犬神と呪術 2
次に目が覚めたのは朝だった。
窓の外が明るいのを確認し、デスクの上にあるはずの時計を探す。書類や本に隠れて見えないのに気付き、壁掛け時計に視線をうつした。
慣れとはすごい。壁掛け時計は数ヶ月近く止まったままだったせいか、常に時間を確認するのはデスクにある時計だった。
仁がうるさくて壁掛け時計を直した後も、まず最初に見るのはデスクの上の時計。壁掛け時計が動いていることに慣れるまで、同じ動作を繰り返すに違いない。
自分自身に少し呆れながら時間を確認すると、珍しく早起きしたらしいことが分かる。
なんたって、日中業務のみの部署の始業時間まで、あと五分もある。前回、こんな早い時間に起きたのは――、指を折って数えてはみたが、たぶん一ヶ月は前のことだ。
つまり、それくらいに珍しい。
なんとなくいい気分で、食堂へ向かう。
当然というか、食堂のおばちゃん達にはびっくりされた。冗談半分に、熱でもあるんじゃないかと心配もされた。
だけどな、いつもより早く寝れば、例え途中で一度起きたとしても、いつもより早く目が覚めるのは当然だと思わないか?
おばちゃん達のおいしい朝飯を食べて、オレは部屋に戻った。部屋に戻ると同時に、まるで狙ったかのように鳴り出す内線電話。
だが、めったに使われることのないソレは、書類の山に埋もれてしまっていて、電話に出る前に切れてしまった。電話を捜している途中に切れる理不尽さ!
だが幸いと言うか、なんと言うか。すぐに再び内線電話が鳴らされた。
今度は切れる前に電話に出ることができた。電話の相手は、予想していた通り上司だった。
上司と言っても直属の、というわけではない。今いる部署のトップはオレだ。電話の相手は、まぁ、簡単に言えば役所内で偉い人だ。
役所内で偉いってことは、ある意味直属の上司か? どっちでもいいけど。
あの世と現世、それぞれを管轄する役目を請け負う役所は、部署や役職の関係がちょっと複雑だったりする。
とりあえず、オレがいる部署は魂を扱う部署、その上司――榊さんは、問題のある霊を扱う部署の上の方の偉いさんだ。
その榊さんに呼ばれて、彼の部屋まで行くことになった。用件は、たぶん鈴置が昨日言っていたことだろう。
興味半分めんどくささ半分といった気分で、自分の部屋を出た。
興味はあるし、気にはなる。だが、生来のめんどくさがりが出てしまうのも、また確か。
榊さんがオレの部屋まで来てくれれば、一番ラクなんだがな。そういうわけにもいくまい。
榊さんの部屋の前で立ち止まると、ドアを軽くノックした。数秒遅れて、榊さんの「どうぞ」と言う声が聞こえてくる。
「失礼します」
部屋に入って軽く一礼をすると、上司のデスクの前に立つ。
「今日は、どういったご用件でしょうか」
榊さんは無言で、デスクの上に置いてあった書類を手渡してきた。こちらも何も言わずに書類を受け取ると、パラパラと書類をめくった。
何も書かれていない表紙をめくると、数枚の用紙にバロンと仁に関する情報が書かれていた。
詳細はあとで読むとして、まずは榊さんの話を聞くのが先だと判断した。
先を促すように榊さんの顔を見ると、榊さんは口を開いた。
「バロンに関するニュースは見たか?」
「はい。食堂で」
昨日鈴置に聞いて思い出しました、と心の中で付け加えてみる。
「最近、君のところに犬神が一匹、出入りしているそうだね」
「はい。以前、仕事で知り合いまして。現世で人に憑いてる犬神です」
「名前は?」
「仁、と言ってました」
鈴置が言っていたように、そのバロンとやらは仁に関係があるのだろうか。
「その犬神の素性は?」
「素性、ですか?」
「そうだ。同じ名前を持つ犬神はいないはずだ。だが、我々が探している犬神と同じか、それは確認せねばなるまい。そうだろう、辻村君?」
仁の素性なんて何も知らない。仁についてオレが知ってることなんて、実はほとんど何もない。
口ごもっていると、榊さんが先に口を開いた。
「襲われた人の証言を元に、バロンが探している仁という犬神について、我々で調べてみた」
「もちろん、バロンについても調べられるだけ調べた。だが、たいして詳しくはわからなかった」
榊さんは苦虫を潰したような表情をしている。
「今回の『国境を越えた医師団』への依頼内容は、バロンの捕獲。これ以上の犠牲者を出したくない。生死は問わない。最善の方法で、事態を治めて欲しい。以上だ」
この世界にだって生死はある。元からこの世界で生を受ける者も多い。
死が存在しない世界は、ある意味恐ろしい。
生がある以上、何らかの形での死は必ず存在する。そう思って問題ないだろう。
榊さんの話が終わると、受け取った資料片手に部屋に戻る。
まずは中を確認した上で、すぐに動けるメンバーを集める。それが医師団でのオレの役割。
リーダーみたいな感じだが、リーダーではない。医師団にリーダーという存在はいない。
全員が等しくあり、上下はない。あらゆる仕事を円滑に行う為に、全員で決めたルールだ。
オレが一番自由がきくという理由で、窓口になり、リーダーのようなこともしているだけ。
資料をめくりながら、廊下を進む。
部屋の前にたどり着き、ドアを開けようと手を伸ばした時、違和感を感じた。
中に誰かいる。
仁のような気配と……、他にもまだいるらしい。
伸ばした手でドアを開け、中に入る。自分の部屋に入るのにためらうなんて、バカげている。
「仁、来てたのか?」
ドアを開けながら声をかけ、仁の定位置であるソファに視線を向けた。
……増えてる。
仁はソファの毛布の上に寝そべっていた。
その仁の腹の辺りに体を預けるようにして、寝そべっている犬が一匹。仁より一回り以上は小さく、仁より薄い灰色の毛。
ソファの下には、真っ白な犬が寝そべっていた。仁より一回りくらい小さく見える。
「えっと……、仁? 隣や下にいる犬は……?」
オレの問いかけに、のっそりと首を持ち上げた仁が答える。
「こいつは昇華。下の白いのが刻水。犬ではなく、犬神だ。昨日言っただろう。次に連れてくると」
確かに言った。確かに聞いた。だが、マジで連れてくるとは思わなかった。それも昨日の今日で。
仁に体を預けている犬神が、顔だけこちらに向けて言った。
「昇華よ。普段は、九州のご主人様に憑いてるの。すっごく久々に! 仁から呼び出しがあったと思ったら……。まぁいいわ。よろしく」
久しぶりであることを強調する口ぶりに、仁が「すまぬ」と謝る。
仁よりずっと柔らかい雰囲気。たぶんメスなんだろう。
次に、ソファの下で寝そべっていた犬神が立ち上がった。
「僕は刻水です。ん~~。いつもは東京の近くで、ご主人様に憑いてます。ねぇ昇華、『ご主人様』ってなんかいい響きだね? 僕もこれから使おうかな」
子供っぽさを感じさせる口調。若い……のだろうか。
「それよりも」
昇華が、今度は顔をこちらに向けるでもなく、口を開いた。
「あなた、医師団の人でしょ? 早くバロンをなんとかしてよ。仁のために」
「え?」
突然出た『バロン』という単語にびっくりしてしまった。
「昇華。まだコヤツには何も伝えておらぬ」
「そうなの? じゃ、なんの為にここに来てるの? てっきりバロンのことがあるからだと思ってたわ」
「ここは居心地が良い」
そう言うと仁は、前足に頭を預けた。寝る気満々……?
いっこうに仁の性格とか、さっぱりわかんねぇ。
大きなため息を吐き出し、椅子に座ると榊さんにもらった書類を再びめくる。
――『バロンに関する資料』
内容は薄っぺらい。それだけ何もわかっていないということ。
今までに判明しているだけの、バロンが関係している事件、運良く生き残った被害者の証言。バロン自身に関する資料は、ない。
事件はここ半年ほどの間に起きたものばかり。かなりの数の村が被害にあっていた。良くて数人の死傷者、悪いと村が壊滅……。
証言は、バロンの容姿に関するものと、バロンが発した言葉。
バロンの容姿に関する証言を元に描かれた絵もついていた。鈴置が言っていたように、それは仁にそっくりだった。目付きは仁よりずっと鋭く、恐ろしいが。
――『仁に関する資料』
バロンが発した言葉の大半は『仁』に関するものだった。その証言を元に調べた資料らしい。
それは、明らかに『仁』と呼ばれる犬神のことであり、その出生からわかる範囲での足跡が書かれていた。
内容は、なかなかに衝撃的だった。
現代、過去を問わず、現世の文学作品などの中には、現実に起こったことがモチーフになっているものが多い。たとえ、それがファンタジーであっても。
詳しいことは研究されていないが、なぜかこちらの情報が漏れて、ファンタジーとして創作されることもある。
過去にも、信じられないかもしれないが、実際に起こったことを伝聞などによって知った作者が、小説として書き起こした作品も数多い。また、童話として伝っているものも多くある。
仁の足跡の中に、そうやって現世の者たちにも広く知られているものがあった。
『南総里美八犬伝』に出てくる『犬江 親兵衛 仁』。それが仁の最初の姿であるというのだ。
これは、犬神たちの間では広く知れ渡っていることらしい。ただ、この小説と現実には、時代に大きなズレがあるらしい。
もっともっと古い時代、八犬士は存在した。そしてその伝説でも耳にしたのだろう。滝沢馬琴は時代を大きく変えて、小説の題材にしたのだった。
その当時、仁は人間だったらしい。他の八犬士と共に。彼らは全員、死後にその功績が称えられ、犬神に転生したと。そう資料には書かれていた。
「お前、あの『仁』だったんだな。八犬士の」
感心してなんとなく口に出すと、仁ではなく昇華が答えた。
「あなた、そんなことも知らないの? けっこう有名な話よ。知ってる人間も多いわ。それに、名前を聞けば気付きそうなものだわ」
それ以外は、いつ頃はどこにいたとか、そんなことが曖昧に綴られているだけだった。こっちにいるよりも、現世にいる時の方が長かったらしいことはわかる。
だが特筆すべき点は、特にないようにみえた。
「仁を祀った神社もあるんだよ」
オレが資料を読むのに没頭していると、刻水が楽しそうに言う。
「仁を……? 犬神だし『三峰神社』とかか?」
「ざーんねん。資料、ちゃんと読んだ?」
刻水に言われて、再度ざっと目を通す。どこにも仁を祀っている神社のことなんて出てこない。
「三峰で祀られているのは、私の叔父だ。久しく顔を出してはおらぬがな」
寝たと思っていた仁が、目は閉じたまま口を挟む。
「仁は長野に長くいるでしょ? そこにあるんだよ。祀られてる神社」
刻水の言うように、資料にある仁がいた場所には今の長野県に該当する場所が多い。
「もう、今はない。戦時中に住職がいなくなり、廃社になっている」
少しだけ、感慨深そうに仁がポツリと呟く。
「あれ、そうだったの? 僕、長いこと行ってないから知らなかった。でも、あそこには仁の銅像があるんだよね! すっごいそっくり」
仁の言葉に、刻水は驚いたようだったけれど、それでも楽しげに話を続ける。
……人懐っこい犬神だ。
「それよりも、早く本題に入りましょうよ。その為に私たちを呼んだんじゃないの?」
昇華が少しイラついた様子で、最後は仁に問いかけた。
昇華に言われて、ようやく仁は起き上がった。仁に体を預けていた昇華は、慌てて体制を整える。仁はそんな昇華の様子に我関せずといった風に、大きく伸びをしてソファに座りなおす。
「昇華ってばせっかち~。いいじゃん、たまにはさ。仁に会うのも久々だし? 楽しもうよ」
刻水はのんびりマイペースな様子で、昇華に文句を垂れている……んだと思う。
「『バロン』は、私の一部だ。元は私。私から隔離された、私の暗い部分の塊」
唐突に仁が話し出す。こいつは空気を読むとかさ、そういうことを知らないのだろうか。
それでも、せっかく話す気になったのだから……と、口を挟まずに聞くことにした。
仁の話は簡潔すぎて、余分なことはあまり喋らない。結局、途中で何度か質問の口を挟むことになってしまった。
それでも、短い時間でおおよそのことは理解できた。
仁の話はこうだった。
元々、仁は他の犬神よりも力が強い。それは八犬士の一人だったことも影響している。犬神の中で一番力が強いと言っても過言ではない。
けれど、いつの頃からか、自分の中に別の自分が存在するようになった。
それは、あの春という女性が死んだことがキッカケだったんだろうと、仁は言う。
春という女性が死んだ後、仁は怒り狂って多くの人間を殺してしまったんだそうだ。それは犬神として、やってはいけないこと。
その頃から、人に対する憎悪と情愛が対立するようになった。
直接的な理由はわからないらしい。けれど、ある日突然、仁は仁とバロンに別れてしまった。
現世でもこちらでも、あまり考えられない現象ではあるんだけれど。
仁の憎悪の部分が一人歩きし、こちらの世界では実体を伴うようになったのだと仁は言う。