第4話
「……お、おはよう、諸君。今日も良い……天気、だな」
大学の正門前。氷室くんが、すれ違う見知らぬ学生に向かって、彫刻のような美貌を不自然に引き攣らせて声をかけた。
声をかけられた学生たちは、「えっ、あの氷室様が挨拶を!?」「呪われる!」「待て、もしかするとドッペルゲンガーかもしれない!」「怪異だ!!」と、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「…………陽太。やはり僕には、他人に優しく振舞う才能がないのではないか?」
隣を歩く俺に向かって、氷室くんが深刻な表情で問いかけてきた。手には昨夜徹夜で書き上げたらしい『性格改善実践リスト』という、禍々しいオーラを放つノートが握られている。
「いや、氷室くん。才能の問題じゃなくて、これまでの積み重ねの問題だと思うよ。でも、今の挨拶は……その、小さいけれど大きな進歩だと思うな」
「そうか。……お前にそう言ってもらえるなら、何とか継続してみよう」
氷室くんは深いため息をつき、逃げていった学生たちの背中を睨みつけた。以前の彼なら、ゴミ掃除の手間が省けて良かったとでも吐き捨てていただろう場面だが、今は必死に「彼らも同じ、意志を持つ人間……彼らも同じ、納税の義務を持つ市民……」と呪文のように唱えて怒りを抑えているようだ。
正直、その努力の方向が合っているのかは謎だが、俺が指摘した彼の良くない部分を改善しようとしてくれていることだけは、十分伝わってくるのだった。
******
大学構内には、いつも通りの「日常」が広がっていた。
掲示板には『今週の警戒怪異:テケテケ』や『大食い獏出現中! 講義中の居眠り厳禁』といったポスターが並ぶ。
怪異は天災と同じなのだ。氷室くんのような国家資格を持つ術師は、公務員や専門職としてこれらを処理するのが仕事だ。怪異が集まってくる俺のような『依代体質』の身の回りを押さえておけば、怪異への対処は容易になるだろう。氷室くんが俺の事を気にかけてくれるのは、とても効率がいいからなのだろうな、と思う。
「あ、日浦くん! おはよう!」
オカルト研究会の部室前で、顔見知りの後輩の女子学生が俺に手を振った。
氷室の眉がピクリと跳ねる。彼の瞳に、かつての「下等生物を見る冷徹な光」が宿りかけた。
「日浦陽太に馴れ馴れしく話しかけるな、この――」
「氷室くん」
「……こ、この、元気な女子学生さん。陽太は今、僕と移動中なので、失礼するよ」
氷室くんは言葉を飲み込み、無理やり微笑みを絞り出した。その顔は、まるで苦い薬を無理矢理に飲まされたような表情だったが、彼は確かに暴言を堪えたのだ。
俺は少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう。今の、我慢してくれて」
「……お前の『がっかりした』という言葉を二度と聞きたくないだけだ。それだけ、僕は必死なんだ」
氷室くんがそっぽを向いて頬を赤く染める。その時だった。
「――お熱いですねぇ、お二人さん。朝から公共の面前でイチャイチャするなんて、風紀を乱すと大学の自治組織と私が黙っていませんよぉ?」
部室のドアが内側から開き、粗塩の詰まった厚手の白いソックスをハンマーのように振り回しながら、雨夜さんが姿を現した。
「雨夜さん……。やっぱり、もう部室に来てたんだね」
「当然です、陽太くん! あなたの通学路の全マンホールの中に、先回りして私のお手製のお札を設置してから来ましたから!」
「……あっ、無資格者の勝手な呪術札の作成は違法だろうが、貴様……!」
先程までの努力はどこへやら。氷室くんは即座に指先から蒼白い霊力を放ち、雨夜さんを睨みつけた。
「いいか、雨夜雫。お前のようなライセンスも持たない野良霊能者が、陽太の周囲をうろつくこと自体が大問題だ。今すぐその薄汚い靴下を捨てて、保健所に引き取られてこい」
「あれぇ、氷室さん。性格を良くするんじゃなかったんですかぁ? 私に対する暴言だけ、キレッキレのままでいいんですかぁ? 陽太くーん、見てください! この人、裏表が激しいですよ!」
「やっぱり、貴様に対してだけは『尊重すべき人間』という前提を適用すべきではないようだな! これは僕の性格の問題ではなく、お前の存在そのものが怪異並みの異質だからだ!」
二人の言い争いが、部室を揺らす。
以前の俺なら「やめてくれ」と逃げ出していただろうが、今は少しだけ見え方が違っていた。
氷室くんは、雨夜さんに対してだけは一切の虚飾を捨てて、全力でぶつかっているようだ。それはある意味、彼が初めて得た「対等な認めたくないライバル」との健全なコミュニケーションのようにも見えた。
「……二人とも。喧嘩はしてもいいけど、静かにしてね。他の研究会やサークルの人達の迷惑になっちゃうから」
俺がそう言って椅子に座ると、二人は同時に動きを止めた。
「陽太がそう言うなら、今は休戦だ」
「陽太くんが静寂を愛しているなら、私もそうしますねぇ」
氷室くんは俺の隣に座り、雨夜さんは俺の背後の備品棚に当然のように潜り込む。何でだろうな。空いている椅子はまだたくさんあるのに。
俺は、氷室くんが本棚から数冊の『公的怪異災害保険』申請のための書籍を持ってきて、俺の為に手続き書類を書いてくれているのを、じっと眺めていた。
「氷室くん。……あのさ、燃えちゃった俺の家……白樺荘の皆は無事だったのかな」
「ん? ああ。運良く他の住民達は全員留守にしていたようだ。昨晩、俺達が駆けつけた時点で人の気配も無かったしな」
「そ、っか。良かった。ずっと心配だったんだ。俺の依代体質のせいで、狐火火災に巻き込まれて死んでしまった人は、居なかったんだね」
氷室くんの書類を書く手が、止まった。
彼は顔を伏せたまま、穏やかな声で言う。
「……体質がきっかけで起こってしまった怪異災害のことを、あまり気に病むな。お前自身に責任が発生するような事じゃない。……そうは言っても、優しいお前は気にしてしまうのだろうがな」
「うん。……ありがとう。……今朝、申し出てくれた仮住まいの事、考えてみたんだけどさ。新しい僕の家が見つかるまでの間だけ、やっぱり氷室くんのお宅にお世話になってもいいかな?」
「……もちろんだとも!」
氷室くんは少しだけ、嬉しそうに口角を上げた。その表情は、全人類を見下していた頃の美貌よりも、ずっと人間味に溢れていて――綺麗だった。
備品棚の中から、「陽太くん、私は!? 私も陽太くんのベッドの下に住んでも良いですよねぇ!?」という雨夜さんの必死な叫び声が聞こえてくる。うーん。彼女には、もうそんな住み込み警備での恩返しの必要はない事を、後でしっかり話さないといけないだろう。
怪異だらけのこの世界で、俺を巡る地獄のデッドヒートは、ようやく「奇妙な日常」としての形を成し始めていた。
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