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この人の七番目


以前、夜中に鹿と遭遇したことがある。

学校の体育過程に長距離走が加わった時期で、貧弱な体力の底上げに勤しんでいた時のことだ。


自宅からそう遠くない山際の道の急な坂を登りきった時、一頭の鹿を見た。


傾斜で隠れていたのか、はっとするほど近くだった。

歩道で立ち止まった俺の右手奥の道路の真ん中に、四本の足があった。


明かりの少ない区域だった。

獣の体は半分が影に入っていた。


だがその大きく広がる一対の角だけは、奇妙なほど夜闇によく映えた。

突起はこちらに伸びていた。


角から視線を下ろした時、目が合ったのは間違いない。


その時、俺の中に言い様のない緊張が生まれた。

鹿の丸い黒眼を見つめた数瞬、まるでその間だけ体の存在を忘れたかのように、呼吸が止まっていた。


どこか怖気づいていた。

自身の倍以上の体重と分かりやすい武器を持つ牡鹿に、根源的な恐怖を感じていた。


思えば、生まれて初めて〝野生"を目にした瞬間だった。


人を殺せるのは熊や虎の類だけではないことを、唐突に理解した。

他人や他の媒体から手に入れた知識では有り得ない、直感だった。


恐ろしいと形容するほど強いものではなかったかもしれない。

しかし無視して立ち去れるほどに薄いものではなかった。


昼なら、また違ったのかもしれない。

暗闇が恐怖感を煽ったのは事実だろう。


しかし、いつでも突進できる鹿に対して俺が完全に無防備だったことも、また事実だった。

身を守る術など知らないから、鹿が襲いかかっていればきっと怪我をしていた。


実際には幾秒か目が合っただけで、鹿が俺を襲うことはなかった。

気まぐれに首を他所へ向けて去っていった。

戦慄していたのは俺だけだった。


結果として何事も無かったことに、俺はわずかながら安堵していた。

実際には鹿が人を襲うことなどほとんどないとを知っていても、拭いきれない不安があったからだ。

それは自分よりも強い相手と戦うことへの恐怖であったし、そもそも戦いへの予感が招いた混乱でもあった。


ランニング中に鹿と遭遇した。

言葉にすればそれだけのことが、しかし明らかに非日常だった。



そんな異常事態もここ最近はありふれている。

それが日常となることだけは避けたいと思っているが、あまり望みは持たないようにもしていた。


森から湧き出る獣たちの遠吠えが、今なお非日常の真っ只中であることを告げている。

粗雑な街道に展開した兵士たちと俺を、獣が馬車ごと包囲している現状があった。


茶褐色の毛塊たちは、元の世界ではまず見ないほど体格の良い狼だ。

一頭一頭が過去に出会った牡鹿に匹敵するような大きさ。比例して大振りな牙はどれもむき出しだった。


元の世界では最大でも十数頭の群れにしかならないが、今は見える範囲だけで数十頭はいる。

馬車で見えない反対側にも同等の数がいるようで、総数は百頭近いかもしれなかった。

そしても今なお増え続けている。


対する兵士たちは二十と少し。

五倍近い数の差は、囲まれていることもあって絶対的に不利と言えた。


包囲網はじりじりと迫る。

狼の足が少しずつ前に出されるたび、圧迫感が増していく。

見慣れない野生動物たちの獰猛さに、こめかみが張るような緊張があった。

呼吸が自然と浅くなっていくことを自覚した。


百もの獣が唸る。

数千の牙が擦れる音さえも聞こえてきそうだった。


圧力に耐え兼ねて後ろの黒衣の女を見ると、ぶつかった視線は否定の青色だった。軽く横に振られる首。

俺の魔法を縛る枷を外すつもりはないようだった。


兵士だけでなんとかなるというのか。

いくら彼らが精強であっても、数が違い過ぎる。


子供でも分かることだ。

どれだけ強くても、剣のひと振りで何匹も同時に倒せるわけではない。

剣を振るには相応の予備動作と時間が必要で、多数を相手にしては必ず隙が生まれる。

一度にさばける数に限りがある以上、物語のような一騎当千の武人などいない。

個の力は集団によって容易く踏み潰されるものだ。


だから俺一人が加わったところで何が変わるのかと問われれば、、大した影響はないと答える他なかった。

女は戦況の如何よりも俺が混乱に乗じて逃げ出すことを警戒しているのだろう。


それよりも、こんな時に身を守る術がないことが不安で仕方ない。


そんな俺とは対照的に、平時と寸分変わらない顔で獣達を睥睨する黒衣の女。

一事も発しないその様子は、何か期を待っているようにも思えた。


その時、馬車の間から一人の兵士が姿を現す。

反対側から来た兵士は、黒衣の女へと何事か耳打ちした。


報告を受けた女の眼には、作為の光がある。

女の口が開いた。


「後続が尽きた……あんた、ちゃんと見てなさい」


俺への言葉だった。

同時に右手を頭上で掲げた女は、わずかに目を細める。

何かに集中しているかのような仕草は、数瞬で消えた。

人差し指が立ち上がる。


「んで、これくらい出来るようになること」


言葉とともに轟く爆音。

瞬間、天が赤く揺らめく。



――太陽が落ちてきたかのようだ



見上げた上空には、蠢く業火の塊があった。

表面を激しく伝う無数の炎の雲海が、毒々しく舌なめずりする。

凄まじい豪熱に、肌の些細な生毛が焼け落ちていくかのようだ。


馬車の列の直上数十メートルに浮かんでいたのは、まさしく小太陽だった。


猛々しくもどこか美しい光景に、思わず見入る。

頭の中は驚きと感嘆の思いに満ちていた。


これこそが、魔法なのだと。



「討ち漏らしがあったら面倒だから、ここで皆殺しにするよ」


地獄の火球が分かたれていく。

四等分され幾分か縮小したそれらが、それでも莫大な熱量を維持して、隕石のように尾を引きながら獣たちへと降り注いだ。


連続する四つの巨大な爆音。

着弾とともに爆発し、周囲の狼たちを根こそぎ吹き飛ばす。

爆風と熱が毛皮を燃やし尽くし、筋肉を焼き焦がして、骨を粉砕。

僅かに遅れた業火が獣達を飲み込んでいく。


獣の悲鳴が無数に交錯する、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。


直撃を受けた獣に死体など残らなかった。

地面を抉る黒色のクレーターだけが見えた。


その凄まじい破壊力に、魔法の本質を見た気がした。

集団に打ち勝つ個の力が、今確かに目の前にあった。


燃え広がった炎が不自然に動く。

馬車の周囲に四つできた着弾点から意思を持つかのように地を走り、ほんの数秒で円を描いた。

俺たちを囲む狼たちをさらに包囲する形で屹立する、炎の壁だった。


火を恐れて逃げ惑う獣は、退路を塞がれていた。


「ほら、行ってきて。一匹も逃がさないように」


女の命令で兵士が動き出す。

剣を片手に手近な獣へ遅いかかり、次々と屠る。

一撃で両断された獣の骸が、焼死体の上に重なっていった。


狼はすでに過半数が焼け死んでいる。残りも火だるまか、体毛の一部に火の付いている獣が大半を占める。


周囲は犬と変わらない悲鳴で満ちていた。

一方的な狩りの始まりだった。





黒衣の女が卓越した魔法使いであることは、前もって予想していた。

簡単にとはいえ俺に魔法を教えたのは、ほかでもない当人だ。

それにこのような危険な旅路に戦う力を持たない人間を同行させるとは考えにくかった。

だから少なくとも俺などよりはよほど魔法に精通しているに違いないと踏んでいた。


それでも、女が生み出してみせた大火球は完全に予想外だった。


魔法のことをまだほとんど知らないのだから、予想のしようがなかったのも確かではある。

何が起こっても不思議ではないと腹をくくったつもりでいた。


だが実際に目の当たりにすると、とても平常心ではいられなかった。

そのあまりに非現実的な光景と凄まじい威力に、ただ呆然としていた。


魔法には、俺からはまだ見通せないほどに先がある。

そして女は俺の遥か先の領域にいる魔法使い――魔女だ。

その魔女と同等の舞台に立つことを、俺は要求されている。


それを成せるかは、経験がなさすぎて分からない。

しかし魔女がいる以上、この女に勝るまで俺に特別な利用価値がないことだけは理解できた。

始めて人を殺したあの時の無数の視線に、人間としての情など皆無だったのだから。

少なくとも魔女を超えるまで、元の世界に返ることは望めない。


なら、どうにか努力するしかないだろう。

幸い能力的な壁に突き当たっているわけではないのだから、まだそこまで悲観しなくていい。


そもそも一択しか選べないのだから、むしろ悲観すべきではないんだ。





獣の掃討が終わり魔女が自らの魔法の残り火を消し去った後、馬車の列は何事もなかったかのように進み始めた。

襲われたのは昼の休憩が終わりかけた直後のことで、時計がないため詳しくは分からないが、あれから数十分は移動を続けている。

ひっきりなしに襲撃があるわけではないのが救いだ。


直接戦わなくとも、死に面すれば神経は張り詰める。

精神が磨り減っていくのが分かる。

だから、肉体は休める時に休もうとするのだろう。


ここ数分、眠気に襲われている。

どうせ座っているだけなので寝てしまえばいいのだが、魔女の存在が気になる。

寝ているうちに何かされそうな予感があった。


それでも睡魔は容赦しない。

馬車が比較的平坦な道を通っているのか、大きな揺れが来なくなっていることも睡眠への欲求を加速させた。


意識の抵抗も虚しく、まぶたが閉じる。

数秒と経たず、体が眠りへと入っていった。






「俺もう限界だわ。お前に頼んだ」


父の言葉だ。

始めて聞く、父の弱音だ。


額に手を当てて座り込んでいる。


腕が邪魔で顔が見えないのは、きっと意識してのことだ。

百八十五センチメートルを超える偉丈夫が、今だけは子供の矮躯に見えた。


「少し、少しでいいから俺の代わりしてくれ。もう無理だ」


これまで、父から諦めや逃避の声を聞いたことはなかった。


実績のある企業に勤め、人の上に立ち、博識でスポーツにも優れる。

子供の俺からしても分かりやすく大人である普段の父は、今は見る影もない。


今の父は、情けないか?

ふと浮かんだ問いを、心中で否定する。


どんな大人も神ではない。

人間には限界がある。

何もできない子供だから、むしろ大人よりも限界に身近なところにいる。


さらに言えば、俺は父よりもずっと前から既に限界に達していた。

それを表に出して、父に諫められることも多々ある。

だから俺は、きっと父よりも軽傷なはずだ。


少し代わりを務めるくらい、わけはない。

どんな人間も、短時間なら不感症になれる。

問題ない。


そして俺は、元凶へと向き合った――――





目が覚めた。

肩を激しく揺さぶるのは、多少険しい顔をした魔女だ。


「起きて。緊急事態だから」


そう言う割には温度のない表情だった。


馬車の壁に預けていた体を起こして、重心を戻す。

右手で表情筋をほぐしていると、魔女が馬車の外へと出て行くのが見えた。

振り返った女からは、早く来いという手招き。


背後には兵士二人の背中が見えた。

剣を抜いて、馬車の側面の森を警戒しているようだった。


魔物の襲撃だろうか。

しかしそれにしては静かだ。

兵士が慌ただしく駆け回る音も、支持の怒声も、今は聞こえない。


外はまだ明るい。夕方の一歩手前だろうか。

馬車を降りると、足早に車列の前へ進む魔女の後ろ姿が見える。

追いかけて一つ前の馬車まで行くと、そこに兵士が集まっていた。


途端、張り詰めた空気を感じた。

兵士達は一人の例外もなく剣を抜き、横並びの陣形を組んで車列の進行方向を睨んでいる。


そこには男が一人立っていた。


兵士と比べて随分軽装で、武具の類は身につけていない。

所々汚れた旅装はいたって地味で、特に目立つものだとは感じなかった。



ただその鮮やかな蒼色に染まる頭髪と瞳だけが、異様に目を引いた。



「貴様は何の意図によりそこに立つのか!! 所属を告げよ!」


兵士の一人が声を張り上げる。

その誰何に、街道の中央に陣取る人物は答えない。

蒼色の視線は細かに水平移動して、声を上げた兵士には目もくれない。

その様子は、何かを探しているように見えた。


刹那の間、視線が止まる。

それを真っ向から見返しているのは、僅かに眉をひそめた魔女だ。


「誰が情報を漏らしたのか……あんたは私から離れないように」


魔女が呟く。

声にはこれまでにない警戒の色があった。


その相手を探したのか、蒼髪の人物は魔女の隣に立つ俺を見た。

蒼い目が、まっすぐ俺の眼球を捉えた。


歳の頃は二十ほどか。

蒼髪の青年は、その特異な目をわずかに細める。

そして二度瞬きをした。




瞬間、俺を突風が襲った。

視界の風景が急激に動き、足が地面から離れる。

血流が下に引っ張られるような上昇。


気付くと、俺は馬車の上にいた。


しかし馬車の屋根に足がつかない。

不自然な体勢であることを自覚すると、ようやく誰かに抱えられていることに気が付いた。


首を曲げて、上を見る。

そこには、蒼い髪と眼。

先ほどとはまた別の、壮年の蒼髪の男の顔があった。


舌打ちが聞こえた。


瞬間、馬車の屋根が爆発的に遠ざかった。

重力に体が軋み、視界がぶれる。

それでも捉えた光景には、馬車の屋根の上で腕を振り抜く魔女の姿があった。


突き出された右腕が炎に包まれている。

業火を宿してまっすぐに伸ばされた五指は、一瞬前まで男の心臓があった位置を貫いていた。


その光景はさらに遠ざかっていく。

唖然として見上げる兵士達の上を通り過ぎて、壮年の男は蒼髪の青年の横に着地。

近づく地面に身構えたが、衝撃は一切感じなかった。


「確保した。退くぞ」


壮年の言葉に青年が頷いて、二人が同時に跳躍。

抱えられている俺の脇腹に、重力で男の指が食い込む。


痛みと風圧に耐えながら周りを見ると、森の木々の枝から枝へと飛び移っているようだった。

風景が凄まじい速さで流れていく。


どこへ連れて行く気なのか――


考える暇もなく、視界の中に魔女が現れた。

進行方向の木の枝の上に突如出現した女が、こちらへ向けて腕を突き出す。


瞬間、炎の渦が放たれた。


一直線に突き進む炎柱を、蒼髪の二人はすんでのところで回避。

回転する視界に認識が追いつかない中、左耳が火で炙られるのを感じた。


襲撃者が避けたのを見て、魔女はさらに火柱を放つ。

二人を同時に狙う炎が幾本も宙を伸びた。

引火した炎で木々が燃えていく。


別々の方向へ逃げ出そうとする蒼髪たちだが、魔女の弾幕に退路を全て塞がれていた。

陽炎で囲まれ、業火が迫る。


絶体絶命の状況に、壮年の男は俺が邪魔だったらしい。

なんのためらいもなく俺の体を宙へ投げ出した。


地面までの結構な距離を、枝にぶつかってへし折りながら落ちていく。

落ちた先は傾斜になっていた。


半ば崖のような急斜面を、なすすべもなく転がり落ちる。

すでに体はぼろぼろで、無傷の箇所を探す方が難しい。

数十メートルの落差の果てに川が見えても、落下を止める余力などなかった。


盛大な水しぶきを上げて水面に落ちる。

水底近くまで達し、必死に浮き上がろうともがくが、水流がそれを許さなかった。

僅かな時間水面に顔を出した後、すぐ水にもまれ、流されていく。


感覚は死の予感で飽和していた。

しかし濁流に抗う力は既にない。


莫大な水の流れに翻弄される中、いつの間にか意識を無くしていた。








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