この人の六番目
いつも疲れている。
理由は分からないが、自然とため息が出る。
椅子に座る時は、背もたれに深く腰掛けて膝を伸ばすことが多い。
いつか立ち上がらなければならないから、その労力を考えて憂鬱になる。
そしていつも眠い。
欠伸は、一時間に五回を下回ることがない。
運動せず十分な時間寝ても、体は重く頭は回らない。
きっと覚醒という言葉に意味はないんだろうと、意味不明なことをぼんやりと考えるばかりだ。
まだ十代後半だと言うのに、歳をとりすぎではないか。
一動作全てが億劫になって、わざわざ「よっこいしょ」などと言葉をかけなければ成功する気がしない。
身長も体重も平均的で、持病もない。
強いて言うなら低血圧気味だが、健康を損なうようなものではない。
なのに、これといった起伏もない日常でここまで疲れるのは何故なのだろう。
運動をしていないからかもしれない。
しかし自分の体は多少筋肉質ながら薄っぺらく、たまにある身体測定では大抵「痩せぎみ」の判定が出る。
生地の薄い学校指定の体操服などを着ると、知り合いから「お前体操服に着られてんぞ!」などと笑われる始末。
左手の中指と親指で作った輪に、右手首がすっぽりとはまったりする。
常に感じる疲れは、余分な脂肪のせいなどではないように思えた。
ではなぜだろうと、脳内で再検索するも見つからない。
簡単には分からないから悩む。
もはや日常的に悩み続けている。
結論として、理由は不明。
時間での解決を待つ、つまり無策であることの再認識をしただけ。
今の俺には何もできないという現状認識は、ついに改められることはなかった。
百回目か千回目か、数える気にもならない揺れを感じて目を開ける。
変わりない馬車の車内が視界に映った。
睡眠をとるでもなくただ目を閉じてから、何時間経ったのか。
寝ようと思った時もあったが、張り詰めた神経が頑なに拒んだ。
左隣にある女の気配に、心底落ち着くということができない。
それが恋心のせいであるなら、どれほど楽か。
一人になりたいと思ったが、そんな望みが叶う状況ではないだろう。
自主した大犯罪者よろしく護送されているのは、紛れもなく俺だ。
出発してから数時間、馬車は休憩を挟むことなく進んでいる。
黒衣の女を見やると、冷ややかな視線を俺へ向けていた。
不審な行動をとれないように、ずっと監視しているのだろう。
そういえば、この女が監視役に付けられた理由もよく分からない。
さも当たり前のように兵士に指示を出していたが、こいつは何者なのか。
口ぶりからこの国の支配層の事情に詳しそうではあるし、俺のような立場の人間を扱い慣れている節もある。
貴族制度があるのなら、どこか権力の強い家の出なのかもしれない。
にしても、不気味な女だ。
無表情で何を考えているのか分からない。
たまに見せる笑みが女の強い残虐性を示す以外に、感情を出さない。
ただの人間というには、あまりにも異常な気がした。
唐突に、女が首を動かす。
俺へと向けられていた顔は、座席正面の壁を見つめる。
馬車の進行方向の先へと意識を向けているかのようだった。
そこで女は、幾度目かの笑みを見せた。
微笑みと呼ぶにはあまりに邪悪な、悪鬼の笑み。
強い忌避感を覚える三日月の中、覗いた舌が跳ねる。
微かに、鳥肌が立った。
「ここから国境の砦まで、三日弱かかる。到着まで」
何か嫌な予感がした。
逃避にも似た感情。
この女が今から紡ぐ言葉に、耳を傾けるべきではない――――
「生きていられたらいいね」
轟音。
馬車が強く揺れた。
横転するようなものではなく、地震のような縦揺れ。
突然のことに舌を噛みそうになりながら、黒衣の女を見る。
揺れの発生を予期していたかのように、表情に乱れはなかった。
背景には兵士たちの怒声と、不規則な重低音。
巨大な何かが空気を切る音は、バットや竹刀で出せるような音量ではない。
「ほら、早く外に出て。襲われてるから」
言われるがままに馬車の戸を開け、外へ飛び出す。
馬車の右手には、広大な平原が広がっていた。
兵士が駆けていくのは馬車の左手、反対方向。
馬車が邪魔で現場が見えない。車体の後ろを回ると、道の左側には森があった。そこで再びの地響き。
震源へ向けて首を九十度回すと、騒ぎの原因が視界に入る。
背筋が凍った。
きっと呼吸も止まっていた。
そんな馬鹿な――――幾度目か分からない驚愕。
周囲を囲む兵士たちの、四倍近い体高。それに比例した肉の厚み。
灰色の皮膚が全身を覆い、歪な人型を形成している。
兵士の胴よりも太い手足には、人間のような五指と爪。
一本の毛髪もない頭部には、顔の半分を占める口と巨大な目玉が一つ付いている。
その足が動く度に地が揺れるほどの体重。
二階建て家屋ほどもある巨人だった。
周囲の地面には穴があった。
深さ数十センチの平たい穴は、巨大な何か――例えば巨人の持つ大木の棍棒のような――を叩きつけられてできたように思えた。
単眼の巨人が口を開く。
自らの頭部を飲み込めそうなほど開いた大顎には、巨体に見合った大牙の列が見えた。
咆哮。
生物とは思えないほどの大音量に、思わず身がすくむ。
顕然たる威嚇行為が示すのは、俺たちへの殺意だった。
「あれは魔物。あんたのためにいろいろ省いて要約すると、あんたの元いた世界にはいない化物で、この世界にはごろごろいる。こいつらのせいで街道は危険極まりない」
俺のすぐそばには黒衣の女が立っていた。
とくに動じた様子もなく、表情には変化がない。
こういう事態に、慣れているのか。
巨人とは、兵士を挟んで幾分か離れている。
人員を分けてあるのだろう、三両の馬車は他の兵士によって巨人から遠ざけられていた。
必然的に、巨人の注意は自らを囲む兵士たちへと向く。
兵士たちは包囲網を緩めない。
あんな化物に、どう戦うのか――――こう考える俺の思考は、いまだにこの世界に馴染んでいなかった。
兵士の一人が走り出す。
その速度は常人に出せるようなものではなく――――巨人の振り下ろした棍棒が直撃するよりも速く、間合いの内側に到達。
そのまま駆け抜けて、巨人の足元に達すると同時に剣を一閃。
分厚い皮膚を破り筋肉を切断して、太い足首の半ばまで刀身が埋まった。
巨人の口からは苦悶の絶叫。
傷口から鮮血が吹き出し、傷ついた右足が崩れる。
地響きとともに、巨体は両手と片膝を地に付けた。
生じた隙に、巨人へと群がる兵士たち。
一人が跳躍した。
軽装の金属鎧を纏うその身は三メートルを越して飛び上がり、巨人の頭部へと肉薄。
速度を緩めず突き出された直剣は、子供の頭ほどもある単眼にずぶりと突き立つ。
巨人に張り付いた兵士は返り血を盛大に浴びながら、刃を根元まで深々と押し込んだ。
刀身は眼球の奥、脳漿まで達していることは明らかだった。
さらなる絶叫。
脳の一部を破壊された巨人は、それでも巨体を振り回して兵士を剥がす。
しかしその動きは緩慢で、右手だけで振られる棍棒は兵士を狙ってさえいない。
既に死にかけだった。
感覚器官を失い隙だらけの獲物に、狩人は容赦しない。
十数人の兵士たちの手にする剣が灰色の皮膚に突き立ち、容易く肉を抉る。
体に張り付く兵士たちを落とすべく巨腕が振られるが、すばやく位置を入れ替える兵士を捉えることができない。
灰色だった巨人は、紅に染まっていく。
数十秒後。
体中に深い傷を負い、顎を切り落とされ、単眼を潰された巨人の首を、止めとばかりに何本もの剣が貫く。
声帯を失い断末魔の絶叫も出せないまま、巨人は絶命した。
あっという間だった。
あれほどの威容を誇った巨躯は、今や血の海の中に肉塊となって沈んでいる。
「ま、一体くらいならこんなもんでしょ。いくらそれぞれが強くても、これだけの兵士がいれば当然勝てる。もっと強い個体になると話は別だけど」
女が無感動に言う。
その言葉を聞いても、なぜか安心感は得られなかった。
巨人は既に倒され、圧倒的な巨体はもはや見る影もない。
しかし、どこか落ち着かない。
「ちなみにあの兵士たち結構な精鋭でね、あんたくらい逃げても簡単に殺せるよ。身体強化に秀でた選り抜きだから、指一本で十分」
あの兵士たちは、昨日俺が殺した茶髪の男と同じようだった。
人間では有り得ないほどの身体能力で巨人を翻弄してみせた彼らの姿も、巨人と同じくらい強く残っている。
確かにあの兵士たちにかかれば、俺を殺すことなど造作もないだろう。
落ち着かないのは、それだからなのかもしれなかった。
再発進した馬車の揺れを感じながら、俺は考える。
魔法とは、一体何なのか。
隣の女は、自分の望んだことを引き起こせるものだと言っていた。よく分からない。
魔力とやらを消費するというが、それもよく分からない。
昨日ほんの少しだけ与えられた実験時間で、物質を生み出せることは分かった。
では昨日俺を襲った男や先ほどの兵士のような、超人とも呼ぶべき身体能力は何なのだろう。
女は、兵士を指して「身体強化に秀でる」と言った。
この「身体強化」とやらが何なのか分かれば、多少理解できるかもしれない。
おそらくは、魔法の一種だろう。
元の世界でもあれほど強い体を持った人間などいなかったのだから、ドーピングや手術の類ではない。
この世界に元の世界以上の科学技術があるとは思えない。
ならここにはあってあちらには無いもの、つまり魔法が関係していることは明らかだ。
もしかしたら、魔法以外にも不可思議なものがあるのかもしれないが…
しかし魔法の汎用性を考えると、不可思議なものの根源こそが魔法であってもおかしくはないようにも思える。
身体強化が魔法の一種であるとするなら、発動には想像が必要なはずだ。
しかし、肉体を強化するイメージと言われてもよく分からない。
どう考えても具体的なイメージにはたどり着けない。
現実に存在する以上やり方はあるのだろうが、見当もつかない。
ということは、魔法にはまだ何か俺の知らない機能があるのだろう。
なんにせよ、情報が少なすぎる。
誰かから詳しい話でも聞ければいいが、そんな都合の良い人間は今現在一人たりともいない。
状況はこれ以上ないほどに厳しかった。
国境とやらで、どのような扱いを受けるのか。
先の見通しが立たない現状は、漠然とした不安しか生まない。
俺は元の世界に帰れるのか。
帰れるとするなら、それはいつになる。
その時まで五体満足でいられるだろうか。
あんな化物がいるこの世界でずっと無傷でいられるなど、楽観論にもほどがある。
体の一部を失ってもおかしくはないし、命そのものを失くす可能性も高い。
そこまで考えて、唐突に浮かぶ自嘲の笑み。
いつも問題を直視してしまう己の性には、おそらく欠点も多くある。
常に感じる疲れもそれが原因なのかもしれない。
きっと、俺のような人間のことを真面目と呼ぶのだろう。
それは褒め言葉などではなく、合理的なようで無駄が多いという皮肉だ。
分かってはいても、思考を止めることはできない。
それ自体に意味は薄いのだと、痛いほどに自覚していても。
そのまま、ごく短い休憩を挟みながら移動を続けた。
漏れ入ってくる光が赤に染まり始めたころ、馬車が止まる。
外からは、兵士達の号令と野営の準備らしき物音がした。
今日の移動は終わりらしい。
女から兵士を伴って用を足す以外馬車の中で夜を明かすように指示された俺は、女から投げ渡されたパンをかじり終わると、すぐに横になることにした。
黒衣の女は馬車の外で寝るらしく、今車内には俺しかいない。
開いた座席のスペースに体を横たえると、重苦しいほどの疲労感が押し寄せてくる。
特に運動したわけでもないというのに…気疲れの重みは、思っていたよりも大きかった。
抵抗しようとも思わず、ただ沈みゆくままに意識を手放す。
夢の中は、きっと楽だろう。見るかどうかも分からないのに、確信にも似た感覚があった。
睡眠の間だけは、この身の真面目さも息を潜めてくれると知っているから。