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二人きりの食事


 突然扉が開き、薄暗い寝室に光が差し込んだ。

 ゆっくりと響く重い足音と長い影が、セラの近くで止まる。


「……エイレンの王女」


 婚礼の儀で一言だけ聞いた、低い声が部屋に響く。


「婚礼の儀は終わった。お前の顔にかかっているベールを外させてもらうぞ……セラ」


 セラの名前を呼んだということは、この人が夫か。


 そうだよね、本当に皇帝の寝室なのだとしたら、皇帝以外が来ちゃダメだし……。


 眠い目を動かして顔を上げようとしたけれど、夫になる人がそれよりも早く、セラの顔と頭を覆っているベールを剥ぎ取っていた。

 ベールで覆われていた顔と首に直接、西の冷たい空気が当たり、肌が粟立つ。


「…これが、エイレンの」


 寒さに身を縮めていると、夫になる人の声が聞こえた。


「噂には聞いていたが……」


 伸ばされた大きな手が、セラの銀色の髪を一束握る。


「エイレンの銀糸…これ程とは」


 エイレンの銀糸。それは、世界で唯一、エイレンの王族だけが持つ銀色の髪を指す。そして不思議なことに、他の国では決して発現しない色でもあった。


 セラはゆっくりと、夫になる人物を見上げた。


 艶のある黒髪に、鋭い翡翠色の目。意外に整った顔立ちと広い肩幅。身につけている真っ黒な衣装のせいで、顔以外は闇に溶け込んでしまいそうだ。


 見上げたセラと目が合った、夫の翡翠色の目が僅かに見開かれた。


「お前、その目……」


 髪から離された手が、セラの頬に触れようとして止まる。


「エイレンの王族は……目の色も特殊なのか?」


 低い声で尋ねられ、セラは少し首を傾げた。


 エイレンの王族が持つ固有の色は、神の色だけだ。

 古い伝承に「神に愛された証」と書かれているエイレンの銀の髪。国神である、東の神と同じ色の髪。


「お前の目は……青い宝石を溶かした海のようだな」


 セラは戸惑いを隠せず、ぱちぱちと瞬きをして夫を見つめた。


 目を褒められたのは、はじめてだ。母親譲りの青い目は、エイレンで良くある色ではないけれど、特別な色というわけでもない。

 セラの視線に小さく息を飲んだ夫が、指先で壊れ物を扱うように、セラの頬の輪郭をなぞる。


「……逃げないのか」


 逃げる?

 夫に問われ、セラは今度こそ首を傾げた。


 この人は何を言っているんだろう。


 五歳で母親を殺したとか、二十歳で父親を殺したとか、刃向かったらすぐ静粛されるとか、色々言われている人だ。


 そんな噂がある人から、逃げるとか無理だろう。

 この部屋にある窓は、小さな窓ひとつだけ。武器もないし、あるのはこの身一つだけ。

 逃げるよりは、死ぬ方が簡単だけれど……今のところ、まだその予定はない。


「随分、大人しいな……エイレンの王族は、皆そのように静かなのか?」


 大人しい……静か?


 セラはきょとんとして夫を見上げた。


「大人しい」も「静か」も、生まれてから一度も言われたことはない。

 祖国の父はいつもセラを見て「この野生児が…」と頭を抱え、母は困ったように笑い、兄は呆れ、姉はため息をついていた。


 つまり、セラの祖国の基準であればセラは間違いなくおとなしくないのだけど……ここ、グランドゥールでは違うのかもしれない。


 夫はどうやら返事を求めているようだったので、セラはとりあえず口を開いた。


「さあ……?」

「『さあ?』」


 夫が片眉を上げる。翡翠色の目は鋭いが、怒っているわけではなさそうだ。


「自分のこともわからないのか……? まあ、いい」


 そう低い声で言った夫は、そのままセラをベッドに押し倒した。はらりと月明かりに煌めく銀色の髪がシーツの上に散らばる。


「今日は初夜だ。お前だって王族なのだから、その意味はわかっているだろう?」


 それはまるで、セラが何もわかっていないような口ぶりだった。

 思わずセラはむっとして銀色の前髪の下で少し眉を寄せた。


 いくら、他国へ嫁ぐ予定ではなかったセラでも、それぐらいわかっている……多分。


「お前は今日からグランドゥールのものだ。その髪も、体も、お前たちエイレンの王族が隠し持つ……秘匿も」


 ——ああ、やっぱり。

 ここまで露骨なのもどうかと思うが、ある意味正直な人なのかもしれない。


「恐怖はないのか……?」


 そのくせ、髪を撫でる指先はどこか優しい。

 尋ねてばかりなのは、セラが答えないからなのだろうか。

 僅かに細められている翡翠色の目を見つめて、セラが口を開こうか迷った時。


 きゅるり。


 セラの腹から、小さく音が鳴った。


「…………」

「…………今のは、お前の腹の音か」


 朝から何も食べていなかったことが、とうとう影響したのだろう。

 こくりとセラが頷くと、長い沈黙のあと、小さく吹き出す声が聞こえた。


「お前……初夜に、腹鳴らすなんて、飛んだ間抜けだな……」


 夫がセラの上から体を退け、肩を振るわせて笑っていた。

 声こそ出していないが、どう見ても爆笑している。


「お前なあ……飯は……そう言えば食ってなかったな」

「ベールが邪魔で」

「ああ……なるほどな」


 納得したように頷く夫の目に、もう剣呑な光はなかった。

 立ち上がった夫は、黒い衣装を翻して言った。


「そこで待っていろ。寝るなよ」


 起き上がったセラが目を丸くして見つめていると、夫は重厚な扉を開けて寝室から出ていった。


 しばらくして戻ってきた夫は、片手に何かが乗った盆を持っていた。


 部屋の照明をつけた夫が、ベッドのそばのナイトテーブルに盆を置いた。そこには、具なしの黄金色のスープと小さなパン、一口大に切られた果物の皿が乗っている。


「食べろ」


 短く告げられた言葉に、セラが目を丸くして夫を見上げると、目が合った夫は僅かに眉を寄せた。


「毒味をしないと食べられないとでも言うのか?」


 どこか試されているような口調に、慌ててふるふると首を振る。

 これは、家族しか知らないことだけれど、——セラに毒は、効かない。


 ベッドに座ったまま、セラが添えられていたスプーンを手に取る。

 夫はゆっくりとスープを口に運び始めたセラの隣に座ると、自分の膝に頬杖をついてセラをじっと見ていた。


 人に見られながら食事をするのは慣れているけれど、こんなに至近距離で凝視されながら食べるのははじめてだ。


 緊張で、食べる速度が早くなる。もぐもぐと口を動かしていると、夫が手を伸ばしてセラの頬に触れた。


「ついている」


 人差し指と親指で摘まれたパン屑を見て、セラの頬に少し熱が上がる。食べかすをつけていたことは、さすがに恥ずかしかった。


 夫は気にした様子も見せず、パン屑を床に放った。

 まるで、明日掃除するから問題ないと言うように。


 全ての皿を空にしたセラは、ようやく一息ついた。

 特に果物…あの、はじめて食べた黄色い果物。名前は知らないが、とびきり甘くて美味しかった。


 セラはスプーンを盆に置いた後、そばに座っていた夫の顔を見上げた。


「ありがとうございます、えっと…」


 そこでセラは、はっと凍りつく。


 夫の名前を、覚えていない…!


 この結婚に、乗り気もやる気もなかったのは認める。

 しかし、さすが夫になる相手の名前を覚えていないとは言えない


 ラ…何とかだったかな。いや、リ…何とかだった気もする。

 えーっと…。


「皇帝陛下…」


 間違っていないはずだ。夫は皇帝なのだから。


 そう答えたセラへ、夫がわずかに眉を寄せた。


「お前の国は自分の夫を尊称で呼ぶのか…?」


 頭痛でもするのか、片手で右のこめかみ付近を押さえながら、夫はため息を一つ吐く。


「レノンだ。今日からレノンと呼べ、……セラ」


 セラを呼ぶ声の音は、冷徹と呼ばれている人とは思えないぐらい柔らかく聞こえた。


「……レノンさま?」

「ああ、それでいい」


 くしゃりと頭を撫でられて、この人は本当に冷酷非道と呼ばれるような人なのだろうかと思う。


 セラが青い目で見上げると、レノンはどこか諦めたようにセラをベッドに押し込んだ。

 そのまま自分も横になり、上掛けの上からセラをぎゅうと押さえつける。


「初夜は延期だ。…寝ろ。明日の朝、お前付きの侍女を寄越す」


 夫は上掛けでセラの頭まで覆ってから続けた。


「足りないものがあれば言え。それから……ベールは、俺とお前付きの侍女の前以外では、取るな」


 ベールは取るな。


 その言葉にセラが上掛けの隙間からレノンを見上げると、凍てつくような翡翠色の目がセラを見上げていた。


「反論は聞かない。決定事項だ」


 その目の鋭さにセラが思わず頷くと、レノンはふっと視線を逸らした。


「さっさと寝ろ」


 視線も声も冷たいのに、不思議と上掛けの上からセラの頭を撫でる手は優しい。


 簡単な食事だったけれど、腹が満たされたことと、朝からの疲れでセラの瞼がゆっくりと閉じていく。


 ◇◇◇


 しばらく時間が経ち、セラの寝息が小さく聞こえてきたことで、レノンは頭を撫でていた手を止めた。


 そっと上掛けを捲ると、そこにあるのは美しい銀の髪に包まれた、想像よりもずっとあどけない寝顔。


「こんな時によく眠れるな……」


 寝ろと言ったのはレノンだが、本当に熟睡するとは。エイレンの王女は、随分肝が据わっているらしい。


 東の小国エイレン。その王族だけが知る秘匿。そして、エイレンの王族を伴侶にした国は、その秘匿によって大きな繁栄を得る。


「エイレンの秘匿さえあれば、俺は……」


 呟いた声を、聞く者はいない。


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