この人の八番目
考え事をしている。
いつだって考えている。
常に冷静に物事を見つめて、最善の対処をしてきた。
そう思っていた。
自室にある、黄色の合成革のソファー。
それに深く腰掛けて、深くため息をつく。
最近そこそこ楽しめていたはずの人生が、また陰りを見せてきた。
でもそれは、今までも慣れ親しんできたこと。
また前に戻っただけであって、物事の前後で俺に大きな変化はないはずだ。
確かにその通りなはずなのに、なぜこうも気分が重くなるのか。
あるいは、俺が自分で思っているよりもずっと感情的な人間であることの証明なのだろうか。
思考の分だけ重たい頭を動かして、顎を引き、下を向く。
右手に握られるのは、そろそろ時代遅れになってきた中折れ式の携帯電話。
画面に表示されるのは、一通のメール。憂鬱の原因。
数十秒前に何度も読んだばかりで、再び見る気にはなれない。
内容も思い出したくない。
思い出すべきではない。
考えても疲れるだけだ。
答えの出ない問いを考え続けるのはとても簡単なことで、一種の現実逃避とも言える。
すぐに頭を切り替えて、前を向くべきだろう。
ポジティブ思考とはとても言えないが、それでも現在俺にできる最善のことであるはずだ。
その第一歩として携帯電話を操作し、一連のメールと、さらに関連するメールを全てを削除。
結構な長文に、返信する気は元から無かった。
とりあえずソファーから立ち上がって、伸びをする。
座っていたのは数分のことだったが、それでも体は固くなっていた。
こんなところにも影響が出ていることに気づいて、意味もなく口の端を上げる。
強がりというよりも虚勢で、虚勢というよりも、自嘲の笑み。
部屋に自分以外誰もいない今においては、本当に意味がない。
ただ、そうせずにはいられないだけだった。
明日は、何の授業があったか。
伸びを続けながら考えると、欠伸が出てくる。
噛み殺している間に出た答えの中で、特に予習の必要なものを探す。
期待に反して、緊急性のあるものは無かった。
普段そこまでやる気を出しているわけでもないのにと疑問に思うと、明日は水曜日であることに気づく。
単に授業編成の都合上、毎週水曜日だけは主要科目の割合が少なくなるだけだ。
火曜である今日はほぼ全ての授業が主要科目であったことを考えると、バランスが偏り過ぎだとも思う。
そこは他のクラスの授業との兼ね合いもあるので、仕方ないのだろう。
適当に決めているはずもない。
世の中の身近な物事はほとんどが既に完成されていて、特に社会の仕組みは俺なんかが言及できるほど粗いものではないのだ。
先人たちの手で合理化された中で、規定通りの仕組みと、それに従う人生がある。
学歴と能力に応じた仕事を得て、それに見合う報酬を貰い、その中で実現可能な生活を営んでいく。
それは、ある程度予測できるものだ。
所得と消費と税金の足し引きを何パターンかに分けて計算すれば、平均が見えてくる。
条件をより具体的に絞れば、出てくる数値に大きな差はないだろう。
退屈だ。
先が見えてしまうのは、退屈だ。
「学生のうちが一番楽しい、特に大学は格別だ」
周りのどんな大人も口を揃えて言う言葉を、俺はそう解釈していた。
面白みが、先にないのだ。
新鮮な人生は学業とともに終わりを迎えて、あとは単調な繰り返し。
それを心の裏側で嘆いているからこそ口をつく言葉なのだ。
そうとしか思えない。
修学に目的のある人は、人生をずっと楽しめるのだろうか。
なら俺は、と考えるまでもない。
よくいる他人と同じように、何の生産性もない娯楽だけを目的としているだけだ。
自分以外にとって本当に意味がない行為を、ただ自分のためだけに繰り返す日々。
自己満足だけで生きてきた。
それがどれだけ空虚なことであるのか、俺はよく知っている。
打破しようという試みは幾度もあったが、ことごとく失敗してきた。
数少ない希望も、数分前に壊れてしまった。
次を手にするのがいつになるのか、分かったものではない。
例えその機会が将来に点在するとしても、不安定で不確定で、期待する気にもなれない。
ならばなぜ今生きているのかというと、何の理由もない。
日々与えられた課題をこなして、ただ己の能力を高めていくだけだ。
それに何の方向性もなく、流れていく過程でたまたま身についていっているに過ぎない。
価値がないのだ。
その能力に、そしてこの俺に。
そんなことはとっくの昔に自覚していた。
同級生の中にも、きっといるだろう。
学生と言えば考えに偏りはあれど、自己分析ができないほど馬鹿ではない。
そして馬鹿のように振舞うことは簡単にできても、自らの内心までごまかすことはできない。
あるいは、それをできるようになるのが大人になるということなのだろうか。
もしそうなら、それは退化ではないのか。
内心の操作が可能になるのはそう進化したからではなく、それ以外の機能が閉じたからではないのか。
退屈さを耐え忍ぶだけの毎日なら、生きていると言えるのか。
それとも、そこに目を向けないことが処世術なのか。
それは、今の自分と大して変わらない気がする。
ただ社会に叩かれて鍛えられ、頑丈になっているだけだ。
空元気の得意な子供と同じであって、本質的な変化がない。
それとも、それは当たり前なのか。
誰しもがその道を進むのか。
もしかすると、それは世の中の大人の九十九パーセントを占めているのかもしれない。
もしそれが真実なら、救えない。
なぜなら、それはただ流れるままに成長した未来の自分を肯定する、決定的な根拠だからだ。
この世のほとんどの人間には価値などないのだ。
いつもどおりの結論に達して、ふと我に返る。
切り替えられるべき思考は、変わったようで変化していなかった。
悪い知らせが悪い思考を呼んでいた。
こんなことを考えるべきでないのは、分かっている。
ただ、全ては本心からだ。
日常生活は疲れることばかりで、そして自らが娯楽とすることは元から多くはない。
それゆえに至る結論であって、世の中の真理などではない。
思い返してみると、穴だらけの論理だ。
将来の職業を退屈だと決めつけ、職業以外に娯楽が存在しないことが前提になっている。
職業を娯楽の一種として見ているのだ。
つまり俺は、自分の将来の職業に高望みをし過ぎているのだろう。
要は、仕事と娯楽を完璧に分ければ良いだけだ。
だが、その高望みを捨てきれないからこその論理だった。
全ては、本心から生まれるものなのだ。
しかし俺に価値があるとは、思えない。
今の俺は、仕事や娯楽といった変数に代入すべき定数を持たない。
探そうとする意欲があるのかすらも怪しい。
悪い知らせは、悪い現実をさらに悪くする。
いや、前からもそうだったのだ。
気づけば、いつだって虚無的だ。
でもそれを嫌悪する程度には、自らの変化を期待しているという矛盾がある。
そして、変化などしないという現実によって生まれる空虚感なのだ。
絶望と言うには緊迫感が足りない。
甘えと言うには重たすぎる。
結論として、俺はいまだに子供なのだろう。
曖昧に考えたところで、徒労感が限界を迎えた。
部屋の明かりを消す。
のそのそとベッドにもぐりこんで、枕の位置を調整し、携帯電話のアラーム設定を有効にする。
仰向けに寝そべる体勢で、携帯電話の画面が視界に入るように右手で掲げる。
見ているのは、容量と使用期間に対して少なすぎる受信メール欄。
不自然に開いた時間表記が、もともとあったメールの存在を示していた。
その様々な内容を一部思い出して、そして地味に腕が疲れてくる。
携帯電話を手のひらで折りたたんで、枕の横に置いた。
しばらくは、バスや電車の中でマナーモードに設定する必要もないだろう。
睡魔はすぐに来た。
いつもより二倍増しに憂鬱な思考をまどろみの中に導いて、数少ない快適な世界へと誘う。
重苦しい精神が睡眠の快楽に沈んでいくのを感じながら、俺は思考を閉じていった。
そこで目覚めた。
悪夢の残滓と付随する倦怠感がうっとおしくて、両手で顔を覆う。
当時のことを努めて思い出さないようにしながら、睡眠でこわばった表情筋をほぐしていく。
…最悪の目覚めだ。もう、本当に、忘れ去ってしまいたい――
――目覚め?
急速に思考が動き始める。
目覚めた脳が認知したのは、横たわった今の姿勢と、体を包む柔らかな感触。
何かの生き物の毛皮……毛布だ。
顔を包む手をどけると、合掌造りの天井があった。
頭の位置三メートルほどの高さに支柱が二本ほど渡っている。
木目が直角に切り出されたそれは太く、いかにも頑丈そうだ。
寝た姿勢のまま首を横に向けると、木製の小屋らしき内装が見えた。
干し肉のようなものが壁に釣ってあって、その下にはいくつかのざるが置かれた棚がある。
堅い木の皮を組んだらしいざるの一つには、白い卵が山となって入っている。
その隣のざるの隙間からは山菜らしき緑色が見えた。
小屋の中央には四本足の机がある。
木製の食器らしきものや、黒っぽい金属のフライパンのようなものが積み重なっていた。
俺はというと、小屋の隅の寝台で横になっている。
木の台と毛布の、なんとも簡易的なものだ。
それでも十分に柔らかく、暖かい。
そう感じるのは、ここ数日の酷い生活のせいなのだろうが…
どうしても感じ入るものがある。
そうだ。
俺は、なぜここにいるのだろう。
樹上から落下し、山の急斜面を転がり、落ちた川の急流で溺れて、意識を失い、それでも、死ななかったのか。
なかなかに、運が悪いように思えた。
…ここの住人は、どこにいるのだろう。
この小屋に着いた経緯は分からないが、少なくとも一泊の恩があることは間違いない。
取り敢えず毛布から出ようと、肘をつき横たえていた上半身を持ち上げようとして、腕に激痛。
見ると、両腕の手首から肘にかけて葉っぱのようなものが巻いてあった。
同時にひんやりとした感覚がして、これは湿布の類だと気付く。
そういえば、落下する時に腕で体をかばっていた。
あの時は体の傷を確認する余裕もなかったが、あれでは負傷がない方がおかしい。
どうやら、ここの住人には一泊だけでなく治療の恩まであるようだ。
無事だった腹筋と肘を利用して、なんとか上体を起こす。
そのまま足を床に下ろそうとして、しかし異様なほどの重みがあった。
はっとした。
まさか、足はさらに重傷か――
部屋の内装に向けていた視線を、すぐさま正面に戻す。
飛び込んできた光景には、腰から足先までかかる毛布と、そのすねの辺りを枕にした、寝台にもたれて眠る少女の姿があった。
首がこちらに向いているから、寝顔が丸見えだ。
白い肌に多少の赤み。細い眉と、小顔を縁取る輪郭の柔らかな頬。
黒髪のショートカットが狭い額にさらさらと流れている。
浅めの鼻梁と小顔に比例した小鼻が、控えめな唇ととともにバランスよく収まっていた。
少なくとも、俺より二つか三つは下だろう。
閉じられた目蓋の間から睫毛が流れ、寝息が細長く漏れる。
その呼吸が、彼女の頬から毛布を介して俺へと伝わってきていた。
儚げな少女だ――――
はっとして、彼女の頬に伸ばしかけた手を戻す。
ある衝動に駆られて無意識のうちに動いた己を、必死に律した。
なかなか見ないほどに可憐な少女だったから、過酷な懐かしさがあった。
根強い古傷が、深い断層が活発化するその前に思考を止める。
彼女は赤の他人なのだと、自分に言い聞かせた。
――――俺は、こうも感傷的な人間だったか
結局、現れるのはいつもどおりの自嘲だ。
不必要な思考をかき消して、現実と向き合う。
とにかく、この子はここの住人と見ていいだろう。
華奢な腕からして、俺を運んだ誰かが別にいると考えるべきか。
いづれにせよ恩人の一人に礼をすべきだ。
しかし少女の気持ちよさそうな寝顔を見ると、そうそう起こす気にはなれない。
彼女が自然に起きるまで、足を動かさず待つしかないだろう。
それまでの時間を、普段なら退屈と感じるのだろうが…
しかし今は、久々の安寧に安らいでいる。
この世界に来て始めて、監視の目がないからだろう。
落ち着ける時間は常に限られていた。
今が自由かというと、まだ分からない。
魔女が俺を捜索するだろうし、正体の不明な蒼髪の男たちのこともある。
さらに言えば、この少女がそのどちらかに組みしている可能性も当然あるだろう。
意識を失う前後の状況と、この小屋の様子からして薄そうだが…
少なくとも魔女とその兵士によって探されていることは間違いない。
襲撃者との戦いからして、奪取されそうになればためらいもなく俺を殺せるようだが、異世界人の召喚には多少以上の対価が必要であると見ていい。
なるべく俺を回収したいと考えているはずだ。
ここも、いつかは見つかってしまうかもしれない。
第一、魔女の後ろには国家権力が控えている。
この少女か、もしくは別の住人が怪我人を拾って介抱するような善人であっても、この国の国民である以上は俺を魔女に突き出す可能性は十分にある。
または、突き出さざるをえない状況になることも考えられる。
この小屋、いやそろそろ家と呼ぶべきか、とにかくここにいる現状を楽観視してはいけない。
蒼髪の男たちのこともそうだ。
彼らは明らかに俺の奪取を目的にしていた。
おそらくは、異世界人を得たい別の陣営からの刺客なのだろう。
とすれば、彼らも魔女と同様に俺を探していると考えるべきだ。
捕まれば魔女より待遇が良くなるという保証はどこにもない以上、発見されるのは危険でしかない。
にしても、あの二人の身体能力には凄まじいものがあった。
俺を抱えた壮年の男はどこか森に潜んでいたのだろうが、馬車の側面はすでに兵士が警戒していたはずだ。
あの尋常でない怪力と敏速を誇る兵士の索敵能力が、並と同じだとは思えない。
彼らに気付かれず木々に潜み、また彼らに反応すら許さず、一瞬のうちに俺をその手で奪ってみせた、ということだろう。
反応できたのは魔女だけで、しかし迎撃はできなかった。
未だこの世界の標準を掴みかねている俺にも、彼らの持つ能力が他と一線を画したものであると分かる。
逃げるにあたって警戒すべきは、むしろあの二人なのかもしれない。
そこまで考えたところで、少女に動きがあった。
小さな呻きとともに毛布の上の右腕がもそもそ動き、やがて首と並行に伸ばされて直線を作る。
反対に左腕は下へ向かい、手のひらが熊手となる。
そこで上体を起こして背筋をそらし、可憐な顔を睡眠の残滓で歪めながら、盛大に伸びをした。
小柄な身体が最大まで伸びたところで、ぱちりと目が開く。
想像した通りに大きな瞳が見えた。
眠気にまどろむ黒は、やがて驚きの真円となる。
途端、少女が跳ねた。いや転がった。
風車のように回転しながら後ずさり、中央の机の足に頭をぶつける。
勢いはそのままに向きがそらされ、見事な後転を披露し、最後には木製の棚に後頭部を衝突させて停止。ざるがゆれた。
「お、起きっ…!? いつっ…!?」
目を回して後頭部をさすりながら、しどろもどろに言葉を発する少女。頬が赤い。
…とりあえず、落ち着いてはどうだろうか。
主人公以外の視点を三人称で書くべきか迷っています。
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