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第7話

 氷室家の別邸で迎える朝は、皮肉なほどに完璧だった。


 さらさらの手触りのシルクのシーツ、常に快適な温度管理がなされた室内、そして超一流のシェフが用意した朝食。だが、そのすべてが。今の俺には身の丈に合わない「金色の檻」のように感じられていた。




「――行くのか、陽太。何も今日でなくてもいいだろう」




 玄関先で、氷室くんが不満げに眉を寄せた。彼は今日、政府から招集された重要会議があるとかで、いつもよりも一層きっちりとした礼装に身を包んでいる。




「いや。いつまでもここでお世話になっているわけにもいかないからね。新しい俺の家、探してくるよ」




「ふん……まあいい。何かあればすぐに連絡しろ。僕の財力を使えば、この界隈の土地を丸ごと買収することなど、造作もないからな」




 氷室くんの、どうやら本気で言っているらしいとんでもない豪快発言に苦笑いしながら、俺は家を出る。


 背後の庭から、何故か雨夜さんの「陽太くん、行ってらっしゃい! 夕飯までには帰って来て下さいねぇ!」と叫ぶ声が聞こえた気がしたが、あえて振り返らなかった。




******




 現実は、俺の予想を遥かに超えて冷酷だった。




「――あー、日浦陽太さん。……あぁ、これだ。登録されてますね」




 三軒目の不動産屋。カウンターの向こうで、中年男性がタブレットを操作しながら、あからさまに嫌そうな顔をした。




「すみませんねぇ、日浦さん。あなたの『霊的リスクスコア』、特級に近いんですよ。うちで扱っている物件は、どれも一般向けの結界しか施されていません。あなたが住めば、一週間で事故物件に様変わりだ」




「そこをなんとか……。家賃は多めに払いますし、掃除も徹底しますから」




「そういう問題じゃない。隣人に呪いのお裾分けをされては、こちらの商売があがったりだ。……お引き取りください。依代体質の方は、『指定居住区』か、あるいは国家公務術師の管理下に置かれるのが、一番ですよ」




 四軒目、五軒目。結果は同じだった。


 依代体質は、現代社会において「歩く災害」と同義だ。


 かつてアパートが燃えたのも、俺が怪異を惹きつけたから。俺がどこかに住むということは、その場所を、そしてその近隣を危険に晒すということなのだ。




 夕暮れ時の街を、重い足取りで歩く。


 ショーウィンドウに映る自分の姿は、どこか幽霊のように透けて見えた。


 


 俺は、ただ普通に大学に通って、普通に働いて、普通に暮らしたいだけなのに。


 この世界に「普通」に存在することさえ、俺には許されないのか。


 


「……っ、う……」




 不意に、胃のあたりに鉛を流し込まれたような不快感が走った。


 精神的な落ち込みは、霊的な防衛本能を著しく低下させるのだ。




 街角のゴミ捨て場に溜まった「倦怠」、通りすがりの会社員が吐き出した「舌打ち」、誰かが誰かに抱いた「小さな嫉妬」。


 普段なら霧のように散っていくはずのちりのような、怪異とも呼べないほどの些細な悪意たちが、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、俺の体にまとわりつき始めた。


 


 耳元で、無数の「負の声」が囁きかける。


 『お前のせいだ』『迷惑なんだよ』『消えろ』。


 


 霊的な「汚染」が体内に蓄積し、俺の意識を削っていく。


 視界がぐにゃりと歪み、俺は近くの公園のベンチに倒れ込むようにして座り込んだ。




「陽太!!」




「陽太くん!!」




 同時に聞こえた二人の声。


 顔を上げると、そこには息を切らした氷室くんと、青い顔をした雨夜さんが立っていた。


 氷室くんは会議を抜け出してきたのか、ネクタイが緩んでいる。雨夜さんも、急いで駆けつけてくれたのか、腰までの長い黒髪が乱れてしまっていた。




「馬鹿な真似を……! こんな街中のよどみを吸い込んでどうする! 今すぐ俺の家に戻るぞ。あそこなら、どんな怪異もお前には触れられない」




 氷室くんが俺の肩を抱き寄せようとする。その手は、震える俺を気遣うように、けれど、確かな所有権を示すように力強かった。




「そうです、陽太くん! 不動産屋なんて行かなくていいんです。あなたはただ、安全な私のそばで、私だけを見て笑っていてくれれば……!」




 二人の言葉は、優しかった。


 どこまでも深く、俺を慈しむような愛に満ちていた。


 


 けれど。


 その「優しさ」が、今の俺には、何よりも鋭い刃となって胸を刺した。




「……離してくれ」




「陽太?」




 氷室くんが、困惑したように声を漏らす。


 俺は、震える手で、彼の高価なスーツに包まれた腕を、そして、雨夜さんの差し出した手を、力なく振り払った。




「……そういうことじゃ、ないんだよ……!」




「陽太くん……?」




「君たちの世話になって、君たちに守られて……。そうすれば、確かに俺は安全だろう。怪異に怯えることも、住む場所に困ることもないかもしれない……。でも!」




 喉の奥から、ドロドロとした感情が溢れ出す。


 霊的な汚染のせいか、それともずっと蓋をしてきた本音なのか、自分でも分からない。




「誰かに養ってもらわなきゃ、誰かに管理してもらわなきゃ、生きていけないなんて……! そんなの、俺がここに生きてるって言えるのか!? 君たちの隣にいて、君たちを好きでいることさえ、俺にはその資格がないって言われてるみたいじゃないか!!」




「何を言っている! 僕はお前を愛しているから――」




「その『愛』が、俺を殺すんだ!!」




 絶叫。


 俺の声に、周囲を漂っていた小規模な怪異たちが弾け飛んだ。


 氷室くんと雨夜さんが、見たこともないような衝撃を受けた顔で硬直する。




「君たちが悪いんじゃない。……悪いのは、こんな体で、こんな性格で……君たちに甘えることしかできない、俺自身なんだ」




 俺は立ち上がり、ふらつく足取りで一歩、二歩と後退った。




「もう……追わないでくれ。一人にしてくれ……!」




「陽太!  待て、今のお前の状態は危険だ!」




「来ないでくれよ!!」




 俺の拒絶に、二人の足が止まる。


 生まれて初めて、俺は二人に、本気で声を荒らげた。


 


 そのまま俺は、夜の闇に飲み込まれていく街の雑踏へと、逃げるように走り出した。


 背後から俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、耳を塞いで、ただ無我夢中で足を動かした。


 


 冷たい夜風が頬を打つ。


 吸い込みすぎた「悪意」のせいで、胸が焼けるように熱い。


 


 俺は、どこへ行けばいい?


 どこへ行けば、俺は俺として、誰かを愛することを許される?


 


 街の灯りが、涙で滲んで、歪んだ星のように見えた。

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