異世界のボクは死ぬことができない
7
あれから、どのくらい経ったのだろう。
洞窟の入り口から差し込んでくる太陽の光の点滅を三百六十五回までは数えていた。
数えるのをやめてからだいぶ経っている。
一角狼の餌となってから、なんども、ほんとうになんどもわきあがった疑問を、いままたふたたびにおまえはおもう。
不思議の国のアリス的な、フィクションに描かれるような、おまえの常識にない経験にさらされている。
さらされつづけている。
真面目に取り合うのもめんどうな経験ばかりだ。
しかしおまえは考えるのを止められない。
このような状況に陥ってしまった原因、その可能性を考える。
まず考えうる第一の可能性は、オカルト的な、一般には信じられていない、認知されていない世界の秘密に踏み込んでしまったというもの。
例えば死後の世界や、神隠しのような、隠された世界のルール、そのようなものに巻き込まれたという、可能性。
あるいは自分は統合失調症を発症しているのかもしれない。
この第二の可能性が一番起こりうる、とおまえは思っている。
あの病気の症状には妄想や、認知の違和がある。
おまえは実はこの、自分が異世界だと認識しているこの世界に生まれた者であるのに、病気のせいで、地球という惑星の日本という国に生まれて育ったと、勘違いしている。
または、いまもまだ地球の日本のどこか、もしかしたら精神病院の檻のなかで、わあわあと叫びながら妄想の世界に浸っているのかもしれない。
どちらにせよ、それがいちばんつじつまが合う、とおまえはおもう。
おそらく狂気というのは自覚できないものだ。
統合失調症の母を持つおまえにはそれがわかる。
あるとき母が、おまえが彼女を妊娠させた、と断定的に、確信を持って言ってきたことがある
あらためてなぜそう思ったのかきいてみれば、接骨院からの帰り道にみた自転車のサドルを見てそう思ったと、母は言った。
わけがわからない。
母がその妄想を発した当時、おまえは十五歳で、おまえには年上の彼女がいて、妊娠しているどころか、生まれたばかりだった。
しかもおまえは彼女との連絡を断ったうえに認知さえしていなかったから、おまえは大層おどろいた。
ばれたかとそう思ったが、そうではなくてとても安心した。
母はその狂気を自覚していないようだった。
ごくあたりまえに、ありえないことを言うのだ。
部屋に泥棒が入っただの、銀行から残高が消えただの、慌てて調べるが、銀行も警察も首を傾げるばかりだった。
家にある防犯カメラにはなにも映っていなかったし、銀行にもそのような記録はなかった。
狂気は遺伝する、という話も聞いた。
おまえは心の底で、それを恐れていたようにおもう。
いつかじぶんの気が、ちがってしまうのではないかと、そして、じぶんはそれに気付くことはないのだと、そう思っていると常識が、じぶんがじぶんであるという、その自己幻想のぬるま湯に浸って生きるということが、人生にまともにとりあうということが、価値のないことのようにおもえた。
そう、母が狂っているのではなく、じぶんこそが、母が狂ったという妄想をしている可能性を知ってしまったから。
いまおまえははらわたを食われている。
身体が痛がっているのだろう。
筋肉がぴくっと痙攣した。
けれど痛みにはもう、ずいぶんとまえになれていたから、痛みを堪えたり耐えることはしていない。
心頭滅却すれば火もまた涼し、である。
怒りはもうわいてこない。
狼に対する慈愛の心さえ芽生えている。
おまえは良き家畜だった。
それに、はらわたはもう再生して、皮膚ができあがりつつあった。
いまは足を食われている。
めきめきと骨がしなり、折れちぎれる。
肉を食む音がする。
おまえは狼にそれぞれなまえをつけていた。
睾丸を好んで食う個体がちかづいてきている。
まるちゃんと、おまえはその狼に名付けた。
まるちゃんの頬には傷があった。
勇猛な狼なのだろうと思う。
性欲もかなり強い。
まるちゃんがおまえの睾丸に犬歯を突きたてた。
全身の筋肉がびくんとうなって、おまえの身体が宙を浮いた
睾丸を食われるのはかなり痛いのをおまえは知っている。
おまえにはもうなんともないことだが、おまえの身体は痛みに正直だ。
まるちゃんは咀嚼した。
咀嚼しているうちに再生した睾丸をまた食べる。
それを十数度繰りかえし、そのたびにおまえの身体ははねた。
まるちゃんはおまえから離れて、さっちゃんの元へ向かった。
さっちゃんはまるちゃんのお気に入りである。
まるちゃんはさっちゃんに襲いかかる。
さっちゃんはいつも、最初はいやいやをするが、最後は結局まるちゃんを受け入れる。
いつものことである。
狼の交尾は想像していたよりも長い。
どうぶつの交尾はたいてい、短いものだとおまえはおもっていたのだが、狼はちがった。
おそらく、二十分くらいしているんじゃないかと思う。
おまえは全身を食われながら、まるちゃんとさっちゃんの交尾を眺めた。
そしておまえのペニスは勃起する。
ほんとうに身体は正直だ。
やれやれである。
食われているあいだもわりと勃起しがちなのだけれど、まるちゃんとさっちゃんの交尾を眺めているあいだのペニスは別格の固さがあるようにおもう。
交尾を終えたまるちゃんは、巣のすみに積まれているチュッパチャップスを、がりがりとかじり、包装を吐き出す。
「しにさらせえええええ!!!!!」
誰かの叫び声がした。
同時に巣の全体に炎がまわって、おまえは火につつまれる。
血が沸騰し、皮膚がびりびりと破ける、全身のタンパク質が変質していく。
一角狼たちの悲痛な叫び声が聞こえた。