この人の九番目
「えっと…」
寝起き早々に体操競技を披露した少女に、対応を決め兼ねていた。
後頭部をさする当人は、半ば目を回している。
その混乱が収束しないまま、唇が慌てて開かれた。
「そっその、大丈夫ですか、体」
まず思いついたのが、俺の怪我だったらしい。
心配そうな空気が伝わってくるのだが、気にすべきことは他にもあると思う。
「…いや、そっちこそ」
「あ、そうですね…」
お互いに言葉が続かず、沈黙。
昔から、会話を続けるのが苦手だった。
話そうという意思はあっても、内容が思い浮かばない。
発想力に欠けるのは、自他共に認めるところだ。
話題さえあれば、今のような状況も打破できるのだが。
「その、ここは?」
少女に問いかけてみる。
考えてみれば、これほど話題の豊富な状況もそうなかった。
聞かなければならないことが、山ほどある。
少女の動転ぶりに、引っ張られたのかもしれない。
「ああ、ここは、私のお家です。川であなたを見つけて…あ」
少女の焦点が戻ってくる。
同時に、何かを思い出したかのように目を見開いた。
がばっと立ち上がり、寝台に迫ってくる。
「も、もう大丈夫ですから! 追手は見えませんでしたし、ここなら人間にも見つかりませんから、だからその、安心してください!」
その勢いに若干引くも、少女はまったく気付かずに俺の手を掴む。
安心させるように握り込み、上下に揺すぶってくるのだが、振動で怪我をした部位になかなかの鈍痛が走る。
しかも少女の善意が伝わってくるので、とてもつもなく振り払いずらいという付加効果がある。
新手の拷問か、これは。
「ああうん、どうやら色々と迷惑をかけたようで」
当然、声に本音は乗せない。
「いえ、そんな…体は、大丈夫ですか?」
「多分。どこも、一応は動く」
会話の流れを利用して、ごく自然に手を少女の拘束から離し、目の前で五指を動かす。
少女の体が重しとなっていた脚も、問題なく動いた。
「治療してくれたのは?」
「あ、私です。ここには、私しかいないんです」
「ああ、そうか。ありがとう。助かった」
本来なら、相応の謝礼を渡すべきなのだろうが。
今は何も持っていないので、口で礼を言う以外に何もできない。
いつかしかるべき礼が、できればいいのだが。
将来のことを考えると、自然とため息がでる。
前途多難なのは間違いない。
しかし、今そんなことを考えても仕方がないことだけは分かっている。
次の質問を口に出そうとしたところで、ふと手首の違和感に気付く。
金属の重みが、無くなっていた。
手首を眺める俺の視線に気付いたのか、少女がどこか重々しげに口を開く。
「魔封じは私が外しておきました。もう、自由なんです」
聞こえる声には、何か弱くない感情が込められているように思えた。
彼女の表情に、俺は自分の内にかすかな戸惑いが生じるのを感じた。
俺と少女の間には明らかな温度差がある。
そのことに気付き、彼女の何か暗い過去を連想して、すぐに振り払う。
少女のことを何も知らない俺が向けるには、あまりに安い同情だ。
「ああ、なんというか、たくさんの恩ができた」
「いえ、当然のことです! 困った時はお互いさまですから」
ぱっと笑顔になる少女。
両の手のひらを振る姿には、少女の謙虚な性質が伺えた。
表情の豊かな少女だ。
そう思うのは、少女のあの表情が明るいものに切り替わったからか。
分からないが、あの顔をいつまでも見ていたくはなかったのは確かだ。
「そういえば、名前は?」
聞かなければならないことの一つを思い出して尋ねる。
真っ先に聞こうと思っていたのだが、少女の寝起きでんぐり返しのインパクトですっかり忘れていた。
対して少女は、虚を突かれたような顔をした。
「えっ…あ、その……」
その時、少女の声に間抜けな重低音が重なる。
すぐさま腹筋に渾身の力を入れるという、よくある無駄な努力をした俺は、かなり情けない顔をしていたと思う。
目の前の少女が微笑みをこぼした。
発生源は、俺の胃袋だった。
「お腹すいてますよね、すぐ仕度しますね」
「いや、これ以上厄介になるのは…」
「いいんです。どうせ、人なんて来ない家ですから」
あなた一人くらい、お世話させてください――そう呟いて立ち上がる少女は、またあの表情になっていた。
はっとして伸ばしかけた手は、調理の仕度で背を向けた少女に見られてはいない。
ことあるごとに感情を出す己の腕を、俺は深く戒めた。
とんとん、とんとん。まな板に包丁のぶつかる音が聞こえる。
白い華奢な手が迷い無くてきぱきと動く。
調理に集中する少女の背を、寝台の上から眺めている。
材料を切り終えたのか、包丁が置かれる。
細い手がミトンのような厚手の手袋をつけ、台の下、そこだけ石造りになっている部分の戸を開く。隙間から燃える炭が覗いた。
しゃがみこんで顔を近づけ、火加減を確認して閉める。
立ち上がった少女は、まな板の横の金属板がはめ込んである部分に手をかざしていた。
釜戸だろうか。
実物の釜戸を見たことがないのでよくは分からないが、きっと似たようなものだ。
部屋の中に煙が入ってこないのは、壁の向こう側に続く煙突があるからだろう。
包丁を握る前に少女が外に行ったから、きっとそうに違いない。
手際よく作業する少女は、棚から円筒状の箱を取り出す。
木製のそれの蓋を開け、中身を見て、見覚えのある平たい板を突き入れる。
掘り返すような動作とともに出てきたのは、少女の握るしゃもじと、その上に乗る白いお米だった。
途端に腹が鳴る。貪欲に響く、間抜けな音。
反射的に少女の顔を見ると、見事に目が合った。
ふふふっと微笑んだ少女が、どこか嬉しげに調理に戻る。
…ちょっと、恥ずかしい。
今まで、己の忍耐のない胃袋がこれほど恨めしいことはなかった。
ここしばらく味気のない堅パンばかりだったから仕方がない、ということにしておきたい。
にしても慣れた手つきだ。
きっと毎日自炊しているのだろう。
元の世界のようにコンビニで既製品を買うことはできないのだから、当たり前のことなのかもしれない。
料理ができる人をすごいと感じるのは、俺がそうでないからだろうか。
全くできないわけではないが、この少女のように滑らかにはできない。
調理前の準備だとか、実際の手順だとか、必ず手が止まる時間が生まれてしまう。
俺は特に手が不器用というわけではないし、これでも学校は理系コースだ。
それでも料理する時は中々効率的に動けない。
きっと、何よりも経験が必要な分野なのだろう。
一人暮らしになって数ヶ月、時たまにしか料理しない自分ではできないのも当然だ。
自分に料理の才能が無いとは思いたくないので、きっとそうだ。
知り合いの女の子は、土日には一家の調理を担当しているらしい。
なんでも小学校から続く習慣らしく、今では当たり前のように料理をこなせるという。
最近に作ったメニューを聞いたところ「手羽元のやわらか煮」と言われ、安易にカレーなどを想像していた自分と対比して、途方もない敗北感を抱いた経験がある。
挑戦したことがないので難易度のほどは知らないが、自分の料理経験の浅さを思い知る事件となった。
そんな恥ずかしい過去を思い出しながら、少女の背を眺める。
見ている間にも調理が進み、鉄板に材料が落とされる。
じゅうじゅうと香ばしい音。
作っているのは、俺にも馴染み深い料理らしい。
数分の後に、少女が振り向く。
呼ばれるままに食卓へとついた俺の前に、大きめの平皿が置かれた。
ぱらぱらのお米と柔らかな卵、瑞々しい野菜と肉の色調豊かなそれは、俺のよく知る炒飯と寸分変わらなかった。
蒸気があがる。強く食欲をそそる香り。
ごくりと唾を飲む。
目の前の少女はにこにこしていた。
「いただきます」
言うやいなや、平皿に添えられたスプーンを掴む。
慌てずに適量すくい、見苦しくない程度に急いで口に運んで、咀嚼。
もはや懐かしく感じる、お米の食感。
ここ最近退屈していた味蕾が驚き、神経が久方の仕事に歓喜して、信号が大急ぎで脳に届けられる。そして幸福があふれた。
口と皿を往復するスプーンの運動が、こんなにも素晴らしく、こんなにも優美で、こんなにも活気づいたものだとは――そんな意味不明な言葉が浮かぶほどに美味い。
こんなにも美味い炒飯は初めてだ。月並みな感想だが、そう思うのだから仕方がない。
思考するのさえもどかしく、無心で炒飯を胃袋に収めていく。
半分ほど食べ終わったところで、反対側に座る少女の視線に気付いた。
思わず見つめ返したのは、その瞳に何か並でない感情を見出したからだった。
遠慮なく蓄えを潰す客を軽蔑するようなものではなくて、どこか慈母じみた、微笑ましいものを見るような目だ。
幼げな顔に違和感なく浮かぶその表情に、少なからず被る面影があって――
唐突に、母のことを思い出す。
母が作った料理の中で、最も印象深いのが炒飯だった。
連日十数年も母の種類豊かな料理を食べていたのに、なぜか炒飯だけが強く記憶に残っている。
母の作る炒飯は、今食べているものに負けず劣らず美味かった。
未だにあの味をよく覚えているのは、きっと俺自身が炒飯を作ったことがあるからだ。
誰にでも作れる簡単な料理だから、料理にわずかだけ興味を抱いた何年か前の自分にとって入門に最適だった。
母の炒飯と自作のそれを比較して、あまりの違いに驚いた経験がある。
母に料理を師事したことはないし、母の調理を手伝ったことも少なかった。
それでも身近な比較対称として、味も食感も違うことに気付いていた。
きっと炒めすぎだったのだろう。
俺の作る炒飯は硬くてぱさぱさしていて、ぱらぱらながらお米本来のもちもちとした食感の残る母の炒飯とは明らかに出来が違った。
年季の違いというものだろう。
普段母らしくあろうとしながらも母らしくない様を見せる母の、なるほど母親だと納得できる数少ない一つだった。
だからきっと、俺は母の料理に対してだけ母を母だと認めていた。
他に見いだせるものがなかったから、おそらくそれは必死の探索だった。
この上なく冷徹な自分を否定するための手段だった。
意味のないことなのに形だけでも取り繕うとする姿勢が、当時の俺にはあったからだ。
始めから意味のないことに、後から付加価値が生まれることはない。
価値、つまりその効果とは、正しい起因があってはじめて生じる。
もとから自分が持たない感情を無理に引っ張り出そうとしたところで、所詮は付け焼刃に過ぎないのだと、俺は数ヶ月前に思い知ったのだ。
だから目の前の少女の望むことが簡単に分かる。
「美味い」
俺の素直な賛辞に、少女の笑顔が綻ぶ。
その笑顔に罪悪感めいた何かを感じる自分は、どこまでも中途半端だ。
「料理上手いな。いつも自分で?」
この家に一人暮らしであることはすでに聞いた。
それでも質問したのは、少女の期待に応えるためだ。
「はい! こうやって自分の好きな料理を作るのが、ずっと夢で……叶ったのはここ数年なんですけど、もう趣味みたいになってます」
「ああ、なるほど」
やはり料理の上達には数年の歳月が必要らしい。
相槌をうちながら、炒飯を口に運ぶ。美味い。
「この家だって、設計には苦労したんですよ」
「設計?」
思わず、スプーンの往復が止まる。
「はい。ちゃんとした料理を作るにはどんな場所が必要なのか研究して、火の扱いとかにも悩んで、時間をかけて建てたんです」
「建てた?」
「そうです! 自分で建てたんです!」
誇らしげに言い放つ少女。
こうも見事なドヤ顔は、初めて見たかもしれない。
スプーンを皿に乗せて、天井を見上げる。
きっちり整形された木材の、板張りの屋根。
途中に渡る二本の梁は、太くて頑丈そうだ。重さも相当だろう。
「え、ああ…なんというか、すごいな」
言語野が麻痺しつつある。
少女の瞳に、揺らぎは見られなかった。
「はい、苦労したんですよ。周りにたくさんありますから、木には困らなかったんですけど……中々綺麗に切れなくて」
レンガも日干しじゃ脆いですし――あと換気とかも――結局火の調整は外でしか――雨漏りの対策が――
堤を切ったかのように喋りだす少女は、全く口を止める気配がない。
一つ一つに相槌をうつのが精一杯で、疑問を差し挟む余地はなかった。
華奢な少女でも一生懸命努力すれば、木造家屋を建てることもできるのかもしれない…
そんな感想を持つほどに、話の尽きない少女の眼に嘘がない。
生き生きと話す彼女を見て、無粋な詮索をする気が起きなかったというのが本音だ。
この笑顔は、見ていて悪い気はしない。
それからしばらく、冷め始めた炒飯をつつきながら、小屋の建築秘話に耳を傾けていた。
今が朝をいくらか過ぎた時間帯だと気付いたのは、少女が食後の散歩と銘打って俺を外に連れ出した時だった。
少女に続いて戸から一歩出た時、まず視界に入ったのはたくさんの切り株だ。
水平な切り口を晒す木の根元が、少女の家を囲うようにして点在していた。
元々その上に生えていた部分が小屋の材料となったのだろう。
断面に顔を見せるキノコや植物が年月を物語っていた。
少女に呼ばれて家の側面に回る。
大量に積み重ねられた薪と、煤に塗れた一角があった。
石造りの壁面に穴があって、覗けばまだ燻る残り火が見えた。
釜戸のある壁のちょうど反対側に位置している。
「薪を毎日切るんです。最初は力加減が難しかったんですけど、もう綺麗に――」
少女はとにかく自分のことを話したがる。
散歩などと言っていても、本当は建築秘話の延長をしたいのだろう。
少しの間も開けずに、ここでの生活の様々なことを俺に紹介してくる。
少女がずっと話し続ける構図だが、迷惑だとは全く思わない。
間をつなぐために俺から話題を振ったりしなくていいので、むしろ楽なほどだ。
それでもかなり長くなってきており、俺の相槌は半ば自動化しつつある。
話を聞きながら意識を別に向けていることもその要因だった。
たまに目を合わせて頷いたりすれば、少女にばれることはない。
気になっているのは、少女の家の立地だ。
家を囲む切り株の群れの先には、どの方位にも森林がある。
少女の家が、どこか森の中に一つだけぽつんと建っているということだ。
少女の言い回しから予想はしていた。
実際に確かめてみると、こんな森の中に住んでいる理由にまで思索が及ぶ。
さっき直接聞かなかったのは、それが何か少女の深い部分に触れてしまうことを危惧したためだ。
人はそれぞれの事情を持つ。
興味のままに根掘り葉掘り尋ねる行為は、初等教育で戒められる無礼だ。
しかしひたすら自分を紹介する少女を見ると、むしろその話を聞いた方がいいのではないかと思えてくることも確かだ。
聞いた話では、大まかに分けると男性と女性では人との会話に求めるものが異なるのだという。
少女が内心を吐露すること自体を目的にしている可能性も、おそらく十分にある。
少なくとも会話の相手に飢えていることは間違いない。
俺は多分、人との会話の先に目的を置きたがる人間だ。
相談することが直接状況の改善に繋がらないなら、どんなことでも胸に仕舞う。
それで苦労したことがないから、会話そのものを目的とすることに疑問が生まれてしまう。
しかし実際女性にそういう性質が多少なりともあることは、これまでの経験で分かっている。
そしてその機会の大抵は、女性が自分から話を切り出してきた。
この少女なら、きっと俺から踏み込まずとも胸襟を開くだろう。それが必要なことならば。
それまでは保留、ということで思考を終える。
少女の話も下火になってきていた。
考え事をしていたせいで、ほとんど記憶に残っていないが…
ばれなければ問題ない。
演技力には多少の自信がある。
「あ」
にこにこしている少女が、思い出したように声を上げる。
口の端を吊り上げて、より笑顔になった。
「近くに川があるんですよ。ちょっと行きませんか?」
森をいく清流が忙しげに流れている。
森林というよりは山の傾斜が緩やかな部分なのだろうか、大小の白岩が無数に川岸を埋め尽くして、様子は川でも上流だ。
森と川岸の境目から流れに向かう少女が、大きな岩に勢い良く飛び移る。
岩の端で再び跳ねて、別の岩へと移る。いくつもの白岩を飛び渡って、俺に振り向く。
行きましょうよ、と元気よく呼ばれて、俺も岩から岩へと飛び移って少女の元へと向かう。
再び川に向かい始めた少女は、楽しそうだった。
この地形をあんな風に楽しめる時期が、昔俺にもあった。
田舎の川に行く機会があると、毎回豊富な段差を楽しんでいた。
体を動かすことが快感で、高い岩から高低差で遠くへ飛び移ることがとても格好良く思えた、初等教育の頃の自分だ。
少女の年齢は、あの頃の俺より数年年嵩だろう。
それでも幼なげな顔と小柄な体だから、むしろよく似合っていた。
うるさい餓鬼は苦手だが、無邪気な子供は嫌いじゃない。
日本なら、面と向かって子供と呼ぶと怒られそうな年頃ではあるが。
少女のことを、兄か親か、保護者になったような気分で見ていることに気付く。
世話になったのは自分の方なわけだから、この感情は今の少女の様子に触発されて生まれただけのものだ。
安易な認識を持つと少女との関係に変な影響が出るだろうから、一時的なものとみなすしかない。
しかし今少女に感化されている状況を、悪くないと思う自分もいる。
それが異世界召喚という異常極まる事態だからこその、防衛機構の働きである可能性にも気付いている。
だから今自分に必要なものは何か、表面化を待つまでもなく分かっていた。
川に着いた。先に到着した少女は、靴を脱いで裸足になっていた。
向こう側に渡りませんか。そう言われて対岸を見る。
川幅の広がる部分が、浅く緩やかな流れになっているのが分かった。
足場になりそうな岩が対岸まで点在している。
少し歩幅を大きくとれば、濡れずに辿り着くこともできそうだ。
少女が再び俺の前を進む。
俺は再び少女の背を追う。
川へ落ちないよう慎重に、少女の踏んだ岩を辿る。
足元に集中しているうちに、いつの間にか川の中ほどまで来ていた。
水面に多くの面積が出ている岩で、少女が止まった。
二人いても余裕があるから、俺も同じ場所で止まる。
この場所が好きなんですよね、と少女が言う。
川の中央に位置するここは、穏やかな流れもあって確かに居心地が良かった。
この静かな自然の音の中で昼寝などすると気持ちいいかもしれない。
今度は俺が前になって、再び浮石の道を進む。
いくらか道のりを消費して、ふと後ろを向くと、少女と距離が空いていた。
比較的大きな岩の上で止まる。
俺に追いつこうと急ぐ少女を待っていると、一つ前の石に少女が足を乗せた時、石が揺れた。
体重移動は既に始まっていて、軸足が揺れている。転倒の先触れに、俺は咄嗟に腕を伸ばした。
少女が俺の手を掴む。
浮石が回転を始める前に、俺の乗る岩へと飛び移った。
二人で川に落ちないようにバランスをとる。
さほど広くない足場の上で、少女の体温を感じた。
ここまでの道程で、少女は少し息が上がっていた。
ここは浅瀬だから、落ちてもすねが濡れる程度だっただろう。
少女を助けたのは条件反射に近い。
バランスをとるには密着するのが最適だったから、少女の手は俺の背中へ回されている。
胸のあたりに、少女の頬が着いていた。
暖かい少女の体に、しかし煩悩が顔を出すことはなかった。
もっと純粋で尊い感情に支配された。
少女が笑顔の裏に隠すものを確信した。
体制が落ち着いても離れない少女に声をかけようとして、水音に隠れた少女のか細い呟きを聞いたからだった。
人肌……
どれぐらいこうしているのか、もう分からない。
少女が俺を抱きしめるのと同じように、俺は少女の背中へ腕を回している。
そうすることが、深い部分を少しだけ露わにした少女への応答になると思ったからだ。
心細げな手を払えるほど、冷たい人間ではいられなかった。
過去の行為と矛盾していることを自覚しながらも、俺は精一杯優しげな動きを心がけた。
今のこの感情が、この状況故の一時的なものだと理解している。
自分を冷徹な人間ではないと信じながらも、否定し難い事実が過去にあったからだ。
決して恋愛感情ではない。そんな複雑なものではない。
もっと無駄を削ぎ落とした先にある普遍的な何かだ。
もっと原始的な、人と人が安堵を交換し合う過程で生まれるという、ただそれだけのものだ。
相手を慈しむという意味では、恋愛感情の大元と言えるのかもしれない。
ただ、そのような複雑なものよりはずっと薄情だ。
これを安易な感情だと表現すること自体が、きっとすでに安易だ。
この時この間で、俺と少女は互いに必要なものを少しだけ満たした。
内心に抱くのは幻想だ。
終わってしまえば、消え去るのは早い。
「すみません、突然こんなこと」
「いや…」
発端は偶然だった。
偶然が生んだ状況が、互いに都合よく働いたに過ぎない。
少女はどこかすっきりしたような顔をしていた。
俺もきっと似たような顔になっている。
口のうまい男は、このまま女性の悩みを聞き出したりするのだろう。
俺にそんな技術は備わっていないし、そう必要なものだとは思っていなかった。
こんな時に最適な言葉をかけることが、そのまま必ずしも最良の結果に結びつくとは限らない。
他者の言葉などなくても、自分で解決してしまう人の方が多いからだ。
その過程の原動力として他者の行動が必要なのであって、言葉が必須なわけではない。
俺自身は他者の行動を望んだことはないが、望まれたことはある。
人は思っているよりも強いということに気付いたのも、その行動の過程でのことだ。
どんな人間にも当てはまるようなことではないだろうが…
目の前の少女は、きっとそういう人間だ。
「…お魚、釣りません? 戻って、道具を取りに行きませんか」
「釣りか…釣れる自信がない」
「大丈夫ですよ、よく釣れる場所がありますから」
今この場であったことは、俺にとっていつまでも引きずるほど劇的なことではなかった。
少女の内心までは分からないが、少なくとも俺が望むものを得ることはできた。
しばらくは、何の問題もない。
きっと少女もある程度満ち足りたから、話の転換は早かった。
俺たちは釣りの道具をとりに、一度小屋へと戻ることにした。
結果から言うと、魚は面白いように釣れた。
この近辺で釣りをする者は少女しかいないから、水中で揺れる餌を不審に思う魚は少ないようだった。
桶に満杯となった鮮魚のいくらかをその場で焼いて昼食とした。
口から串を生やした小ぶりな魚が、焼け焦げた頭だけとなって岩肌に並んでいる。
火の残骸を踏み消して後始末をした。
釣りの間や火の仕度の間、食事中にも、少女はよく喋った。
喋ることが生きがいであるかのように無尽蔵に生み出す話題は、勢いが強過ぎて止まる気配がない。もう本人にも止められないのかもしれない。
例えば、もっと大きな魚を釣ったことがあるという少女にそのサイズを聞いてみたところ、本マグロに勝る体躯であったことが判明した。
他には、家に山ほど積み重ねてある卵の出所が高さ百メートル超の崖肌の鳥の巣であることも分かった。
…少しばかり脚色がされているように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
魔法を使えばできるのかもしれないが、少女の華奢な体からはあまりに想像し難い。
話を盛ることは、場を盛り上げるのに効果的な話法の一つだ。
人のそれにどれほど上手く乗れるかが、会話の行方を決めると言っても過言ではない。
過言ではないが…
気にしないのが一番だ。
全て魔法でちちんぷいぷいとやってしまえるという仮説で、どれも完璧に説明がつく。
何の問題もない。
そうして時間が過ぎていくと、いつの間にか空が暗くなっていた。
それに気付くとともに、俺はある話題を出し忘れていたことを思い出した。
本来ならもっと最初のうちに済ませておくべき話が、まだ片付いていなかった。
その機会を伺いながらも、俺はどう切り出すべきか決めかねていた。
他ならぬ少女が、その話を避けているような気がしたからだった。
いざ話そうとすると、少女が機関銃のように自分の話を始めてしまう。
偶然かどうかは分からないが、その話はとりあえず明日の朝まで曖昧にしておくことにした。
きっとその方がお互いにとって都合がいいと思った。
夕食に少女が調理した魚と米を食べて、醤油の存在に内心驚いたりしながら、時間が過ぎる。
食後の今は、少女の習慣で身を清める時間に当たるそうだ。
言いにくそうな顔の少女の要請に応えて背中を向けてから、壁を見つめる俺の背後で衣擦れの音がする。
浴槽のようなものはないから、身を清めるといっても日本のような形式ではない。
髪を水で洗い、体は濡れ布で拭くぐらいらしい。水溜めは部屋の隅にある。
俺がいるからか、少女は急いでいるようだった。
音から察するに服を着たまま、最低限済ませているのだろう。
元からそういう関係ならまだしも、今日知り合ったばかりの少女に劣情を抱くほど獣ではない。
あれはそれ専用の雰囲気があってこそ成り立つものだ。
付け加えるなら、幾つも年下の少女に手を出すほど飢えてもいなかった。
少女が終えた後、俺が入れ替わりに水溜めの前に立つ。
底の広い桶に汲んで、波打つ水面に両手を突き入れる。
両手で掬い顔にかけると、前かがみの姿勢でも冷たい水が首を伝っていった。
上半身だけは脱いである。
濡れた手で髪をすかすと、油が指に付いた。
ここ何日かこういう機会がなかったため、やはりというか不潔だ。
思い切って桶に頭を突っ込み、わしゃわしゃとかく。
呼吸の限界がきて顔を上げた時には、大分すっきりした。
少女から受け取った布で頭を拭き、続いて体も拭いていく。
シャンプーやボディソープなどはないから多少汚れが残ってしまうが、この際仕方がない。
やらないよりはずっとましで、体も一通り拭き終わるとさっぱりとした清潔感があった。
それらを終えた後に、水を外に捨てた。
時間で言うなら九時頃だろうか。
日本なら大抵の人があと二時間ほどは起きているのだろうが、この世界ではこの時間に床につくのが普通なようだ。
蝋燭のようなものに火が灯されていて、部屋は薄暗い。
この時問題になったのが、寝台の数だ。
少女が一人暮らしをするこの家に、来客用の予備はない。
「俺は床に寝るから、どうぞお気遣いなく。おやすみ」
至極妥当な提案に、しかし少女も思うところがあるようだった。
「いやいや、あなた怪我人じゃないですか。そんな冷たいところで寝かせられません」
少女としても俺を拾った責任を果たそうとしているらしかった。
実際には、そんな重傷ではない。
腕を中心に擦り傷と打撲があちこちに点在しているだけで、骨や内蔵に損傷があるわけではなかった。
「そんな心配しなくても」
「駄目ですよ、ほんと駄目です。それにせっかくのお客ですし」
「もう十分お世話になってる」
「いいんです、遠慮しないでください。やりたくてやってるんですから」
少女はやはり意志の強い人間であるらしい。そう簡単には折れてくれそうになかった。
しかし年下の女の子を床に寝かせて悠々と寝台で休めるほど、俺は図太い神経を持つわけではない。
お互いにそうだから、このままでは平行線だ。
「そういえば、俺を見つけたのはいつぐらいだった?」
「昨日の夕方ですけど…」
思ったよりも長いこと意識がなかったらしい。
「じゃあ俺は昨日の夜ずっと寝台を占領してたわけだ。つまり順番から言って今日はそっちが使うべき」
「え、まあ、そうかもしれませんけどっ…でも駄目です」
「じゃあどうする」
「だから私が床で寝ます」
「いや、却下」
「全くもう…」
そんな聞き分けのない子供を見るような顔をされても困る。
少女だってかなり頑固だろうに。
「もう、一緒に寝る?」
俺が二人なら無理だが、俺と小柄な少女なら多少窮屈な思いをするだけで済む。
今の今まで提案しなかったのは、少女の反応が気になったからだ。
「あ……じゃあ、そうします?」
疑問形に疑問形で返されたということは、少女も同じことを考えていたらしい。
お互い生物学的に多感な時期だ。こういうことはためらわれるのが普通だろう。
俺はあと少しの期間で成長のピークを迎え、老いに転じる境目ではあるが。
「じゃあそういうことで」
早々に寝台に上り、膝まで毛布をかける。
多少ためらいながらも寝台に乗ってきた少女ごと、毛布で体を覆う。
少女と肩から肘にかけて触れているが、眠気のせいでそんなことは気にならない。
なんだかんで、体が疲れていた。
「なんでそんな、平然としてるんですか?」
あくびを手で隠す俺に少女が問いかけてくる。
その言葉の意味は、もちろん分かっている。
まずはそういう風に見せかけるのがいつものやり方だった。
「多少慣れてるから」
横を見ると、少女はなぜか不思議そうな顔をしていた。
何かが腑に落ちないという風に、深く考え事をしているような顔だ。
しかしそれも短い間のことで、その表情はすぐに消えた。
それよりも、少女の耳が赤いことが気になった。
元々色白だから暗くてもよく分かる。
さっきは一括りにしたが、俺などよりも少女の方がよほど多感らしい。
俺の視線に気付いたのか、少女が慌てて寝台横の蝋燭を消す。
完全な暗闇となり、何も見えなくなる。
それでも、少女が顔を手で覆っていることが気配でなんとなく分かった。
しばらく目を閉じてまどろんでいると、やがて隣から聞こえる呼吸音が規則的になった。
どうやら少女が寝入ったらしい。
規則正しい生活のため、寝付きがいいのだろう。
俺はどちらかというと、夜は中々寝付けない人間だ。
そこそこ不規則な生活であったことも理由だろうが、暗闇の退屈さに負けて考え事を始めたりすると決まって眠れなくなる。
よほど疲れている時は別だが、脳がいつまでも起きていて、寝入っても浅いことが多い。
今日もそのようだった。
というよりも、この世界に来てからずっと眠りが浅い。
ぐっすりと眠れるような環境ではなかったし、俺自身そんな心境ではなかったせいでもある。
原因を洗い出そうするとどうせ憂鬱な気分になるので、自然に寝れるように意識を別のことに向けるべきだろう。
きっと少女の朝は早い。
目を開けた。
完全な暗闇だが、隣で眠る少女の体勢ぐらいは分かる。
胸が上下している以外に動きはない。
少女に触れている右肩をゆっくり離し、その肩を下にして横向きに寝転がる姿勢となる。
何ぶん窮屈な寝床だから、それだけで少女の横顔がすぐ前にきた。
今までに経験したどの女性とも違って、少女の髪の毛はどこか不思議な香りがする。
シャンプーはないから、川の水と日の光で育まれた香りだろう。
それなのに髪質はさらさらだ。
日本では皆良い物を使いたがるから、女性なら誰でも似たような香りがするものだった。
風下に立ったりするとそれがよく分かった。
それを良い香りだと思いながらも、髪を気にかける彼女たちをどこか無個性に感じていたのも確かだ。
学生だからこその画一化だったのかもしれないが、すれ違う大人たちも似たようなものだったように思う。
髪型ではなく香りに違いを見出すこと自体、あまり一般的ではないのかもしれない。
全てひっくるめて体臭と呼ぶなら、そこまで大きな声で話せるようなことでもないのだろう。
この少女の香りは、そう悪くないように思えた。
だがそれもきっと、珍しさからくるだけの一時の感想だ。
今に意識することもなくなる。
今この時心地よさを感じていたいだけだから、それで十分だ。
先のことを考えるなら、少女に情を移すべきではないからだった。
目を閉じて、無駄な思考も終える。
少女の香りに集中することが、きっと睡眠への近道だ。
異性に身近であることに、安心を感じる部分が俺にあるから――
唐突に目覚めた。
底冷えするような感覚が、ほとんど閉じた脳髄でも明確なほどにあった。
頭の機能が働き始めて、少女の不在を知らせる。
冷たいのが腹や足ではないことに気付いて、それが不安であることに思い至る。
隣にいるはずの少女は影もなかった。
暗闇だからと手を伸ばしてみても、空っぽの毛布があるだけだった。
少女の行方を気にする自分に気付いて、頭が完全に起きたことを悟る。
普通に考えれば、そう大それた事態であるはずはなかった。
何しろ俺が少女の動きで起きなかったことがその証拠だった。
ほぼ無音という状況が、大変な思い違いをしかけた自分をからかうかのようだった。
それでも消えない感覚に従って、結局少女を探す俺がいた。
こうも内心と裏腹であることは珍しいが、裏腹なのが内心である可能性も否定しきれなかった。
何しろ、俺が不安を抱いたのは事実だったからだ。
家の中にはいないことが分かったので、外に出てみることにした。
戸を腕で開けようとして、何の抵抗もなく開き始めたことに違和感を抱く。
ひとりでに開いた戸の先には、驚いたような少女の顔が月に照らされていた。
「あ、起きたんですね。どうしました?」
「いや…」
何故だか、少女が居ないから探していたとは言いにくかった。
「そっちこそ、こんな夜更けにどうした」
「あ、いや……その、散歩です。なかなか寝付けなくて」
少女が完全に寝入っていたのは俺が確認した。
それに今しがた同じ反応を示した自分がいたから、少女が何かを隠しているのは明白だった。
「そうか」
俺には言いにくいことなのかもしれなかったから、深く追求はしない。
それでも、どこか迷うような少女の姿に未練が残る。
ここで俺が言及すれば、少女は己の深い部分をさらに晒すかもしれないという予感があった。
しかし結局そうしなかったのは、また別の勘に従ってのことだ。
何か少女と決定的な齟齬を生むことになるような、そんな気がした。
少女の抱えるものが俺に処理できない事態を恐れる自分が、この時確かにいたということだろう。
これからしばらく先の未来に、俺はこの選択を強く後悔することになる。
いや、この時の勘違いこそを恥じる。
表面上の少女に感化されるあまり、少女の内の重大な悩みに気づけなかったことを恥じる。
この日のやり取りの中でほんの少しだけでも言葉を変えておけば、そうと思わずとも少女を騙し通せたという事実を悔いる。
この日少女に深入りしなかった自分を臆病者だと、あるいは無責任で自分勝手だと罵る。
この日ばかりは、将来への不安から目を背けていたかったからだ。
この日だけなら、少女に感化される自分なら真に休めると信じたからだ。
この日、俺は明らかに鈍かった。
より正しくは逃げていた。
無意識の内に少女を利用して自らの楽を追求しようとしていた。
それを理解して自分を切り刻みたくなる時が来ることを、この時の俺は露ほども予期していない。