ガジン ~リナ~
だいぶぎりぎりになってしまいましたが、よろしくお願いします。
「何があっても絵があるから生きていられたんだと思うよ、絵が描けるから活きていける」
仙人がそんな事をいい始めたので私は目を細めたのではない、それはもう夜も10時を回り、大人だけがゆっくりとくつろげる静かでフラットな時間に散歩に出かけ、冷えて静まり返った町並みを抜け、冷たい風が抜けてゆく一級河川の土手を登りきり、目の前に広がった暗がりの澄み切った景色に深呼吸をして歩き始めたころだった、一級河川は渓流のように騒がしい音も立てずにとても静に流れる、広い水面に反射する月明かりは、鱗のようにキラキラと輝き、暗さになれた目を刺激するので私は目を細めたのだ。
私は広い川と河川敷の向こうに見える無数に点在する家の明かりを遠目に見ながら、筋肉の動きを最小限に抑えたフラットな表情と、寝起きの低く棒読みのフラットな声で、シリアスな事をサラッと言ってのけた仙人を見上げた
「もし画が無かったら死んでたかもしれないな、きっと自殺してたなぁ、そう思うんだ」
ほんの少しだけ空気が揺れたような気がした、景色は何も変わらずに全てが静かに見えるが、しかし今日は何かが起きている、フラットな表情とフラットな声から発せられる思い詰めた言葉が、フラットな空気に何か鼓動のようなものを発生させた。だがその鼓動は決して、恐怖や絶望といった不快なものではなく、朗読の一節のように澄んだ空気と冷たく静粛な闇の中に静かに響いた。
終わって始まったのだ、始まって終わったのではない、死んでたかもしれないな、きっと自殺してたなぁ… とかそういう思い詰めた話を、本当に死のうと考えている人間がするはずはない、終わって始まったのだ、ゴールして再びスタートを切ろうとしているのだ、私たちはゴールに居る事ができないゴールは立ち止まる場所ではなく通り過ぎるものだからだ、私たちはいつもスタートにいるスタートする為に立ち止まっている。
仙人は再びスタートに立ったのだ、だから過去を振り返ったのだ、スタートを切る者だけが、過去を振り返ることを許される、それは再びスタートに発てた事に感謝するためだと思う。
仙人は歩んできた過去と今起こっている現実をかみ締めているのだと思う、こういった時の私の予想は案外外れない。
そんな事を考えながらときどき顔を見上げては、仙人の様子を伺う、この人を仙人とは私が言い始めたのでは無い、娘だったはずだ、「なぁお母さん、お父さん仙人見たいやなぁ」 と言ったのを私は寝そべって聞いていた、尖った顔に不精なあご髭をたくわえ、いつも無愛想で難しい表情をして目尻にシワ寄せている、しゃべる言葉もとても短く、叩いても響かないし あぁわかった と言っても感嘆符がつかない、そんな感情の起伏のないフラットなしゃべり方をする、そしていったんアトリエにこもると、今度は動かない、まるで根が生えたように動かない、いすに腰掛けたまま、ただ画を眺めている、そして何か思いついたようにカンバスに色を塗る、時には取り付かれたように描くこともある、仙人と呼ばれる人は、こう言った奇怪な人の事を言うのかと思い、私もそう呼ぶことにしたのだ。
「もう40年以上画を描いてきたんだ、だから言えることだと思う、俺にとって画家は職業ではなく生き方なんだ」
立ち止まって見る土手の上の舗装された道は、背の低い私には永遠と続いているように見える
「絵描きと画家の違いを今日さ初めて考えさせてもらったよ、まぁ別に明確な違いとか区分があるわけじゃないんだけど、ただ今までは区分があるとしても職業と認められているかいないかだと思ってた」
とつぶやきながら私と同じ道を見つめた、仙人は、私の事をリナと呼んだ
「なぁリナ…油絵を描いたのは小学4年生だったよ、絵を描くとみんなに褒められたんだ、上手いねって言われたくてたくさんの絵を描いた、風景が好きでよく描いていたなぁ、写真を模写したりしてさ、写実派や印象派に近かったかもしれないな、でもねそうやって小さい頃に上手に描いたのは絵なんだ、でも今俺がえがくものは画なんだ絵はえがくとは言わないからな」
いつからかなぁ と言ってゆっくりと歩き始めた仙人は、上手く描くって事が何か無意味に思えてきたんだ といいながらぼーっとしていた私の綱を手繰り寄せた、誰に見せても「すごーい、写真みたいだね!」とか「写真にそっくりで上手いね!」って言われるんだ、風景なんて写真でいいんだと思ったよ、ただ上手く風景を描くってことは無意味じゃないか、そんな役目は写真に任せればいいって本気で考えたよ、だろ? 今度は私が仙人を引っ張っていた、私は仙人の言葉に振り返ることも立ち止まることも無く淡々と歩きつづけた、それからだよ、自分の描きたいものは何かって考え始めたのは、そんな時に出会ったのがマチスだった、それまでの自分の絵とは対照的だった、明るい色を使い、背景から何まで簡略化されていた、それでいてとても配色から構図までバランスがいいんだ、無駄がなくて隙もない感じだった、長い間何を描けばいいかずっと迷っていた時期でようやく何か見つけたって気がした、それからかなぁ。
そんな告白の間、仙人は何度も立ち止まっては歩き、歩いては立ち止まった、その度に私は仙人を引っ張った。
「今日、電話で先生に言われたんだ、もう貴方の事をただの絵描きだなんていう人は誰もいませんよ!、あなたのえがいたものは認められたんですよ! これからはご自分の事を画家と呼んで大切にするんですよ!って…描き出したものが認められたんだって…」
私の視線より更に低い場所から広がるそらを見上げているそのぐらい低くてフラットな言葉は、そこまで言った後、深い深い呼吸をして言葉を閉じた、永遠に続いている様に見える土手の道が、そんな事を言わせたのだろうか、いやそれだけじゃない、きっと何かが変わったのだ、きっとこの日の為に続けてきた事、その何かが終わって、何かが始まったのだ。そして北風の身にしみる冷たさと澄んだ空気の美しさは、心の中に濁りの無い刺激をくれたのだ。
今日何かが変わった、今日、何かが終わって、何かが始まった。
私が住んでいる場所は仙人の隣だ、隣の部屋ではなく、隣だ、仙人は私と一緒に暮らしているこの部屋の事をアトリエと呼んだ、とても気に入っている。
いつも仙人の隣だから何かが起きている事を実感として感じている、仙人の静かな言葉を聴きながら、今日何かが変わったのだと、私は何度もつぶやいた、そして今日の一段と静かな散歩を終え一日を振り返りかえっていると玄関が開いた。
今日何かが変わった、今日、何かが終わって、何かが始まった。
また私はつぶやいた、壁一面に絵画が飾られ、もちろんすべて仙人が描いたものだ、年季が入った深い緑色に金糸の唐草が織り込まれたゴシックなクラシックソファーとベージュのクロスをかぶせたテーブルが置かれ、絵画の邪魔にならないように壁や天井は白に近いベージュで統一された6畳ほどの画廊といわれる部屋を通り抜け、その奥の私の住まいであるアトリエへ真っ直ぐに向かった。
今日何かが変わった、今日、何かが終わって、何かが始まった。
アトリエに入って立ち止まり、また私はつぶやいた、アトリエは30畳ほどの空間になっている、部屋とは呼ばず空間と呼ぶのは、まるでガレージの様だからだ、天井は梁がむき出しで梁に直接固定された照明は、最も奥の壁に置かれているまだ手を付けていない白いカンバスに当てられている、壁は壁紙の貼られていないベニヤで奥を除く壁全面に絵画が飾られ、仕切りは柱と筋交いが露出し切抜きが何枚も貼られている、床は打ちっぱなしのコンクリートでそこに飾りきれないカンバスが積み重ねられている、アトリエと呼ばなければまるでガレージような空間なのだ。
アトリエの中央にテーブルと椅子が置かれ、テーブルに絵の具や筆が散らばり筆はさらに空き瓶の中にも何本も立てられている、仙人はドカリと倒れるように腰を下ろし、手の付けられていない白いカンバスを見つめ、深いため息をついてつぶやいた。
今日何かが変わった、今日、何かが終わって、何かが始まった。
なんもかわらんなぁ と言った、仙人はまだきずいていないのだろうか、私には、その言葉が何を意味しているのかはわからないが、言葉への思いや気持ちはわかった、成功や喜びというものは案外簡単に過ぎ去ってしまうものなのかもしれない、失敗することで、私たちは力を手にする、負けたくない悔しいという気持ちが力をくれる、その力は色あせる事はあっても失われることはない、そして成功へ導いてくれる。
しかし成功したとたんに私たちは力を失う、喜びは継続しない、成功してやってくるものは、何も変わらない現実と次への不安だと思う。
仙人はきっとそんな事を考えたのだろうと思った、だから私は仙人の目を見つめて静かにつぶやいた。
仙人は うん と微かに身体をピクリとさせ頷いた。
私がつぶやいたのは言葉ではない、小さな鼓動の振動で伝えたのだ、これは理解するという思考ではなく感じるという感覚で、ただひとつだけ言える事があるという感覚を伝えた。
今日何かが変わった、という事と
今日、何かが終わって、何かが始まった。という事を
日曜大工の工具が無造作にダンボールに入れられナイフやカッターが無造作に置かれている、そんなガレージハウスと言う言葉がぴったりと当てはまる空間、昨日も今日も明日もきっと変わらない空間に私は寝そべってもう一度つぶやいてみた、そしてもし変わらないもの変わってほしくないものがあるとすれば、この空間と仙人がカンバスへ描いていくものだと思った。
変わらないものは心を埋めてくれる、安定や安らぎや安堵といったものかもしれない、仙人の画くものは例えば、いつも私の事を見つめてどの角度から見ても視線が合ってしまうモナリザのような肖像画ではないし、涎をたらすほど、いつも空腹感覚えてしまいそうな美味しそうなリンゴでもボーンの静物画でもない、風景画の雄大な山々が私に迫り圧倒するような力づよさや今にも崩れ落ち支えたくなるような崖っぷちの脆さも無い、私をドキドキさせ発情させるような眠らせてくれない男の具象絵画をでもないし、血なまぐさいドロドロとした戦慄に身震いし神経を尖らせていないと息が止まってしまいそうな戦争画でも無い、神秘な輝きがある宗教画でもなければ、色や形が分出された原色のきついキュピズムでもない、じゃあ何かといわれると、仙人の言葉を借りて表現するとすれば、抽象だということだ。
ラピスラズリの海
綿菓子機で渦巻く雲
心電図の山脈
割れたビスケットの地形
トタンの砂漠
象形文字の島々
新宿の森林
火傷跡の大地
ビー玉の地球
地球がそうであるように常にこの日常の中には抽象が溢れかえっていて、抽象に囲まれて生きているという事、日常の中に原色は無く、混ざり合った色に囲まれて生きているという事、そして私たちは形の無いものを構想できないしこの世に存在しないものを作り出すことはできないという事、創造できることは自分の五感に触れたものの変形でしかなく創造は記憶という額縁に隔てられているという事。
ラジヲの声が優しい、仙人が描くものそれを一言で言ってしまえば地球なのかもしれないと考えながら、生あくびが出た、そんなことをまじめに考える芸術家って言うのは変な生き物だと思ったら、あくびのせいで涙が滲んだ、付け加えて、ものすごく極端で頭がおかしいのか、正常なのかよくわからなくなることすらある、と考えながらトイレに座った、しかし、仙人の画を表現する言葉が地球以外見つからないなぁと寝床にもぐった、仙人の独り言を聞きながら目を閉じた、アトリエに溢れる独特なシンナーとベンジンと油とアルコールと絵の具の複雑に絡み合って乾いた絵画独特の健康に悪そうな匂いに酔い伏していつの間にか私の頭の中は真っ白なカンバスになっていく。
ウトウトしながら今日の出来事が浮かぶ、今日何かが変わったのだから、今日の仙人は何か違う、何が違うかと言うと、落ち着きがなく、ソワソワしていて、いやウロウロしている感じだった、今日、何かが終わって、何かが始まったのだから、ボソボソと話すフラットなトーンは変わらないが、その後に続く言葉が、毎日路頭に迷ってばかりいるような迷言ではなく、明らかに、興奮したラジヲの実況から聞こえる ついにやりました!ついにやりました!と歓喜する、アナウンサーの発する言葉を、仙人は物凄く低いテンションで、さらっと言ったのだ。
さらに、ああ~ぁぁ、ふぅ~ぅと擬音をまぜながら、ソワソワしている身体を、横に振ったり縦に振ったりして、苦虫を噛み潰したような表情で あぁついにやったなぁ~っ と言ってはため息をつき、苦しそうな顔をして見せたりして、さっぱりうれしいのだか悲しいのだかわからない。
だから今日何かが変わった、今日、何かが終わって、何かが始まった 私には分かるのだ、この家の小さな鼓動が・・・
まだまだ書き始めたばかりの為、駄文お許しください。
アドバイスやメッセージ、率直な感想を聞かせていただけるとうれしく思います。