婚礼の日
かつて世界は、四人の神によって造られた。
◇◇◇
一つ。王女が嫁ぐその日まで、決して会わないこと。
一つ。婚礼の儀が終わるまで、王女のベールは取らないこと。
一つ。王女が死した場合、三日以内に知らせること。
最後に、王女が死した場合、必ずその骸を我が国に返すこと。
◇◇◇
それは穏やかな風が吹く、良く晴れた春の日だった。
大陸の西側を支配する軍事帝国グラドゥールと、そこから遥か東にある小国、エイレンとの間で婚姻が結ばれた。
厳粛な空気が漂う帝国の大聖堂で、冷酷非道と名高い、漆黒の衣装を纏った皇帝の一歩後ろを歩くのは、東の小国エイレンの齢十六歳の若き王女。
けれどその顔は、繊細なレースを幾重にも重ねられたベールで深く覆われていた。結い上げた髪さえも長いベールの下に隠されており、見えるのは祖国エイレンの長い婚礼衣装から覗く指先だけ。
司祭からの問いかけに、ベールに包まれた頭がわずかに動き、王女の声すら明かされないまま、婚礼の儀は終了した。
◇◇◇
暗い寝室の窓から覗く月は、十九年過ごした祖国と違って、青白く冷たかった。薄いカーテンの隙間から入ってくる風は、どこか埃っぽく乾燥している。
数時間前、西の帝国グラドゥールに嫁いだばかりのエイレンの第二王女セラは、白く長いベールの下で小さくため息をついた。
西の国がこんなに寒いなんて思っていなかった。
婚礼の儀のあと、女官から手渡された、薄く白い夜着。
季節は同じはずなのに、祖国エイレンよりずっと気温が低いこの地では、防寒としては何の役にも立たなかった。
これだったら、さっきまで纏っていた婚礼衣装の方がまだよかった。
エイレンで作られたその衣装は、透けないことを一番に作られているから、生地は丈夫だし防寒としても有効だ。
もしかしてグラドゥールの女性はみんな、こんな薄っぺらい夜着で毎日寝ているのだろうか。こんなんじゃ風邪引くぞ。
そんなことを考えているうちに、セラの腹が小さく鳴った。
「お腹、空いたなあ…」
ぽつりとつぶやいた言葉は、しんと静かな空間に吸い込まれていった。
エイレンから旅立って二週間。遥か西にある軍事帝国グラドゥールに着いたのは今日、早朝のこと。
待ち構えていた帝国の人々に連れられ、腰を下ろす暇もなく、予定されていた婚礼の儀を済ませた後は、夜着を手渡してきた年嵩の女官から、ぽいっとこの部屋に放り込まれた。
部屋にあるのは一人で寝るには大きすぎるベッド。
そう言えば、皇帝の寝室だと女官が言っていた気がする。
西の軍事帝国グラドゥールの現皇帝。今日からセラの夫になる人だ。
セラよりも十歳も年上で、セラが成人を迎える前から、何度もエイレンへセラとの婚姻を申し込んできた人。
エイレンの国王である父は、三度グラドゥールへ断りを入れた。セラは他国に輿入れさせる予定の娘ではなかったからだ。
他国に輿入れさせるとすれば、それは次代。
次期国王となるセラの兄に娘が生まれれば、その子はおそらく他国に嫁いだだろう。
けれど、それは遠い西の帝国ではなく、エイレンの周辺にある東の諸国のどこかだったはずだ。
それが何故、西の帝国が三度も断られながら、エイレンとの婚姻を強く望んだのか。
理由は、きっと一つ。
エイレンの王族だけが知ると言われているーー秘匿。
別名「神が最初に創りし地」「神に愛された地」と呼ばれている、東の小国エイレン。
世界を作った四人の神の一人、東の神によって造られた、建国されから世界最古の王朝を保持している国だ。
その歴史的価値は高く、鉄と火で領土を増やしてきた西の帝国でさえ、簡単に手出しはできない。
セラは今もなお、顔と髪を完全に隠している白いベールの裾を手に取った。
エイレンの王族が嫁ぐときに造られる、白く長いベール。
祖国でのみで手に入る特殊な材料と、古くから伝わる技法で作られるこのベールは、使用者の顔が外側から透けて見えることは決してない。
全ては、エイレンの王族を守るためのもの。
エイレンの王族が嫁ぐ際、他国に架す制約。
その内の一つに、婚礼の儀が終わるまで、花嫁のベールを外してはならないというものがある。
その制約がなければ、恐らく今頃はベールも奪われて薄っぺらい夜着一枚。余計に寒い思いをしていただろう。
「ベールが防寒になるとは思わなかったなぁ…」
呟いた声はセラ自身にも、ひどく頼りなく聞こえた。
体に纏わりつく冷え切った空気を感じながら、時間だけが刻々と過ぎていく。
……もしかすると、夫は今日、ここに来ないのかもしれない。
セラはふとそう思う。
十分あり得る話だ。
婚礼の儀の間、夫となる人は隣に立つセラを一瞥すらしなかった。
セラもまた、ベールで顔が見えないのを良いことに、夫の方を見ようとしなかったのだけれど。
三度婚姻を望まれたとしても、好きで祖国から離れたグラドゥールに来たわけじゃない。
それに、夫の顔がどうであれ、もう婚礼の儀は終わってしまった。
簡単には祖国へ帰れない。
父は、どうしても無理なら帰ってきても良いと言ったけれど、そう簡単にいかないことは、セラにもわかっている。
頭によぎるのは、祖国の風景。残してきた父母と兄姉の顔。
今更の話だけれど、やはり周囲が言う通り、従兄弟のマルコと婚約をしておくべきだったのだろうか。
そうすれば、こんな異国に来ることはなかったんだろうか。
「……眠い」
しかし、どうやら人間というのは、空腹と疲労感であれば、疲労感が勝つらしい。
薄着のため、肌が冷え、体力が奪われていくのも原因の一つだろう。
瞼がゆらゆらと閉じていく。
このままだと、ベッドに座ったまま眠ってしまう。
けれど、夫はどうせ来ないだろうし、それも良いかもしれない。
そう思った時だった。
修行してました。復帰します。またしばらく、お付き合いいただければ幸いです。




