹿」

 軽口を返すも、薫の実力はちゃんと理解している。

 小さい頃からひたすら本の世界に魅せられていた私と同様、薫も小さい頃からバスケの魅力に憑かれていた。

「バスケ馬鹿上等! 言っとくけど、杏姉が知ってる俺よりもさらにレベルアップしてるから。心して観戦に来るがいい!」

 行くこと前提の話しぶり。それでも、きらきら輝く子供みたいな笑みは、理屈も超越する力を秘めている。

 こいつは昔から、こういう奴だった。

「変わらないね。薫」

 薫の箸が止まる。ゆっくりと細められたその瞳が、胸の奥に懐かしい温かさを灯した。

「そりゃ、杏姉もだろ」

「ふふ。そっか」

「……会えて良かった」

 不覚にも胸が詰まった。

 私も全く、同じことを言おうとしていたから。


   ***


 薫との会話中に思い出した昔の記憶は、「お姫様探し」の思いがけない道しるべになった。

「駅前通りからひとつ、ふたつ、みっつ……ってことはやっぱりこの辺のはずだよね」

 誰に問うわけでもなく、地図とにらめっこをしながら私はひとり細道を進んでいく。

 本がなによりの娯楽だった、今は亡き私のおじいちゃん。

 おじいちゃんは、まだ幼い私を引き連れて本が集う様々な場所に連れていってくれた。その中でも特に記憶に残っている、あのお店。

 おぼろげな記憶の中を辿り歩いた私はようやく、街の喧噪から身を引いた細道に、覚えのある風景をみつける。

「っ、この建物!」

 古さを喜んで染み着けたような木造の壁に、メッキが剥がれ欠けたとたん屋根。おじいちゃんの旧友が経営する、知る人ぞ知る町外れの古書店だった。

 突破口を見出せない奴の「お姫様探し」解決の一抹の望みを託し、私は歩みを進める。


「この古書店はなぁ……、もう何年になるかなぁ……」

 行き着いた先で教えてもらったのは、不思議でも何でもない事実だった。

 古書店の看板が外されていることには、お店の前まで来てすぐに気付いた。それでも期待と懐かしさで辺りをきょろきょろと見回していたところを、気の良さそうなおばさんに声を掛けられた。

 古書店「元」店主の娘さんだった。

「父さん。五年前でしょ、お店を閉めたの。ごめんなさいねぇ、お茶くらいしか出せなくてねぇ」

「いいえ。どうぞお構いなく……」

 あれよあれよと案内された居間の座布団に正座する。

 すぐに姿を見せた元店主のおじいさんは、確かに記憶の中の面影のままだった。私のおじいちゃんに比べて目尻が柔らかく、額が少し前に出ている。

 ゆらゆらと風に漂うように身体を揺するおじいさんに、私は改めて深く頭を下げた。

「突然ご訪問で、本当に申し訳ありません。祖父との記憶を辿ってここまで足を運んでしまって……その節は祖父がお世話になりました」

 頭を下げると、おじいさんは間を空けながら「うん。うん」と満足げに頷く。

 代わって明るく返答をしたのは、傍らに控えていた娘さんだった。

「いいんですよぉ! 父さんもほら、最近は全然人と話す機会もないもんだからねぇ。店のことも覚えててもらって、喜んでますよ。ねぇ、父さん!」

 話を振られたおじいさんは、先ほどと同じように「うん、うん」と身体を揺らした。

 最愛のおじいちゃんが亡くなったのは、私が高校一年の時。

 それから約十年間、この古書店には一度も足を向けることがなかった。永遠とも思えたあの時間も、時の流れに変化を余儀なくされてきたのだと実感する。

 微かに沁み入る切なさを胸に秘め、私は湯呑みに口を付ける。さらに深まった目尻の皺に気付き、笑顔で応えた。

「でも凄いわね~。書籍探しにわざわざこんなところまで? 熱心ね。きっとすごく大切な捜し物なんでしょうねぇ」

 笑みを絶やさずにお茶を啜る娘さんに、私は曖昧に笑ってみせた。まさか天敵を一泡吹かせるための秘策とは言えまい。

 しかしながら、ここまで足を運んだことは無駄ばかりではなかった。十年ぶりに、おじいちゃんの記憶と散歩することが出来たから。

「お忙しいなか本当にありがとうございました。私、そろそろ――、」

「何という本かな」

 有無を言わせない厳かな口調に、続くはずだった言葉が途切れた。

「何という本かな」

「……あ、でも、もうお店は」

「ふふっ。教えてあげてくれる?」

 隣の娘さんに促され、慌てて記録用のメモを取り出す。

 おじいさんの目は先ほどからほとんど開かれていない。きっと視力が低下しているんだろう。

 耳を研ぎ澄ますように待ちかまえているおじいさんに、刺繍を丹誠込めて縫いあげるように読んで聞かせた。これまで辿ってきたお姫様についての、すべての情報を。

 そしてしばらくの間、おじいさんは相変わらず身体を揺すりながら沈黙を守る。ともに口を閉ざしていた私に、おじいさんはようやく笑いかけてくれた。

善治郎(ぜんじろう)さんはなぁ。まったく、難儀なお子ばかり求めにくるわ」

 善治郎。私のおじいちゃんの名だった。

佐和子(さわこ)。十二番の棚の、二段目の奥から九冊目の様子を見てきなさい」

 淀みなく告げられた。

 呆気にとられたままの私に、娘さんは誇らしげな笑顔を浮かべて腰を上げた。


   ***


「すみません。あいつ、今日は休みを頂いているんです」

 いつもなら歓喜の笑みを浮かべるはずの情報を、まさかこのタイミングで耳にするとは。

「カフェ・ごんざれす」に訪れてすぐさま耳に入った事実に、私は分かりやすく落胆してしまったらしい。すぐに取りなして注文を済ませたものの、栄二さんは終始こちらを気にしてくれているようだった。

 奴が捜し求めていた「お姫様」――折角報告してやろうと思っていたのに。

 今日は午後からの開店だったためか、人もさほど混みあってはいなかった。

 いつものソファー席に腰を沈める。途端、かみ殺せなかったあくびが口から漏れ、慌てて手を添えた。

 一日中歩き回っていたから、知らずのうちに疲れがたまっていたらしい。

 手元にすり寄ってきたゴンちゃんに気付き、微笑みかける。温い頭を撫でているうちに、動きが緩慢になっていく自分に気付いていた。

 やっぱり、疲れてる。早く甘味とカフェインで癒さなければ。

 薄いレースから零れる春の日差しが、やけに温かかった。


「杏ちゃん? 起きてる?」

 緩やかに開けていく視界。

 かけられた声の主を咀嚼するうちに、まどろんだ意識が徐々に浮上してくる。

 膝に掛けられた手触りの良いブランケット。体温を移し終えたソファーの背もたれに、私の身体はすっかり埋まりきっていた。

 眩しかった日差しはすでになりを潜め、オレンジがかった電灯が店内を控えめに照らしている。

 何より、先ほど私を夢の世界から引き上げた聞き覚えのある声は――。

「ああ。起きてるね。失敗した」

「は?」

「無防備な杏ちゃんの寝顔。とっとと写メしときゃ良かったな」

「……」

 死ね。物騒な言葉を胸の中で吐き捨てる。

 こんな奴のために今日一日を費やしてしまったことに、一抹の後悔が宿った。

 ……というか此処、どう見てもカフェだよね……?

 とっぷりと夜に浸かった外の光景を目にして愕然とする。店内の一角で図々しくも寝こけてしまったという事実が、自分でも信じられなかった。

「気にしないでいいよ。今日はそんな人が来なかったっていうし、もともと十九時で閉店予定だったから」

「っ、今、時間は」

「閉店三十分前。おはようございます。お客様」

 見透かしたような台詞と、朗らかな笑顔。そんな奴の過剰な気遣いに、不本意にも救われた気がした。

 ただ、それを見透かされるのが悔しくて。

「――っ、これ!」

「へっ?」

 目を丸くした奴に、地味な無地の茶封筒を慌てて差し出した。

 もっと優位に立ってから手渡す予定だったのに。カサカサと封筒を開ける音に遅れて、息を呑む気配がする。

「この本は」

「貢ぎ物じゃないからね。ただの、お返し」

「え?」

「……サイン本の」

 口にするつもりはなかった。でももう後には引けない。

 本探しは司書の性分だ。決して嘘ではない。

 でもそれ以上にこんなにいい方法はないと思ったのだ。奴への借りを無しにする、またとない機会だと。

「貰いっぱなしは、性に合わないから」

「……」

「何か言えよ」

「……杏ちゃん」

 こぼれ落ちた呼び名に、ようやく互いの視線がかち合う。

「本当にありがとう。昔に読んだ本で……もう、半分以上諦めてた」

 驚きに遅れた喜びが、奴の顔にじわじわと広がっていく。心なしか頬も仄かに赤い。

「大切な、本なんだ?」

「うん。すごく」

「そっか」

 良かった。素直にそう思えた。

 胸を強ばらせていた緊張の糸が、撫でるように解けていく。ようやく出会えたらしい「お姫様」の表面を幾度となく撫でる指が、とても愛おしげだった。

 はじめはただ、こいつを見返してやろうと思って始めた「お姫様探し」。まさかこんな結末になるとは思っていなかったけれど……本当に、良かった。

「俺も、良かったよ」

「えっ」

 口に出てた? 眉をひそめる私に、透馬は心底嬉しそうに肩を揺する。おもむろにこちらの視線にあわせて覗き込む奴の顔に、身を引くのが遅れた。

「杏ちゃんの笑った顔。こんなに間近で見ることができた」

「!」

「もしかしたら一生、拝むことはないのかなぁとか思ってたんだ」

 だから、喜びも二倍だな。

 表情が温かな幸福に彩られる。

 咄嗟に反論しようとした私の口からは、結局言葉は出ることはなかった。

 これも、奴の策略か? 幾度となくよぎった疑心暗鬼も、次第にどうでも良くなっていく。

 軽薄な男女関係に呑まれるつもりは毛頭ない。

 それでも、こうしてカフェで言葉を交わしたり、本を介して笑いあったり。そんな、良き友達になれるのなら。

「お待たせしました。こちらを」

 栄二さんの柔らかな声色とともに、香ばしい甘さが鼻孔をくすぐる。テーブルに届けられた湯気の立つマグカップの登場に、私は目を丸くした。

「え……栄二さん? これは」

「杏さんはカフェモカでしたね。透馬、お前はいつもので済ませろ」

 わお。台詞の前半後半で明らかに人格が変わりましたね栄二さん。

 基本的にブラック栄二さんが出現するのは、店内に客が居ないプラス客以外への対応に限るらしい。だがこの場合、私は「客」と「客以外」のどちらにカテゴライズされているのかという疑問が残るが。

「へへっ、栄二さん男前~」

「奢りじゃねぇよ。二杯ともお前持ちだ、透馬」

「へ? いやっ、私は自分で」

「はいはい分かってますって。わざわざ杏ちゃんが俺のために来てくれたんだから。飲み物代のひとつやふたつ持ちますよ」

「土日に休みを取る空気読まない馬鹿に、大切なお客人の来訪を知らせてやったんだ。飲み物のひとつやふたつや三つや四つ、痛くも痒くもないよな」

「だ、だから、私はただ借りを返しただけで……!」

「はーいはい。栄二さんにもお飲物をご馳走いたします。アメリカンでいいよね?」

「適当な計量だったらシメる」

「……あのー。もしもし?」

「了解です。イケメン透馬、いっきまーす」

「制限時間は十分だ」

「……」

 こいつら、客の話を無視してやがる……!

 目を剥いて無言の抗議をしている私を尻目に、奴は鼻歌を奏でながら厨房へ消えていった。ひとまずそのまま帰ってくるな。

 どっと肩に乗った気疲れが重い。厨房への扉に恨めしげな視線を送っていると、隣では栄二さんが微かな笑みを浮かべていることに気付いた。

 この御方には、睨みをきかせてはいけない気がする。

 私はおずおずと牙をしまい、何食わぬ顔でカフェモカに口を付けた。美味しい。とろけるような甘みが身に染みる。

「今日は……本当にすみませんでした。席を占領したばかりか、ブランケットまで……!」

「いいえ。こちらこそありがとうございました。あの馬鹿のために骨を砕いていただいたようで」

「そ、そんな大したことはっ」

「ご友人がおっしゃっていましたから。小野寺さんが、透馬の書籍探しに躍起になっている、と」

「……あのちびっ子め」

 ちゃっかりカフェに通っているらしいご友人を頭の中に召還し、渾身のデコピンを食らわす。

 今度会ったときにゃタダじゃおかねぇ、とブラック栄二さんに似た口調で考えていると、その思考は思わず途切れることになった。「そういえば」

「杏さんは、図書館にお勤めなんですね。もともと本好きなのは知っていましたが、納得しました」

 杏さん、ね。

 栄二さんからの呼び名が微妙に変化を遂げる。

 奴に引き続きアレでコレな感じがしなくもないが、この際流すとしよう。

「この職に就いてから、本好きを自称することをためらうようになりましたけどね。知識不足で毎日格闘でした」

「普段はどんな書籍を?」

「新作はジャンル問わずチェックしますよ。選書の情報収集。購入するのは昔から小説ばかりですけどね」

「なるほど。適役だ」

 うん? 栄二さんが最後にぽつりとこぼした呟きに、私は首を傾げた。

 すると栄二さんは、微笑のままレジまで行き、何かを手にして戻ってくる。

 そして晒されたものは、何の変哲もないA4サイズの茶封筒だった。

「あの、これ……?」

「小説の原稿です」

「へ?」

 封筒越しに感触を確かめる。

 確かに書類が束ねられている感触があった。八十枚前後、といったところか。

「もしかして、栄二さんが小説を?」

「ははっ、もしもそうなら臆面なくお渡しできませんよ。自分じゃなく、自分の教え子の書いたものです」

 教え子。疑問ワードが増えていく一方だが、話の腰を折るほどではない。

「作家志望なんですがね。公募用の小説を書き上げたそうで、推敲を頼まれたんです」

「推敲ですか」

「負担ではないんですが、いかんせん自分は読書家とは程遠いもので。宜しければ、杏さんにご協力いただけませんか。作者の許可は取ってあります」

「いいんですか? 一端の客でしかない、私なんかに」

「貴女は信用がおける人です」

 健康的な前髪が、眉の上で軽めに揺れる。

 お陰で栄二さんの漆黒の瞳は遮る物がなく、いつでもこちらへ直球だった。

 明け透けに告げられた誉め言葉に、思わず羞恥が滲み出そうになる。顔色を隠すように、私はそそくさと茶封筒に視線を落とした。

「赤ペン等で適当に指示を入れて頂いて結構です。杏さんの感じたことを書いて下さい」

「は……はい!」

「期限はいつでも。……と言いたいところですが、出来れば二週間後を目安にお願いします」

「結構、人使いが荒い奴なんで」言いながら、僅かに頬を緩める。

 栄二さんの新たな一面に思わず口を綻ばせながら、私は渡された原稿を鞄にしまい込んだ。

「初めてでお役に立てるかわかりませんが……精一杯やらせていただきます」

 もしかしたらこの原稿から、新たな作家が誕生するかもしれない。

 二年前に出会ったあの人と同じ、誰かの心をすくい上げる、奇跡みたいな魔法を。

 その手伝いの一端を担えるのなら。

「なるほど」

「え?」

「確かに杏さんは、小説のお話をされている時が一番可愛らしいですね」

「……」

 栄二さんから送られたまさかの先制爆弾。

 丸腰のままあえなく撃墜を受けた私は、思考回路がぴたりと止まった。

 栄二さんの笑顔は、ホワイト時のそれと同じ。混乱とともにじわじわと浮かび上がってきた熱が、分かりやすく私の顔を包み込む。

 何なんだ。このカフェに勤める奴らはどいつもこいつもタラシばかりか……!

 何度か口を空回りさせている私の反応に、栄二さんは目を瞬かせた。

「杏さんくらい素敵な女性なら、このくらいのことは言われ慣れているのでは?」

「貴方たちは……イタリア人ですか……っ!」

 確かに、すれ違いざまや距離を取った場所から視線を送られたり、美人だ何だと形容されることは珍しくはない。

 だからって、そんな甘ったるい誉め言葉を面と向かって吐かれることなんて、早々ないっての……!

「ちょっと栄二さん。杏ちゃんに何ちょっかい出してくれてんの」

 イタリア人二号が帰還した。

 香ばしい薫りを背景に落ちてきた低い声色に、私は思わず肩を浮かせる。

「ただの世間話ですよね、杏さん?」

 相槌を打つべきか逡巡するものの、爽やかとは程遠い表情を浮かべる奴に、それも結局不発に終わった。

「店の客に手を出すなって言ってたのはどこの誰だっけ~?」

「思ったことを口にしたまでだ。お前と違って他意はない」

 まるで理解が追いつかない二人の会話。異国語か。イタリア語なのかなるほど。

 心頭滅却。少し冷めてしまったマグカップに、そっと口付ける。

「杏ちゃんが可愛いってことは俺が分かっていればいいんです~。栄二さんってそういうところ狡いもんなぁ……」

「心外だな。杏さんの寝顔の写真、あとでメールしてやろうかと思っていたんだが」

「大好き栄二さん超グッジョブ。あ、なんならコーヒーお代わりする?」

「お会計っ! お願いします!」

「冗談ですよ」と柔和に笑う栄二さんと、「え。冗談なの?」素っ頓狂な声を出す透馬のふたり。もう駄目だ。さっさと退散するとしよう。

 鞄を掴み上げる。先ほど手渡された原稿の感触を覚えながら、私は素早く自分の飲料代をレジ前に放り店の扉を開けた。

「杏ちゃんっ!」

 澄んだ夜道にこだまする呼び声。その声に、振り返ることはしなかったけれど。

「本のこと! 本当に、ありがとう……!」

 しがみつくようなその叫び声が、酷く可笑しい。

 気付けば自分の口元には、大きな笑みが浮かび上がっていた。


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