第5話
雲一つない、突き抜けるような快晴の空が爽やかに広がる、とある休日。
大学の講義も無いことだし、本来なら仮住まいさせてもらっている氷室家別邸のふかふかのベッドで、昼まで惰眠を貪りたいところだけれど。あくびをしながら身支度を整えて、氷室邸の正面玄関の扉を出た俺の目の前には、漆黒のリムジンと、そのドアを恭しく開けて待つ、絶世の美男子──氷室くんがいた。
「――待たせたな、陽太。さあ乗れ。今日はお前の『日用品』を再構築する日だ!」
住んでいたアパートが狐火火災に見舞われて、下着の一枚から教科書の一冊まで灰になった俺。そんな様子を不憫に思ったのか、氷室くんは俺に必要な身の回りの物、特に洋服を買いに行かないかと、デパートへ出かけることを提案してくれたのだ。
「氷室くん、何度も言うけど、そんな高い服はいらないからね。怪異保険の支給があったら、俺がすぐに君に料金を返せる程度でお願い。動きやすくて、洗濯機でガシガシ洗えるやつがいいんだ」
「……洗濯機? ああ、あの箱の中で布を回転させる野蛮な装置のことか。……善処しよう」
氷室くんは何か言いたげな顔をしていたが、頷いてはくれた。理解してくれた……と思っていたんだけどなあ。
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到着したのは、県内でも指折りの老舗デパートだった。
氷室家は、ここの外商部に長く世話になっていて、自宅まで希望する商品を運んできてもらえたりもするそうだ。今回は僕の強い希望で、店舗に足を運ぶことになった。だって、日用品や安い普段着を買うのだ。外商部の人にわざわざ手配してもらうまでもないだろうと思ってそうしてもらったのだ、が。
「……ここからあそこまでの棚、すべて包ませろ。陽太、お前はただ、そこに立って美しく装われていればいい」
「待て待て待て! 一着五十万のジャケットを普段着にする大学生がどこにいるんだよ!」
「僕はそうしているが」
氷室くんがブラックカードを抜こうとするたびに、俺は全力でその腕を抑え込む。
店員さんたちは「まあ、なんて仲の良いご兄弟かしら」と微笑ましく見守ってくれているけれど、俺は必死だった。
「いいかな氷室くん。俺が欲しいのは、学食のカレーを食べこぼしても絶望しない服なんだ。もっと気軽な感じの服の売り場に行こうよ、ね?」
「……学食のカレー……。陽太、お前はもう少し自分の価値を高く見積もるべきだ」
氷室くんは不満げに眉を寄せながらも、俺の言葉に従ってカードをしまってくれる。彼なりに「俺の価値観」を尊重しようとしてくれてはいるみたいだ。その不器用な歩み寄りが、俺にとっては、とても嬉しい事だった。
――だが、そんな俺達の様子を、背後の試着室の隙間から見つめる視線があることにも、俺は気づいていた。確実に彼女だった。
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異変は、紳士服フロアの隅の方にある、安価な洋服メーカーの売り場を目指して、俺達が移動していた時に起きた。
「――っ!? 陽太、離れろ!」
氷室くんが鋭く叫び、俺の肩を掴んで引き寄せた。
直後、デパートのきらびやかな照明が嫌な音を立てて爆ぜ、視界が闇に包まれる。
ガタガタ、と硬質な音が響き始めた。展示されていた無数のマネキンたちが、首を不自然な角度に折り曲げ、一斉にこちらを向いたのだ。
『……きれいな……依代……器……ちょうだい……』
「チッ、マネキンに憑いた集団怪異か……! 陽太、僕の後ろにいろ!」
氷室くんが指先から蒼い霊光を放つ。だが、ここは一般客の多いデパートだ。下手に高火力の術を使えば、建物の崩落や巻き添えを招きかねない。氷室くんは、僕や一般客に精密な結界を張りつつマネキンに対処していくが、やがて防戦一方に追い込まれていく。
「あは、あはははは……! 陽太くん、陽太くん……!!」
闇を裂いて、その声は響いてきた。
柱の影から飛び出してきたのは、雨夜さんだ。その瞳は、いつもの狂気を超えた、焦燥と悲痛に塗りつぶされている。
「私の陽太くんに……触れるなァッ!!」
雨夜さんは手に持った粗塩詰めの靴下を構える。だが、一体一体を相手にしていくには、数が多すぎるだろう。
俺が心配していると、彼女は躊躇なく、自分の親指の付け根を――噛み切った。
「雨夜さん!? 何をして――」
「大丈夫ですよ、陽太くん。これくらい……あなたの役に立てるなら、安いものですからぁ……!」
溢れ出す鮮血を、彼女は直接、獲物の鈍器に塗りたくっていく。
自身の生命力を霊力へと強制変換する、術師の禁忌に近い『血肉の贄』。
血を吸って赤黒く染まった鈍器が、爆発的な質量の霊力を放ち始める。
「アァああああああああああッ!!」
雨夜さんは、猛然と鈍器を振り回して、襲い来るマネキンを次々と粉砕していく。
けれど、一撃ごとに彼女の顔色はどんどん悪くなっていく。やがて、血の気の無い蒼白になり、肩で息をしながら、おぼつかない足取りで前進するその姿は、今にも倒れてしまいそうだった。
「やめてくれ、雨夜さん! もういい、もういいんだ!!」
最後のマネキンが砕け散ると同時に、俺はふらつく雨夜さんの体を抱き止めた。
彼女の指からはまだ血が流れ、全身が小刻みに震えている。
「……もう十分だよ、雨夜さん」
俺は彼女の両肩を掴み、真っ直ぐその瞳を見つめて、心からの気持ちを口にした。
「俺のために、こんな無茶をしないでくれ。……もう、恩返しなんて必要ないんだ。俺は、君にボロボロになってほしくないんだよ」
俺は「解放」を告げたつもりだった。
君はもう、俺への義理に縛られなくていい。自由になってほしい、と。
けれど、雨夜さんの瞳から、光が消えた。
「…………え?」
彼女の顔から、表情という表情が抜け落ちる。
震える唇から、掠れた声が漏れた。
「……必要……ない……? 陽太くん、今、なんて……」
「雨夜さん?」
「ああ……そう、ですよね。氷室さんはあんなに立派で、優しくもなってきてて、お金もあって……。私みたいな、不法侵入しかできない不潔な女なんて……もう、お邪魔、ですよね……」
雨夜さんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは、自分の存在理由を奪われた人間が流す、魂の慟哭だった。
「……っ、ごめんなさい……っ! 役に立たなくて、ごめんなさい……!! 陽太くんの……『特別』でいられなくて、ごめんなさいぃッ!!」
「待って、雨夜さん! そういう意味じゃなくて――」
俺が伸ばした手を、彼女は激しく振り払った。
そのまま、彼女は血のついた鈍器を握りしめ、闇の向こう側へと駆け去っていく。
「追いかけろ、陽太! あいつの生命力がどんどん消失していっている……自暴自棄になっているぞ!」
氷室くんの叫びに、俺はハッとして走り出した。
だが、混乱する群衆に紛れて、彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまう。
俺の手のひらには、彼女が流した冷たい血の感触だけが、いつまでも残っていた。




