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誰も信じなかった

作者: 鬼束ハク
掲載日:2026/06/02

兄が認知症になったのは六十八歳の時だった。


最初は軽かった。


財布をなくす。


同じ話を繰り返す。


ガスを消し忘れる。


よくある症状だった。


だから健一は甘く見ていた。


人が壊れていく速度を。


そして、その壊れていく人間と二人きりで生きる苦しさを。



兄には家族がいなかった。


妻も子供もいない。


介護する人間は健一だけだった。


仕事を減らした。


友人との付き合いをやめた。


休日も消えた。


兄のために人生を削っていた。


だが兄は覚えていない。


介護されたことも。


感謝したことも。


翌日には忘れる。


認知症だからだ。




ある日の夕食中だった。


兄が顔を上げた。


「魚の臭いがする」


健一は味噌汁をすすった。


「冷蔵庫じゃないの」


「違う」


兄は窓の方を見た。


「外だ」




翌日も言った。


魚の臭いがする。



一週間後も言った。


魚の臭いがする。


 


そしてある夜。


兄が健一の部屋へ飛び込んできた。


顔色が真っ青だった。


「来た」


「何が」


「男だよ」


「またか」



兄は震えていた。


「寝てると膝を触るんだ」



健一はため息をついた。


医者から聞いている。


幻覚。


妄想。


認知症では珍しくない。



「誰もいない」


「いるんだ!」


「いない」



兄は黙った。


だが翌日、交番へ行った。


男が家に入ってくる。


そう訴えた。



警察は認知症と聞いて困った顔をした。


一応話は聞く。


だが本気ではない。


健一も謝った。



兄はそれからメモを書くようになった。


広告の裏。


新聞の余白。


ティッシュ箱。


何にでも。




臭い






意味不明だった。


健一は捨てた。



兄は怒った。



「なんで捨てる!」



「ゴミだからだよ!」



その日、初めて兄を怒鳴った。


兄は何か言い返そうとした。


だが途中で忘れた。


そして黙った。




その数か月後。


事故が起きた。


冬だった。


風呂場だった。



大きな音。



駆け付ける。


兄が倒れている。


頭から血が流れている。



救急車を呼ぶべきだった。



だが健一は動かなかった。



兄が死ねば。



介護は終わる。



そう思った。



最低だと分かっていた。


それでも思った。



兄は死んだ。



健一は山へ埋めた。


失踪届を出した。


兄は消えた。




十二年後。


ニュースが流れた。



連続誘拐犯逮捕。



被害者六人。



失踪前、


全員が魚の腐臭を訴えていた。



そして。



寝ている時、


誰かに膝を触られると。



健一の手が止まった。



テレビに映る証拠写真。



市場。



古いアパート。



被害者の証言。



そして。



防犯カメラの映像。



帽子の男。



青い帽子だった。



健一は立ち上がった。



兄の言葉が蘇る。



魚の臭い。


男。


膝。



全部同じだった。



全部。



兄は嘘をついていなかった。



健一は物置を探した。


夜中まで探した。



捨てたと思っていた兄の荷物。



段ボールの底からノートが出てきた。



ページをめくる。





臭い







青い帽子



市場



文字は徐々に乱れていく。



認知症が進行していたのだろう。



それでも書いていた。



必死に。



最後のページを開く。



震える字だった。



ほとんど読めない。



ただ一つだけ。



はっきり読めた。



あおいぼうし



健一はノートを落とした。



兄は最後まで伝えようとしていた。



誰も信じなかった。



警察も。


医者も。


自分も。



兄は壊れていたんじゃない。



助けを求めていた。



真実を話していた。



それを。



認知症だからという理由で。



全部捨てた。



自分が。




その後、兄の遺体は発見された。



健一は逮捕された。



裁判では何も争わなかった。



判決の日。



記者が聞いた。



「今、一番後悔していることは何ですか」



健一は少し考えた。



兄を埋めたことではなかった。



失踪届を偽ったことでもなかった。



もっと前だ。



ずっと前。



魚の臭いがすると言った日。



膝を触られると言った日。



青い帽子だと言った日。



その時、


一度でも信じていれば。



健一は答えなかった。



答える代わりに目を閉じた。



瞼の裏で、


兄が必死に何かを説明していた。



だがもう、


何を言っているのかは聞こえなかった。


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