この人の最初
後悔はいくらでもある。
年を経るにつれて謙虚になるしかなくて、過去からやり直したいと願う。
できるなら、この先の人生に成功の多いことを望む。
感覚の大半を、聴覚が占めている。
少し前に見つけた、お気に入りの曲だ。
やたら悲観的な内容の歌詞が、日本語混じりの英語で読み上げられる。
歌っている二人のうち片方が外国人で、英語の発音はかなり本格的ものだ。
ひねくれた歌詞と、綺麗な英語。知らず知らず、聞き入ってしまう。
眠るでもなく、目を閉じてリラックスしながら聞くのが最近の楽しみとなっていた。
学校の昼休みは、割と自由だ。
校則はあっても守る気はなく、指導すべき教員は職員室で昼食をとっているからだ。
教室の机に突っ伏していた俺は、制服のズボンの右ポケットに振動を感じて顔を上げる。
ズボンの布地に隠れてすぐ戻ってきた手には、放課後まで電源を入れてはならない携帯電話。
忙しく動かすのは指。
耳には音楽プレイヤーのイヤホン。
見つかれば二つとも没収されてしまうものだが、気にしたことはない。
ばれなければいいのだ。
メールに返信して、今どき時代遅れな中折れ式携帯電話をたたむ。
相手から返信が来るのは、午後の授業中だろう。
義務は果たしたので、クラスにいる他の同級生と同じように昼食をとることにする。
鞄から、今朝買ったパンを取り出す。
小さめのサイズに加えて一つしかないが、運動部でない俺の胃袋には十分だった。
満腹感を得るよりも、空腹感を取り除く方が大切だ。
パンを食みながら、視線をさまよわせる。
目の落ち着く場所を探していると、席のすぐ前の黒板の文字に行き着く。
四時間目は英語だったなと思い返して、脳内で英文を訳して暇つぶしをする。
口でものを食べている最中でも、目や脳は暇なのだ。
最近行った席替えの結果は、いつも通りよろしくなかった。
今回はとりわけ最悪で、席は一番前。しかも前回と同じ位置。
授業は一応真面目に聞いているけども、教師のすぐ前というのがなんとなく疲れる。
話しかけられたりするとめんどくさい。それが嫌いな教師だともっとめんどくさい。
最前列は嫌なことかめんどくさいことしかない。
視野の下側には、黒い半球体がいくつかぼやけて見えている。
焦点を合わせるまでもなく、人間の頭だと分かる。
女子の声が複数聞こえてきていた。
黒板は生徒から見えやすいように高い位置にある。
それに伴う教師の身長不足を解消するために、黒板の下には木製の台が置かれている。
俺の机は前列でも窓側よりにあって、正面にはちょうどその台がくる。
そこに、同じ部活の集まりらしい複数の女子生徒が座っていた。
太ももに弁当箱を乗せて、箸を片手に笑い話を交わしている。
数分に一度快活な笑顔で笑い声を発していて、メンバーの陽気さが伝わってきていた。
俺の目の前だが、普段会話することはない。
違うクラスの人も混じる彼女たちがわざわざ俺の前で昼食をとっているのは、今が真冬で、俺の左斜め前にはストーブが設置されているからだ。
この席唯一の利点を彼女たちも目的としているだけだった。
この昼休みの配置はストーブが解禁された日から続いていて、もうひと月以上経つ。
極希に発生する会話から、互いの名前を知っている程度の関係にはなっていた。
といっても普段は話さない。共通した話題もない。
イヤホン越しに少しだけ届く声も、全く聞こえていない振りをする。
たいして関係のある人たちではないので、これくらいの距離感が丁度いいと思っていた。
これはもはや日課のようなもので、当たり前にこなすことができる。
今日もいつもどおりだと、のんびり考えていた。
昼休みはいつも騒がしい。
目の前の女子生徒たちもそうだが、教室のあちこちから話し声やら笑い声やらが絶えない。
正直に言うと、うるさい。
だからイヤホンで音楽を聴いている。
俺一人のための教室ではないので、俺が我慢すればいいのだ。
騒いでいるのは悪い奴ではないし、笑い声に悪意なんてない。
騒ぎの中心にはよく知る友人もいる。
いつも馬鹿騒ぎをしては周りを笑わせる、いいやつだ。
うるさいのは嫌いでも、この空気は割と好きだった。
パンを食べ終わると、今度は口が乾いてくる。
校内の自動販売機で購入した、有名なメーカーの紅茶を取り出して飲む。
ミルク1.5倍という宣伝文句そのままに、やんわりと甘い。音楽と合わさって心地いい。
日常の昼下がりを、そこはかとなく楽しんでいたところ。
騒がしい教室は、その喧騒をいっそう高めた。
正確に言うと、教室に何人かの男子生徒が入ってきていた。
音楽が聞こえにくくなって、ひどく無粋に感じる。自分の機嫌が悪くなっていくのを自覚した。
顔を向けると、一番近い一人と目が合う。
うんざりしながら背けると、それに反応してかこちらに向かってくるのが横目に見えた。
一人が移動すると、他も続いてくる。
まるでアヒルの親子のようだ、と思った。
俺の右側の通り道に到達した彼らは、目の前の彼女らと同じく部活動の集まり。
俺は、こいつらのことが嫌いだ。
一人が話しかけてくる。
イヤホンで聞こえない、という振りをする。
再び話しかけてくる。
イヤホンで聞こえない、という振りをする。
また話しかけてきた。
曲に雑音が混じってきて、いい加減うっとおしい。
今しがた存在に気づいたという素振りをしながら、男子生徒の方を向いた。
一人がにやにやと笑いながら話しかけてくる。
中身は、いつもと変わらず俺をからかうもの。
言葉の内容はそうではなくとも、声の調子から分かる。
複数人の男子が作り出す雰囲気が、既にそうなっている。
イヤホンで聞こえない、という振りをしながらしっしと手を振る。
邪魔だから帰れと言うと、一人が爆笑し始めた。
つづいて、他の連中も笑い始める。
俺の一挙一動が面白いらしい。
あい変わらず意味不明で、理解できない。
いつものパターンだった。
きっとこいつらのほとんども、本当に面白いから笑っているのではないのだろう。
仲の良い友人が笑っていて、さらにそういう雰囲気だから笑っている。
個性のない集団意識に吐き気がしてきた。
こいつらは、人をからかう時必ず複数で行動している。
一人でいるときはいたって普通で、廊下ですれ違っても目も合わせないのに、誰かと一緒にいる時だけ絡んでくる。
数的な有利があると、自然と人を下に見るようになる。
俺にだけではなく、誰にでもそうだ。
人の失敗をいつまでも笑い、外見を酷評する。
初対面であっても関係なく、とにかく人の粗を探し出してもの笑いの種にする。
それが、気持ち悪い。
一方的な会話は、ただの自己満足でしかない。
双方に面白みが生まれることはない。
こいつらは、自分たちが楽しければそれでいいのだ。
もちろん、自覚などない。
個人としてのこいつらはいたってまともな人間で、特別ひねくれているわけではない。
一対一なら会話してみても今のようにはならない。
ただ集団で行動することに慣れきったが故の、一時的な強気に過ぎない。
これ以上相手をしても疲れるだけなので、無視することにする。
前へと首を戻す過程で、群がる男子生徒のほとんどが、笑いながらも別の方向を見ていることに気付く。
視線は俺の前方、昼食をとる女子たちに集中していた。
俺をからかって、相対的に自分たちを強く見せようと思っているのだろうか。
そんなに女子にもてたいのかと、真偽も不明な邪推をしてみる。
当の女子生徒たちは仲間内で話すのに夢中で、男子生徒の方を見てさえいない。
男性を外面だけで判断する女性などほとんどいない、ということの裏付けのようにも思えた。
無視を貫くと、そのうち男子生徒の集団は去っていった。
次にからかう相手を探しにいったのだろう。
俺にとっては喜ばしいことだ。
周囲は、男子生徒たちが来る前と同じ状況になっていた。
目の前の女子生徒は相変わらず楽しそうに会話している。
喧騒が高まって、また下がっただけだ。
またいつもどおりの空気が教室を満たしていくのを感じて、俺はいつもどおり昼食後の昼寝をすることに決めた。
放課後、帰りのバス。
不規則な揺れに連れられて、心地よいまどろみの中にいた。
家に帰るまでのこの時間が、割と好きだ。
体を動かさなくて済むのがとても楽なのだ。
睡眠が最高の暇つぶしとなっていて、空き時間を持て余すこともない。
運動部でなくとも、学校は疲れるものだ。
どこかのバス停に停車したらしく、目を開ける。
降りるべき停車駅がまだ先なのを確認して、再び目を閉じる。
間を開けず何人か乗り込んできたらしい音と、ぞろぞろと続く足音が耳に届いた。
足音の終着点は、俺の座席の一つ前。
バスのドアが閉まる音と同時に、どすどすと人が座席に腰を下ろす音が聞こえる。
慣性の力と窓の外の風景で、バスが発進したのが分かった。
発車してまもなく、背後から男女の話し声が耳に届く。
声に注意してみると、たまに同じバスに乗る、一つ年下の学生集団であることが発覚した。
バスの中だというのに、はばかることなく喋っては爆笑を繰り返している。
つい昼休みにも見た集団の無思慮さに、いい加減うんざりしてきた。
うるさいのは嫌いだ。
見ると、周りの乗客にも迷惑そうな表情が浮かんでいた。
イヤホンの防御を突き破って耳に突き刺さる騒がしさが、もう耐え切れない。
彼ら彼女らが乗り込んできてから数分も経っていないが、嫌なものは嫌だ。
大きく、ため息をつく。
聞こえたのだろう、後ろを振り向くと、後ろで騒ぐ集団の一人と目が合った。男子だ。
眉をひそめて、睨みつける。
隣に座っていた女子生徒にも遠慮しない。
不快感をこれ以上ないくらいに分かりやすく表現してから、俺は席を立つ。
バスは信号待ちで停車していて、そして前方の離れた座席が空いていることは確認済みだった。
荷物を持って移動して、座り込む。
聞こえてくる声は、それまでよりも小さなものになっていた。
うるさいのは、嫌いだ。
我が家があるマンションの前まで到着した。
自動のガラスドアの横でキーボードを叩き、暗証番号を入力。
ミスすることもなく通過して、エレベーターに乗る。
目的の階へとすぐに到着して、見慣れた廊下を進む。
我が家の扉の鍵を開けて中に入った。
帰宅の定形文句は、言わなくなって久しい。
言う必要が無くなって、既に数ヶ月経っていた。
特に、やることもない。
制服を着替えて、動きやすい普段着になる。
楽な格好になると、衝動のままに大きく伸びをする。
同時に欠伸も出る。体の気だるさを感じた。
毎日疲れるが、今日はなぜかことさらに疲労していた。
理由は不明で、晩飯をとる気すら無くなるという現状だけがあった。
腹もたいして減っていない。
晩飯を用意するのもめんどくさい。
歯磨きだけして、今日はもう寝てしまおう。
風呂も明日の朝に入ることに決めた。
時計を見ると、まだ7時前。
それでも、睡魔は強烈だった。
思考が次々と閉じていくのが分かる。
何か、異常を感じた。
この時間帯でこれほどの眠気など、家に帰るまでに度々睡眠を挟んできたことを考えれば、明らかにおかしい。
そう考えながらも、体はベッドへと動いていた。
睡魔に逆らえないのだ。
疑問と警鐘をあげる思考も、ついには眠ってゆく。
感覚には、ただまぶたの重さだけがあった。
ベッドに体を横たえて、睡眠の心地よさに身を委ねる。
どこまでも深く沈んでいく意識。
何か夢を見そうだという、予感めいた思考。
それはそう、目覚めることなどありえないような――――