オレと犬神 4
「仁! 遅いよっ!」
「すまぬな、春。他の見回りに少々手間取った」
木のところからも見えていた祠の前には、一人の人間。奥さんによく似た顔立ちの、女性と呼ぶにはまだ少し幼いけれど少女と呼ぶには少し大人びている娘が立っていた。これが奥さんの前世なのだと、すぐにわかってしまった。
彼女に『仁』と呼ばれていたのは、やはりさっきの犬神だった。彼女の名前は『春』というのだなと、思う。そういえば奥さんの名前、資料で見てもいなかったことに気付いた。
一人と一匹は連れ立って、祠から少し離れた木立へと近づいていった。オレも気付かれないように、けれど可能な限り声がよく聞こえるところまで近づく。別に姿を現したところで、向こうにはオレの姿は目に入らないのだが。気分の問題だ。
一本の木の根元に仁と呼ばれたあの犬神が寝そべると、その体に背中を預けるように春が座り込んだ。その自然な姿に、彼女たちがいつもこうしているのだろうと、気付かされる。
「あのね、仁、聞いて。とっても嬉しい報告があるのよ」
「何だ?」
「あのね、私、……赤ちゃんを身ごもったみたいなの」
犬神は、大きな眼をさらに見開いて春を見つめていた。春は嬉しそうで幸せそうで、はにかみながらも笑みを浮かべていた。
それにしても……。いつの時代のことかはわからないが、人と犬神が共存しているなんて……。
通常、魂の寿命は四百~五百年。多くても四~五回の転生が限度だ。転生するかどうかは、本人の希望に因ることもあるけれど。
一つ前の前世ということは、間が空いていたとしても三百年くらい前だろうか? それでも、犬神も含めた神々と人間が共存していたのは、少なくとも一千年は前のこと。
三百年くらい前という、そんな最近まで、場所によっては共存できていたということなのだろうか。山あいの小さな集落だからこそ、人知れず共存できていたということも考えられる。
「不思議で仕方ないという顔だな」
突然、後ろから声をかけられる。
――そんな、オレにとっては全くの想定外の状況に、情けないことに腰を抜かしかけてしまった。
「じ……仁……」
そこにいたのは、あの犬神だった。
先ほど春と話をしていた方を見やると、そこには仁がちゃんといる。
じゃあ、こっちの仁は?
「私は『今』を生きるもの。侮るな。私だって前世を見ること位、できる。そこに己が自身がおろうとも……な」
まだ数回しか聞いてはいないけれど、それでも何度聞いてもきっと聞きなれないであろう、腹の底から響く声。
「だが、オヌシが見るべきは、もっと先」
その声と共に世界が反転し、暗くなった。瞬間、また視界がひらける。と同時に鼻腔をつく血の臭い。
「その目で、神経で、見つけよ。探すものを」
そう言い残して、仁は再び去って行った。その瞳にはかすかに悲しみが浮かんでいたような気がした。
むっとする血の臭いに見回せば、視界に飛び込んできたのは、眼下に広がる集落から立ち上る煙、いまだ消えぬ炎。小さく、たくさんの人が倒れているのもわかる。
「襲われたんだ……」
何にとかはわからない。ただ、襲われて火を放たれ、きっと略取もされているに違いない。
足音が聞こえた気がして振り向くと、苦しそうに肩で息をしながら祠へと向かってくる彼女、春がいた。オレはとっさに近くの木の後ろに隠れた。
春のお腹は大きく、臨月に近いことがわかる。さっき見ていたより数ヶ月あとの出来事を、オレは見ているらしい。
「仁……仁……、どこに、いるの? 仁……」
今にも消えそうな声で、春は仁を探していた。祠の前まで来ると、彼女はとうとう倒れてしまった。
よく見れば、その背中には矢が刺さっている。それでも、愛おしそうに腹をさすり、かばっている。
彼女の命は、今にも消えそうだった。
彼女を見ていると、何か違和感を感じる。その原因がわかりそうで、わからない。もどかしい。
目の前で苦しんでいる彼女を助けることができないのも、オレをより一層、もどかしい気持ちにさせていた。
そこへ、ようやく仁が来た。集落の方を気にしながらだったが、春を見つけると駆け寄る。
「春、一体何があった?」
仁は春に寄り添い、傷を癒そうとするかのように、優しく舐めている。
「急に……、攻め、ら、れて。皆、死ん、じゃった。い、樹、も……。わ、たしは、なんとかここ、まで、来た、けど。もうダメ、みた、い。
仁が、守って、くれた村……も、なくなっちゃう。私じゃ、守って、あげ、られな……かった」
息の合間にゆっくると喋る春の体に触れながら、仁の双眸からは涙がこぼれ落ちているようだった。
「すまぬ。私が他の土地の様子を見に行ったばかりに……」
犬神は神であるとは言え、人を癒す力を持っているわけではない。傷を舐めるのは、ただの気休めにしかならない。
仁たち犬神は、その強大な力で、それぞれの土地を守り、治めるモノ。
仁はきっと、奥さんの前世である春という少女が住む土地を守り、そして何らかの理由で彼女を親しくなったんだ。
「仁……じ……」
消え入りそうな春の声。そして、彼女の命は力尽きたようだった。
響きわたる狼の遠吠え。涙を流し、吠え続ける仁。
痛ましかった。いたたまれなかった。
何故、オレはここにいる? 何故、オレは何もできない?
それでも春と仁から目が離せないのは、本能でさっきから感じる違和感の原因を捜そうとしているから。
ふと、仁が春の腹を舐める。すると、淡く光る球体が出てきた。魂だ。
そして仁は、口を大きく開いたかと思ったら、それを食べた。いや、体内に取り込んだというべきだろうか。
腹から出てきたということは、胎児の魂だろう。だが、あの魂は変だ。ここは彼女の前世である春の記憶の中。全ては記憶であり、本物ではない。それなのに、あの魂は本物だった。本物か偽物かなんて見間違えるはずもない。
これが感じた違和感。あるはずのないものが紛れ込んでいる違和感。
春から一度離れた仁は、もう一度春に顔を寄せていた。取り込んだ胎児の魂を、今度は春のナカへと入れていた。
たぶん、それがここに本物の魂がある理由。仁は、春の魂の中へと、胎児の魂を閉じ込めたのだろう。
魂を入れ終わったらしい仁は、下の集落目指して、山の中を突っ切るように降りていった。
オレはそれを見届けてから春の元へと駆け寄った。意識はないようだけれど、まだ完全に息絶えているわけではなかった。それも時間の問題ではあるようだが。
がむしゃらに春の体に手を伸ばし、先ほど見た胎児の魂を引き出した。奥歯を噛み締めて。そうでもしなければ、嗚咽がもれてしまいそうだった。
「ありがとう」
背後から仁の声が聞こえた。振り向かずに、頷いて答える。
「さあ、戻ろう」
仁の声に操られるかのように、オレは木の下へと戻り、気付けば現世の奥さんのナカへと戻っていた。
「今から、千と二百年前」
仁が突然、穏やかに語りだす。
「私は、とある村を守っていた。とは言え、そこは数ある縄張りの一つにすぎなかった。特に景色が気に入っていて、そこにいることが多くはあったのだが。
春とは、彼女がまだ十にも満たぬ頃に出会った。私を見ても恐れず、神だと知れば敬愛の情を持つ」
ということは、さっき見た前世は千二百年も前の出来事だというのか?
ありえない。
転生の期間が開きすぎていることもあるが、そんなにも魂はもたない。
「春の魂は特別だ」
オレの疑問を見透かしたかのような言葉。
「特別って、どういうことだ?」
「私は、彼女の前世の記憶を全て調べた。ナカに入るのもかなり大変ではあったが」
視線が宙を彷徨う。何かを思い出しているのかもしれない。
「最初の生は、今から四千五百年ほど前。彼女は特別な力を持ち、そして死と共に特別な力がさらに加わった。
彼女の魂に寿命はない。そして転生にかかる時間は、他と比べ物にならないくらい長い。見えない何かに強く影響され続けている。だからオヌシ達では調べられぬのだろう」
うわさには聞いたことがあった。何百年も生きる人間や、何千年も生きる魂。
だが、まさかこの奥さんが? どう見ても普通の人間だ。
「彼女はいつの時代も、普通の、ありふれた幸せを望んでいた。……叶うことは一度もなかったが。『今』という時代は、彼女の願いをかなえるのに適している」
つまり、今の奥さんの姿が、彼女が望み続けた姿ということか。
「私は。春が転生するのをずっと待っていた。彼女が幸せになる姿を、ずっと見たいと願っていた。再びめぐり合えたのは偶然だったが、喜ばしいことだ」
仁にとっても望み続けたものが、今ここにはある。
「子の魂を入れよ。オヌシの仕事はそれで終わる」
もっと知りたいと思った。彼女のことを、彼女の前世のことを。
けれど仁はそれ以上は何も言うつもりはないらしい。仁は三度、去っていった。
これ以上は知る必要はないのだ。確かに胎児に魂を入れるのがオレの仕事。そのためにここに来たのだから。
モヤモヤとする心を抑えて、オレは奥さんのナカから出た。
思った以上に多くの時間が過ぎていたらしい。奥さんは台所に立っていて、窓から見える外はうっすらと暗い。
オレは大切に抱えていた魂を、胎児の中へと入れた。腹が一瞬淡く光り、問題なく魂が入ったことを伝える。
それと同時に胎児が動いたのだろう。奥さんが一瞬驚いた顔をしたあと、幸せそうな顔で腹をさすっていた。
オレは思わず息を吐き出した。何とか解決できた。
『普通の幸せ』
『ありふれた幸せ』
それが一番の幸せなのかもしれない。普通でありふれていて、なかなか気付けないものなのかも知れないが。
それでもココには、その幸せがある。
疲れたし、さっさと帰って一眠りしよう。
そう決めたオレは、もう一度奥さんを見る。その幸せそうな顔を、しっかりと記憶に留めたかった。
仕方がないとはいえ、驚くほど疲れきった体を引きずり、オレは『扉』へと向かう。
幸い、『扉』は閉じてはいない。
来た時と同じように、オレはオレの住む世界へと帰る。
『扉』を抜けると、扉番が交代していた。
「おはようございます、辻村さん。仕事は無事に終わりましたか?」
元気よく、声をかけられる。
「ああ、うまくいったよ。それにしても、朝でもないのに『おはようございます』はねえだろうが」
オレは苦笑する。
「何を言ってるんですか?今は早朝ですよ。辻村さんがあちらに行ったのは、昨日です」
目を見開くことしかできなかった。
薄暗かったのは、夕方ではなく早朝だったかららしい。
そりゃ、体がこれだけ疲れていても仕方ない。
「ちなみに今って何時だ?」
オレはおそるおそる聞く。
「もうすぐ六時です」
オレがむこうへ行ったのは、昼ごろだった。
約十八時間、飲まず食わずで働いていたってことか。
考えただけで、余計に疲れる。
「そうか……。オレは帰って寝るよ。おやすみ」
扉番の返事を待たずに、オレはフラフラと役所に向かって歩きだす。
役所について自分の部屋に戻ったオレは、それから次の日の朝まで、一度も起きることなく眠った。
目が覚めた時、空腹で気持ちが悪くて仕方なかった……。