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第6話

「はぁ、はぁ……雨夜さん!!」




 デパートの最上階。俺が非常階段を駆け上がり、重い鉄扉を突き破るようにして飛び出した先。


 冷たい風が吹き抜ける屋上の縁に、彼女は立っていた。




 フェンスを乗り越え、コンクリートの端に爪先をかけた背中は、今にも消えてしまいそうだ。


 夕暮れの街を見下ろす彼女の瞳には、ハイライトが欠片も残っていなかった。




「……陽太くん。追いかけてきてくれたんですね。最後にお顔が見られて、嬉しいです」




「待ってくれ、雨夜さん! さっきのは違うんだ。俺の言葉が足りなかっただけなんだよ!」




 俺は必死に手を伸ばす。でも、距離が、あまりにも遠すぎる。


 彼女は悲しげに首を振った。




「いいんです。私、ようやく気付いたんです。私には、価値なんてなかった。……これ以上陽太くんの役に立てない私は、ただの不法侵入者で、ストーカーで……生きていてはいけない人間なんです」




「そんなこと――」




「さようなら、陽太くん。……私の分まで、幸せになってくださいね」




 悲しげな微笑み。


 それだけを残して、彼女は重力に身を任せた。




「――雨夜さん!!」




 絶叫。俺がフェンスに辿り着くより早く、彼女の体が視界から消える。


 心臓が凍りつき、世界がスローモーションになる。


 届かない。俺の手じゃ、彼女を――。




「――下がっていろ、陽太」




 背後から放たれた、絶対的な冷気。氷室くんだ!


 銀色の閃光が俺の横を通り抜け、屋上の縁を越えていく。




「『凍土の鎖』。……我が命に従い、その魂を繋ぎ止めろ」




 空中に編み上げられた無数の氷の鎖が、落下する雨夜さんの体を強引に絡め取る。


 


「……っ、ぐ……!」




 氷室くんが腕を強く引くと、鎖がしなり、雨夜さんの体が屋上へと引き戻されていった。


 ドサリ、という鈍い音とともに、彼女は屋上のコンクリートの床に叩きつけられる。




「……あ、は……っ……。なんで……なんで、助けるんですかぁ……!」




 雨夜さんが震える声で呻く。


 氷室くんは無言で彼女に歩み寄り、その細い手首を乱暴に掴み上げた。




「……っ!?」




 氷室くんの眉が、大きく跳ねる。


 一瞬、彼の瞳に、これまで見たこともないような動揺と嫌悪、そして深い哀切が混じり合った複雑な色彩が宿った。




「……誰からも名前を呼ばれず、透明人間のように扱われた日々。役に立たなければ、存在してはいけないと、暴力と嘲笑で刻み込まれた心の傷、か。……ふうん、なかなか凄惨な過去じゃないか」


 


「?!……貴方、人の過去を……勝手に読みましたね……っ!」




 雨夜さんが、氷室くんの能力を察知して顔を歪ませた。自分の醜い内側を、勝手に暴かれたことへの怒りが、表情に滲んでいる。


 だが、氷室くんは彼女の手を離すと、吐き捨てるように言った。




「……不法侵入は貴様の専売特許ではない。氷室家の血筋に伝わる、触れた者の記憶を強制的に読み取るサイコメトリーの能力だ。……心の中までこれほど荒れ果てているとはな。反吐が出る」




「氷室くん! そんな言い方――」




「黙っていてくれ、陽太。……おい、雨夜雫。かつて、お前が僕に言った言葉を、そっくりそのまま返してやろう。……どんな事情があろうとも、死に逃げるのは、卑怯だ」




 雨夜さんの体が、びくりと跳ねる。


 


「自分の価値を他人に委ね、勝手に絶望して終わらせるなど、救いようのない臆病者だ。……立て。そんな無様なツラを陽太に見せるな。不愉快だ」




「…………っ」




 雨夜さんは唇を噛み締め、俯いている。


 俺は、一歩踏み出し、彼女の震える体を正面から強く抱きしめた。




「陽太、くん……」




「雨夜さん。……ごめんね」




 俺は、彼女の背中に手を回し、その体温を感じながら言葉を紡ぐ。




「俺は、君に『役に立ってほしい』なんて一度も思ったことはないよ。君が鈍器を振り回していても、クローゼットに潜んでいても構わない……雨夜雫という一人の女の子が、ただ俺のそばで楽しそうに笑ってくれているなら、俺にとっては、それだけで十分なんだ」




 雨夜さんの体から、力が抜けていく。




「君が何かをしてくれるから価値があるんじゃない。君だから、価値があるんだ。……ボロボロにならなくていい。もう、恩返しなんて義務で自分を縛らないでくれ。君は……君はただ、何もしなくても、ここにいていいんだよ」




 雨夜雫の中で、長年彼女を縛り続けてきた「有用性」という名の呪いが、音を立てて崩れ去った。




「……う……うあああ…………っ!!」




 雨は俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。


 その涙は、これまでの彼女を支えてきた狂気ではなく、ようやく取り戻した、年相応の少女としての感情だった。




******




 数分後。


 ようやく落ち着いた雨夜さんは、赤く泣き腫らした目で俺を見つめてくる。




「……陽太くん。私、もう一度だけ、図々しく生きてみてもいいですか?」




「もちろんだよ。死んじゃうなんて、もう絶対言わないでね」




「ふふ。……やっぱり、陽太くんを独り占めするまで、私は死ねません」




 雨夜さんの瞳に、再び光が宿る。


 それは以前よりもどこか澄んでいて、けれど同時に、より深い覚悟の色を帯びているように見えた。




「陽太くん。……大好きです」




「えっ、あ、ちょっ――」




 不意に、雨夜さんが身を乗り出した。


 柔らかな感触が、俺の頬を掠める。




「…………へ?」




 呆然とする俺。


 一方、満足げに微笑む雨夜さん。


 そして――。




「――貴様ぁぁぁぁぁぁッ!!」




 背後で、火山が爆発したような咆哮が響いた。




「雨夜雫ッ! 僕の目の前で、よくも陽太の純潔を汚したな! そそそ、そういうことはご両家への挨拶を済ませてからだろうが! その汚らわしい唇、今すぐ特級術式で消去してやる!!」




「あら、嫉妬ですかぁ? 負け犬術師さんは、指をくわえて見ていればいいんですよぉ」




「殺す! 今この場で、貴様を塵にしてやる!!」




「あはは! やってみてください! 今の私は、陽太くんに全肯定された、最強の愛の戦士ですからぁ!」




 ……さっきまでの感動は、どこへ行ってしまったんだろう。


 俺は、頬に残る熱を抑えながら、再び目の前で始まった地獄のデッドヒートを前にして、深く、深くため息を吐いた。




 俺の人生の安寧は、また、夕暮れの空へとはかなく溶けて消えていくようだった。

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