王妃の代わりに『影武者』を引き受けた貧乏令嬢の私の話
序章:貧乏令嬢、影になる
私の人生は、一枚の「契約書」で売られた。……はずだった。
「リリア・アルベルト男爵令嬢。君に、国家の命運を懸けた大仕事を頼みたい」
目の前で、この国の宰相であるハンス様が、眼鏡をキラリと光らせてそう告げた。
場所は、今にも床が抜けそうな我がアルベルト男爵邸の応接間。お出ししたお茶は、三回も出涸らした挙句、もはやただの「かすかに色がついたお湯」である。
「はあ……。私のような貧乏令嬢に、国家の命運ですか?」
私は、窓に貼られた隙間風防止用の羊皮紙を見つめながら、現実逃避気味に問い返した。
我が家の財政状況は絶望的だ。父は人が良すぎて詐欺に遭い、母は流行り病で他界。残されたのは借金と、銀髪に紫の瞳という、不釣り合いに美しい私の容姿だけ。
「単刀直入に言おう。イザベラ王妃殿下が……失踪された」
「……はい?」
「『真実の愛を見つけたので、あとはよろしく』という置き手紙を残して、愛人と共に隣国へ駆け落ちされたのだ。来月には建国記念の大夜会が控えている。王妃不在は、王国の威信に関わる」
私は絶句した。王妃イザベラ様。公爵家出身の絶世の美女。そして、私の遠い親戚にあたる女性だ。確かに、私と彼女の顔立ちは、鏡を見ているのかと思うほど似ていると言われてきた。
「そこで、容姿の似ている君に、王妃の『影武者』を務めてほしい。期間はイザベラ殿下を連れ戻すまで。あるいは、事態が収束するまでだ」
「ほ、ほ、報酬は……?」
「君の家の借金を全額肩代わりし、さらに金貨千枚を約束しよう」
金貨、千枚。
それだけあれば、父に暖かい冬着を買い、家を修理し、さらには余生を遊んで暮らせる。
「……お引き受けします」
私は震える手で、差し出された契約書にペンを走らせた。
文字が恐ろしく細かく、さらに公用語の古い書体で書かれていて読みづらかったが、「国の機密ゆえ、内容を外部に漏らさない」という誓約が含まれていることは理解できた。
「はい、ここにサインを。急いでくれたまえ、陛下の元へ案内せねばならん」
急かされるままに署名を終えると、ハンス宰相は不敵な笑みを浮かべてその紙を懐に仕舞い込んだ。……今思えば、あの時の彼の「よし、釣れた」と言わんばかりの表情に気づくべきだったのだ。
王城。
私は「病気療養中」という体裁で、王妃の私室へと運び込まれた。
そこで待っていたのは、この国の最高権力者。
「……来たか」
国王、クラウス・ド・ラングリード。
『氷の王』の異名を持つ彼は、その名の通り冷徹な美貌の持ち主だった。鋭い金の瞳が私を射抜く。
「リリア・アルベルトです。今日から……影武者を務めさせていただきます」
私が緊張で膝を震わせながらカーテシーを捧げると、クラウス陛下は私を一瞥した。
「……悪くない。イザベラより少し痩せているが、化粧で誤魔化せ。余の前に立つときは、常に彼女を演じろ。私情を挟むな。お前はただの、替えの効く人形だ」
冷たい。あまりにも冷淡な声。
ああ、やっぱり。
私は、自分が「身代わり」でしかないことを痛感した。
愛する妻に逃げられた王は、その穴埋めをする人形が必要なだけなのだ。
(大丈夫よ、リリア。これはビジネス。完璧に『道具』を演じて、お金をもらって帰るの。……でも、そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃない)
しかし、私の視界からは見えなかった。
クラウス陛下が、私から視線を逸らした瞬間、その耳の裏が真っ赤に染まっていたことを。
影武者生活が始まって一週間。
私は衝撃を受けていた。
「これ……何ですか?」
私が指差したのは、山積みになった書類の束だ。
王妃イザベラ様の執務室は、まるで嵐が過ぎ去ったあとのように荒れ果てていた。
「イザベラ様が手つかずのまま放置していた公務の書類と、宝石商からの請求書、それに……意味不明な支出の記録です」
侍女のアナが申し訳なさそうに答える。
聞けば、イザベラ様は贅沢三昧を尽くし、公務はすべてサボり、気に入らない使用人は即座に解雇。後宮の空気は最悪だったらしい。
(……貧乏令嬢をなめないでほしいわね。借金取りの計算書を毎日見ていた私にとって、この程度の数字の整理なんて、お茶の子さいさいよ!)
私は腕をまくった。
まずは予算の整理。横領まがいの支出をカットし、宝石商には「王妃の印」を盾に不当な高値を値切らせる。さらに、不当に解雇された有能な使用人たちを呼び戻し、働きやすい環境を整えた。
「王妃様……? いえ、リリア様。その、本当にありがとうございます」
数日後、アナをはじめとする使用人たちの目が、敬意に満ちたものに変わっていた。
私は焦って首を振る。
「やめて、私は偽物なのよ。影武者らしく、目立たないようにしないと」
しかし、私の「完璧な仕事ぶり」は、思わぬ方向に波及していた。
「リリア、今日の夕食は余と共に摂る」
執務室に現れたクラウス陛下は、相変わらずの無愛想さでそう告げた。
私は「演技の練習ですね」と納得し、食堂へと向かう。
そこで待っていたのは、超豪華なフルコースだった。
「陛下、これは……影武者の食事としては、いささか贅沢すぎませんか?」
「……うるさい。お前が痩せすぎていると、イザベラの身代わりだとバレるだろう。もっと食え。ほら、あーんしろ」
「は……? あーん、ですか?」
陛下が、金色のフォークで最高級の鴨肉を差し出してくる。
その顔は凍り付くほど無表情だが、なぜか手がわずかに震えている。
(……すごい。これが『演技』の極致なのね。本当は私のことなんて疎ましくてたまらないはずなのに、夫婦仲が良いと周囲に見せかけるために、自分に鞭打ってまでこんな恥ずかしいことを……。さすがこの国をまとめるだけの人物ということね。敬服するわ!)
「あ、あーん……」
私が一口食べると、陛下はふいっと顔を逸らした。
「……味はどうだ」
「美味しいです、陛下」
「そうか。では、明日も一緒に食事だ」
夜。
さらに難関が待ち受けていた。
「寝室を共にする……のですか?」
「当たり前だ。王と王妃が別々の寝室など、不仲を宣伝しているようなものだ。……安心しろ、手は出さない。お前のような貧相な女に興味はない」
その言葉に、少しだけ胸がチクリとした。
分かっている。私は偽物。イザベラ様のような華やかさはない。
でも、陛下に「興味がない」とはっきり言われると、女として少し悲しい。
(いいのよ、リリア。これは仕事。むしろ安全で助かるわ!)
大きなベッドの端に丸まって寝ようとする私を、陛下はなぜか背後から力強く抱き寄せた。
「ひゃっ!? 陛下!?」
「……動くな。夜は冷える。ゆ……湯たんぽ代わりだ」
湯たんぽ。
陛下の腕はたくましく、体温は驚くほど高い。
そして、トクトクと刻まれる心音は、演技とは思えないほど激しかった。
(……この心音、もしかして、これも演技なの? 王様ともなると、自律神経までコントロールして『緊張している風』を装えるのかしら。凄すぎるわ、ラングリード王家……)
翌朝、私の机には山のようなプレゼントが積まれていた。
最新のドレス、魔石のネックレス、隣国の珍しい菓子。
「陛下、これらは……?」
「経費だ。影武者の維持費だと思え」
「かしこまりました。帳簿には『装飾品』として記載しておきますね」
事務的に処理する私を見て、陛下が背後で項垂れていた気がしたが、きっと気のせいだろう。
影武者生活が始まって三ヶ月。
城内では「王妃様は女神の生まれ変わりだ」と囁かれるようになっていた。
私の徹底した事務改善と、公平な態度が実を結んだのだ。もはや、誰も私がかつての我儘なイザベラだとは思っていない。むしろ「陛下との愛が王妃様を変えたのだ」と、微笑ましい目で見られている。
……そんな中、最悪の知らせが届いた。
「リリア。……イザベラが、見つかった」
執務室に現れた陛下の表情は、これまで以上に険しかった。
私の心臓が跳ね上がる。
「そうですか……。では、私の役目も終わりですね」
喉の奥が熱くなる。
この三ヶ月、偽物として過ごした日々。
陛下の冷たい言葉の裏に、時折見え隠れする不器用な優しさに、私はいつの間にか惹かれていた。
「あーん」をしてくれたこと。
夜、優しく抱き締めてくれたこと。
全部が「演技」だと分かっていても、私にとっては宝物のような時間だった。
「イザベラ様は、いつ戻られるのですか?」
「来週の建国記念パーティーの後だ。彼女は、愛人に捨てられ、金が尽きたらしい。そして……自分が戻ったら、お前を『王家を騙した大罪人』として処刑しろと言ってきているが……」
血の気が引いた。
そうだ。影武者という存在は、本来あってはならないもの。
本物が戻れば、口封じのために消されるのが道理だ。
「……分かりました。今まで、ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
せめて、陛下の前では最後まで「有能な道具」でありたかった。
「契約通り、私は身を引きます。ただ……、父の身の安全だけは保障していただけますか?」
その時、ガシャン! と大きな音が響いた。
陛下が、デスクを力任せに叩いたのだ。
「契約……? 誰がそんなことを言った!」
陛下が、物凄い剣幕で私に迫る。
そのまま私は壁に押し付けられた。いわゆる『壁ドン』というやつだが、ときめきを感じる余裕なんてない。陛下の瞳には、怒りの炎が燃え盛っている。
「いいか、リリア。お前を帰すつもりなど、毛頭ない」
「……え?」
(……怖い。やっぱり、口封じのために幽閉されるんだ。まさか本当に処刑……)
「お前はここにいろ。余のそばから離れるな。イザベラが何を言おうと、余が……」
陛下の言葉が途切れる。
彼は苦しげに顔を歪め、私の肩に額を預けた。
「……行かせない。絶対に行かせないからな」
その声は、震えていた。
私はそれを「王妃の不祥事を隠蔽しきれなかった王の焦燥」だと受け取った。
私は彼の服の袖を、そっと握りしめる。
「……はい、陛下。覚悟はできています……」
幽閉でも、処刑でも。
この人のそばにいられるのが、あと数日だけなら。
私は、最後まで「影武者」としての責務を全うしようと誓った。
建国記念の大夜会。
会場は、煌びやかなシャンデリアの光と、貴族たちの熱気に包まれていた。
私は、陛下の隣で「王妃」として立っていた。
おそらく、これが私の最後の舞台。
その時。
会場の扉が、乱暴に跳ね開けられた。
「待ちなさい! その偽物を捕らえなさい!」
現れたのは、ボロボロのドレスを纏いながらも、傲慢な表情を崩さない女性。
イザベラ王妃――その御方だ。
彼女の背後には、彼女の父である公爵が、勝ち誇ったような顔で控えている。
「まあ! 王妃様が二人!?」
「どういうことだ? どちらが本物なんだ?」
会場が騒然となる。イザベラ様は私を指差し、嘲笑った。
「顔が似ているだけの貧乏令嬢を身代わりにするとは、王家も地に落ちたわね! その女は、私がいなくなって困った宰相が連れてきた、ただの『偽物』よ!」
王妃の父である公爵が一歩前に出る。
「陛下! これは重大な国民への欺瞞です! この貧相な娘……アルベルト男爵令嬢を、即座に大罪人として断罪すべきだ! そして、本物の王妃である私の娘を、正当な席に戻すべきである!」
周囲の貴族たちも、ざわつき始める。
確かに、私は偽物だ。
私は、震える唇を噛み締め、陛下に迷惑をかけないよう一歩下がろうとした。
「申し訳ありません、私は……」
謝罪の言葉を口にしようとした、その時。
「クハハハ……! ククク、ハハハハハ!」
隣にいたクラウス陛下が、突然、お腹を抱えて笑い出した。
冷徹な氷の王が、あんなに楽しそうに笑うのを、私は初めて見た。
「陛下……?」
「いや、失敬。あまりにも滑稽な茶番だったのでな」
陛下は笑い声を収めると、鋭い眼光を公爵とイザベラに向けた。
「イザベラ。お前は自分のことを『本物の王妃』だと言ったか?」
「当たり前じゃない! 私こそが、この国の王妃よ!」
「ふむ。ハンス、用意しろ」
ハンス宰相が頷き、指をパチンと鳴らす。
すると、会場の壁面に大きな投影魔法が映し出された。
そこにあったのは、一枚の書類。
「イザベラ。お前が駆け落ちした際に残した置き手紙。あれを読んだ時、余は確信したのだ。『ああ、ようやくこのゴミを捨てられる』とな」
「な、なんですって!?」
「お前が『あとはよろしく』と書いたあの紙を、余は即座に法務大臣に渡し、『離婚届』として受理させた。お前の実家、公爵家が長年行ってきた公金横領の証拠と共に、な」
陛下が冷たく言い放つ。
「お前が城を出たその日に、余と貴様の婚姻関係は解消されている。つまり、お前は今、ただの『不法侵入者』だ。……衛兵、この女を連れて行け」
「嘘よ! そんなの認めないわ! 私がいない間、この偽物を王妃として扱っていたじゃない!」
イザベラが喚く。陛下は、私の肩を抱き寄せ、さらに一枚の書類を映し出した。
「ああ、リリアのことか。彼女が署名した書類を、よく見るがいい」
私は、投影されたその書類を凝視した。
そこには、私の署名がある。
タイトルは……。
『正妃婚姻届、兼、結納金に関する同意書』
「……えっ?」
目が点になった。
『影武者雇用契約』じゃなかったの……!?
「リリアがサインしたのは、影武者の契約ではない。余との正式な婚姻届だ。文字が細かくて読めなかっただろう? あれはわざとだ。……それから、ハンス」
「はい。アルベルト男爵領の借金はすべて返済済み。さらに、リリア様がこの三ヶ月で行った事務改善による国益の増加を鑑み、彼女には『国家一等勲章』の授与が決定しております」
ハンス宰相が、意地悪そうな笑みを浮かべて補足する。
「な、なによそれ! 詐欺よ! 詐欺じゃない!」
「いいや、合意の上での署名だ。なあ、リリア?」
陛下が、私を覗き込む。
その瞳には、かつての冷徹さは微塵もなく、熱い、溶けるような情熱が宿っていた。
「余は、数年前の夜会で、バルコニーでお腹を空かせてパイを頬張っていた君を見て以来、ずっと君を探していた。イザベラの親戚だと分かった時、どれほど喜んだか。イザベラが逃げ出した時、どれほど感謝したか……!」
「陛下……あ、あの時の食いしん坊な私を見られていたんですか……?」
恥ずかしさで爆発しそうだ。
でも、陛下は構わず、全貴族の前で私の手をとり、膝をついた。
「リリア・アルベルト。いや、リリア・ド・ラングリード。お前は最初から、余にとって唯一の本物だ。身代わりなどと思ったことは一度もない。……騙すような形になったのは謝る。だが、もう一生手放さないぞ」
会場中が、祝福の拍手に包まれる。
連行されていくイザベラと公爵の叫び声は、その歓声にかき消されていった。
数日後。
公爵家は、長年の汚職と王妃の職務放棄、そして不倫失踪の罪で爵位剥奪。イザベラは辺境の修道院送りとなった。
そして私は……。
執務室。
かつては荒れていたこの部屋も、今は清潔で、心地よい花の香りが漂っている。
……困ったことに、国王陛下が私の膝に頭を乗せて、離してくれないことを除けば。
「陛下、公務に戻ってください。騎士団の予算案がまだですよ」
「嫌だ。リリア成分が足りない。この三ヶ月、演技だと思われていたのがショックすぎて、寝込みそうだ……」
「それは、陛下があんなに怖い顔をしていたからで……」
「緊張していたんだ! 君が可愛すぎて、直視できなかったんだ!」
『氷の王』の化けの皮が完全に剥がれた陛下は、今やただの甘えん坊な旦那様だ。
私は溜息をつきながらも、その髪を優しく撫でる。
「……でも、嬉しいです。私も、演技じゃない陛下の方が、ずっと好きですから」
その瞬間、陛下がガバッと起き上がり、私を押し倒した。
「今、なんて言った? もう一度言え。記録魔法で残すから」
「い、言いません! 恥ずかしい!」
「言え! 妻の義務だ!」
わあわあと言い争いながらも、私たちの唇は自然と重なる。
「影武者」から始まった、私の王妃生活。
それは、世界で一番甘くて、世界で一番「本物」の恋物語へと変わったのだった。
――Fin.
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