オレと犬神 3
家の前にたどりつくと、大きく一つ深呼吸をして、ドアを開けた。小さな家の中には、部屋が一つあるだけだった。
部屋の中には、ふかふかしていそうなベッド。様々な厚みの本が並ぶ本棚。ノートが散らばる机。
ノートは時々ページがめくれ、何かが書き込まれる。まるでそこに、見えない誰かがいるかのように。
それは、たぶん、今現在の彼女自身の記憶。
「と、いうことは……」
オレは本棚に向かう。
並べられた本の背表紙には、年齢や行事名らしきものが書き込まれている。その記憶が書かれた本だと思って間違いないだろう。
中には、隅で埃をかぶっているものもある。たぶんそれは、彼女が思い出せない記憶だろう。記憶というのは完全に忘れることなんてない。思い出せるか、思い出せないか。それだけ。
適当に、並んだ中の一冊を手に取ってみた。
背表紙には『2さい』と書いてある。驚くほどに薄っぺらい本、というよりもノート。
そっとページをめくってみた。その薄さに、逆に何が書かれているのか気になったのだ。
『おそとであそぶ。きょおも いしがいっぱい』
全部、ひらがなだ。子どもの頃の記憶だからだろうか。
それに『いし』ってなんだろう。やっぱり『石』だろうか。
文章の下には、見たモノそのもののイメージだろうか。写真のようなものまで添えられていた。二つの石のようなものは真ん中で割れているらしい。
『くっつくと うれしい』
なんだかよくわからないが、この奥さんが二歳の頃、こういう石ころか何かが好きだったのだろうと、適当に結論づけ、次のページをめくった。
『おじちゃんがいた おじちゃんの うしろのいえが みえてた へんなひと』
うしろの家が見えてたということは、透けてたってことか? この奥さん、霊とか見える人なんだろうか。
だが、少なくともオレのことは見えてなかった。そんじょそこらの、ちょっと霊が見える程度のヤツにオレの姿なんか見えはしないが。
それに、大人になるにつれて、そういう力が消えてしまったことも考えられる。
だが、そのあとの文を読んで、オレは頭を抱えてしまった。
『さっきのおじちゃんが またきた。だいすきないしをくれた。くっつけると また いっこになる いしが 2こ。きれい。だいじにする。ありがとう』
……『石をくれた』?
霊なら現世のものは触れない。でも現世の人間なら、体は透けない。
意味がわからない。ガキの勘違いだろうか。
頭をガシガシとかき回す。わけがわからない。なんだ、コイツ。
わけのわからないことに苛立ちを覚えていたオレは、その気配に全く気付いていなかった。
「オイ」
「あーー、わけわかんねぇ。イライラする」
「オイ、そこのオヌシ」
「何だよ。うっせーな。オレは今、考え事してんだよ……って。え?」
突然聞こえた声に、無意識で怒りをぶつけてから、急に冷静になった。
……なんで、オレ以外のヤツがいる?
後ろを振り返ると、そこには大きな狼がいた。ツヤの良い銀色の毛が、開いたドアの外からの光を反射して輝いている。
「オヌシ、そこで何をしている?」
最初は誰がしゃべっているのかわからなかった。だが狼が口を開くと、その無機質な声が聞こえる。
どうやら、この狼がしゃべっているのは間違いないらしい。
と、いうことは……。
「お前、犬神か?」
犬神はその名の通り、犬の姿をした神様だ。だがその多くは、本当は犬ではなく狼だ。
普段はオレの住む世界の山奥や、現世で祀られている神社に住んでいて、あまり見ることはない。
「だったら何だと言うのだ。私は確かに犬神だ。だが、それがどうした?」
それがどうしたって、何で人に憑いてるんだ? そういうことも全くないとは言えないが、珍しい。
憑いてる場合だって、犬神をずっと祀ってきた家系とかそういうのだ。だが、この奥さんはいたって普通の人にしか見えない。
「私が何故、ここにいるのか。オヌシは気になるようだな」
考えていることが、相手には筒抜けのようだ。そんなに考えていることが、顔にでも出ていただろうか。
「人の『エニシ』とは深い。そして複雑。想像しえぬところで、その『エニシ』は繋がっているもの」
つまりは、なんらかの縁があってこの奥さんについているということだろう。
「それで? オヌシはここで何をしておる」
最初に聞かれた質問を、また投げかけられた。
何と答えるか、オレは逡巡する。この犬神が奥さんに憑いているということは、何か色々知ってそうだなとか、事情を話したら協力してくれるかもとか。
そんな下心を抱いて、オレは自分の身分とここにいる事情を説明した。
「……ということで、彼女の魂を調べにきた」
かいつまんで、でも、できる限り正確に説明した、……つもりだ。
「それで?」
それで? って……! 何か説明のしかたが悪かったのか、オレ?
思わず頭を抱えてしまったのは、当然の行動だろう。
「オヌシの言うことは理解した」
うなだれたオレに、やっぱり感情のこもっていない無機質な声がふってきた。
オレの説明を理解してくれていたことに、安堵する。
良かった。通じてた。
「だが、私には関係ない」
「ちょ……! 関係ないって! このままじゃ、腹の子に魂が入れれねーんだぞ? それでもいいのかよっ」
続いた言葉に、オレは目をむいた。だが、犬神はオレの目を見返して、冷静に口を開いた。
「魂が入らないのは困る。だが、それは私の仕事ではない。オヌシの仕事、だろう? オヌシがきちんと調べさえすればわかること。この子に合う魂は、この世に一つしかない」
確かに、腹の子に合う魂を調べるのが、今現在ここにいるオレの仕事だ。だけど、ちったぁ協力くらいしてくれてもいいと思う。すぐに解決するならば、それに越したことはないのだから。
「ここに、オヌシの求める答えはない。前世の『エニシ』とは複雑なものだ」
そう言い残して、犬神は踵を返すとすごい速さで走り去った。
今の言い方だと、前世に関係あるということだろうか。
――縁。
関係。つながり。原因。
わけがわからないけれど、前世を調べれば、何かわかるのだろうか。
「はーーー」
ため息を吐くと、幸せが逃げるとか言うけど。ため息も吐きたくなるさ、こんなんじゃ。
魂に刻まれた前世を調べるのは、簡単だが難しい。
魂とは層のようになっている。核になるのが、魂そのものの性質。そのすぐ外側に、その魂の一番最初の人生の記憶。
転生するごとに、その外側に層ができる。つまり、オレが今いるのは、魂の一番外側にある層の中。
それぞれの層は最深部で繋がっている。最深部から一つ一つ、前世を遡るようにもぐることができる。ただ、層が深くなるほど、もぐるのは難しいし、体力も気力も半端なく使う。
「思った以上に、大変だな。コレは」
ひとりごちりながら、再び深くため息を吐く。
「ちょっと休憩するか」
オレはふかふかのベッドに身を投じた。
「うわー、気持ちいい。こんなふっかふかの布団、久しぶりだぞ」
役所には布団やベッドはなくて、ベッドにもなる大きめのソファで寝起きしている。ちゃんとした布団で寝るなんて、実家に帰省したときくらいなもんだ。
ベッドの上で体から力を抜くと、疲れが体中に広がっていくのがわかる。
そのままの姿勢で、視線だけを本棚に向ければ、気になる本を見つけた。
埃をかぶった本の中で、それだけが不思議と埃をかぶっていない。背表紙には何も書かれておらず、いつの記憶かもわからない。
「よいせっと」
掛け声がなくては立ち上がれないなんて、オレもおっさんになったもんだ。
本棚の一番した、隅の方にあったその本を手にとる。
だが、開くことができない。まるで何かに守られているかのように。そうなると余計に気になるのが、人間のサガってもんだろう。
でもどうやっても開かない。ページの間にツメを食い込ませてみたりもした。だが、糊か何かでぴったりと貼り付けられているかのように、開かない。
結構な時間、本と格闘して、そうして結局は諦めた。
「何だよ。気になるじゃねーかよ」
本を壁に向かって投げようとして、思いとどまる。これでは、ただの八つ当たりだ。
それにオレは、仕事をするためにここに来たはずだ。
「何をしに来たのか、すっかり忘れてた。やべーー」
オレは慌てて本を元の場所に戻すと、家の外へと出た。ドアを閉めて、ふと考えてしまう。
どこへ行ったらいい?
より深い層にもぐるためには、最深部を探さなければならない。便宜上、最深部と呼んでいるだけで、その場所がどこにあるか、どんな姿形をしているかなんて、人それぞれ。
しかも、この奥さんのナカには目立つものがない。ここで目立つものといえば、目の前には家と、丘と木。
少し考えて、丘へと足を向けた。立ち尽くしていても、考え込んでいても、埒が明かない。
それが家の中でないのならば、丘と木のふもとまで、とりあえず行くしかないだろう。
すぐ目の前にある、意外に急な丘を登り、木の下へと立つ。いくら快適とは言え、丘を登る間にしっとりと汗をかいていた。
木陰で、木にもたれるように地面に座って少し休憩をすると、汗が風に冷えて心地よくさえ感じた。地面に触れているケツの部分も、ひんやりとして心地よい。
そのままの状態で上半身を少し反らせて、木を仰ぎ見た。こんもりと茂る葉は、楕円形。葉と葉の重なる隙間から、かすかにこぼれる木漏れ日。幾重にも重なる枝は、細かったり太かったりしている。
その枝の間、下から数本目の幹のあたりに違和感を覚えた。下の方とは言っても、一番下の枝もオレの肩のあたりの高さだった。ちょっと背伸びして手を伸ばしたくらいじゃ届きそうもない。
「コレ、登れっかなぁ」
木登りなんて、ガキの時以来だ。幸い、一番下の枝は太くて丈夫なようだし、これにさえ登れればあとは何とかなるだろう。
ただ手と足に神経を集中させて、一番下の枝にしがみついた。よじ登るようにして体を枝の上へと移動させる。普段、運動とはかなり無縁なオレにしてみれば、他ごとを考えていたら落ちてしまいそうにも思えた。
なんとか、一番下の枝へと登り終えると、あとはちょうど良い高さの枝につかまりながら一つずつ高い場所の枝へと移動していくだけ。それでも落ちたりしないように、足元と手元に神経を配った。
ゆっくりと慎重に登ってようやく、気になる場所のみっつほど下の枝までたどり着いた。そこはちょうど顔の高さ。
「やっぱり歪んでる」
先ほど感じた違和感が、確かにそこにあった。間違いなく、コイツは空間の歪み。
つまり、魂の最深部。
「ここか……」
見つけた。前世の層へと繋がる場所。
何度も集中しないといけなくて、神経が磨り減りそうだと思う。そんなこと、誰かに言ったところで笑われるのがオチだろうが。
数回、深呼吸を繰り返したあと、再び神経を集中させる。ここだ、と思った瞬間、オレはその空間の歪みへと身をゆだねる。失敗したら、木から落ちること間違いなし。
一瞬、世界は反転し暗くなる。と思った次の瞬間、オレは木の下に寝転がるようにしていた。失敗して木から落ちたのかと一瞬焦りはしたけれど、木の雰囲気も、ちょっと見回した木の周辺も。先ほどまでとは、全く様相が異なっていた。
よっこらせと立ち上がり、もう一度しっかりと辺りを見回してみた。その前に、無意識に「よっこらせ」と本当に口に出していた自分に愕然としてしまったのだが。
先ほどまでいたのは、丘の中腹ほどだった。
今いるのは、どこかの山の中。眼下に広がるのは、山の谷間にできた集落。集落まで、それほど離れているわけではない。顔まではわからないけれど、動いている人たちを確認できる程度の距離。
ここが、彼女の前世が暮らしていた場所――。
前世の層には、前世の記憶が再現されている。生き物も含めて。
だがそれは、あくまで記憶の再生であり、生を持つべき生き物でさえも、プログラムされたかのように同じ人生を繰り返す。この魂に刻み込まれた、彼女の前世が生まれてから死ぬまでを。ただひたすらに繰り返す。
まるでフィルムでも見ているかのように繰り返されるのだ。
後ろを振り返ると斜面になっていて、自分のいる場所が山の中腹だとわかる。だがさっきまでいた丘とは比べ物にならないくらい、山の中は深く険しいのだろうと想像ができる。
少し上には祠のようなものがちらっと見える。どうやら今オレがいるのは、集落から祠へと続く獣道よりはずっとましという程度の山道の端のようだった。
上の祠か、下の集落か。どっちへ行こうかと迷っていると、オレの視界の端を何かが通りすぎた。ちょっとだけ見えた姿かたちは、……犬? 狼? もしかして、さっきの犬神だろうか?
ソレは上へと向かっていた。考えるよりも先に、体がソレのあとを追うように動いていた。