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第8話

「陽太くん! 待って、行かないで陽太くん……ッ!!」




 夜の帳が下りた公園に、雨夜の悲痛な叫びが響き渡った。


 彼女は傍らの自転車に乗り込もうと地面を蹴るが、その肩を、氷室が掴んで押し留める。




「離してくださいッ! 今の陽太くんを一人にするなんて、そんなの、死ねって言ってるのと同じです! 私が、私が彼の側にいてあげないと……!」




「――黙れ、ドブネズミ」




 氷室の声は、低く、地を這うような響きを帯びていた。


 しかし、いつもの尊大な響きはない。そこにあるのは、天才と呼ばれる彼の知性を思わせるような冷静さと……悲哀だった。




「離せと言っているのが聞こえないんですか!? このっ、性悪変態術師……っ!」




「低能が喚くな! 無策で追っても無駄だと言っているんだ。このまま闇雲にあいつを追っても、日浦陽太は僕達を拒絶してしまう。僕たちの前から、永遠に姿を消すことになるかもしれないぞ」




 その言葉に、抵抗していた雨夜の動きが止まる。


 氷室はゆっくりと手を離し、陽太が消えていった暗い雑踏を見つめたまま、独白するように語り始めた。




「……僕と陽太が初めて出会った、あの部室で。僕が、あいつの顎に触れたのを覚えているか」




「……ええ、不愉快な記憶ですねぇ。私の陽太くんに、あんないやらしい手つきで……」




「あの瞬間。俺の指先は、陽太の脳深部に触れていた。……サイコメトリーだ。触れた者の人生を強制的に読み取る力。……そこで、俺は視た。あいつがこれまで歩んできた、過去をな」




 氷室は視線を落とし、自らの手のひらを見つめる。




「陽太の周りには、これまでもいたんだよ。僕や、お前のように、『依代体質』をものともせず、好意を寄せる連中がな。……だが、あいつはそのすべてを、あの『困ったような笑顔』と『鈍感なふり』だけで、完璧にやり過ごしてきた」




「……鈍感な、ふり? 陽太くんが? 貴方の勝手な思い違いなんじゃないですかぁ?」




「いいや、違う」




 氷室が鋭く、雨夜の言葉を遮った。




「お前は、気づかなかったのか? あのデパート屋上で、貴様があいつの頬にキスをした時のことだ」




「……あの感触は、私の一生の宝物ですよ。私が一体、何に気が付かなかったと仰りたいんですかぁ?」




「あの時の、あいつの反応はどうだった。……驚き、狼狽え、顔を赤らめる。そんな反応が、一欠片でもあったか?」




 雨夜の脳裏に、あの瞬間の陽太の顔が蘇る。


 彼は確かに驚いてはいた。だが、言われてみれば、それは「想定外の出来事」に対する動揺ではなくて、まるで「ついにこの段階まで来てしまったか」という、諦念に近いものだったように思える。




「……それに、さっきの僕だ」




 氷室の拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。




「僕はあいつに、はっきりと『愛している』と伝えた。……この僕が、一人の人間に魂を明け渡すような言葉を吐いたんだ。……だが、あいつはどうだ? 驚くどころか、間髪入れずにはねつけてきた。……本当に鈍感な男なら、あの場面で、もっと無様にうろたえるはずだろう。まさか男に告白されるなんてと、もっと衝撃を受けていいはずだ」




「…………」




「あいつは、気づいていないのではない。気づいていないふりをして、俺たちの愛を、最初から『無効化』しているんだよ」




 雨夜の呼吸が、詰まる。


 夜の冷気が、肺の奥まで凍りつかせるように忍び込んできた。




「……どうして。どうして陽太くんは、そんな事を……」




「決まっているだろう。……あの男にとって、自分を愛してくる人間は、自分と一緒に怪異に飲み込まれる『犠牲者候補』でしかないからだ」




 氷室は、震える声で結論を紡ぎ出す。




「陽太の体質は、側にいるだけで周囲を怪異現象に巻き込んでいく。あいつに惹き寄せられる怪異は、愛する者を食い殺すかもしれない。……だからあいつは、誰からの愛も受け取らない。誰とも深く繋がらない。『鈍感な男』という仮面を被り続けることで、自分を愛してくる人間を……僕たちを、守ろうとしてきたんだ」




 雨夜の膝が、がくりと折れた。


 アスファルトに手をつき、彼女は絶句する。




 自分が「愛している」と叫び、追い回し、尽くしてきたそのすべてが。


 陽太にとっては、「自分を愛すれば死んでしまう。だから、この人の愛に気づいてはいけない」という、拒絶を強いる拷問だったのだ。


 


 彼は、恋愛的な心情に鈍感だったのではない。


 優しすぎるがゆえに、誰一人として自分の世界に入れないよう、孤独という名の城壁を築き続けてきたのだ。




「……あいつは、俺たちの愛や、術師としての実力を信じていないんじゃない。俺たちが、あいつの隣に立って『共に地獄を見る』覚悟があることを……まだ、信じていないんだ」




 雨夜は、地面を掻きむしるようにして顔を上げた。


 その瞳には、どろりと濁った、それでいて一点の曇りもない「真実の決意」が宿っていた。




「……なら、証明するだけです」




 掠れた声で、雫が笑う。




「陽太くんが、私を突き放しても。陽太くんを追い回す怪異が、私に呪いを振りまいてきても。……その呪いごと、全部飲み込んで……どんな地獄が広がろうとも、陽太くんの隣に立ちつづけてみせるのが……私の、本当の『愛』です」




「……ふん。今回だけは、貴様の意見に同意してやろう。ドブネズミ」




 氷室は、再び尊大な特級術師の顔を取り戻した。


 だが、その指先が宿す蒼い霊力は、以前のような冷徹なものではない。


 それは、愛する者――陽太の孤独をこじ開けるための、狂おしいまでの熱を帯びていた。




 夜の街。その深淵で、陽太の引き起こす霊的汚染が臨界を迎えようとしている。


 


 二人は、もう迷わない。


 欲しいのは、陽太と共に地獄の底まで堕ちていくための、絆という名の鎖だけだ。




「行くぞ、雨夜雫。……俺たちの『わかっていない』男を、迎えに行く時間だ」




「はい。……覚悟してくださいね、陽太くん。もう気づかないふりなんて、絶対にさせてあげませんから」




 二人の影が、夜の闇へと溶けていく。


 それは、世界で一番歪で、一番純粋な、救済の始まりだった。

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