第3話
「――うわあああああああああああ!?」
静謐な氷室家の別邸に、日浦陽太の絶叫が木霊した。
その声を聞いた瞬間、隣室で一睡もできずに「どうすれば性格が良くなるのか」をスマートフォンで検索し続けていた氷室は、即座に立ち上がった。
「陽太! 無事か!?」
氷室は呪術を爪先に宿し、ゲストルームの扉を蹴り破るようにして突入した。怪異の襲撃か、それとも刺客か。だが、彼が目にしたのは、ベッドの上で毛布にくるまって震える陽太と――。
ベッドの下から、ずるり、と這い出してくる『不審者』の姿だった。
「……おはようございます、陽太くん。寝起きの寝癖、とっても可愛いですねぇ。……あ、氷室さん。ノックもせずに部屋に入るなんて、デリカシーがないですよぉ?」
雨夜雫。地味な眼鏡の奥で狂気的な愛をギラつかせた少女が、当然のような顔をして、そこに存在している。
「……貴様。氷室家の二重結界を、どうやって抜けた」
氷室の声は、怒りよりも驚愕に震えていた。ここは特級術師である彼が編み上げた、霊的鉄壁の要塞だ。それを、無免許の、しかもこのドブネズミが破るなど――。
「え? 愛の力に決まってるじゃないですか。……具体的に言うと、庭の配管を伝って床下から入りましたぁ。物理的に」
「この、害獣が……!!」
氷室は即座にスマートフォンを取り出した。
「もはや問答無用だ。住居侵入、ストーカー行為、どちらか単体だけでも貴様を十分な罪に問えることだろう。……今すぐ警察に突き出し、一生塀の中で泥……いや塩水を啜らせてやる。陽太、今すぐそこを離れろ!」
だが、ベッドの上で震えていたはずの陽太が飛んできて、氷室の腕をがしりと掴んで止めてくる。
「待って、氷室くん! 警察はやめて……! 雨夜さんを許してあげてくれ!」
「何を言っている!? こいつはお前の安眠を妨げ、不法に侵入した犯罪者だぞ!」
「わかってる! でも……雨夜さんがこうなっちゃったのは、元を正せば、俺のせいなんだ……」
陽太の伏せられた瞳に、深い罪悪感が宿る。
「ちょっと前に、俺の依代体質を使って、彼女に憑いていた呪いを引き受けたことがあって……。彼女は俺に恩返しをしようとするあまりに、こういう過剰な行動を取ってしまう様になったみたいなんだ。もう気にしなくてもいいんだって、俺がまだちゃんと伝えられてないんだよ。……だから、どうか警察だけは勘弁してあげて欲しいんだ」
「陽太…………」
氷室の腕から力が抜ける。
昨夜「性格が良くない」と断じられた直後の、これだ。
自分は法を守り、礼を尽くして陽太を迎え入れたつもりだ。それなのに、法を破り、理を捨てた雨夜の方が、陽太に「守るべき対象」として見られている。
陽太が雨夜に向けるのは愛ではないかもしれない。だが、その強烈な「責任感」という名の絆に、氷室は激しい敗北感と落胆を味わってしまった。
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結局、陽太の懇願に折れた氷室は、雨夜を「今回だけ」放逐することにした。
別邸の長いアプローチを、氷室は雨夜の首根っこを掴んで引きずっていく。
「……もう二度と、氷室家の敷居を跨ぐな。次はないぞ」
門の外へ雨夜を放り出し、氷室は背中を向けたまま、思わず弱音を漏らした。
「……やはり、間違いだったのだ。僕がどれだけ正論を説こうが、お前のような存在には敵わん。……所詮、男が男を好きになるなど、道理に反しているのだろうな。だから陽太の心も、僕には読み違えることしかできない」
「――そうは思いません。氷室さん、あなたは卑怯です」
驚いて、氷室が振り返ると、雨夜が冷徹な、蔑むような瞳で彼を射抜いていた。
「……なんだと?」
「自分の欠点を、性別のせいにすり替えるなんて。……あなたが惚れたのは、日浦陽太という『人間』でしょう? 性別の壁なんて、あなたの愛はそんなものに阻まれるほど、ヤワなものだったんですか?」
雨夜は一歩、氷室へと歩み寄る。その足取りには、不敵な王者の風格さえあった。
「私は、あなたをもっと手強いライバルだと思っていました。陽太くんを守るためなら、手にした財力や才能で全てを踏み潰してくるような、強い男だと。……なのに、上手くいかない理由を性別に求めるなんて。今のあなたは、陽太くんへの愛を侮辱しています」
「……愛を、侮辱……?」
「安心しました。そんなにもか弱いあなたなら、私が陽太くんを獲得するのは簡単なようですねぇ。……さようなら、負け犬の術師さん。そのまま性別の壁に閉じこもって、一生泣いていればいいですよぉ」
雨夜はそれだけ言い残すと、塀を軽やかに飛び越えて消えていった。
門の前に立ち尽くす氷室の脳裏に、雨夜の言葉がリフレインする。
卑怯。すり替え。侮辱。
氷室は、握り締めた拳が震えていることに気づいた。
「……そうか。そうだよな」
自分は氷室雪弥だ。欲しいものはすべて手に入れてきた。
性別? 道理? そんなものが、俺の欲望を阻む理由になるはずがない。
ただ、陽太や他の人々を、十分に人間として尊重してこなかった。昨晩すぐに自分の非を認める勇気を持てなかった。それだけのことだ。――これは、僕自身の『性格』の問題なのだ。
「……情けないな」
氷室は、自嘲気味に笑った。
そして、真っ直ぐに邸内へと戻る。
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ゲストルーム。
陽太の耳に、静かなノックの音が響いた。
「……陽太。入ってもいいか」
扉を開けて入ってきた氷室の顔から、あの傲慢な笑みは消えていた。
彼は陽太の正面に立ち、少し屈んで、視線を同じ高さに合わせる。
「……昨晩の僕の言動の間違いを認めよう。僕は、お前に自分が優れた人間だと……雨夜よりも価値がある存在なのだと誇示したいあまりに、酷い事を言ってしまった。陽太、すまなかった」
氷室は深く、深く頭を下げた。
「どうか、今後の話をさせてくれ。依代体質のお前を、このまま外に放り出してしまっては、いつかお前自身に危険が及ぶだろう。お前がこんな性格の悪い男の家に住む事を良しとしてくれるならばの話だが……適切な物件を見つけるまでの間でいい、しばらく、ここを仮住まいとしてはくれないだろうか。これは……俺からの、お願いだ。お前のことが……心配なんだ」
陽太は驚きに目を見開いた。
あの、世界の中心で君臨していたかのような傲慢な振る舞いだった男が、今、震える声で「お願い」と口にしている。
氷室の不器用なその言葉は、確かに、陽太への愛だった。




