この人の五番目
助けを呼ぶ声がした。
切羽詰まった叫びは、その人物自身の口を塞ぐ嘔吐物でしばしば途切れていた。
聞き慣れた涙声はひたすら俺の名前を呼ぶ。
「――!…――!」
連呼は止まない。枯れかけた声は、しかし勢いだけは衰えない。
胃液で口を汚しながら、ただ俺の助けを待っている。
「――!――!」
俺は目の前にいた。
床に崩れ落ちて吐瀉物を吐き散らかす人物を、ただ見ていた。
鼻をつく異臭に若干顔を歪めて立っていた。
俺には、その人物はとても惨めに見えた。
人間としての最低限の尊厳すら無かった。
人のこれほど情けない姿も他にあるまいと考えていた。
本当に、生々しい。
そして痛々しい。
体には極大の疲労感があった。
目の前の人物はとても苦しそうにしていた。
呼吸は浅く激しい。
すでに過呼吸との見分けがつかない。
目が俺を見上げた。
顔の造作は、辛そうに歪んでいた。
そして未だに助けを求めていた。
だから浮かんだ考えだった。
こんなことなら、いっそのこと――――
悪夢を見た。
反吐が出そうなほど酷い夢だ。
過去の一部は、最悪の追憶となって現在の俺を蝕む。
汗こそかいていないが、当時と同じような疲労感が睡眠の心地よさを押し流して腹の奥底に溜まっていた。
つい昨日人を殺したことが堪えているのかもしれない、と思った。
そういえば、二つには共通点があるようにも考えられる。
どちらもすでに変えようのない過去であること。
そして、俺の意識一つで重みが激変する程度のものだということ。
つまりは思い出さないのが一番だ。
前向きと言うには暗すぎて、正面には先も見通せない闇ばかりが続く。
それでも、後ろを向いて奈落を覗き込むよりはマシだと思えた。
前を向いて踏ん張らなければ、吹き荒ぶ冷風にこの世の底へと叩き落されそうになるからだ。
そうする他に転落を防ぐ術を知らないせいでもあった。
泣き言を言うことに意味はない。
誰かに相談を持ちかけても現実に何かが変わるわけではなく、所詮一時的な慰めにしかならない。
現状への不満を愚痴にする時間があるのなら、そのどうしても嫌な状況を打開すべく動くべきだ。
必要なのは、強くあることだ。
俺がこれまで行動の軸に据えてきた理屈の一つで、そしてそれは現実に心の支えとなっているように感じる。
いまさら考える必要性も感じないような、当然の行動法則だった。
この世界で初の夜を牢屋で明かした俺は、冷たい石床に直に引かれた毛布に座り、塩味のスープを口にしていた。
小さな固いパンとともに胃袋に流しこんだ液体は、薄味過ぎて料理とも呼べない。
しかし無表情な看守から朝食として出された以上、好む好まざるに関わらず取り敢えず食べておくべきだ。
質も量も足りたものではないが、ないよりはマシだった。
木製の簡素な盆にひび割れた食器を置いて、今後のことを考える。
思えば、今はこの世界に来て初めて一人になれていた。
冷静に考える時間がある。
しかし、今すぐここから逃げ出せるようなアイデアは当然思い浮かばなかった。
牢屋は非力な俺が破れるほど柔な造りではない。
そして、今現在魔法を使えないというのが大きい。
昨夜黒衣の女によって右手首にはめられた鈍い金属の腕輪、鎖のない枷のせいであるようだ。
どういうわけか、いくら想像しても魔法が発動することはなかった。
女曰く、保険とのこと。
鎖がなくても、俺を縛るには十分なものだった。
結局は、今の自分に何もできることはないと再確認しただけだ。
無力感を味わうしかない俺の耳に、足音が届く。
「ほらあんた、さっさと牢から出て。あんたの扱いが決まったよ」
淡々と告げる声は、黒衣の女のものだった。
鉄格子越しに見える手には鍵束があった。
「とっても喜ばしいことに、あんたは国境の一軍に配備されることになりました。おめでとうおめでとう、ぱちぱち。で、今から移動だから。早く出てきて」
昨日から思っていたことだが、女の物言いには、自然と俺をいらつかせる何かがある。
思わず細めた視線は、女になんら痛打を与えることはなかった。
女は相変わらずの無表情で、口だけが別の生き物のように開閉する。
映画俳優のように整っている顔に、それでも嫌悪感しか抱けなかった。
こいつには、人として何かが欠けている。
しかし今それを指摘するほど命知らずではなかった。
この女は兵士たちに命令する権限を持つ。
考えてみればそれも謎ではあったが、今はどうでもいいことだ。
女に従って、俺は牢屋から出た。
今は朝の早い時間帯のようだ。
空気には季節問わず変わらない冷たさがあった。
見上げると、うっすら青い空が見えた。
連れてこられたのは、牢屋のある建物の裏口のようだった。
出口の扉から右手、そこそこの広さがあるスペースに古ぼけた馬車が三台、数頭の馬とともに佇んでいる。
そして石づくりの巨大な建造物が正面――と言っても、角度的に見上げなければならないが――に見える。
白い外壁に、いくつも屹立する尖塔。あのどれかに、俺が目を覚ました執務室があるのだろう。
馬車の発着場らしき広場の中央には、二十人前後の兵士たちがいた。
「あいつらはあんたの護衛。国境までの道中は危ないからね。死なれてまた召喚するにもお金がかかるし。あと、私も行くから安心していいよ」
舌打ちをしたい気分だったが、抑えた。
自らの自制心を褒めてやりたいくらいだ。
女は口調だけ楽しそうにしながら、兵士に指示を出して馬車の準備をさせる。
馬車の準備が済むまでの間、なるべく女を視界に入れないように周囲を見渡す。
城から離れていく方向に、石造りの橋が見えた。
馬車が二台すれ違えそうなくらいの幅がある。おそらくはあの橋を渡るのだろう。
橋の向こう岸を見ると、ちょうど橋が終わったところに何本もの棒が立っているのが見えた。
棒の先端には、丸い何かが取り付けられているのが分かる。
橋まで数十メートル離れていて、さらに橋自体同じくらいの長さがあるので、はっきりとは見えない。
おそらくは街灯の一種で、松明か何かだろう、と判断した。
「準備ができたよ。ほらあんた、早く乗って」
暇つぶしは。女の声で終了となった。
視線を戻した先には、兵士が詰め込まれた大きな幌馬車が二台直線で並び、その間に挟まれる形で小ぶりな馬車が一台あった。
女が歩いていき、真ん中の馬車に乗り込んでいく。
扉からは手招きの腕が伸びてきた。
悪い予感というのは的中するもので、どうやら俺は黒衣の女と同じ馬車に乗るらしい。
乗り込むと、馬車の進行方向を向いた席が設けられていた。
幅は三人分くらいあって、今現在乗り込んでいるのは俺と女のみ。
兵士は御者台に一人いるだけで、他に誰かが乗り込んでくる気配はない。
大勢いても暑苦しいだけだが、俺は黒衣の女と二人きりという現状にため息をついた。
「そんなに私が嫌い?」
しれっと言い放つ女に、俺は顔をしかめた。
意識になく睨みつけていた。
「好きだと?」
「まさか。異世界人の子種なんて価値あるはずないでしょ」
先ほどと同じように、女に効いているようには見えない。
話の内容もどうでも良すぎて、これ以上返答する気にすらならない。
「あと、私を殺そうとしても無駄だからね。馬鹿じゃないなら、逃げようなんて思わないだろうけど」
俺はいまだ枷を付けられたままだった。
魔法を使えないのに逃げきれると考えられるほど、楽観的にはなれない。
女の号令が御者台の兵士に届いて、その兵士の張り上げた声が前の馬車に伝わる。
少しの間を置いて、馬車の列は進みだした。
行き先は、やはりあの橋だろう。
「気分転換に外でも見たら? あんたも疲れてるでしょ」
かけられた労いの言葉に、思わず女の方を見た。
相変わらず無表情な顔からは、何も感じ取れない。
とてつもない違和感だけが胸の奥に渦巻く。
何を考えているのか、本当に分からない。
返答する気も起きず、女から視線を話して反対側を向く。
ガラスではなく小さな木の戸を開閉する窓があった。
留め具を外して窓を開け、備え付けのつっかえ棒を立てる。
外を見ると、馬車は橋を渡っているところだった。
橋の下は人工的な水堀となっているようだ。
数十メートルもある幅と城側の岸に立てられた防壁から、この城砦がかなり堅固なものであることが伺えた。
防壁の上に弓兵でも配置しておけば、水堀のおかげで近づかれることもなく一方的に戦える。
橋の一点に戦力を集中させれば、少人数でも大勢を撃退できるのだろう。
橋を落とせるようにしておけば渡られる心配もない。
水堀の水面では、水鳥があちこちを泳いでいる。
水に首を突っ込んでは出し、白い羽毛を震わせていた。
和やかな風景――――しかし、馬車の前方を見た途端穏やかさは吹き飛んだ。
橋の終わりに異常が見えた。
森へ入っていく入口、そこまでの整えられた街道のそばには何本もの棒が立っていた。
おそらくは、橋を渡る前に見えたものか。
棒の表面に走るのは、赤い線。
それが伝っていく地面には、同色の染みがあった。
棒の上部に向かうほど、赤の割合は増えていく。
天を突く棒の先端には、人間の頭が突き刺さっていた。
数は、十人前後。
断面に木の棒を埋め込まれた首は、例外なく街道に顔を向けていた。
こみ上げてきた嘔吐感を必死に抑えながら、俺はただ凝視していた。
白目を向いて鼻から血を流す頭部には、見覚えがあった。否応にも気づく。
彼らは、昨日俺に襲いかかってきた人々だ。
人数も一致している。
橋を渡り終えた馬車は、首の刺さった棒の列に出迎えられた。
血を流す生首が出発を見送っているかのようだった。
一つ二つと通り過ぎて最後の首が視界の外に消え去るまで、俺は首を動かせなかった。
俺を殺せば開放してやると、あの時の兵士は言っていた。
では殺せなかったらどうなる。
俺が生き延びたらどうなる。
馬車のすぐ横に並んでいたのは、その答えだった。
ゆっくりと振り返って、左隣の女を見る。
女の口は、うっすらと笑みを作っていた。
衝突した眼は、俺を嘲笑しているように見えた。
さっき女が俺に外を見るよう促したのは、これが狙いだったのだと気付いた。
何も、言葉が出なかった。
衝撃をただ受け止めるしかなかった。
この女はいかれている。
ぽつんと浮上してきたのは、そんな考えだけだった。
ゆっくりと、顔を戻す。
再び窓を見た。
血色の光景は、既に後方へと過ぎ去っている。
それでも、俺は窓へ手を伸ばした。
つっかえ棒を外して、木の戸を閉める。
留め具をかけ直した。
以後、俺がこの馬車の窓を開けることはなかった。
森の奥には一軒の家が立っている。
といっても、全て木でできた簡素な小屋のようなものだ。
そこには、一人の少女が住んでいた。
十代前半に見える、黒目黒髪の小柄な少女だ。
何年も前から森に一人で住んでいる。
そうしなければならない理由が、少女にはある。
森奥に住んでいるのは、人に出会わないようにするためだ。
もし見つかれば、捕らえられて酷い仕打ちを受ける。
ここはそういう国で、さらに言えばそういう大陸だった。
人里に住むなど有り得ないし、それは少女の心情としても願い下げだった。
全ては、生まれ持ったその目と髪の黒のせいだ。
この大陸において、黒眼黒髪は全ての人間に忌避感を抱かせる。
何千年もの昔から、どの地域でも迫害され続けてきた。
数百年ほど前からは家畜に等しい存在に貶められた。
自らの同族のほとんどが人間に支配されていることを、少女は知っていた。
捕らえられた時の扱いも、よく分かっている。
一人で生活するのは既に慣れていた。
この森はもはや少女の庭のようなもので、どこに行けば食べ物が手に入るか把握している。
自分で建てた小屋はまだしっかりしていて、ひっそりと生きる分には不足はない。
食料の備蓄も一応ある。近くには小川もあって、水に困ることもない。
そういう場所を選んだのだから当然ではあった。
安定した、安全な生活。
人に怯えなくてもいいというのは、少女たちの一族にとって最も喜ばしいことだ。
それでも、少女には不満があった。
――同族に会いたい。
少女は孤独だった。
家で独り言を言うのは、とても寂しい。
少女は毎日森に出かける。
自分と同じように住み着いている同族はいないか、探し続けてきた。
しかし同族が見つかることはなかった。
もはや自分以外は全て捕らえられてしまったのではないかと、不安に泣き明かした夜もあった。
このまま一生同族に会えないのか思うと、押しつぶされそうになる。
それでも、毎日ほんの少しだけでも、期待せずにはいられなかった。
同族と会話がしたい。
くだらなくてもなんでもいい。
小屋を自作した話は、誰かに自慢する時のためにしっかりと推敲してある。
他にも話したいことはたくさんあった。
小さな小さな、でも張り裂けそうなほど大きな期待を胸に、今日も少女は同族を探し続ける。