おしまいのむこうがわ
彼女は狭い暗闇の中にいた。出産を間近にする胎児のように丸まっていると、自分の心音だけが聞こえた。異常空間に閉じ込められてどれほどの時間が経ったのか、太陽も月もない日々は狂気をとうに越えていて、彼女の心を闇と同化させていた。
心音だけを聞いていた。自分が生きているのだという証だけを感じていた。そして臭いと熱と。辛うじて、自分は自分なのだという均衡だけがあった。
心音を何万回も聞いた果て。彼女は激しい光に燃やされた。目蓋を懸命に閉じながら、何者かの気配に触れる。
「おめでとう。おめでとう」
鼓膜が裂けるかと思い、両耳を塞ぐ。少しずつ五感が慣れてきて、彼女はいま自分が感じているものがけして強くないことに気づいた。強烈な光ではない、穏やかな木漏れ日。轟音などではない、柔らかな囁き。
「おめでとう。おめでとう」
白衣の男たちが口々に彼女を祝う。拍手をし、愛でる。
「おめでとう。君は宇宙へ行けるんだ」
◆
彼女に家はない。自我が芽生えたその日、彼女は親兄弟と金持ち達が捨てた残飯を漁っていた。それが普通だと思っていたし、そうして生きていくのだろうと思っていた。
いつものように路上で眠っていると、彼女は突然に腕を掴まれた。見やると、複数の男達だった。何事かと抵抗をしてみたが、痩せ細った幼い彼女には逃れる力はなく、車に押し込められた。
殺される。彼女は男達の家に連れられて、うち震えた。彼らは彼女に不思議なことをした。温かい水で彼女の汚れた体をごしごしと洗ったのだ。後にそれはシャワーというものだと知ったが、知らぬうちは恐怖でしかない。恐るべき時間が終わり、彼女はタオルで全身を拭かれた。これはなんとも言えぬ心地よさで、ふいに寝てしまった。
起きると、彼女は部屋にいた。家の中にいた。
驚いて周囲を見やる。と、何者かと目が合う。後じさる。
よくよく見ると、鏡であった。青い瞳に、整った顔だち。彼女は初めて自分の姿と対峙した。
彼女はその場で一回転した。ふわふわと心臓が飛び去ってしまいそうな不思議な感覚。うっとりとしていると、
「やぁ」
背後に白い服を着た男がいた。逃げ出そうと反射的に、足をあげる。が、止めた。えもいわれぬ芳香を認めたためだ。
男は大皿を抱えていた。そこから実に旨そうな匂いがする。大皿には、今までに見たことのない分厚い肉が乗っていた。
てらてらと輝く肉汁に、胃がグッと震えるような匂い。急激に唾液が出て、口がずきずきと痛む。
「お食べなさい」
皿が置かれる。男が距離を置く。
彼女はいぶかしんだが、食欲には勝てなかった。男が一定の距離、離れた瞬間、肉に飛びかかった。
漁ってきた残飯にはない熱さ。吹き出す肉汁。噛めば噛むほど極上の味わいが口いっぱいに広がる。
「君は世界で一番、運が良い。これから君は変わる。素晴らしい夢が待っているよ」
肉を食みながら上目でうかがうと、男は笑っていた。
「君は宇宙に行くんだ」
両の手を広げて、白衣の男は鳥に似ていた。
◆
男の言う通り、彼女の生活は一変した。常に清潔であるようにされ、定期的に食事を与えられた。食事は主にゼリーだったが、不満はなかった。飢えと寒さに耐えながら、あるとも分からない残飯を町中歩き回って探す労力に比べれば、どれほど楽だろう。
突然に与えられた新しい日々。それは幸福といって差し支えないものだった。彼女の中にあった男達への恐怖や警戒を次第に奪う程度に、或いは家族を思い抱く心配や寂しさをいつの間にか忘れてしまう程度に。
さて、新しい生活の最大の変化は、指導を与えられたことだった。
教育とはいえない、命令を遂行するだけの内容。例えば、音が鳴ったら必ずある場所に移動しなければならないとか、やめろといわれるまで立ち続けなければならないとか、極めて単純な内容をひたすら繰り返すのだった。時には箱に入れられて、ぐるぐると回されることもあった。
上手くいかなければ鞭で叩かれたが、上手くいけば褒美として肉を与えられた。それほど難しい指示ではなく、その意味や意図は分からないまま、彼女は男達の命令に従い、鞭で叩かれることもやがてなくなった。
一切の苦痛も感じず、一切の暴力も感じなくなったある日。白衣の男が優しく彼女を撫でた。男の表情は指導とは違う厳しい色をしていた。
「君は素晴らしい。予想以上に良い子だ」
男はぎゅっと彼女を抱き締めた。よくあることで、もう抵抗はしない。穏やかな毎日は男と彼女に、安堵と信頼が生んでいた。
「……最後の試練だ」
男が呟いた。
次に男が抱き締めてくれたのは、絶望的に長い暗闇の果てだった。
◆
「おめでとう、お疲れさま」
久しぶりの肉に頬を弛めていると、白衣の男が部屋にやってきた。嬉しくて食べるのをやめて、男に飛び付く。男はぎゅっと彼女を抱き締めると、そのまま抱え上げた。
「君に見せたいものがあるんだ」
初めて家を出た。夜だった。夏草の青臭い匂いと、ざわざわと揺れる音。家は草原の真ん中にあったのか。
肌寒くて、男の胸に顔を押し付ける。
「ごらん」
男が指をさした。虚空に。夜空に。満天の星に。
深い紺に金粉を撒き散らしたようだった。月が年老いた賢者の瞳で二人を見下ろしていた。触れてしまえそうなくらいに近い、けれど無教養な彼女でも星達が果てしなく遠いことは知っていた。
「宇宙だよ」
望んでも届きはしない隣人。地球上のありとあらゆる生命体が、どんなに苦しい日々を送ろうとも変わらず、そこにある完璧なる傍観者。
「君は明日、宇宙へ行く。大気圏を越えて……地球で初めて軌道に乗る。そして……」
◆
翌朝、彼女は宇宙服と呼ばれる服を着せられた。分厚い服が全身を窮屈にさせるが、平気だった。何度も指導で宇宙服は着ていた。
白衣の男の前で一回転すると、笑ってくれた。
「さぁ、行こう」
促されて小さなゲージに入る。布をかけられる。浮かび上がる感覚、運ばれているのだ。
あの日町から連れ出されたように、新しい日々が待っているのだ。宇宙という、新しい家で。
布がはずされ、ゲージから出る。見知らぬ天井と、壁と、床。誰もいなかった。自分だけがいた。
何が起こるのだろう。先の分からない不安が胸を突く。心臓が喉までせり上がる。
そうして時を待っていると、音が鳴った。何度も聞いたことがある音だった。既に習慣と化していた、彼女は床に視線を走らせる――、あった。
ある印の上に彼女は素早く座った。暫くすると音がやみ、やがて遠くから鉄と鉄がぶつかり合う重音が響いてきた。
ふいに内臓が下へと引っ張られた。この感覚も、慣れたものだった。
白衣の男の顔が浮かぶ。全てはこの日のためだったのだ。彼女は集中し、次々襲いかかる異常な感覚に耐えた。全身を押し潰され極限が近づいてきた瞬間、それまでが嘘のように軽くなり、ふっと力が抜けた。
ついにはふわりと、身体が浮かんだ。
◆
一時間か、一日か、数週間か。時間など無意味な世界に独り、彼女はいた。
チューブから食事を得る。狭い部屋に唯一ついた小窓から外をうかがう。窓は漆黒で何も分からない。
ただ、自分の肉体だけがある。漆黒の窓は明るい室内との光の差によって、彼女の姿を映し出していた。
海のような瞳、大地のような毛色、ふさふさの尻尾――。
何度も体験した虚無空間で、彼女は様々なことを思い出していた。
どんなに太陽が出ていても寒かった町で、家族と寄せあって生きていた。石を投げられたこともあった。
ある日、男達に連れ去られた。待っていたのは温かい食事と不可思議な指導だった。
慣れてくると、ある白衣の男にも信頼するようになった。家族と同じくらい心地よい安心感を彼はくれた。そして宇宙を共に見た。
「君はソ連の、いや人類の希望を抱いて飛び立つ。僕は君のようなワンちゃんに出会えて幸せだ」
――思えば、彼が初めての“ご主人様”というものだったのかもしれない。
今までの日々は現実だったのだろうか、それとも夢だったのだろうか。
孤独な空間は現実と夢の境界線を容易に奪って彼女の存在を揺るがす。それすらも彼女は受け入れていた。
生を振り返れば、山も谷もない一つの線のようで、あるいは点のようで、瞬間のようだった。この時この時でしかなく、後は簡単に古びて朽ちてしまう。
そんな自己崩壊すらも揺り籠となるように、教わった。全ては宇宙に行くために、そして、いるために。
「君が明日いるのは宇宙。大気圏を越えて……地球で初めて軌道に乗る」
白衣の男は呟いた。宇宙の最果てで、掠れそうな声で。
「そして……生きては戻れない」
宇宙船は大気圏再突入が出来る設計ではないと、彼は泣いた。静かな嗚咽を聞きながら、彼女は彼の頬に流れる雫を舐めた。塩辛い、地球の味だった。
そういえば、ご主人様の名前を知らないままだったと彼女は気づいた。あんなに愛を傾け囁いてくれたのに。
他の男達は彼女をライカと呼んだ。しかし白衣の男は彼女を違う名前で呼んだ。親しげに、特別に。
「クドリャフカ、君は星になるんだ」
悲願のクドリャフカ話をやっと書けました。