この人の三番目
以前見たテレビ番組を思い出した。
海外のどこかの国で放送されている、極めてクオリティの高いドッキリを仕掛ける番組。
日本で直接見れるわけではなくて、日本の有名な娯楽番組で紹介されていたものの一つ。
一般の市民に世界の破滅を信じさせたり、自らの死を思い込ませたり、やってもいない殺人を自分の犯行だと思い込ませたり。
心理学の専門家が完璧に調整した環境に何も知らぬ人間を放り込むことによって、本来ありえないようなことでも信じさせることができる。
人の精神は自分たちが思っているよりも周りの影響を受けるものなのだと、感慨深い気持ちで見ていた。
俺の現状は、どうなのだろう。
日本にも似たような番組が誕生して、たまたま俺が標的になったのだろうか。
ならば今俺がいる牢屋もつい最近誰かその道のプロが用意したもので、三方の石壁のどこかには隠しカメラがあって、壁の向こう側では専門家とやらがモニターで俺の行動を逐一観察しているのだろうか。
ここが異世界だと俺が信じ込むような発言をしたら、鉄格子の一本にでも仕掛けられた盗聴器がそれを拾ってドッキリ成功のプラカードを持った兵装のエキストラが押しかけてくるのだろうか。
今俺が突きつけられている剣はゴム製で、ほらよく曲がるだろと笑いかけてくるのだろうか。
「こいつが今回の異世界人?」
「はい」
「扱いは?」
「前回と変わりなく、と」
「分かった。もう下がって」
俺の首に当たっていた剣が引かれ、兵士の鞘へと戻る。終始無表情だった持ち主はそのまま踵を返して、牢屋から遠ざかっていった。
残ったのは、黒衣の女。
二十代後半に見える、茶髪青目の西洋人。
たいして高さの変わらない目線で、無表情にこちらを見ていた。
「あんた、今どんなことになってるか理解してる?」
唐突な問。
開けられた扉、その前に立つ得体の知れない女の目には、冷淡な光。
「少しも」
冷静に考えられるような時間は、少しもなかった。
老人の執務室からここに連れてこられて、数分と間が空いていない。痛みも引かない。
状況の整理なんて、できるはずもなかった。
女からは、ため息。めんどくさそうな、目と表情。
「毎度毎度、なんでこうも理解力の低い奴らばかり来るのか…とにかく、ここはあんたが住んでいたのとは全く違う場所。で、あんたは私らに捕まってここに来た。扱いは奴隷。言うこと聞いてりゃいい。分かった?」
先ほど老人からされたのと変わらない、大雑把で情報に乏しい説明。
本人は分かりやすく簡潔に伝えたつもりのようだが、実際には説得力に欠けていた。
ここはヨーロッパのどこかで、城壁も残っているくらい文化遺産の保存を重視してきた国。
建築物は京都と同じように高さ制限がされていて、外見も古い街並みに馴染むレンガ造りに見せかけたもの以外は禁止。
ヨーロッパのどこかの国で実施されているように、都心への車両の乗り入れは規制されている。
街で働く人々は郊外で車から地下鉄に乗り換えて、街の中では自転車を使って移動する。
自宅にいた俺は後遺症の全くない睡眠薬によって移動中起きることなくここまで運ばれた。
そんな考えが、まだ根本に残っていた。
異世界なんて、ありえない。
根強く残る、常識的な思考。
「別に、あんたが現実を受け入れようが受け入れまいがどうでもいい。あんたは、私らの言うことさえ聞いてりゃいい。ついてきて」
淡々とした声で告げて、牢屋から出て行く女。鉄格子越しに、ついてくるよう目で促してくる。
痛む体は歩くことさえ拒むが、この女に従わなければまた暴行を受ける可能性があった。
治療費は番組が出すだろう――――冗談か皮肉か思い込みか、判然としない思考。
他にどうすることもできず、ただついていく。
薄暗い道中の石壁にそれとなく監視カメラを探しながら、女に付いて移動した先。
劣化の激しい木製の扉の奥には、広大な空間があった。
学校の体育館ほどもありそうな幅と奥行と高さ。
正方形の床の端には、火のない松明。
競技場のように全方位が二段階構造となっていて、俺がいる場所を見下ろせる高さに広い足場がある。
上空に天井はなく、遥かな高みに雲が見えた。
降り注ぐ光量は、今が昼であることを示す明るいもの。
しかし光の落ちる最下層は、どこか薄暗い。
寂れた工場跡地のような陰惨さがあった。
「あんた、何か得意なことは?」
広い正方形の中央まで着いてから、女からかけられた問。
流暢な日本語を話す西洋人に違和感を感じながら、しかし意図は分からない。
「特になにも」
ただ、自らに特筆すべき点がないことだけは理解していた。
返答を聞いた女の顔には、興味のなさそうな表情。
感じ取れたのは、面接官めいた事務的な感情のみだった。
面倒そうに掲げられた女の右腕、上へ向けられた手のひら。
唯一、人差し指が天を指した。
女の青目が自らの指を見つめた、その瞬間。
突然の光だった。
唐突の爆音だった。
不意に高い熱を感じた。
――女の人差し指の先には、拳大の炎が生まれていた。
「んじゃ、あんたは魔法ね。これが見本」
一瞬にして生まれた火は、また突如消え去る。
理解不能な現象を前にして、俺の目はただ驚愕に見開かれた。
「…どういう」
ことなのか。
理解力という堤防から溢れ出した疑問が、口の外へ流れ出てきた。
無意識故にかすれ声だったそれは、しかし女が拾っていた。
「あんたの世界にはない技術だよ。こっちじゃ珍しくもない」
なるべく簡潔に済ませようとしているのが分かった。
現実を飲み込むよう促されているのが理解できた。
「…どうやれば」
どこか、諦めたような感覚があった。
これ以上、自分を騙すことはできないと感じた。
ここは、俺の住んでいた場所とはあるゆることが異なるということ。
時代も文化も違って、そして今当然の常識さえも通用しないと分かった。
ただ、まだ縋り付いていたい。
今女が見せた現象が作り物だと思いたい。
この女は達人級の手品師で、俺の驚く顔をモニター越しで見ている誰かの存在を信じたい。
今この女は、教えると言った。
ならば、それが俺にもできれば――
「意思をもって想像すればいいだけ。自分の望んだことを引き起こせるのが魔法で、この世界なら異世界人でもみんな使える。詳しい説明はまた後でしてあげるから、ほら」
やってみて、と。
数秒後、俺の手の平の上には親指大の火が浮いていた。
俺の呼吸を受けて、小刻みに震える紅い揺らめき。
――――熱くない。
その違和感が嫌に強く感じられて、逆に現実味があった。
これが俺の現状なのだと理解できた。
自然と、ため息が出た。
小さな火はそれだけで消えた。
そして考えた。
――ああ俺は、とんでもないところへ来てしまったのだなと。
女が言うには、魔法とは魔力を消費して自分の望む現象を起こすものであるらしい。
まるでどこぞの国民的RPGのようだ。
しかし火のないところに煙は立たないのだから、元の世界 でも同じことはできたのかもしれない。
魔力は脳のとある器官で生成されるもので、人によっては量に開きがあること。
使いすぎれば脳への過負荷で死ぬこともあること。
物質を生み出すこともできるが、魔力の供給を止めれば消えてしまうこと。
個人差はあっても、この世界の人間のほとんど全てが魔法を使えること。
大雑把な説明ではあったが、大枠の理解はできたように思える。
強いイメージと意思が、魔法を行使する上で大切なことであるようだ。
そして俺は今、強い好奇心を感じていた。
魔法で何ができるのか。
それをもっと詳しく調べておくべきだと思った。
女が俺に与えた練習時間の間、俺は体の痛みも忘れて魔法のことだけを考えていた。
試しに石ころを生み出してみた。
手のひらに収まるような小さなもので、感触はまさに石そのもの。硬い。重みもある。
消えるように考えるだけで、次の瞬間には忽然と消失した。
物を生み出す場所は、地面でも手の平でも空中でも変わらなかった。
どこにでも、想像すればそれだけで現れた。
空中に生み出した石ころを、そのまま宙に浮かせることもできた。
上下前後左右と、自由に動かすこともできた。
試しに壁へぶつけてみると、固い衝突音がした。
石ころが運動エネルギーを持っていた証拠だった。
力学的エネルギーを思うがままに操作できる。
魔法がいかに汎用性に富んだものであるのか、想像に難くない。
「大体は理解できたようだし、滞りなく魔法を使うこともできる。なら次は」
思考する俺の後ろ、少し離れた場所に女が立っていた。
言葉を溜めたまま、周囲を見ているようだ。
女が顔を向けて手を上げた先には、大きな金属の門が遠く見えた。
何かしらの合図を送ったように見える。
門がゆっくりと開いて行くのが見えた。
覗くのは、先を見通せない闇。
開け放たれた門からは、音が漏れてきた。
違う、声だ。
人の悲鳴だ。
出てきたのは、紛れもなく人間だった。
遠目にも分かるぼろぼろで簡素な布の服を着た人が、十人前後。
さらには、その人々を追いかけるように十数名の兵士が現れた。
金属の円盾と槍をもった兵士たちが、横一列に並んで進んでくる。
簡素な服装の人々は、兵士によってこちらへと追いやられていた。
見ると、各々の手には棍棒や短剣などの武器がある。
しかしその程度の武装では、兵士たちと戦うという発想自体浮かばないようだった。
結果として、俺に迫ってくる武器を持った人々。
「実戦。じゃあね」
女はいつの間にか俺よりも後ろへと移動していた。
振り向いた時には、すでに出入り口の一つをくぐるところだった。
駆け寄る間もなく、閉じられる扉。
再び前を向くと、すでに二十メートルほどの位置に人々が迫っていた。
背後には兵士が並んでいたが、それ以上進んでくる気配はない。
先程までしきりに兵士を振り返っていた人々の目は、今は俺だけに向けられていた。
手には凶器。
走る速度に、衰えはない。
ようやく、現状を理解できた。
最悪の状況だった。